かなえさんが切り拓いた言葉の世界

国学院大学  柴田 保之

 

現在小学4年生の佐藤かなえさんのことを、この全国大会で私が報告したのは2004年のことだ。そこでは、かなえさんの手の操作がより巧みになっていくプロセスとそれに応じた姿勢の安定のプロセスとを報告した。弓なりにそり返ってしまって運動も姿勢もままならなかったかなえさんが、自分で上手に座れるようになっていくプロセスから、私は多くのことを学ばせていただいた。そしてその報告の末尾に次のような一文を記していた。

 かなえさんの見ているものが何か、どんなことを聞いているのか、そのことを明らかにしうる関わり合いはまだ行うことができていない。だが、それが豊かさを秘めたものであるとの予感は十分にある。その世界への入り口はいったいどこにあるのか、それを探りあてるために、また、秋からの関わり合いを進めていきたい。

 それから2年後の2006年の秋、彼女は、50音のタイルを使って「うれし」という最初の言葉を発することができた。私の茫漠とした予感は、言葉による意思表示というかたちで現実のものとすることができた。そして、今年2月から、パソコンを使った文章表現にも挑戦し、文章もしだいに長いものとなり、ついに6月には、長文をパソコンで綴るにいたる。

 本報告では、この文書表現の世界が開かれてきた学習の歩みについてまとめることとしたい。

 

1.弁別学習の導入

 かなえさんの言葉の世界の豊かさに対する予感が強まる中で、私は、なかなか新たな展開への手がかりが見いだせないまま焦りを感じるようになっていた。というのも、かなえさんの手の動きは、明らかに意図的に物を入れるという行為を起こそうとしているので、その運動の方向を自発的にコントロールできるようになれば、そこから道が開かれるはずだと考えていたのだが、かなえさんにとって、入れる運動の方向づけは、意図に反して入りすぎてしまう力のために、想像以上に困難であったからである。そこで、そうした運動の意図的な方向づけの獲得をめざすことは、いったん脇に置き、かなえさんがすでにできている運動の中で、様々な援助や工夫を行って、弁別学習へと進んでいくことにした。

 用いた方法は、左右に置いた2つの入れ物に、弁別の対象となる物やカードを1つずつ入れておいて、どちらかと同じ物をかなえさんに渡して、同じ物が入っている方の容器に入れるというもので、2肢選択の分類学習としてよく行われるやり方である。

 かなえさんの運動では、手渡された物を持った手を空中で移動して容器まで運ぶことは困難なので、真ん中に台を置いて、左右に滑らせて入れられるようにした。しかし、それだけでは、体が開く方向の手の運動、すなわち右手ならば右方向、左手ならば左方向の強い運動が、意図に反して起こってしまい、自由な選択を行うことはむずかしかった。そこで、かなえさんの手にこちら側が手を添えて、必ず「正解」の方に手が伸びるように援助することにした。

具体的には、「正解」に向かおうとする手を支える、自発的だが意図に反した動きと感じられる反対方向への動きを抑えて「正解」の方に導くというような援助になるが、これは、決して機械的に行うものではなく、かなえさんの表情や小さな体の動きなどを見ながら、かなえさんの意図を読み取り、その意図に沿って柔軟に行うものである。

 ところで、必ず「正解」に手が伸びるように援助するというのは、そのままでは非常に無謀な方法である。子どもがどのように状況をとらえているかということが、そのままでは、つかめないからである。したがって、こうしたやり方から得られる結果は「客観性」に乏しいものと言われてもしかたない。しかし、私たちの援助が子どもの考えに添ったものかどうかは、子どもの表情やしぐさの中で判断できるはずであり、さしあたりその方法でしか前に進めない以上、こうした方法によることも厭うべきではないと私は考える。「客観性」の議論は子どもにとっては、どうでもいい問題で、その子自身にとっては、その働きかけが自分に合っているかどうかがすべてなのだから。

 初回の0510月は、色や形の弁別を様々に行って手応えを強く感じたので、最終的に数字の弁別に挑戦してみた。数字の内容は、1と8、1と2、1と3、1と4、1と5という組み合わせで、比較的違いのはっきりとした組み合わせとして提示したが、じっとその数字を見ている姿にひらがなへの可能性を強く感じた。

 

2.ひらがなの弁別学習

 0510月の関わり合いの様子を受けて、0511月からひらがなの学習へと進めることにした。方法は、左右の二つの箱に入れ分ける2肢選択の弁別学習で、かなえさんの選択の意図をどうやって読み取るかを確かめながらの学習なので、慎重に進めなくてはならなかったが、0511月には数字の1と2、1と3、2と3、1と4、あとか、なとえという、あいうえおの初めの文字や名前に使われている文字などの弁別へと進み、0512月には、ア行とカ行の文字を用いた弁別学習を行った。

 また、0512月には、ア行の5文字を使い、言葉での問いかけによって次のような5肢選択の弁別学習を行った。すなわち、5文字を一列に選択項として並べておいて、別の一文字のカードを見本項としてかなえさんの眼前に提示し、「これと同じのはどれですか」と言って、5つの選択肢を上から順にゆっくりと指さしていき、かなえさんの反応を見るというものである。この時のかなえさんの反応は決して誰の目にもはっきりしたものが起こるわけではないし、かなえさんの何らかの反応が「同じ」を意味していることもあれば「違う」を意味していることもあるわけだから、読み取りは容易ではない。それでも、かなえさんが内容を理解しているという仮説に沿えば、かなえさんの反応を、解釈することは可能であった。

062月には、かなえやともひろなどの単語カードの弁別を、064月には、一気にア行からワ行までの文字の2肢選択の弁別学習を行った。すでに述べてきたように、ここでも必ず正解になるように援助する方法をとっているため、かなえさんがどのように文字をとらえているかを正確に推測する具体的な手がかりはほとんど得られてないので、その集中をたよりに、先へ先へと学習を進めていったわけだが、この日は、さらに、後述する50音のタイルから文字を選択して単語を作ることも試みた。

ひらがなの弁別学習に関しては、066月、067月と50音の確認をア行から順番に行ったが、06年9月、0610月は、類似文字の2肢選択の弁別学習を行った。平行して進んでいる50音タイルからの文字の選択による単語の構成を、いっそう正確にするためである。具体的には、9月が、ねとぬ、ぬとめ、のとめ、わとね、へとく、くとし はとほ、まとほ、あとお、10月が、あとお、いとこ、くとへ、さとき、しとつ、たとこであり、ここでも、かなえさんのとらえかた自体が正確にわかるわけではなかった。区別がついていなかったものをこの学習を通して発見したということもあるかもしれないが、すでにわかっていたとしても、違いを改めてテーマにすることでひらがなのしくみのおもしろさを伝えることになればと考えた。

 

3.50音タイルからの文字の選択による単語の構成

50音のタイルから文字を選択して単語を作るというのは、まず、選ぼうとする目的の文字がどの行にあるかということを、ア行から順に聞いていき、首の動き、手の動き、表情、声など、体のどこかでわずかな反応が生まれることを選択の意志表示とし、さらに、その行のア段から順に聞いていき、同様に何らかの反応が得られた文字を選択したことにするという方法である。064月は、最初に、あらかじめ名前を選ぼうとかなえさんに提案してから、それぞれの文字がどこにあるかを聞いていくというかたちで文字を選択していった。こちらが選ぶ言葉をあらかじめ知っているので、かなえさんの体の動きを、選択の意志として読み取ることができ、かなえさんも非常に喜んでこれまでに見たこともないような笑顔をした。そこで、続けて、先生の名前や好きな食べ物などをお母さんと相談して、言葉を決めておいてから選択することにし、「たなか」「かに」「さしみ」「とろ」「やまだ」「ほしな」「うれしい」「さよなら」などの単語を構成することができた。

 次に、この学習に取り組めたのは、069月で、この日は、弟の名前と先生の名前を、あらかじめ決めておいてから選んでいった。

 このようにして、かなえさんが自分で言葉を初めて構成することになる0610月を迎えた。この日、おばあちゃんが、かなえさんとの会話のことを私たちに伝えてくれていた。それは、おばあちゃんが、「おかあさんはやさしいですか」と尋ねると肯定するような反応があり、「おばあちゃんはやさしいですか」と尋ねると反応がないので、「おばあちゃんは面白いですか」と尋ねると肯定するような反応があったというのである。そこで、名前を選んだ後、さっそく、このことを書いてもらうことにし、「『おかあさんはやさしい』の『やさしい』って書いてみようか」と働きかけて、「やさしい」を選んでもらい、同様にして、「おもしろい」を選んでもらった。

 この時、反応が非常によかったので、あらかじめ構成する言葉を決めないで選ぶことに挑戦することにし、「ともひろくんは」と尋ねた。この質問をしたのは、「かわいい」など、ある程度、答えが予測できそうな気がしたからである。初めての試みなので、非常に慎重に尋ねていったのだが、結果的に「うさい」という単語ができあがった。お母さんの推測では「うるさい」という言葉ではないかということで、私たちが案外2音目の「る」をはっきり発音しないことも多いのでこういう表記になったのかもしれない。

 自分で言葉を選ぶことができたので、「好きな物はなんですか」と問いかけたところ、まず「う」を選んだ後、次の合図を読み取ることがむずかしく、ナ行を選んだかのように見えたので選ぶと不満そうにするなど、なかなか2文字目が選べずに、やりとりを続けていた。すると、かなえさんが懸命に発声をし始めたのである。それはそれまでに一度も耳にしたことにないような発声で、伝えようとする意志が痛いほど伝わってくるものだった。そして、それがしだいに「うれしい」と言っているように、私には聞こえてきたのである。

ラ行を選ぶためには、ア行からヤ行まで、反応を止めていなくてはならず、それだけにむずかしいわけだが、音声がそう聞こえる以上、ラ行周辺を念入りに尋ねてみると、選ぶような反応がかえってきた。そのまま下におりていくと、「れ」で反応がかえってきて、次の文字は「し」が選ばれた。ところが、「い」を選ぶと思って尋ねてみても、反応がなく、これでいいとのかという問いには反応がかえってくるので、かなえさんにとっては、長音の「い」は必要ないのだと考えた。

いずれにしても、かなえさんの気持ちが初めて自分の力で表現された感動的な場面だった。この時の自らの思いを伝えようとするかなえさんの熱い思いは、まさに、言葉の世界の扉を自らの手で押し開けるものだったと言えよう。

 同様にして、0611月には、「しりして ききしちゃう」(知ることをして、聞くことをしちゃう)と「ねる」(つかれたので寝たい)、071月には、「てにたいるよくできる」(手にタイルよくできる)と自分の気持ちを表現することができた。これらの言葉からも、学ぶことへの意欲や表現できるようになったことの喜びが伝わってきた。

 

4.2スイッチワープロによる表現

(1)2007年2月25日の文章

 07年2月に、50音タイルからの選択を行ったところ、「かなえうたた」まで、できたあと、なかなかかなえさんの反応を読み取れなくなってしまった。微妙な読み取りなので、気持ちが焦るとお互いにいっそうわかりにくくなってしまい、かなえさん自身にも焦りのようなものが感じられたので、パソコンの2スイッチワープロを導入することにした(図2)。2スイッチワープロとは、1つ目のスイッチで行を進めていき、2つ目のスイッチでその選択を決定し、つぎにその行の中の文字を1つ目のスイッチで送っていき、2つ目のスイッチでその選択を決定するというものである。これは、選択の方法としては、50音タイルで文字を選ぶ手続きと共通のものである。

 使用したスイッチは、図3のようなスライドスイッチで、引くと押すという2つの動作で2つのスイッチを操作するようになっている。

かなえさんにはスイッチもソフトも初めてのものだったが、何度か説明すると納得したようで、体をつっぱらせた苦しそうに見える姿勢の中で、押す動きと引く動きとを明確に区別してスイッチを操作し、次のような長い文章を綴ることができた。

かなえうたたのしいいきもちおかあさんありがとうかなえやさしいかあさんがいてくれてよかったわもしはなせたらうれしいなまたやさしくしてね

(かなえ歌楽し いい気持ち お母さんありがとう かなえ やさしい母さんがいてくれてよかったわ もし話せたらうれしいな またやさしくしてね)

 なお、1行目の「たのし」は、10月の「うれし」と同様に長音の際に「い」を使わずに表記したものと考えられる。

 まだ、多くの言葉を表現しているわけではないかなえさんが、懸命におかあさんへの感謝の気持ちを表現していることは、私が現在出会っている、こうした状況で言葉を表現する子どもたちの多くに共通することである。長い間、気持ちを表現する機会がえられないという状況の中で綴られるこうした感謝の言葉には、格別の重みがあるように思われる。

(2)2007年4月5日の文章

 07年3月はお休みだったので、かなえさんの自宅のパソコンにソフトを設定するために春休みに家庭訪問をした。パソコンの設定を終えた後、挑戦してみると、07年2月に比べて非常に力の抜けたあぐら座位で、次のような文章を綴ることができた。

かなええらぼうておもうわ。げんききれいよおかあさんこまったときにたすけてね。こんどじぶんでかんがえてじかんをつかいたいからみせてねのーとを。ねがいはひとついつまでもいっしょにあいしあってにこやかにいきてゆきたい。

 細かな説明は要しないだろう。自分の時間の使い方を自分自身で考えたいという当然の願いや、ただ一つの願いが、愛し合って生きていくことだという、およそ小学4年生には思えないような、ぎりぎりの言葉が綴られているのである。これは、長い間、沈黙を余儀なくされた世界の中で研ぎ澄まされた心の世界があることを私たちに示しているのではなかろうか。

(3)2007年4月29日の文章

 074月の通所は、私が休んだので、田中先生と保科先生に関わり合いをお願いした。そこでは、50音のタイルの選択で次のような文章を綴ることができた。この日かなえさんは、私以外の関わり手と初めて言葉を綴ることができ、大きな広がりが生まれることになった。

ななこ(友だちの名前) かおのねぐせついた きねしたゆまこ(友だちの名前) おわろう 

(4)2007年6月24日の文章

 075月は、かなえさんがお休みで、076月を迎えた。この日は、対話を交えたやりとりの中で非常に長い文章を綴ることができ、内容も、言葉で表現することができることの意味をわれわれに深く問いかけてくるものだった。

なお、( )の中は、その時の状況や、私からの問いかけの概要である。

(最初にお母さんが体を後ろから抱いて体を支えようとした時に、体を反らせてしまい、お母さんのあごに自分の頭が強くぶつかってしまったことに対して)

おかあさんごめんねべつにおかあさんがきらいなわけじゃないけどかってにつっぱってひどいことをして。おかあさんがすきだからわかってね。

すばらしいむかしはきもちをつたえることができなかった。いまはみんなにいつでもきもちをつたえることができる。たいせつなともだちにつたえたいとおもうみんなあいしあってみらいにきぼうをもとう。みんなゆめをなくすことのないように。そのうちにきっとねがいがかなえばしあわせになることができる。

(願いの内容は?)

やさしいひとになることです。きっとなれるとおもう。もっとしあわせになりたい。

(今もしあわせだと思うけど、もっとしあわせになるとは?)

きもちをもっとつたえたい。

わたしがことばをしっていたことをなぜわかってなかったのにやさしくしてくれたのですか

(誰のことを言っているのだろう?)

しばたせんせい。

(それは、言葉を知っているとかいないとかは関係ないから。前に、かなえさんが入院中、一人の時にお見舞いに行ったことがあるけど、あの時には、もうたぶん言葉がわかっていると思って話しかけた。)

びょういんにきてくれたことはよくおぼえています。とてもうれしかった。ことばをしっていたことをわかってくれていたとはおもいませんでした。

(文字は前から知っていたの、それとも、一緒に勉強した時に覚えたの?)

べんきょうしておぼえました。

(今日最後に言いたいことは?)

ありがとうございますにんげんとしてみてもらえてうれしいです。ときどきあそびにきてください。

 私たちにはあまりにも自明のことと思える「人間として見る」というを、今、あえてかなえさん自身が問題にしなければならないという状況をいかに改善していけるかということは、私たちに与えられた大きな宿題である。

(5)2007年7月22日の文章

ゆめをかなえることができたとききっとめのまえのなやみやどうにもならないいやなこともなくすことができるぜったいに。

りかいしなければえいえんにくらかったのかもしれないけれどできるようにがんばったのでしあわせになれました。

かなえのかいたぶんみせてくださいね。

 「理解されなければ」ではなく「理解しなければ」となっていることや、「がんばった」という言葉に示されているのは、かなえさん自身の力で、こうした文章表現の方法の獲得がなされたということである。こうした主体性を改めて大切に受け止めたいと思う。

 

おわりに 

 障害の重い子どもの中にすでに豊かな言葉の世界をもっている子どもがいるという事実を、また改めて、かなえさんから示されることになった。もちろん、言葉の世界の有無に何ら優劣の価値はないことは当然のことだ。

だが、そのことが、まだわかりやすいできごととして受け止められていないのは、それだけ子どもの側の訴えに私たちが気づくとができていないということである。

少なくと私に関する限り、長い間、障害の重さを「発達における問題」としてとらえる習慣を知らず知らずのうちに身につけさせられてきたように思う。しかし、それが大きな誤りだったことは、もはや数々の事実によって示されてきた。今後、この問題をどう自分の中で整理していくのか、大きな課題である。

 

(補遺)2スイッチワープロにおけるスライドスイッチの意味とその援助

(1)スイッチ操作の援助について

かなえさんに対して用いたスイッチはすでに述べたように、スライドスイッチだが、このスイッチを用いる際には、次のような援助を行った。

まず、スイッチを提示する場所に関して、かなえさんに取っ手を握らせて、自然に引いたり押したりする運動が起こり、しかも単発的ではなく繰り返し起こる場所を探し、そこでスイッチを保持できるようにした。かなえさんの手の位置は、その時の姿勢や体の緊張の度合いなどで様々に変わるので、その動きに応じてスイッチの位置を自在に移動する必要があった。

次に、引く運動で行や文字を送って行く時には、できるだけ、かなえさんの動きに同調するような運動をこちらも起こして、引いて戻すというひとまとまりの運動がリズミカルに起こるようにした。こうすると、押す運動を起こそうとした時のわずかな力の変化が読み取りやすくなるのである。このため、引いたけれど力が足りずスイッチまでに達しないとか、戻そうとしたけれど、うまく戻せないというような状況は極力避けた。

また、上述したように押す運動を起こそうとする意図が読み取られた場合、力が小さい場合には私の方もスイッチを動かして押しやすくするような援助を積極的に行い、さらに、押した後、次の運動にスムーズにつながるためには押した運動を戻さなければならないので、戻す動きを積極的に援助した。

さらに、運動の中には、意図に反した不随意的な運動や、押す運動引く運動を起こすための準備としての反対方向の運動などが含まれているため、これらが起こった時には、それでスイッチが入ってしまわないように援助しなければならない。この見極めはむずかしいが、スムーズな操作が安定すればするほど、こうした運動が、意図した結果とは別の運動であることがわかりやすくなると言えるのである。

以上のようなスライドスイッチに特有の援助の仕方について、本当に本人が操作しているのかということになかなか理解が得られない経験を持っているので、この説明の方法に苦慮してきたが、最近1つの比喩にたどりついた。それは、こうした援助においては、ちょうど、相手と一本のひもを握り合っていて、そのひもを通して相手の力を読み取るというようなものだということである。相手の力の変化が上体の姿勢の変化によって生み出されている時、それをひもを通して感じ取ろうとした場合、ひもをぴんと張った状態に保っておく必要がある。たるみがあれば力は伝わってこないし、強く引っ張ればそれは相手に運動を強制してしまう。しかも、相手の動きに応じて柔軟に対応するためには、相手の動きに合わせてこちらも動く必要があるのである。そのかけ引きがうまく成立した時、子どもはリズミカルな反復運動を起こしながら、長い文章を綴ることができるのである。

(2)スライドスイッチの意味

 一般に、運動障害の重い人に対するスイッチの工夫としてよく知られているものは、小さな力で押すことを目指すものであることが多い。こうした押すことを原理としたスイッチは、どれだけ小さな運動であっても、ある身体部位が、抵抗感のない空中を移動して、スイッチに到達し、そこで押すという運動が起こるというものである。

 これに対して、ここで使用しているスライドスイッチの場合は、運動は、すでに手が取っ手に接触したところから始まり、運動は、抵抗感のない空中の移動ではなく、レールが導く方向の運動になっており、そこには抵抗感とその抵抗感が抜ける方向を感じ取って運動が起こるというしくみになっている。

 それでは、こうした特性にはどのような有効性があるのだろうか。

 まず、一般に運動は、それがどんな小さな運動であっても、姿勢のバランスとの関係で起こっている。そのことからスライドスイッチと押すスイッチとを比較すると、スライドスイッチがレールの抵抗感という運動感覚を通した手がかりを感じながら運動方向や上体の動きなどを起こすことができるのに対して、押すスイッチにおいては、スイッチへ到達し戻ってくるプロセスで、直接的な手がかりのない空中での調整になっているということがある。詳述は避けるが、運動の調整に困難を感じている人にとって、この調整の違いはわれわれが考える以上の大きな違いを含んでいると考えることができる。

 また、この2スイッチワープロの場合、2つのスイッチを必要としている。この場合、押すスイッチでは、異なる二つの場所に置くことで2つのスイッチを区別することになるので、抵抗感という運動感覚的な手がかりのない到達運動を異なる2つの場所に起こすことが求められることになる。(もちろん、この場合にも様々な援助によってその困難を減らすことができるがここでは、詳述しない。)一方、スライドスイッチの場合は、一つのレールの往復運動の両端に2つのスイッチがついているので、抵抗感という運動感覚的な手がかりにしたがって、運動を起こせばよいことになる。

 厳密には、一方の端で引く−戻すという往復運動、もう一方の端で押す−戻すという往復運動、それから、一方の端からもう一方の端へ移るという3種類の運動が組み合わさっているわけだが、それは、同一の種類の運動の大きさを姿勢の調整などを通して変えるということなので、調整しやすいという側面を持っているのである。