マザーテレサの施設にて


 いつの頃からか、私はインドにマザーテレサという人がいることを知っていた。そして、クリスチャンである叔父一家の影響で教会に出入りするようになってから、その名前は、深く心に刻まれることになった。そして、1981年、マザーテレサが来日した時には、はやる思いでその講演会を聴きに出かけたことを思い出す。大学院に入ったばかりで、今に連なる私の仕事の出発点にまさに立ったばかりの頃だった。愛の大切さを説く穏やかな口調の中で、今でも忘れられないのは、路上生活者に対する日本人の冷たさに対する厳しい指摘だった。そして、インドでは、貧しい人たちほどそのわずかの食料を分かち合うという言葉も印象深く残っている。
 それから、私は教会に出入りすることもなくなり、十年余りの時間が流れた。しかし、死を間近にした人のそばに寄り添うことに深い意味を見いだすというマザーテレサの思想は、一つの極限の思想として常に私自身を省みる手がかりとして心から離れなかった。そして、そうやって十年余り突っ走ってきた私の研究活動は、今年に入ってから一つの大きな岐路に立たされているということもあって、このスタディツアーの後半の自由時間を利用して、マザーテレサの施設で、私自身を見つめ直す機会を得たいと思ったのだ。
 南インドの村での豊かな体験を終えて、カルカッタに戻ってきた日の翌朝、まだ暗いうちに、私は、マザーハウスに向かって歩き出した。途中、道をきれいに掃き清めている人に出会ったりして、あまり語られることのないカルカッタの美しい一面をかいま見たりしながら、マザーハウスに到着した。5時50分からのミサでは、たくさんのシスターと世界各地からのボランティアが静かに祈りを捧げていた。背中の曲がった年老いたシスターの存在に気づいたが、それがマザーテレサであることは、3日間わからなかった。自動車の音が引っ切りなしに聞こえる中でのミサは、カルカッタの街にしっかりと溶け込んでいた。日本からの距離と、この十数年の時の隔たりのことを思うと、はるばる遠くまでやってきたなあと、いささか感傷的になったりもした。
 ミサの後、パンとミルクティーをいただいて、ボランティアの場所へ出かける。ボランティアの場所は、マザーハウスから歩いて30分くらいのところにあるプレム=ダン(Prem Dan)という病院の役目も合わせ持ったような施設だった。障害を持った人や病気の人がいるという。野菜や魚を路上に並べた露店を横目に見ながらスラム街を抜けて施設に着く。8時から12時までがボランティアの時間である。小さな体育館くらいはありそうな広く薄暗い部屋に、古ぼけた鉄製の狭いベッドが延々と何列も並んでいる。そのような情景は写真で見たことはあったものの、思わずしりごみをしてしまう。だが、すぐに仕事が私の体をせきたてた。床の掃除と消毒、シーツや衣類の洗濯、入所者の体にクリームを塗ったり、体をきれいにしたりする細々とした仕事、食事の運搬や後片付けなどが、主な仕事だ。その間に、入所者とのコミュニケーションをとるのも大切な仕事の一つだった。
 手持ち無沙汰になるととたんに、見知らぬところに一人取り残されたような孤独感におそわれるのだが、何か仕事が見つかると、救われたような気持ちになる。体を動かすことで、何とか私もその場に帰属することができるからだ。そして、それが直接入所者の体に触れることならなおさらだった。たとえ言葉は通じなくても、そこにはたくさんのコミュニケーションが生まれるのだ。表面的には私が何かをしてあげていることになっていても、与えてもらっているのだということが、心の底から実感された。その場に入り込めこめないことや、人々と通じ合えないことの寂しさに比べれば、少々体を動かすことなどとるにたらないことだった。こうして、私にしりごみを強いた感覚はしだいに遠のいていった。
10時のティータイムをはさんで12時までの4時間のボランティアだったが、体はくたくたになった。洗ったシーツをしぼるという慣れない仕事をした手の皮は、あちこちにまめができて水ぶくれになり、体の節々が痛む。何となまくらな体だろう。しかし、快い疲れだった。
 2日目も同じように早朝のミサの後、プレム=ダンに出かけた。1日目に私のTシャツのトトロを気に入ってくれた障害を持った少年がいたので、そのために夜のうちに洗濯しておいたそれを再び着ていった。すると、エプロンの下に半分隠れていたトトロを見つけて指さして、本当にかわいらしい笑顔を浮かべた。覚えていてくれたのだ。他にも、1日目と比べるといろいろな人の笑顔を見ることができるようになった。
 午後からはよくばって、「死を待つ人の家」として知られているニルマル=ヒルダイ(Nirmal Hriday)に出かけた。路上で行き倒れになっている人を収容するところとして、マザーテレサの活動を有名にした施設である。突然、おじゃましたのでシスターにおことわりをしてからと思って2階の礼拝堂に行くと、数名のシスターが沈黙の祈りを捧げていた。その気配から亡くなった方に捧げられた祈りかもしれないと思われた。実際、この施設には、病気の非常に重篤な人が数名いた。日本だったら、たくさんの医療機械に囲まれていることだろう。しかし、ここには、近代的な医療の設備は見当たらない。汚れた衣服を替えさせてもらった時、もはや言葉を失って意識も朦朧としているかに見えるその人の体にこもる力に、生きている証しを読み取れないかと、私は必死になっていた。読み取ることができたとは安易に言うことはできない。行きずりの私に何ほどのことがわかると言うのだろう。しかし、私は、生きている彼を抱えたのだ。その時、死という言葉は不要だった。
 他の大多数の人たちは、決して健康というわけではないのだろうが、身のまわりのことは普通に自分でやっていた。ここでも待っていた仕事は、プレム=ダンと同じだった。そして、体を動かすことによってその場の中に溶け込んで行くにつれ、死の気配よりも、一人一人が生きていることの実感の方が強く迫ってくるようになってきた。たとえ、死がそれほど遠くにないとしたとしても、一人一人がその人生の中でたくさんの喜びや悲しみを体験して、今をまたしたたかに生きているのである。後でわかったことだが、この施設の名前ニルマル=ヒルダイとは、清い心という意味だという。『死を待つ人の家』とだけ理解していた私は、やはりあまりに死にのみとらわれすぎていたのではないだろうか。
 3日目も、2日目と同様に早朝のミサの後、午前中にプレム=ダン、午後にニルマル=ヒルダイに出かけた。ニルマル=ヒルダイにはこの日でおいとまを告げねばならなかった。もっともっと学ぶことがありそうだったのだけれども。
 4日目は、前夜からの激しい雨でカルカッタの街は水浸しになっていた。YWCAの玄関を出たら、膝まで水がくる。雨もまだ激しく降っている。しかし、引き返す気にはなれず、マザーハウスに向かって歩き始めた。路上で寝ていた人たちはどこへ行ったのだろう。昨日まで彼らが寝ていた道路は川になっていた。サンダルばきの足を濁流が洗っていく。ふと、足に傷はなかったかなどと考えたりもする。それでも、歩き続けようと思ったのは、前日、日本人のボランティアからミサにちゃんとマザーテレサがいるということを聞いていたからだ。あの背中のまがった老女がそうだというのだ。(彼は、3日間もそれに気づかなかったという私の話に、おなかを抱えて笑った。)それでも、濁流の中で何度も立ちすくんでしまい、そのたびに、私はいったい何をしているのかという思いにとらえられた。もし、この濁流の中の細菌で悪い病気にでも罹ったとしたら、全く無意味なことをしていることになるなどと、いささか物語りめいた妄想も湧いてくる。それは、一種の倒錯した自己陶酔だったかもしれない。そんな中、タクシーが通りかかった。あたかも神のお導きのように。
 タクシーのおかげで私は、ボランティアの中では一番乗りということになった。ミサの前の祈りを捧げるマザーテレサが目の前にいた。祈る習慣をもたない私は、マザーテレサの一挙手一投足に見とれていた。私が3日間気づかなかったのも無理はない。彼女は、時折、床を軽くたたいて、何かをシスターたちに伝えるほかは、一シスターになりきっていたからだ。
 そのうちに、雨の中を外国人のボランティアたちがやってくる。数は少ないが、それでも十数名のボランティアがこの雨と濁流の中をずぶぬれになりながらもやってきた。私のようにタクシーなども使わずに、しかも、何食わぬ顔で。私の雨の中の妄想は、実に滑稽なものだったと言わざるを得なかった。神を信じる人たちの強さだったのだろうか。
 プレム=ダンに向かう道もいたるところで濁流と化していた。ヨーロッパの若者の男女数人といっしょに不思議な一体感を感じながら歩いていったが、アジアの私よりも当たり前のように濁流の中を歩んでいく姿は、私のヨーロッパ人に対するいささか屈折していたかもしれない思い込みを打ち砕いた。
 プレム=ダンも最後の日となったが、わずか4日間の間に、ずいぶんといろいろな仕事にも慣れてきたし、顔見知りの入所者もできた。世界各地からやってきたボランティアたちとも言葉を交わすことができ始めた。本当に名残惜しかった。今日が最後だと伝えると、いろいろな人が、堅く握手をしてくれた。特に、決然とした面持ちで働いていた若いインド人の職員は、毎日、帰る時に、明日も来るかと聞いてくれていたのだが、今日、日本へ帰ると答えると、しばらく、手をぎゅっと握り続けてくれた。柔和なシスターとはいささか異なって、彼の姿には、インドの貧困との闘いを私は見ていた。それは、CSSSの人たちの姿と重なるものだった。もちろん、シスターもその柔和な笑顔の裏側には、無数の厳しい闘いの経験があるのだろうけれども。
 この午前の時間で短い4日間のボランティアは終わった。マザーハウスで最初にもらった小さなパンフレットには、あなたの身近なところにまず目を向けなさいと書いてあった。マザーテレサのもとでなくても、世界中で、様々な尊い実践が営まれているはずだ。日本も決して例外ではない。それでも、やはり、カルカッタでマザーテレサの理念の体現であるこれらの施設でボランティアができたことは、貴重な体験だった。それをうまくは表現できないが、シスターの笑顔や私のようなものを無条件に受け入れてくれる寛容な心、そして何よりも施設で暮らしていたたくさんの人々の生きている姿は、ずっと心に残り続けるに違いない。
 カルカッタからシンガポールに向かう飛行機の中で、偶然にもマザーテレサの修道会である『神の愛の宣教者たち(Missionaries of Charity)』の二人のシスターの隣に座ることになった。パプアニューギニアで活動しているそうだ。いきなり話しかけた私に、にこやかに応じてくれた。そして、ニルマル=ヒルダイという言葉の意味が“pure heart”であり、プレム=ダンは“gift of love”だと教えてくれたのだった。本当に、その言葉通りの場所だったと思う。
 南インドの農村で一歩ずつ歩み続けているCSSSのスタッフや村人たち、カルカッタの街で貧しい人たちとともに生きるマザーテレサたち。私にわかったことは、自分の存在の小ささだ。そして、それは、私を自由にしてくれたような気がする。