重度・重複障害児における空間の構成と学習の過程

柴田保之

 

はじめに

 2002年7月、杉並区立済美養護学校の訪問教育部の研究会において、私は、「初期の学習から記号操作の基礎学習まで」というテーマで、私が重い障害のある子どもたちと関わる際に、自らよりどころとしている枠組みを示すことを求められた。私たちの実践研究のかたちは、一人の子どもに対して、その子どもの外界との相互交渉の水準に応じた教材教具を提示することによって、その子ども自身の自発的な活動を呼び起こすというものであるが、現実に1つの教材教具が選択されるとき、そこには、その子どもの外界との相互交渉の水準に関する私たちなりの何らかの判断が存在していると言える。だが、そのよりどころとしている枠組みを明示することはそれほど容易なことではなく、また、一人一人の実践者の経験的な知恵として暗黙のままにとどめられていることも多い。さらに、中途半端な明示をすることが、浅い子ども理解や型にはまった安直な実践を生み出すことにつながるということもあり、いっそうそうした作業をむずかしいものとしている。

 私は、これまで、障害の重い子どもたちとの関わり合いの中から、そうした枠組みを整理していくための試みを、続けてきた(1)。だが、それは、いささか細部にこだわりすぎた煩雑なもので、しかも、まだ、その作業も道半ばにある。

 今回、済美養護学校で求められた報告では、できるだけその枠組みの全体像が、具体的な事実から遊離することなく浮かび上がることを心がけたものである。

 ところで、私がよりどころとしている枠組みというものは、故中島昭美先生(1927~2000)の「人間行動の成り立ち」の理論に直接負っているものである(2)。私は、10数年にわたって、重複障害教育研究所を中心にして、先生に直接指導を受けてきた。そして、書かれたものや講義はもちろんのこと、先生自身の実践から多くを学び、まさに理論の生まれる現場というものを目の当たりにしてきた。そして、また、自ら考え工夫することの重要性も学んできた。

 こうした中で、徐々に私の中に形づくられてきたものが、私自身のよりどころとする枠組みである。そもそも、教育という営みにおいては、仮に理論という呼ばれ方がされても、理論とはあくまで子どもに向かうための手がかりであり、決して理論をそのまま子どもに適用するということではない。したがって、そこで、その子どもと関わり手の独自のものが生まれてくるということになる。ここでまとめた私の報告も、そうした経緯のもとで生まれてきたものである以上、私が出会った子どもたちとの関わり合いの中で生まれた事実に多くを負うことになる。したがって、先生の言葉をそのまま受け継いだものと私なりに考えたことの峻別をすることは、不可能ではないが、非常に煩瑣なものとなってしまう。まして、この文章のような口頭での報告では、それはほとんど不可能だといってよい。

 ここでは、多くを先生から学んだことであるということをことわった上で、しかし、私自身の中で醸成されてきたものとして、この文章の責任はすべて私にあるということを、言明しておくにとどめることにする。

 また、中島先生の歩みは、常に、多くの実践家の実践とともにあったということも特筆すべきことである。全国的な規模からみれば、けっしてその数は多いとはいえないが、中島先生の理論に触発され、目の前の子どもに対する創意工夫に基づく実践が、数多く生まれ、私もまた、そうした実践から多くを学んできた。そのような、ともに学びあい、鍛えあう場が、現在の私を支えていると言っても過言ではないだろう。

 

「初期の学習から記号操作の基礎学習まで」

T.主体の働きの高次化と、身体および外界の構成

 まず、図の説明から始めたいと思います。3つの図は、表1に示した学習の水準に対応したもので、図1が学習の水準の1と2に、図2が学習の水準の3に、図3が学習の水準の4に対応しています。これらの図では、主体の働きかけが高次化していくことによって、身体や外界の構成が進んでいくプロセスを大まかに整理しました。

 

1 学習の水準のめやす

 1

 体を起こすことと運動の最初の自発

2−1

手の運動の始まり

2−2

 直線運動のめばえ

3−1

 物と物との関係づけ

3−2

 空間の順序づけとかたちの構成

4−1

 同じ─違うの関係づけ

4−2

 文字と数の操作

4−3

 教科学習の始まり

 

1.図1について

 まず、図1は、寝たきりのお子さんとか手の運動が始まったばかりの障害の重いお子さんを想定したものです。主体の働きとして、感覚と運動と姿勢の問題を見ていこうということです。その子が姿勢について何をしているかということと、どんな感覚を使ってどんな運動を起こしているかということについて、障害の重いお子さんについて見ていくわけです。

 例えば、身体を前後に揺すりながら鈴を振っているというような時、そのお子さんはどの感覚を使って鈴を振る運動をおこしているか、そこに目を付けるということです。適切な言葉が見つからないので意識というような言葉を使っていいならば、このように子どもが鈴を振るというような活動をしている時に、結果として、子どもの意識の中にどんな世界が作られるのかということです。

 一番抽象的なところに着目すると、1つには自分の外の世界がどうなっているのかということが作られる。これもいろいろあるんですがその子が空間関係をどう理解しているかということにしぼりたいので、ここに出てくるのは空間ということになります。

 もう1つ作られるのは自分の身体なんです。よく、ボディイメージという言葉で言われますが、この場合のイメージという言葉はこの図の中では像にあたり、必ずしも自分の身体は像としてばかり捉えられているわけではなく、もっと違う面もありますから、ボディイメージに近い話ではありますが、ボディイメージそのものではない自分の身体のことです。

 身体を揺すって鈴を振っている子どものことで言いますと、その子は鈴を振るというひとつの行為をすることを通して、自分の周りの世界に関する一定の理解を作っているし、自分の身体に関しても一定の理解を作っているわけですが、そうした理解が土台となって運動が起きるという循環になっています。すなわち、運動をすることによって身体や外界が作られ、作られた身体や外界が基になって運動が起こっているという関係になっています。

 さきほど、意識の中での話と言ったように、本当に身体や外界が作られているのではありません。自分の感じ取っているものの世界ということです。この主体の働きと、身体の構成、外界の構成という3つの要素の内容をそれぞれの段階に応じて見ていこうという考えなのです。

1)身体の構成、バランスに関する身体空間

 今、1番目と2番目の話なので、身体を揺するということが出てきているんですが、姿勢に関することでどんな身体が構成されるかというと、バランスに関する身体空間ができてくるんです。

 この辺は相互に関係してくるわけで、姿勢に関する活動を通して、自分のバランスに関する身体空間ができる。バランスに関する身体空間というのは何かというと、身体に関する自分の理解というのはここでは身体の位置関係についての理解に関するものです。例えば、身体の位置関係でも、身体を揺すっているときに右手に鈴を持っていれば左手は洋服をつかんでいるかも知れない、これは1つのバランスの良さを考えた行動なので、目で見たイメージではないのですが、子どもの中に自分の身体がちょうどいいバランスが取れる一種の地図があると考えられるんではないかということなんです。いいかげんに鈴を持っているのではなく、一方の手を口にくわえたりすることを通して、運動がちょうどよく起こるような身体の地図のようなものを作っている。それがバランスに関する身体空間なんです。

2)外界の構成、姿勢に関する空間

 立って身体を揺すりながら鈴を鳴らしているときに、その子が感じている外の世界で姿勢に関係があるものというのは、自分の立っている床が安定した一種の大地のように感じられる。平面で安定しているということを感じ取っていないと揺すらないわけです。自分の身体が真っ直ぐであるということもよく分かっていて、真っ直ぐといってもジーッと立っている真っ直ぐではなくて、動きの中で真っ直ぐな感じとか水平な感じとかを外界の大切な特徴として感じ取っている。鈴を振っている子を例にしたので、真っ直ぐな感じというのは、やや無意識的になっているかもしれませんが、寝たきりの子どもが身体を起こす場合は、意識の前面にグーッと出てきて、自分の身体が真っ直ぐになっただけでにこっと笑うようなお子さんもいました。

3)身体の構成、働きとしての身体空間

 感覚と運動の方で見ていくと、身体を揺すり鈴を振っているような子が使っている感覚で重要なのは、運動そのものから返ってくる感覚です。すなわち、運動感覚を通して返ってくる情報が重要なのです。ボールを持って机をたたいているときに、音を聞いているというのは間違いないのですが、机をたたいている手から返ってくる運動感覚自体を楽しむということも起こっているし、その運動感覚を通した情報が手の運動をコントロールするのに重要になっているわけです。たたきつける力の強さを調節したり、たたきつけている机がなければ探すということも起こってくる。その子にとって、運動そのものから返ってくる一種の外界の抵抗を感じ取ることが重要になってくる。運動感覚を使って運動をコントロールし、姿勢をコントロールして運動を調整するという働きを想定しているわけです。

 こういう感覚と運動を通して作られてくるのが、働きとしての身体空間で、子どもが鈴を振っている場合、その鈴がどこにあるかということはよく分かって鈴を振っている。それは自分の手の位置の情報で分かっているわけです。

 スプーンを握って口に食べ物を運ぶ動きがどうして子どもにできるのかというと、手を口に持っていくまでの間というのは、口を見て運ぶわけではなく、自分の身体の位置関係に関する地図を使っているわけなんです。そういうところが働きとしての身体空間で、ボディイメージと言われているものは、普通は像と訳されるものですが、視覚的な鏡に映った自分の姿とするならば、その手前にあるものなんです。視覚的に捉えられる自分の手や口ではなく、動きの中で理解しているわけです。私たちも自分の身体空間の正確さというのは、いろんなところで分かりますが、スポーツにしても、音楽にしても、絵にしても、熟練している人はその辺は研ぎ澄ましているから、目を閉じていてもピアノが弾ける。それはしっかりとした働きとしての身体空間があるからです。別に映像は必要なくて自分の身体が動く中で、非常に緻密な地図を作り上げていて、その地図を利用して様々な運動を滞りなくどんどんやっていくわけです。子どもも、そういうものを作って使っていると思われます。

4)外界の構成、操作に関する空間

 そして、外界の方も操作に関する空間というものを考えることができます。後になると線とか位置の関係とか出てくるわけですが、その始まりみたいなものとして点の世界ということを考えることができます。鈴を振っている時に、まだその子の中には、ある場所からある場所へというものはできていなくて、そういう関係で考えるならば、線に対してその子にとっては一種の点のような世界があるというふうに考えられる。ものの位置関係をどう考えているかと言えば、あくまでも握っている鈴は単独に存在しているので、ある場所から持ってくるとかある場所へ持っていこうとしているわけではない。その子どもの中で、その鈴は1つの点として存在している。これが一定の場所に入れるとなったら、その鈴と入れる場所が出てきて関係は発展していくのですが、ここで操作に関する空間としては、点のような世界が存在する。

 言いたいことは、その子が感覚と運動を使って姿勢を調整しながら1つの行動を起こしていて、一方で身体に関する空間が作られていき、一方で外界に関する空間が作られていくということをやっているわけです。これが1と2の世界のできあがったものなんですが、ここにいろんなものが付け加わって3と4の世界ができていくわけです。

2.図2について

1)外界の構成、操作に関する空間(視覚)

 3番目の世界が広がるところの大事な行動は、鈴を缶の中に入れるような行動の世界です。何かに物を入れるというような世界なんです。何が付け加わるかというと、ここに初めて視覚が出てくるわけです。ここの触覚は目の見えない人のことを想定したり、我々でも目と同じように使う触覚のことなんですが、働きは共通点が多いので視覚だけ取り上げます。視覚がここで初めて運動のコントロールに参加してくるわけです。

 視覚が参加することによって行動全体はずいぶん違うものになってくるわけです。鈴を振っているお子さんは、まさに鈴を振っているさなかにいろんなことを考えているわけですが、物を入れるということは、入れるという行動を起こす前にあそこに箱があるなというのを見てから行動を起こす、そのプロセスが新しく入るわけなんです。今から鈴を箱に入れるんだけれど箱はどこにあるかなという、その部分が子どもの世界の中に広がってくるわけなんです。そうしたら操作に関する空間の中に何が出てくるかということなんですが、1、2の世界では操作を調整していくのが運動感覚で、点が線になり線が面に広がって運動感覚を通して作り上げた空間は複雑になり、それがいったんできあがって次の段階として、鈴を箱に入れるということがあるんですが、ここで一つの飛躍が起こります。その時に新たに、視覚に関する空間が加わるわけなんです。当然のことなんですが、視覚という感覚が使われ始めたのでその結果としてできる空間には視覚の世界が広がってくる。

2)身体の構成、像としての身体空間

 身体の構成の方には何が生まれるかというと、ここに像としての身体空間というのが出てくるんです。像としての身体空間というのは、一応、鏡を見て自分の身体を捉えられるようになるということなんです。絵で人間の身体が描けるというのとは違うのですが、靴下をはこうという時に、働きとしての身体空間の地図があれば靴ははけるのですが、靴下だ靴下の穴とつまさきをちょっと見なければいけません。それすら見ないでもやれる子はいるかも知れませんが、例えばの話として、靴ならば働きとしての身体空間を使って見ないでも履くことができるけれども、靴下になると像としての自分の身体に関する理解ができあがっていると言えると思うんです。ここで強調したいのは働きとしての身体空間と像としての身体空間の対比なんです。

 すなわち、主体の働きとして視覚が運動のコントロールに参加することによって、操作に関する空間としては視覚に関する空間が、身体に関する空間としては像としての空間が加わったということなんです。

3.図3について

 図3では、さらに言葉に代表されるシンボルが入ってきます。子どもがシンボルを使った表現をもつようになってくる。記号表現、言語を持つようになるということが加わります。

1)外界の構成、シンボルに関する空間

 外界に関してはシンボルに関する空間というのが生まれてきます。これは我々がものを考えるときに使っているものなので、例えば、果物と野菜が机の上に並んでいたら、我々は果物と野菜をきれいに配置して納得しようとする。あらかじめ、果物と野菜の概念があってそれに基づいて並べ替えただけというのではなく、実際に、並べ替えるということを通して果物の集合と野菜の集合とがシンボルの水準でできるわけです。すなわち、果物や野菜という集合が分かるためには混ざり合ったものの配置を置き換える空間というものがあるわけで、それがシンボルの空間ということです。

2)身体の構成、シンボルとしての身体空間

 このシンボルに関する空間が、身体の構成においては、こなれない表現ですがシンボルとしての身体空間ということになり、人の絵が描けるということになります。言葉をすらすら喋っている子どもでも、上手に人の絵が描けなくて、独特の身体表現が話題になることがあるんですが、その子が自分の身体空間を像としてはしっかり捉えているわけだから、鏡を見て自分の姿が顔が大きくて、顔に手と足が付いているような絵のように見えている子はいないわけです。ところが絵を描くときにはそうなるということがあって、これは簡単に説明のつくものではないのですが、これを描くのはシンボルとして考えているので、像として捉えていることとシンボルとして描くときではズレが生じてしまう。何であんな風に捉えているかというのは簡単には説明できないのですが、シンボルとして表現するときには別個に考えていかないといけない。現実にある身体というものを紙の上に置き直していってそこに1つの世界を作り出していく時というのは、全然違う話なんで、目で見てはいっぱい分かっていることが、紙の上には表現されてこない。

 そして、このシンボルの段階では、身体に関する空間は、外界に関する空間の中に統合され始めるということができます。すなわち、シンボル表現によって対象化された身体とは、外界の対象の一部として捉えられ始めるということです。

 私が、3つの図に示す中で、想定しているのは以上述べてきたような枠組みです。二重の三角形で表される関係が、図1から図2になると視覚が加わり、図3になるとシンボルが加わるというふうに、少しずつ要素が加わってくるということになります。こういうものをよりどころにして子どもの行動をいろんなふうに解釈していこうというふうに思っています。

U.関わり合いのめやすとしての学習の水準

 次に、私がよりどころとしている学習の水準(表1)の問題について、述べさせていただきます。表1では、具体的な教材の使用に沿う言葉で整理しました。

1.身体を起こすことと最初の運動の自発

 これは、寝たきりで障害が重いと言われているお子さんのことで、最初に起こす自発的な運動は何かということです。

1)体を起こすことと姿勢空間の構成

 1つは身体を起こすことによって自分の身体が真っ直ぐになる。自分の身体が真っ直ぐになること自体を1つの手応えのある行動として感じ取る場面があるので、それが1つの自発的な運動なんです。子どもにとってはいきなり起こせばいいというものでもなく、どういう場合が一番自発的なのかは、ていねいに見ていかなければいけません。

 人間の身体というのは、極端にいうと内側から外側に向かって力が出ていると言えるようなところがあるんですが、そのままだとこの力は寝たきりの子どもの場合は床にぶつかるしかないんです。床にぶつかって、そこに安定する場所を見つけるということが、最初に子どもたちがやっていることみたいなのです。生まれてからすぐに人間のやることは内側からあふれ出てくる力を、床にぶつけると言えばオーバーなんですが、ピターッと床に身体を沿わせて安定したところを探すということがあるようなんです。

 放っておくとそれだけになってしまうのですが、その力を上手くその子に返して上げる、それが身体を前から起こすという話になるんです(3)。子どもが不快だという状態を作らないようにして、机にべたーっとうつぶせになっている子どもに対して、肘を机について姿勢を上手く作ってあげると、子どもが力を入れて内から出た力が机にぶつかって身体が上がるわけなんです。それを上手く作ることがここでいう身体を起こすことの自発ということです。

 われわれが出会うお子さんなんかの場合は、前の支えとして机などのイメージが分かりやすいのですが、新生児の場合はそういうプロセスがお母さんに抱っこされる中にどこかに入っているんだろうと思うんです。お母さんの体を押すようにして身体を伸ばすような行動がどこかに入っていると思うんです。しかし、子どもにかかわるときは机のようなものを用意して、力を返してあげるのが一番効果的なので机を使っています。

 このときに、机ではなくて手の平でやるときもあるんですが、手の平を使って身体を起こすときの一番の注意事項は、包み込まないようにするということです。自分の手のひらが板のようにならなければいけません。その子にとって、どうぞここに身体を預けてきてくださいという合図にならないようにして、この手を使ってどうぞ身体を起こしてくださいというような働きかけにしなければいけない。言葉では通じないし、自分の手の意味が相手にどう伝わるかは子どもによって違うのでそんなに簡単ではないんですが、包み込むように働きかけると子どもは力を緩めてきやすくて、それでは自発は生まれない。包み込むようにしてあげれば子どもは落ち着きますから悪いことではないのですが、ここで問題にしているのは内側から出てくる力を、どう子どもにはね返してあげるかということなんです。子どもが自ら力を入れたときに、その力が子どもにもう1回はね返ってきてそれが自分の身体を起こすことにつながる時に、子どもが生き生きとするということがあるんです。自分の働きかけが悪くて泣いていたお子さんが、身体を起こしたちょうどいいところでふーっと泣きやんだということがあるんですが、これが自発なんだということをその時は強く感じたんです。

 ちょっと理屈っぽく言えば、横たわるだけの空間だった場所に自分の身体を起こすための新しい性質を持った平らな場所ができたということになるんだと思うんです。また、体の中に一番最初の垂直の感じが生まれているんだろうと思うんです。

2)口の触覚と首の運動

 それからもう1つ、身体の部分に着目したときに、寝たきりの障害の重いお子さんの場合、手や足がすぐには使えないお子さんはたくさんいるわけです。その時の感覚の窓口として子どもたちが大事にしているのが、口の触覚なんです。この口の触覚は長いこと我々がものを確かめるのに大切にしているのですが、この学校でも何でも口に持っていくお子さんはたくさんいると思うんですが、それだけ口で感じているものは感覚の原点のようなものなんで、きわめて障害の重いお子さんでも口の触覚で感じているものはたくさんあるということなんです。

 もちろん、口の触覚はそれだけでは運動は起きないわけで、運動を起こすために風船なんかを出すと一生懸命探ろうとするお子さんはこの段階ではいるわけです。そこに頬で押すようなスイッチを出せばこの段階では有効で、首の運動で積極的に教材を操作するという場面にはよく出会うわけです。それが窓口としての口なんです。

3)全身の触覚と全身の部分の運動

 さっき、手や足をなかなか使うようにはなれないと言ったのですが、その時の全身を見てみると、股関節のところを開いたり閉じたりして膝を動かしているとか、蹴るような足の動きがあるとか、肘のところが動いているとかいうように、様々な身体の部分は動いており、その身体の部分の動きの中でその子どもが感じ取っているものがあるわけです。それが、レジュメに全身の触覚と書いてある部分です。

 もう一度、体を起こした状態に話を戻すことになりますが、体を起こすという場面で考えなければならない背中の触覚の意味というのがあります。寝ている時は背中で床を感じ取っているので、安定している状態と結びついています。ところが、身体を起こした時には、背中で感じ取っているものがなくなってしまうので、前から導いて子どもを起こしている時に、不用意に背中に触ったりすると寄りかかってくるというようなことは、よく起こることなんです。そういう行動を見て、お医者さんなどから反射だと言われたこともあるんですが、そういう反射的な動きではなくて、そこに寄りかかる場所があるかのように、わざわざもう一度身体を背後に持っていっているのです。だから、身体を起こす時に背中を触り続けていたら、子どもにとっては、どうぞここに横たわり続けてくださいという意味になってしまい、後方から起こすということは難しいものになってしまいます。

 確かに、すごく障害が重くて起こすのが難しいお子さんの場合に、徐々に背中の刺激を取っていきながら起こしていくこともないわけではありませんが、背中の刺激が仰向けになることを誘ってしまうお子さんがいます。それは、身体の動きは活発であるにもかかわらず、ある独特の条件の中で、寝たきりをずっと選び取っているお子さんの場合ですが、その1例として次のようなものをあげることができます。それは、盲聾のお子さんで特別な身体的なハンディがはないのですが、視聴覚に障害があるということで刺激がたくさん入ってこないことから、寝たっきりを好んでいました。そして、寝た姿勢で顔にものを載せるとか、足でボールを挟んでみるとかして遊びを作っていたのです。そして、その子を座らせようとすると嫌がってすぐに逃げようとするんです。背もたれがある椅子なんかだと背もたれにどんどん寄りかかって、結果的にはそこから降りてしまう。特に、そういうお子さんを起こすときには、前の方に興味が向けられるように、その子の気持ちを前の方に引っ張っていかないと、ちょっとしたことがその人にとっては後ろに安定を求めることのきっかけになる。ちょっと触っただけで後ろにいったり、背もたれをちょっと発見しただけで後ろにのけぞるというようなことが起こるんです。そのお子さんの場合は、すごく柔軟に身体が動く例なんですが、動きの少ないお子さんでもそういうことが起こる。のけ反りの強いお子さんなんかは、背中を触ったら瞬間にのけ反ってしまいます。それが身体を起こすことと背中の触覚の問題ということです。

 中島先生が寝たきりのお子さんに出会って、コペルニクス的ともいえるような発見をされたのですが、それは、寝たきりのお子さんが何もしてないのではなくて、「背中で床を感じ取っている」とおっしゃったことです。何にもしないで寝ているんではなくて、背中で床を感じ取って、そこで自分の安定を作り出しているというのは、ほとんど医学的には植物的と言われかねないような人たちが、そうやって自分の世界を作っているということで、ゼロから始まるんではないということなんです。すでに背中で感じ取っている世界があって、その世界に色々働きかけて、新しい世界をやり取りの中で作っていこうということ、寝たきりはゼロの状態ではないと言われたのが、衝撃的だったことです。

 この辺が体を起こす世界のことで、教材としてはほっぺたでスイッチを押したり、蹴飛ばしてスイッチを押したりして音をならす教材だとか、様々な感触のもの、風船から始まって顔で触ったり足で触って確かめたりできるものは何でも教材になると言えます。音が出たりするものと感触を確かめるものは、いくらでも教材になります。私は、この段階のお子さんに関わっている時は、かつてはあまり教材がなくて、さかんに風船を使っていました。最近は、スイッチで音が鳴ったりするのを多用しています。感触を確かめるということを子どもたちがやっているので、こちらが上手く子どもたちが触れるようなところに持っていけば、いいわけです。

 ただ、感触を確かめるという時に、感触遊びとの関係で重要なことなんですが、感覚というのは、その子が自ら動いたことによって触れることと、単に受身的に触れさせられることでは重要な違いがあるのです。様々な感覚を楽しむとかいう意味合いで感覚遊びなんかは設定されていると思うんですが、あくまでもその子が用意された物に自分で触るからおもしろさが生まれるわけで、よく感覚になれるとか過敏をとるとかで先生が触ったり足の裏なんかをブラシでマッサージするのは、そのこと自体意味がないというわけではないと思うんですが、その子がちょっとでも足を動かして触わることと触られたこととの間には、触覚にとっては決定的な意味の違いがあると思うんです。これは触覚にとっては根本的なことで、能動的触覚と受動的触覚と言われていることなのですが、能動的な触覚の部分でその子とうまく感じ合えるようにしていかないといけない。さっき感触でその子が教材の意味を取り入れていくといったのは、その子が自ら動くという部分を大切にして考えているわけです。

2−1.手の自発的な運動の始まり

1)たたく、ひっかく、ふる運動と運動感覚に関する操作空間の構成

 子どもが身体を起こして、そこから手の運動が始まるわけですが、最初に起こる運動は、自分の身体の構造になじんだ関節のところで曲げたり伸ばしたりする運動が起こります。

 それは、具体的には、たたく運動、振る運動、ひっかく運動として表現されます。振る運動の場合は、振る物を持つということが入る分だけ複雑ですが、たたくとか振るというのは、肩もしくは肘の関節のところで伸ばしたり曲げたりするような大きな動きをすることです。ひっかくというのは、肩や肘の動きは止めておいて指先を使う小さな動きですが、ひっかく運動と振る・たたく運動は両方同時には起こりませんが、一方ができる人は、もう一方もできるみたいです。

 カリカリ小さなひっかく動きをするかパンパン大きな動きをするかの共通な部分は、その子の意識の中では、ある一まとまりの筋肉の伸び縮みの感じだと思うんです。表現される運動はバタンバタンかカリカリなんですが、その子の中でコントロールされている身体の中の感覚は似通っている部分があると思います。その子にとっては、骨格と筋肉によってできあがっている身体の構造に沿った自然な動きが起こっていると言えます。

 手だけではなくて、身体を揺することもそういうことになると思うんですが、その時、運動の結果として、子どもはどういう外界の対象に出会っているかということが重要で、空中をひっかいたり叩いたりする子はいなくて、必ず叩くひっかく場所や物を探している。ひっかく物がなければひっかかない。

 それが子どもにとっては面白いみたいで、その子が使っている感覚としては対象に触れたことで起こる抵抗感です。抵抗感もかなり細やかなもので、畳をひっかくときと板をひっかくときの感じの違いなんかもよく分かっているみたいです。その辺は相当みんな区別してやっているようで、さっき身体の構造に沿った動きと言ったのですが、それを使ってその動きにふさわしい対象を見つけているのは間違いのないことだと思います。

 手だけが動いているような話をしたのですが、手だけを動かすということではなくて、たたく運動をしているとき全身は揺らすような方向で、ひっかくときは全身の動きは止める。姿勢をどう作るかが手の運動のコントロールに深く影響を与えるわけです。全身をリズミカルに動かすということと、その子が叩く運動とはセットとして作り上げられているのです。

 今のが、さっき言いました点の世界のことです。操作に関する世界の叩いているところは点であるし、ひっかいているところも点なんだろうと思います。

 点の世界と言いましたが、目で見た点ではありません。これはなかなか伝えにくいのですけれども、運動感覚を通じて生じた点ということです。我々が世界をイメージしたら目で見た世界をどうしても考えてしまうのですが、目で見ないで手で物を動かす、そこが点であるということです。運動の感覚で作られた点の世界ということです。この段階の教材は叩いたり振ったりする教材がいいわけですけど、叩いたり振ったりすることができるということは、次の段階が見えているということでもあります。すなわち、そこに線的な要素を入れるための働きかけが重要になってくるわけです。具体的にはどういうことかというと、点の世界の教材というのは叩いったり振ったりするわけですが、そこに、滑らせるとか回すという要素が入ったりすると、外界に対して自分の身体を合わせるという新しいことをしなくてはいけないわけです。身体の構造に自然な動きから、外界の性質に沿った動きを生み出さなければならないわけです。点の世界の子どもは最初は叩くと思うんですが、叩いているだけでは上手くいかないということにふと気づき、自分の運動を変えてみようと思うんです。そして、その発見が線の世界の入り口になると思うんです。

2)たたく、ひっかく、ふる運動と姿勢空間の構成

 寝たっきりの子を起こしたときの身体軸の垂直は、そんなに自由度を含んでいない垂直なんでしょうけれども、身体を前後に揺すっている時の垂直というのは、はっきりとした前後という方向性を持っています。例えば手で机を叩きながら身体を揺すっているときに、垂直の軸を揺すっているわけですが、それはただふらふら揺れているんではなくて、しっかりと前と後ろというものを考えたものなので、垂直も初めて身体を起こしたときのような垂直とは、その持っている性質が違ってきて、柔軟で多様な方向性を持った垂直となると思っています。

2−2.持続的な調節を伴った運動

1)直線運動、円運動と運動感覚に関する操作空間の構成

 点の世界を線の世界にどうやってつないでいくかということなんですけれども、叩いている抵抗感というのは、ただ点で跳ね返ってくるだけなんですけれど、わずかでも回すということが入ってくれば、線が入ってくるわけです。ここがその子と共に広げていく世界の重要な手掛かりだと僕は思っています。

 糸車の回す教材は円運動なんです。回していく方向に線の運動があるわけです。これも最初は叩くと思いますが、叩いたときに線の動きの情報が運動感覚を通して伝わってくる。別の例で言えば輪を抜くような運動もここに入ってくるわけです。輪っかがあってそれを持つというのは、ほとんど点の世界なんですけれど、そのまま引いても抜けなくて、棒に沿っていけば抜けたという体験をして直線に気づいたら、だんだん棒に沿った運動にしていこうという考えが生まれる可能性があるわけです。この辺が線の世界に繋げていく上で重要になってくると思っています。

 点の世界は自然に子どもがやっているところの世界なのですが、線の世界はある程度こちらが意図的に関わることによって、よりきちんと生まれるものだと思うんです。市販のおもちゃというのは点の世界の物はたくさんあるんですが、線の世界を作り出すおもちゃは案外少ないので、教材としてきちんと用意しないとなかなか線の世界につながっていかないと思っています。

 この線の世界がどの感覚を使うかということですが、われわれだったら目を使うんですが、運動感覚を使った線の世界ということです。枠の中で板を滑らせてチャイムを鳴らす状況で、引いても押してもだめで、ある方向だけ力が抜けるわけです。抵抗感の中に力の抜ける方向が1つあるというのが線の情報なのです。円運動でも直線運動でも同じなのですが、実は、これは僕らも使っていて、鍵を鍵穴に差し込んで回すときの情報の処理は、全部この処理なんです。簡単なようですけれど、そんなに簡単ではなくて、鍵を回す情報の処理としては抵抗感が抜ける方向を運動感覚によって読み取ってその方向に回していきます。

 ここでの教材は、作り方によっては本当にたくさん作れると思っています。線の世界の運動のことを持続的な運動、たたくひっかく振るというような点の世界の運動を瞬発的な運動と言っていますが、線の世界の運動は持続的な調整が必要になってくるという考えなのです。

2)直線運動、円運動と姿勢空間の構成

 このときにできる姿勢に関する空間は、身体を揺すっていたら直線的に板を滑らせることは難しい。持続的調整を伴う直線運動をやろうと思ったら、それに応じて、自分の背筋もまっすぐにして止まるような状態にしないといけない。真っ直ぐといってもぽきんと折れるような真っ直ぐではなくて、手の動きに応じた多様に変化するしなやかな真っ直ぐな身体の軸ということです。

 さらに、例えば右から左への直線運動があったとすると、右足にかかっていた体重を左足に移し替えたりして重心を移動するようなことも起こります。この時、その子にとっての床という場の意味は体重移動を可能にする場だという新しい意味ができてくるわけです。座っている状態で、体重移動と呼ぶのは少し大げさな気もしますが、体重移動の場としてそれまでとは違った意味合いをもってくると考えられます。

 それが姿勢に関する空間で、垂直とか水平とかに関する意味がどんどん豊かになってくる。豊かな垂直とか水平の世界が繰り広げられるようになるわけです。

3)新しい身体の可能性の発見と働きとしての身体空間の構成

 取っ手を溝に沿って滑らせるような教材をやる時に、子どもは何を発見しているのかということがあります。1つには外界の新しい関係を発見しています。それが線の世界ということです。それともう1つ子どもが発見しているのは、自分の身体の新しい可能性だということもできると思うんです。自分の身体でできることには、物を操作して初めてわかるものがあるということなのです。

 その中には、常同行動といわれるようなものも入ってくると思うんです。結果がおもしろくなければそれっきりで終わってしまいます。常同行動として残る行動はそのうちのいくつかだと思うんです。自分の身体の行動の上に様々な動きを作り出すのが、自分の身体の可能性を物を使わずにやる常同行動といわれる姿だと思うんです。自分の身体の可能性は物を使うことによって広がるわけです。

 例えば、取っ手を溝に沿って滑らせてチャイムを鳴らすというような教材があった時、引いたり押したりして前後の重心の移動が起こるわけですが、これはこの教材があるから起こるのです。両手で左右にゆらすシーソーのような教材もよく使うのですが、ものすごく喜んで、ずっと続ける子どもがいるんです。少し揺すってみたり、大きく揺すってみたりするんです。確かにチャイムが鳴ったりはするんですが、もはやチャイムが鳴るから楽しいとは思えないぐらい集中して一生懸命やるんです。何が面白いのかというと「こんな身体の動き僕は知らなかったよ」ということだと思うんです。こんな身体の動きを初めて知ったという部分で教材がうまくはまると、本当に飽くことなく繰り返すのだと思います。

 実は、子どもたちは常同行動の中にもその部分をもっていて、お互いに知らない同士でも同じような行動をやっているので相当に普遍性があると思うんですが、例えば紙を束ねて顔を触るという行動は、使うことによって初めてわかった自分の身体の可能性です。団子を指先で作るお子さんもいます。これは人間の身体だけでは絶対に作れない動きで、これによって生まれる手の動きというのは、丸い転がるような物がなければ出てこない動きです。口の中に紙団子をこしらえてコロコロ転がしている子どももいます。物を使った常同行動としていくつか研ぎ澄まされた物が残っていくんだろうと思うんです。盲学校などには、紙を綺麗に裂いてひらひらする物を作っていたりする人がいます。こうした運動はどちらかというと円運動とか振るとかいう運動に近いものだと思いますが、物を使って自分の知らなかった新しい身体の動きを発見するというのが、ここに入ってくると思うんです。こういうことが巧みにできればできるほど、働きについての自分の身体の地図は複雑になっているんだろうと思うんです。

 こういう紙を振るお子さんの場合は、スプーンを口にもっていく動作ができる可能性はあると思うんです。フォークの方が説明はしやすいと思うんですが、フォークに刺して置いてあげれば口にもっていって食べるということは可能だと思うんです。普通、道具を使うプロセスは刺したりすくったりするプロセスが重要なので、このずれをどう考えるのかはいろいろあるんですが、すくうことはできないけれど、刺してあげれば口にもっていけるというお子さんはたくさんいらっしゃいます。お母さんの長い努力で、刺してあげれば口に運ぶようになったという話はよく聞きます。しかし、刺すという運動は、違う世界を前提としたものなので、そうはなかなかいかないのです。そういうお子さんでは、外に向かう手と内に向かう手が分かれていることがあるんです。教材をやったりするときは、左手は口にくわえて右手で操作して、食事の時は左手を使う、なぜかと言うと口にもっていくという身体の図式(働きとしての身体空間に基づいたもの)をもっているのは左手なので、左手でやった方がうまくいく。すくう方は外に向かう手(操作に関する空間に基づいたもの)なので、右手でやった方がいい。こういう段階のお子さんの場合は、スプーンを使う手と教材を使う手が反対だということがよくあるわけです。

 外界の空間関係を作る手と身体の位置関係をより上手に作る手との役割分担が起こってくる場合ですが、自分の身体の地図ができるという観点からすると面白い話としてあるのかなと思っています。繰り返しやればできると言われて子どもの意志とは無関係に、反復によってできたと言われやすい部分もあるんですが、こうして考えていくとその子が作り上げてきた世界としてそれはあるんだろうと思っています。お母さんが反復してやっても成り立たなかっただろうし、その子も納得してやっている以上は自分の身体の位置関係というものを納得するような段階の理解で、それを分かってこなしているから成り立つんだろうと思っています。

 1と2の世界の話は、20年ぐらいつきあったお子さんで、ここでずーっと付き合っているお子さんは何人かいて、それだけつきあえるのである意味では奥が深いのです。目が見えるお子さんで目を使う前の話なんです。もちろんあるかないかは見ますけれど、先に見定めて運動をしたりとか見比べてということはせずに、手の動きで考えて巧みに行動を組み立てていく、そういう世界なのでやればやるほどいろんなことが可能になる世界だと思っています。なかなか次の世界には行かない、1つ越えなければいけない部分があるとしたら次の物を入れるという世界だと思っています。

3−1.物と物との関係づけ

1)入れるという行為と視覚に関する操作空間の構成

 それまでの運動感覚の世界で複雑に組み上げていく世界があるとしたら、その土台の上に自分が運動で組み上げてきた世界を目で見るなり、手でなでるようにして捉えていく世界として、大きな変化があるんだろうなと思うんです。この段階を越える子どもはあっという間に越えて次の段階に行ってしまうんですが、ここをどう越えるかということで目標を立てて、目標に振り回されたりすると、子どもが見えなくなるようなところもあるんですが、いずれにしても目で見て物を入れるというのは、子どもの世界を知る上で1つの大きな行動だろうと思っています。

 物をある場所に入れるという世界の話に移りたいと思うんですが、主体の働きでは感覚として視覚(目が見えなければ触覚)が参加したということだけなんですが、行動の流れからいくとその視覚というのは、運動を起こす前に外界の状況を把握するというようなものなので、先取り的な感覚の使い方と言われるものなのですが、運動を起こす前にどういう運動を起こしたらいいのか、特に空間に関する情報を1回取り込むということなんです。だからゴルフボールを穴に入れる教材で、ボールを持ったときに入れるべき穴を見て、そこに向かって運動を起こすということができるわけです。ここに今までと全然違うことが起こっているわけです。1と2の世界では運動を起こしながら伝わってくる手の抵抗感の中に空間に関する情報があって、それが複雑な線や面へと広がっていく、手の中の情報が複雑な世界を作り上げていく。今度は運動を起こす前に目で見るわけです。ある意味では手で作った世界の上に新しい視覚の世界が重なるということになるんだろうと思うんです。

 このようなボールを穴に入れるという運動が成立する前に、行きすぎたら戻すとか、届かないから伸ばすとか、右にずれたから左に動かすといった調整が必要です。目で見て捉えた情報を手で確認していくわけですからズレが起こるわけです。そのズレを正確に調整していくということが起こるわけですけれど、この運動の軌跡が重要なんです。

 物を穴に入れられるということがなんなのかということを、今の運動の軌跡から考えると、4方向の交差点として見えているということなんです。子どもが穴に物を入れられるようになったということは、左右で端っこが2つ見えて前後で端っこが2つ見えてその真ん中が取り出せるということなんです。この場合、端っこは曖昧でいいんですけれど、左右だけ取り出して言えば両端と真ん中という3つの点の理解がセットになっているということです。ここがこういう行動の分かりにくい大事なところだと思うんです。

 これは目で見た空間と手の運動感覚の空間が重なり合う話なんですが、目の空間だけを考えれば、もし眼球運動を記録するような機械を使えば、この穴が捉えられるということは、上下左右の4つの端の点と真ん中の点という5つの点を往復運動する軌跡が見えてくるわけです。これがとても難しくこのような世界が作れないから、なかなかここにこれないのかもしれないのです。

 もっと言うならば、これは上から見ているのに近いわけです。ゴルフボールをある場所に持っていくのに、向こうに壁があるような場合、終点の壁に向かっていき、壁にぶつかったところで放すというやり方があるわけです。これは上から見る見方ではなく、そのまままっすぐ壁を見ているわけで、距離が見えてないのかもしれないのです。入れるというのは上から見るということが入っているので(厳密には斜め上からですけれど)、机上面のような平面を見ているということがあるわけです。

 また、空中を移動してゴルフボールを持って箱をたたけば、入れるのとほとんど同じ行動に見えるわけですが、ところが入れる場合は肩と肘が相当うまく動かなければいけないのです。肩と肘を使って直線運動を作らないといけないのです。これが入れる運動の難しいところです。なんにも抵抗感がない空中でうまく肩と肘が動いて持っていくということになるわけです。子どもによっては運動の調整にハンディがありますから、原理的にこれができればいいわけです。いずれにしても抵抗感に頼らない肩と肘の調整ができていなければいけないということで、それまでの動きとは違うわけです。スライド式のスイッチの教材のように道がついていたら、道の抵抗感によって動きが助けられて到達できるわけです。これは空中で行かなければいけない、これを補助する教材として溝を付けた教材とかもあるんですけれど、肩と肘の調整が絡んでいることがここでは重要なことだと思っています。

 この入れるという行動に関しても、不思議と延々と繰り返しやる子どもがいます。今関わっている子どもで、アクリルの筒にビー玉を入れるのが本当に好きでずーっと入れ続けている人がいます。同じように繰り返す運動の例として、運動に伴う抵抗感を通して身体の可能性を発見するということを述べましたが、それは手応えのあるものをやっているという感じなのですが、これは空中の動きで起こっていることなので質は違うわけです。面白さとして考えられることにはいくつかの可能性があるのですが、1つには、ある場所に物を持っていくところの中にある関係を理解するところの喜びかもしれませんし、1つの物の中に別の物が入っていくところに新しい発見があったり、特別の感情のようなものがあるのかもしれませんが、そこがよく分からないところです(4)。ここを本当に繰り返し繰り返しやる子がいるし、逆に言うと、繰り返し繰り返しその子が納得するから、穴に持っていくような行動から新しい世界が開けてくるのかなと思っています。教材としてはきわめてシンプルな物でいいわけです。入れることが楽しいというのは、それがぴったりの子には重要なもので、そこで子どもは様々なものを作り上げていくんだと思うんです。

2)像としての身体空間の構成

 こういうことができるときには、おへそがどこかという位置関係、例えば、まさにおへそを見ながら触ってみるとか、手のところを見ながら触れてみるような運動が生まれてくると考えられます。これは、手を口に持っていくというような前の段階の運動が働きとしての身体空間に基づいて起こっているのに対して、映像として見えた場所に物を持っていくという像としての身体空間に基づいているということになります。こうやって新しい身体の地図がだんだんでき上がっていくんだなと思うんです。

3−2.複数の位置の関係と対象の部分の関係づけ

 その次の方向として、2つの方向があります。1つは入れる場所を増やすという方向と、もう1つは入れる物を変えていくという方向です。

1)入れる物の発展と視覚に関する操作空間の構成

 棒を穴に入れる教材の場合、さっきのコントロールのことが関係してくるんですが、手首のコントロールが大事になってきます。ボールを入れられる子は、その延長線上で必然的に手首も使えるようになるという感じがしていて、越えられない段階ではないだろうと思っています。

 手首を返して棒を入れるようになることについては、1つ、面白いことがあります。実は、ボールを穴に入れるというのは見なくてもできるんです。1回入れてしまうと手が穴の場所を覚えてしまうので、2回目からは見なくても入れられるんです。それぐらい手の世界というのは複雑で巧みなんだと思うんです。ところが、棒を穴に入れるときは見ないと入れられません。手が覚えているのは穴の位置までなんですが、穴に棒を合わせるのは見ない限り合わないんです。手首の調整が絡むときには、見るようなことが起こるんです。これにはもちろん個人差があって、ボールが入れられるようになれば見続けられる子どももいるわけですが、このことを痛切に感じたのは、なかなか見ないと言われていた子どもが、毎日学校から帰ったら電池をサランラップの芯に入れるということを1ヶ月くらいやって、それをくぐり抜けてから目が対象から外れなくなった。それまでは、ゴルフボールを2回目から見ないで入れていたのに、目が外れなくなったのです。

 それから姿勢のことでもおもしろいことが起こって、パイプに棒を入れるときに背すじが対象の方向に合わせるように傾き始めたのです。背すじというか首すじというか、ゴルフボールの時は机の水平の場に対して背すじを垂直に立てているんですが、棒を入れるときは筒が傾いたら入り口のところに別の平面(場、世界)ができて、それに合わせているという感じなのです。身体全体は崩れてはいけないから、水平の机の面や地面に対する調整をしてまっすぐ立てておきながら筒の入り口の平面に対する調整をさらにするという二重のことが起こっているわけです。

 空間関係がそれまでは机の場に対する空間で、玉を穴に入れるときは水平の面における十字路の交差点としての位置だったのが、筒の入り口の小さい世界の中に十字路ができてくる。実はこれが、部分と全体が物の中にできるということと、深く関係するんではないかなと思ったんです。

 スプーンは持つところとすくうところという部分とスプーン全体とがあるんですが、それ以前の段階ですくうときは一体で1つの物に対して行動を起こしていたわけです。ところが、ここではすくう場所と持つ場所とが分かれていて、その両方が出てくるんです。それはちょうど、机の上に2つの物が乗っている時の2つの場所というものが、1つの対象の中に圧縮されてくるように考えることもできるのではないかと思っています。

 棒を入れられるようになるには、棒をぎゅっと握ったまま横にして入れるというようなところから始まるんですが、このとき棒は一種の塊のようなものなものです。それが、手首を使って方向を調節しながら入れられるようになって、実は方向がある物だということがその子の中に認識されていくわけです。見ただけで方向を認識するわけではありません。このことを、さかのぼって整理すると、まず、入れるという行動が成立する以前に、広い空間の中で直線的な操作をしたという体験があって、そこで方向というものを学び、棒を入れるという体験を通して、その方向が1つの対象の中に集約されているということもできるんではないかと思うわけです。方向があるというのは見ただけではだめで、それに対して自分がどう行動するのかがなければいけないんです。対象の中に方向が見えるというようなことが棒を入れられるような行動の中で起こってくる。そして、それがまた、部分と全体が分かるということでもあり、部分と全体の関係が分かると道具というものがある程度、誰もが納得できるような形で使えるようになることだろうと思うんです。

 道具のことで、ちょっとつけくわえておきますと、手のひらを上に向けてスプーンを下からぎゅっと握りしめるような握り方は、手首の使用を前提としておらず、肘と肩のコントロールができれば可能な食べ方で、この持ち方は受身で持たされた時に生まれるものです。上から握るやり方は手首の使用が前提になっているので、より自発的な道具の使い方といえます。見かけ上、私たちの持ち方は、下から持った場合に近いように思われますが、これは、手首に加えて、さらに指を使うことが前提になったもので、上から握る持ち方が発展したものです。指も使うという前提になるから上から握るわけです。ここでは道具の使用とも大きく関係してくるということがあります。

 こうした棒を入れるという行動から、さらに発展していくのが三角や四角や丸の板を入れるというものです。棒が入れられればその延長線上に丸や三角、四角も入れられるようになるようです。こうした行動では、指先のコントロールが入ってくるんですが、肩・肘・手首が使えるようになってくれば、指先のコントロールは同じ段階の中での巧みさの違いみたいな感じなので、うまくその子の興味をつないでいけば指先の動きになっていくと思うんです。

 平面があることが分からないと板を縦に入れようとしたりしますが、滑らすように入れることができるには指で1回押さえないといけないわけです。そして、そのことを通して物は平面でできているんだということにもなるし、三角や四角は角を合わせて回さないといけないので、指先で回して物は回るんだということも入ってくるわけです。次の段階のことになりますが、三角が三角として見えるとか、丸が丸として見えるというのは、こういうことが前提になって初めてできてくることで、三角の板を見て三角としてとらえられるのは輪郭線を取り出せるからなんですが、これが三角だという取り出し方は、こういう操作をしないと成り立たないんではないかなと思うんです。

 動物実験で、魚なんかも丸い板と三角の板の印象の違いなんかは分かるみたいなんです。これは空間ということではなくて、目の使い方で言うと印象なんです。生まれたばかりの赤ん坊でも親の顔が分かるみたいなんですが、視覚的な印象の違いがなければ魚も餌を採ることができないわけですから、印象の違いでいくらでもできることなんです。

 われわれはこれを、方向のあるものだとか、平面であるとか、回せるんだとか、そういうことを1回前提にして違う意味として見ることができるので、意味づけのようなことがここでは起こっているわけです。これが穴に入れる、物の方の変化なのです。

2)入れる場所の発展と視覚に関する操作空間の構成

 場所の変化の方は棒差しなどで、入れる棒や穴が複数になっていくわけなんですが、これは空間関係が1つの物に集約していくのではなくて、机上の平面における空間関係をさらに複雑にしていく方向なんです。この教材の面倒なところは、その子がどう入れるかが実に多種多様なところです。この世界ができ上がっている人は、左から、あるいは右から順番に入れることを好むわけです。その世界と1個入れてもう1個その上に入れようという世界は結構違うんです。

 よく起こることは、1回入れている場所にもう1回入れようとすることなんです。これは5個の棒差しの穴が同質の5個の穴に見えていないということです。その子にとって5個の穴が個性的な物としてそれぞれ映っていて、偶然、最初にある場所がその子に浮き上がって見えて、そこに棒をさしたら、今度はがぜんその棒の場所だけが浮き上がってきて、その時には他の穴は消えてしまい、そこにまた棒を持っていくわけです。で、それでは入らないからということで次の穴を探すということが起こるんだと思うんです。

 5個の穴にを電池を入れることをやっていた弱視のお子さんが、3番目、5番目、1番目とランダムには入れていたのですが、ランダムに入れていたときにはその順番を再現できて驚かされたことがあるのですが、ある程度順番に入れようとするようになってきてからかえって入れた順序を再現することがむずかしくなったということがあったんです。それが何を意味するかというと、1つ1つの穴が個性的に見えていたので覚えてられるんですけれども、順番が出ると1つ1つの穴が同質に見えてくるのだと思います。部屋を片づけなかったら捜し物がすぐに見つかるけれど、片づけてしまうとかえって見つけにくくなるというのと同じだと思います。片付けてしまうと、ある秩序に基づいて探していかないと解決がつかなくなる。その方が便利な人は秩序に基づいて探していけばいいんですけれども、私なんかは片づけられると大変なことになってしまうんですが、それは、物の場所を直接覚えているからだと思うのです。そのようなことが、5つの穴でも起こるみたいで、ここであげたお子さんの場合は話すことができたのでこのようには鮮やかには示されたのですが、最初は個性的な5つの穴がしだいに入れ替え可能な穴に変化していくステップが学習の中には組み込まれていて、でき上がると5つ全体を見渡して、全体を左から順序よく処理していく。すると、逆に穴の個性は消えてしまうということだと思っています。

 このように、同じ教材を使っていても、その子が学んでいることは全然違ってくるので、逆にこういう学習は難しいんだと思うんです。順番に入れさせようとして強制的に入れさせようとしたら怒ったとか、その子の入れ方にそってうまく働きかけないと、学習が成立しにくくなります。ペグさしなどの教材は割とたくさんあるんですが、子どもによっていろんなやり方をしているので、そのやり方に応じたことをさせないと、強制することになりかねないし適切な援助も難しくなる。その子が今何をしようとしているのかが分かると、ちょっとした教材の工夫とかでこなせるんでしょうけれども、それがもつれてしまうのもこのへんにあると思っています。また、ただ数をこなせばいいというものでもなくて、どうその子にとって複雑になるかが大事な点のような気がしています。50個やるとかではなくて、どうやったら子どもに発見があるのかの観点があるように思っています。50個やっても、ただ機械的に繰り返しているだけでは、複雑になったということにはなりませんし、そういう質的な変化を求めるためには、数だけを増やすというのは、かえって逆効果なのではないかとも思えます。

 それまでの子どもは運動をする中で様々な関係を感じ取っていたものだから、その感じ取っているプロセスが我々に見えやすかったのですが、こうした行動では、運動する前に見て考えているものだから、その考えを類推しなければいけなくなって、我々にとっては難しくなると言うこともできるかもしれません。

3)像としての身体空間の構成の進展

 身体の位置関係ということで言えば、複雑な位置関係を処理する話とも関係すると思うんです。複数の場所に棒をさせるようになるというようなとらえ方は、自分の身体をとらえる場合には、おへそがあっておなかがあって背中があってというようなことが、全体の身体に対するそれぞれの部分として分かってくると思うんですけれども、私自身はそのあたりのことはていねいに関わったことがないのでよく分からないところではあります。

4−1.同じ−違うにもとづく関係づけと基準の構成

 ここで、次の同じ違うの学習にいこうと思うのですが、実はここにまたなかなか越えがたい一線があるようなんです。

 丸は丸で入れられるようになり、三角や四角も入れられるようになってくるのですけれども、同じ教材を使っていても、同じと違うということがそこに入ってくると、全く違う世界がそこに始まるんだなと思うんです。

 同じ−違うをわかりやすくイメージすれば、複数の分類のことを考えればいいと思うんですが、それまでの世界の丸の板を丸の穴に入れるのは実物の世界なんです。丸と三角の分類も、確かに実物の世界ではあるんですが、ある意図を持っているわけです。丸と三角の分類板の空間は、同じと違うを前提としないと埋まらない空間なんです。もしかしたらこれは1回シンボル(マークという意味ではなくて、言葉とか概念というものかも知れませんが)というような世界が広がるから、このような配列が起こるんではないかと思うんです。丸い板と枠を出されて入れるというのは前の段階なんですけれども、あえて丸と三角を分けて並べていくというのは、同じと違うという基準によって物を配置換えすると言うことが入ってくるので、違う世界なんだろうなと思うんです。

1)同じ−違うとシンボルに関する空間の構成

 こなれない言葉をあえて使っているのは、ここで違う世界が1つできたなということを言いたいわけです。同じと違うということを意図しなければ絶対生まれない配列、実物の世界とは言うけれど実物ではないんではないか、実物を作為的に配列し直したということが入っている。子どもからすると、並べさせられているんではなくて自分も並べ替えようと思うからこのような教材が成り立つんだと思うんです。並べ替えるという新しい世界に入った子どもが、こういうことをやると考えています。

 最初、何枚かの果物と野菜の絵がばらばらにあって、絵としてはそのままで価値があると思うんですが、それをわざわざ果物は手前に野菜は向こうにと並べ替えることに意味があるとするならば、果物は同じで、野菜は野菜で同じだというのをこちらが勝手に決めて、それをわかりやすくするために分ける。人間が作った作為の世界では意味があるけれども、実物としては意味のない世界なんです。そこを越えるようなところがここにはあります。

 この丸と三角の分類板の場合は輪郭が取り出せているということなんです。材質ということを考えれば実物としては丸と三角の板同士の方が同じなんです。あらゆる物が違っているのに輪郭だけが同じだから、丸の板は丸の穴に三角の板は三角の穴にという関係が成り立つ。その前の1つ1つを入れる段階では、入る物と入らない物という理解だったのが、丸と三角を並べて入れるとなると同じ−違うというのが入ってくるので、それは輪郭線以外にはないわけです。

 視覚障害のある方やお子さんで、上手に入れられるようになってもまだこの名前を間違うという場面に何度か出会ったことがありますが、板をとってお盆とか言うのではなく、丸とか三角、四角との間で必ず間違うんです。3つの互いに似通ったものからなる1つのグループということが理解はされているのだけれど、それぞれの違いに対応するように3つの名前をわりふることができていないということだと思います。だから丸と三角と四角という言葉が、間違っていてもそれはそれでいいんだろうなと思い始めたのです。少なくとも、3つをひとくくりにしているということでは、逆によく分かってきたんだなとも言えると思うんです。

 丸や三角、四角の板が平面からなるということは前の段階で発見しているんですが、これが輪郭において同じであるという時に決定的にやっていることは、この板を真っ正面から見るということをやることなんです。網膜には何時も三角や丸は正三角形にもまん丸にも見えないはずなんですが、これを正面から見たらなんなのかという見方ができたということなんです。板を代表する見方として正面から見た見方を取り出せるということだろうと思うんです。

 物を1つで代表するとなると言葉がそれなんで、言葉なんかとこの辺で絡んでくるというのはそういうことかなと思うんです。どの角度からこの板を見たら典型的な姿になりますかと言われたら、正面から見た姿なので、そのものの典型を知ることが形なんだと書いていた人がいる(5)んですが、そのものの典型の1つが自由自在に使う単語としての言葉なんだろうし、そうなってくるとシンボルという言葉を使ってみたくなるんです。

2)シンボルとしての身体空間の構成

 図形板が丸に見えるようになってくると、人間を表すのに丸を使ってみようということにもつながり、丸で人を表すような絵ができるんではないかと思うんです。人間を写実的に描く前に、丸で表すというのが大事な始まりだと言われているわけですが、人というのを描き表すときに丸というこの閉じた円で表そう、手をこの棒のような線で表そうという感じで、表現していけば徐々に絵は複雑になっていく。丸で表して大事な表情をそこに付けて、大事な手と足をつけていくとやれば、子どもたちの絵は理解可能だと思うのです。別に、あんな風に見えているわけではなくて、その存在を何で典型的に表すかというときに、ああいう絵の世界はうなずけると思うんです。本人たちだって、この丸がそのまま人間には見えているはずがないんですが、それをベースにして人間を表すことができるわけだから、そこには典型的なものとして表そうという能動的な意志が絡んでいるわけです。

3)絵カードと写真

 ここで見本合わせとマッチングと資料に書いてあるわけすが、絵カードを使ったとき、絵がある物を代表しているということがあるんです。花などのように目で見て楽しめる物は写真が有効なんですが、机とか椅子とか、本人が日常使っているような物は、絵で描いた方が分かりやすいんです。写真というのは、ある一面をそのまま写してしまうんですが、絵の場合はその子がそのものを有効に使うために取り出している属性を、典型的に表すからだと思うんです。椅子だったら、いろんな椅子があるから、写真だったら多様で困るんだけど、座るところの本質的な部分、機能的な意味を強くそこに表現するので絵の方が分かりやすいということがあります。視覚印象が強いものは写真の方がいいので、人の顔などは写真の方がよくて、家具なんかは絵の方が分かりやすかったりするんです。写真は典型をうまく捉えてくれないということがあるのかなと思っています。で、この辺で同じ−違うが始まるわけです。

 同じ−違うが始まってからの展開は、丸と三角の学習をしているときに、同じ−違うを処理してはめ板を入れている子どもと、処理しないで入れている子供との間には、相当大きな違いがあると思うんです。はめ板を枠に入れるという行動としてはほとんど同じなので、ここの区別が結構難しいんだろうと思うんです。子どもの中で起こっていることは随分違っています。

4)教材の提示の仕方をめぐって

 どう教材を提示するかで議論があるんですが、それはある子どもには当てはまることなんだろうけれど、重要なのは教材の置き方ではなくて、どのように置いたとしてもそこから子どもが何を取り出しているが、重要だと思うんです。丸と三角のはめ板があって、丸板が手前にあり前方に丸と三角の枠がある場合とその逆においた場合、どちらが難しいかというのはきわめて実践的には重要なんですが、起こっている出来事というのは、子どもが図形板と枠を同じ形として見えているのか、実物の世界でこの板を入る入らないという関係で見るのかという、その世界の違いがあるので、そこのところの方が重要だろうなと思うんです。

 宇佐川先生などはこの辺を大事にして、教材の配置を定式化して述べておられます(6)が、そこでは、その子の水準の違いが想定されています。この辺が単純にむずかしいやさしいで処理されることがあるんじゃないかなと思うんです。子どもが対象を処理する水準が違うということを考えないといけないんではないかと思います。単にできるようになったかどうかではなくて、その子の中に水準が変わるような変化が起こったということなんです。実物の世界で丸と三角のはめ板は入れられるんだけれども、同じ違う水準にいけないで困る子はいます。

 ここを何とかしたいと思って子どもを困らせたことはいっぱいあります。しかし、少しずつわかりやすくしてあげることで、ああ同じなんだと気づく子はいるんで、単純な難易度だけでいくとそのへんがうまく処理できないと思うんです。水準の違いということできちんと位置づけていかないといけないだろうと思っています。

4−2.大きさの系列化と枠組みの中の空間関係

 この同じ違うが見えてくると、後は違いの細部に目がいくようになって、楕円と丸の区別であったり、次は、違いを方向付ける大きさの学習になったりするわけです。小さいのから大きいのへ順序づけていくという話になっていくわけです。違いがあるんだけれど違いの中に方向性があって、大きさの違う3つの丸があったとすると、小さい順大きい順があるという順番が、この同じ違うの中にできてくると系列化の学習と言うことになるんです。

 丸と三角が分かるようになり、同じ違うということで区別できるようになった子どもの学習は、大きい小さいというような順番が分かるような方向と、1つの形の中に位置関係が更に作れるんだという方向なんです。ひらがなのことなんですが、四角の板に傘の絵が描いてあるとします。傘の絵は反対にしても傘の絵ということでは同じなんですが、「こ」と「い」が出たときに、「こ」の向きを変えたら「い」になるわけです。マークの弁別はどの方向でも同じなんです。このちっちゃな四角の枠の中の位置関係が問題になってくるような方向が次には出てくるわけです。「め」と「し」の違いはすぐに分かるんだろうけれども「し」と「つ」の違いは分かりづらいというふうに、この間を埋めるものはいろんなものがあるんだろうと思うんですが、いずれにしても、この小さな枠組みの中の位置や方向や順序づけのようなものが分からないと、ひらがなという世界になかなか入っていけないわけです。

 余談ですが、マークのレベルで漢字の区別はできるので、2歳児に漢字を教えるということもできるのかもしれません。マークが分かるときというのは、単語をどんどん覚える時期でもあるので、国旗を覚えさせれば覚えていくし、漢字もやれば覚えていくわけです。ひらがなは字形の表情の区別はできると思うんですが、「こ」と「い」の区別なんかはすごく困ると思うんです。同じに見えている物に違いを付けるわけですから。

 比喩的に私がよく思うことなのですが、アラビア文字を見て僕らはアラビア文字だと分かるわけです。それは4−1の水準(形の同じ−違うが分かる)の見方をすれば分かるわけです。ところがアラビア語の約束事は全く分からない訳です。アラビア語が読めるようになるためには4−2のような処理をアラビア語に対してやらなければならない。漢字はアラビア語がアラビア語であるとわかるような認識の水準で細かく繰り返してやれば分かってしまう。でも、ひらがなはアラビア語が読めるような区別の仕方をやらないと、ひらがなとしては見えてこない。

 円と三角が形として見えて、同じ違うが分かってからの、これが2つの方向です。大きさの違いとして分かっていくか、1つの枠の中に形が圧縮されている物として分かっていくかということで、一方は数の学習へ一方は文字の学習へつながっていくという方向です。

 空間の話と言えばこの辺は全てシンボルの世界の話になってくるんですが、絵の話で言えば絵がどんどん細かくなっていくんだと思うんです。大きい小さいが分かれば、顔の中に全体と部分が入っていったり、胴体と頭が区別できたりと身体のイメージとしてはできてくるんだろうと思います。

4−3.文字と数の基礎学習

 最近、気になっていることで、買い物でのお金の計算がなぜできないかということなんですが、小平養護と北養護の学習の進んだ2人の方から、突きつけられた問題なんです。筆算で2桁の計算ができている人たちが、買い物の時のお金の計算ができない。1人の方なんかは行動範囲も広くて、買い物なんかも行くんだけれども、筆算ではできるんだけれどもお金の計算ができない。

 なぜなんだろうと考えて、その人との学習を通して考えたことが、100までの数が視覚的イメージの世界で自由な操作の対象とすることができないということが分かったんです。要するに長さの学習をみんなしているのに、その人たちは肢体不自由があるので長さに対する計測する経験がないんです。100までの系列が空間的にできなければ、お金の計算はできないということが分かったんです。要するに1000円から980円引いたらいくらかというのは、われわれは何を使うかというと、1メートルという物差しと98センチとをイメージして、2という答えを出してしまうんです。2という答えを先に出してしまって、あとは20円とか200円とかを付けて処理するんです。その人は、物差しを使って82センチから10センチ戻ってくださいと言ったら、困ってしまって1つ1つ数えていくんです、81,80、……と、そのうちに10戻るということを忘れてしまって分からなくなる。計算では82−10=72は出せるんです。僕らは、10までの数と繰り上がりと繰り下がりができたら、次は長さとか量の話に持っていって無意識のうちにこのへんをクリアーしているんです。10から20までの数と繰り上がり繰り下がりのところまでできると、尺度のレベルで100までやらないと日常生活の数は困難に見えるんです。1万円から8千円引くのも、100から80引くイメージが強固にあるからできるんです。おおよそ100までの系列のイメージがないと、買い物ができない。

 生活をいろいろ聞いてみると物差しで測った経験なんか持ってないんです。100までも、空間の関係なんです。10までの数のイメージと繰り上がり繰り下がりの法則が分かったら、筆算では納得して計算できるわけですが、物差しを見て19足す2を出してくださいと言ったら、目盛りを数えて21と答えを出すんです。そういう自由自在の100までの空間が必要なんだなということを痛感しています。1000まではいらない、100までは大づかみながら必要みたいなんです、それが日常生活の様々な場面の数の処理に必要なので、障害を持った人たちが応用問題ができないとよく言われるんですが、応用というのは非常にあいまいな概念で、その子の中で何か困っていることがあるから応用できないんで、その困っていることの1つがそれなんじゃないかと、密かに考えているところなんです。長さの学習をていねいにやればその子の中に越えられるものがあるんじゃないかと、考えているんです。

 そういう意味では、かけ算は面積の問題と深く関わるんで、そのお子さんとは面積の問題でかけ算もやっているんですけれども、それもシンボルの空間の1つの形なんだなと考えています。

5.まとめとして

1)手を伸ばすことの困難をめぐって

 最後に、運動を起こすことを阻む要因ということで言いたいことがあるんです。

 外界に向かって働きかける時に、なかなか手が伸ばせないという子どもたちがいます。外界のとらえ方ということでは、すでに手を伸ばすことができることができる水準に達しているにもかかわらずです。

 まず、肢体不自由という要因でマヒがあったりする人をあげることができます。その人たちは伸ばそうとしても不随意運動が起こって伸びないとか、手そのものが動かない、そういう人たちも今日述べたようなプロセスをどこかで経るわけです。今日の午前中、松村先生と訪問したお子さんは全身が動かないお子さんですけれども、シンボルの世界を確立しているわけです。しかし、今日述べたような教材はすべてできないわけです。

 また、もう一群の子どもたちがいて、手を伸ばすことがその子の中に不安定を作るので手を伸ばさないという人たちがいる。その典型的な例として障害名が付けられているのが、レット症候群と言われる人たちで、手もみがあると言われる人たちなんですが、手もみをしているから手を使えない段階にいるかというと、どうもそうではないみたいなんです。最近、発達診断を専門にする立場の人たちが、レット症候群の人たちの中に認知の高い人たちがいることが判明したと書いているのを読んだのですが、手もみをしている人がなぜか手を伸ばさないわけです、だけどそれに変わる視覚を使って世界を作っていることがある。バランスが崩れることの不安定さから手を出さないというのが1つの仮説としてあるんですが、レット症候群という名前が付いてなくて手を伸ばすことにものすごく抵抗を感じていて、しかし、けっこう視覚によって世界を作っている人には何人か出会っているんです。

 そのお子さんたちは、身体に向かう行動についてはけっこう作れるんです。手で複雑なことはいっぱいしているんですが、外へは出てこない。この子どもたちはきちんとした外界をその子の前に用意しないと自傷につながる人たち、だから自傷行為が極端に激しい人たちは、たぶん何かの理由で手を伸ばすことができなかったんです。しかし、その子はいろんな意味を作ろうと思って、外界に向かわない代わりに身体には向かっていったわけです。身体に向かっていったときにそれがいろんな経緯を経て、それが自傷行為として残ってしまった。今、自傷行為の激しかったお子さんで徐々に手を伸ばすようになった方がいるんです。やっぱり伸ばし始めたら、その子の分かっている世界は複雑なものだったんです。

 自閉的と呼ばれている人たちの中にも、このような人がいるみたいで、鉛筆持つのが不安定で耐え難いという自閉的な人はいるのかもしれません。手を添えてもらえば絵が描けるという人がいるみたいです。そして、それにくわえて喋ることもいやだったりすること人たちの中に、FCと呼ばれる方法で話すと言われる人たちがいるみたいなんです。FCというのは自閉症の子どもの手を取ったら字を書いたという話なんですが、真偽をめぐって様々な議論があるようですし、私もそのままそれを受け入れようとは思いませんが、もし1例でも事実だとしたら、それはきちんと説明されなければならないと思います。手を伸ばしたり音声を発したりすることに抵抗があったのでそれをやらなかった代わりに、認識の方は複雑になっていった、いざ手をもたれることがそれをクリアーするきっかけになった。どんな子どもにもあてはまるということはないと思うんですが、不安定要因があってその中には鉛筆を持って垂直に下ろす状態が不安定で耐え難いという要因がある人がいるのかもしれません。

 そして、それは私が関わっている子どもたちが感じているように思われる不安定さと相通じるものがあります。私の知っている子どもで、行動を起こそうとして、わざわざ人の手をとる子どもが何人かいるんです。それは、自閉と言うのとは無縁のお子さんですが、手を伸ばすことには、ある不安定さがあって、人の手をとることはその不安定さを取り除くことになるということを知っている子どもたちなんです。様々な要因が絡むと、様々な不安定さがあって、手を取られることによってその子が作り上げてきた世界が一気に出てくるという子どもがいることは説明がつく、そんな神秘的なことでもないだろうと思うんです。別に自閉的な人に対するFCという手法について事実を見たわけではないので、強く支持するつもりもないのですが、もし、それが事実だとしたらどんな説明が可能なのかということを自分なりに考えてみたつもりです。

 今のは、極端な話なんですが、もっと手前のところで、手を伸ばしたいのにのばせない子がいるので、そういう子どもたちのことも考えていかなければいけない。もう20歳を過ぎた歌の好きな人がいるんですが、教材にはなかなか手を出さないんです。その人は教材の操作に伴って生ずる抵抗感が嫌いなので小さい頃、教材はいっさい拒否だったんです。歌が好きで音楽が好きなのと愉快な子だったんです。そして、ある独特の、物がひっくり返ったような音が好きだったんです。教材をやるようになった頃、チャイムの音が鳴った時に、こちらがビー玉などの入った缶をがらがらと揺すったりすると、きらいな抵抗感を乗り越えてやるようになっていました。彼は、家ではおもちゃ箱にある空き缶の蓋を探し出して、自分の定まった卓袱台の脚のところに空き缶の蓋を立てかけて、その蓋をたたいたり落として、時には歌をまじえたりしながら、過ごしています。

 身体の位置関係に関する空間は非常に細かくできているので、まず自分の好きなものを探して、探して手にしたらもう複雑な行動ができるので、極めて巧みにたたく状況を作っていく。しかし、その巧みさはほとんど外界に向かっていかないのです。もう20歳も過ぎたのでその方のその世界は、認めるしかないのですが、同じようなタイプのお子さんで、自傷している人がいます。彼は音楽が好きでよく歌っているので自傷には行かなかった。手が出しにくいという同じような状況の中で、一方では自傷ですごく大変になった人がいて、一方で楽しく生きている方もいる。外界に向かうことが何かの理由でできない方はたくさんいると思うので、この問題もていねいに考えていかなければいけないなと思っています。

2)子どもの可能性は無限である

 もう養護学校の小学部の頃から15年ぐらいつき合っているある男性がいるんですが、緊張が強くていろいろな運動が思うようにできない方です。出会った当時から緊張は強かったのですが、机を用意すると前傾して肘をついた姿勢で、机に必ず座ってくれて、1回も反り返らず、これで終わりというとポーンと反るというお子さんでした。そのことは当時からすごいなと思っていたのですが、一応、前に教材を設定して後ろから不用意に働きかけなければ反りかえらないということで考えていました。ゆっくりとしたペースでしたが、学習は進んでいって、中学部から高等部にかけて、文字の弁別はかなりできるようになっていたのですが、どのくらい分かっているかが、よくつかめないなと思っていました。

 このまま続けていていいのだろうかと思いつつ、そのうちに学校も卒業して、福祉センターに通うようになり、そんなに頻繁には関われなくなっていたのですが、会うと、名前である「な」の字を打ってみようというようなことをパソコンでやっていたんです。手もしだいに堅くなって動きが悪くなってきていて、一緒にスイッチを押していても思いこみのようにして「な」を今日は選べたねというようなことを言っていたんです。絵が出てくるソフトは好きだったので喜んでいたのですが、本当に名前などを打つことがいいのだろうかと半信半疑でやっていたんです。本当にこれが分かってないとすれば引き下がるしかないけれど、迷いがある内はできていると信じて一歩前に行くしかないので、ずーっとそれをやり続けていました。

 今年の5月3日に彼が、高等部を卒業して3年目を迎える年なんですが、その日は割合滑らかに手が動き、一緒にパソコンのスイッチを押して名前を書いたのです。それはこちらが誘導して書いたんですが、手が余りにもスムーズに動くので自分でやってみると聞くと、手がスーッと動き出して、2つのスイッチを押し分けてもう1回自分の名前を書いたんです。なあんだちゃんと分かっていたんだということで、そこまではひらがなが分かった、名前が分かったぐらいだったんで、それまでの学習のちょっと延長かなと思っていた。ところが、彼は手を動かすのをやめなくて、その後「すてき」と書いたんです。そして、手を休めることなく、「おとうさんがかっこいいからぼくはうれしい」「おかあさんがやさしいからすくわれますよぼくは」と書いた。21歳で生まれて初めて書いた言葉がそんなふうに出てきたのでびっくりしてしまいました。それまでは和気あいあいとアンパンマンができた名前ができたヤッタというような感じだったんだけど、その言葉が出てきてからは、彼も笑顔からだんだん凛々しい顔になって、こちらも緊張して黙ってしまって、その後すごく複雑な思いになりました。

 そして、15年間何をしていたのかという深い悔いを抱えながら家に帰って、ビデオを送らなければと思ったので、ビデオをダビングしてお母さんに手紙を書きかけました。そうしたら、やはり本人に書かなきゃいけないと思い直して書き出したら、お詫びの手紙になってしまったんです。去年は2~3回ぐらいしか関われていなくて、行き詰まりかなとも思っていたんです。諦めないでよかったなというのもあるんですが、この複雑な感覚が自分のすごい勉強になったことです。諦めたらだめだし、何をやっていたのだということでは悔いが残るし、だけどバックしてはいけないんだ、といろんなことを考えさせられて、1つの教訓を得たなと思っています。

 子どもとの関わり合いでは、本当に何が起こるか分からない。実は、その子が字が読めるようになった時期に、たくさんの子どもたちに出会っていたのです。1997年に1人のお子さんに出会ってから、私は目の前で字を書く少年たちに10数名出会ってきたんです(7)。その子どもたちの幾人かは1回から2回の関わり合いで書けるようになったお子さんたちだったので、実は学校の先生たち何やっているんだという思いもあったんです。この子はこんなに分かっているのに、どうしてこの子のことを分かってあげられないんだという思いもあったんですが、まわりまわって自分が15年間関わっていた子がそうだったんで、人のことは言えないなということがよくわかったんですね。その子の障害は、今まで出会った10何人かのお子さんより、いくぶん軽いんです。なぜなら、他のお子さんたちはほとんど1個のスイッチしか押せないのに2つの場所のスイッチが押せるわけですから。自分の深く反省することではあります。外へ向かうことの制限が子どもの可能性をどれぐらい見えなくさせているかということで、私たちは、本当にそういう子どもたちのことが分かっていないと思います。

 今日の午前中、松村先生と訪問したお子さんに出会ったときも、中途の障害の方で、親ばかに負けないぐらいの構えを僕たちは持っていなければ、いけないんだなと思いました。ちょっとでもそういう見方をやめた瞬間に、子どもはまた違う存在として、見えてきてしまうに違いない。信じていかないといけないということを思わされました。今日出会ったお母さんに関しては自分たちが親ばか以上に親ばかであればお母さんを支えることができるかと思ったんです。お母さんは何時もその狭間で悩んでいるはずで、むしろこっちであっけらかんと彼女が話ができると信じられる存在でいた方が、お母さんにとってどれぐらいいいかわからないんだなと、話しながらつくづく感じました。

 本当に、今まで付き合ってきた子どもたち全員に言えることなんですが、可能性をきちんと信じて付き合っていかないといけないんだなと思っています。違うと思えば引き返していけばいいんですけれど、引き返したことが後退することではないと思っています。今日、何回かこの間には越えがたい壁があるんですという言い方をしましたが、その手前のところに深い可能性の世界があるということが信じられるようになったのであえてそんな言い方をしました。ボールを穴に入れるようなところ、円と三角で同じ違うというところなどに、苦労する子どもがいるんだなというところです。

 20年ぐらい関わってもそういうところをなかなか越えなかったお子さんは何人もいるけれど、そのお子さんはその中で豊かな世界を展開しています。ある目標を定めてそこが越えられないから、事実に反する要求をその子にしていたということに気づいてもそんなに悲観することではなかったです。越えなくてもそこに歩むべき広い世界がある。そこをていねいにその子と歩んでいけばいいんだということが分かってきましたから、越えがたい世界があるという言い方をあえてしました。

〈質疑応答〉

質問:100までの長さのイメージとお金の計算のところをもう少し話してもらえますか。また、生活経験はどのように考えていけばいいですか。

答え:1から10くらいの数のところで起こっていることが、1の数が10ないし5のところでまとまるという話です。立体的なイメージで言うと、具体的な数としての1から10までの数に、5の塊や10の塊がくわわることで2階建てになる。100までの数はこれを3階建てにしなければいけなくて、1と10のまとまりのところで、1を見つつ10のまとまりも両方見ながら、しかも100をひとつのまとまりと見るということが僕の中にあって、2重のまとまりを作った100までのまとまりが見えるということが、お金までいくまでの話として必要だと思うのです。我々が数量の空間を100までは持っていて、それを自由に使いこなせるのでお金の計算ができるんじゃないかと思うのです。100円で98円の時に2円のお釣り、1000円で980円の時に20円のお釣りという時には、それが必要なのです。ただ、お金の計算に変わっていくときには 別の要因も絡んでいくので、物差しだけあったらいいというものではありません。圧縮のプロセスがお金というのは極端で、物差しだったら1が10に10が100にまとまっていく三階建て構造が見えているわけですが、お金というのは1が10集まっても硬貨1枚で、これを立体化するのに困難があって、逆に生活経験の中で実物で処理することを覚えます。喫茶店に行ったら千円札でジュースは百円玉でというように。お金の質的な区別をもとにしてとしてこのぐらいの世界で使うのは百円玉、ここでは千円札でというふうにしています。あくまで物差しというのは、お金が使えるようになる一条件だと思っています。

質問:物差しというのは基準ということで、タイルで1が10個で棒になって、10が十本で1枚の面になるというような構造が自由に組み合わせられたり分解できると考えていいんですか。百まで自由に処理できると、買い物の時に980円だったら98に置き換えて処理できるとか。

答え:別の形で言うと、お金の学習が逆にその基準を作っていくということも言えます。

質問:今の物差しの話なんですが、1が10個で十の束になって10の束が10本で百の面になってと指導していったんですが、面を作ってしまうと100から2を引くというような処理が大変で、直線上で処理できると数と直線を結びつけやすいというお話だったんでしょうか。

答え:まとめていくことが必要だということがその子に分かった上でということなんですが、タイルの方がていねいに一段ずつあがっていくわけです。まとまりを作るということでは、タイルの方がきちんとしています。物差しというのは、タイルのようにばらしたりまとめたりすることはむずかしくて、目盛りの色や太さでまとまりをつけたりしているわけですが、あくまでも1という単位、10のまとまりという単位、100というまとまりが同時に見えているわけです。だから、物差しだけだったら実は危険なんです。もし、自閉的と言われるような数量に関してすぐれた力を持つ人に、物差しだけで教えたら1だけで100個処理する危険性があるわけです。ある人に聞いたんですが3+72=と聞いたら、その子は3から72まで全部数えていったそうです。そういうお子さんに対しては塊をていねいにつくって上がっていかないといけないんです。19+2=のとき平面だとやりにくいというのがあるんですが、物差しだったら20の1個手前から2個進むというのでいけるんです。このイメージの時に20はまとまりとしてあるということが保証された上で、ということが条件なので、まとまりを納得していない子に物差しを教えるのは、逆によくないかもしれません。まとまりを作る学習がきちんとあるということが前提なんですが、その上で物差しのような数直線で、1が10個で十のまとまり、10が10で百のまとまりというのが一次元の中にあるというのも重要だと思っています。一度、直線上に直してあげ方が、まとまりの間の行き来がわかりやすくなるのかなと思っています。

質問:音楽とか模様とかがとっても好きで、棒差しやはめ板の棒や板をとるのはできるが 入れるのはできない。ネジの教材を非常に器用に回してとることもできる子で、力としては先生の区分で3−1から2はいけると思うんですが、なかなか教材には向かってくれない子でどのように関わったらいいでしょうか。

答え:その子はさっき言った、空中で何かを処理することに関して何かの不安定要因を 抱えているように聞こえるんです。抜くときには安心して抜けるわけです、力を加え続ければいいわけですから、その子は手を添えればやれる可能性はあるかもしれない。模様が好きというのは安定を求めているのは間違いないと思うのです。絵も好きだということは絵としての意味も感じ取っているんですが、その子の中で場面に対応した「がんばって」という言葉やそれだけの視覚の区別がある以上、その視覚の区別と言語が対応していないと考える方が不自然です。どこかで感じ取っていると思うんですが、空中での処理ができないということがあるかと思うんです。その子がチャイムを鳴らすたびに絵本をめくってみるとか、その子の運動の状態を1回簡単にできるようにしておいて、しかし、やっている内容は見る世界の複雑なことをやってみたりすると、何かあるかも知れません。

         模様が好きだったりするのは相当不安定な気持ちがあって、こだわりが強いと言われかねない部分があるんではないでしょうか。その子が安定を求めているということは分かるんですけれど、関わりかたを上手くやればわざわざ安定をつくるということはしなくても、今関わっていることが安定になればいいと思うんですが。

質問:模様をよく見るというのは安定を求めるということなんですか。

答え:暇な時間にそれを見て喜ぶというのは、安定の方にいっていると思うんです。最初に その模様を視覚的に取り出すときは興味からなんでしょうけれど、模様をジーッと見ていることに意味があるとするならば、今、この時間何もなくて何もないことが不安定なので、この時間を安定する意味のあることをしようとする。そんなに消極的ではないんですけれど子どもの気持ちとしては自傷と余り変わらない部分があると思います。自傷のように悪いというのではなくて、自傷もそのような意味があるということなんです。歌っているのと同じでリズムなんだと思います。気持ちの上では自傷や常同行動といわれるものと同じです。模様がもう少し上に行けばカレンダーになるんだと思います。

質問:タイルを使ったかけ算のことをもう少し話してください

答え:視覚障害と肢体不自由のあるお子さんで、タイルを平面に並べるのを一生懸命にやっているんです。これは答えを求めるんではなくて3×2という状態を作ったり、縦にタイルを3枚で横に2列でこの状態を何というかというふうにして、こういう経験がかけ算の基礎の認識の部分にはあるということは間違いないと思うんです。九九は確かに暗記の部分が大きいとは思うんですがどこかで数の量のイメージを支えに置いてあげないと丸暗記はできないんだなと思います。

質問:19と21の大きさの問題で19の方が大きいと言ってしまう、そこの大きさの問題というのは子どもたちはどういうところの問題で、この辺を乗り越えるにはどんな学習が必要なのかなと考えるんですが。

答え:19と21をその子がどう考えているかは、その子に聞かないと分からないんですが、位取りという言葉がありますけれども、位取りの位は位置という意味で19の1は左にあるのだけれども、1は10の塊が1という意味で、このことがその子にどう納得がいくかということが問題です。10という数字はすぐに読めるようになるんだけれども、10を十の位1個で一の位が0だとわかるのはものすごく難しいことです。そのことをその子にていねいに伝えていかないといけないというのは間違いないことだと思います。

         その時に思うのは、数は物の数だと言われているんですけれども、数が実物の数ではないものにスッとすり替わる境界があって、十の塊を1個と考えることがそこに入ってしまうんです。お金のことで言えば、十円玉は1個なのに10だという矛盾がそこにあるわけです。その子は今まで数というのは物の数だと思っていて、物の数は1個なのに10だという不条理な世界が入ってきて、すり替えが起こっているわけで、そのことをその子とどう納得し合っていくかが大問題です。それは小学校1年生の算数の時にみんな困ったり、乗り越えたりすることですが、1なのに十という変な話は相当ていねいにやらないと納得がいかない問題だと思っています。今までは10個は10個としてきたのに、急に10個を1個に置き換えてしまうとんでもないフィクションの世界で、10回やって何回か21の方が大きいと言えばその子は困っていて、10回ともその子が19の方が21よりも大きいと言えばその子は確信を持って19の方が大きいと考えているんだけら、その子の考えを知ることが大事だと思います。

         そのところは大学の教職課程の授業でやったんですけれど、有名な斎藤喜博という人がいて、笹子ちゃんというお子さんに72と67でどうして67の方が大きいのと言ったら、6と7を加えると13で7と2を加えると9だから67の方が大きいと応えた。笹子ちゃんは黒板に6の方は長い棒で6本描いて、7の方は短い棒で7本描いた。72は長い棒で7本描いて2は短い棒で2本描いたから同じ長さではないんです。ちゃんと十の位は長い棒で1の位は短い棒で描いているわけです。正解とされている子どもは72本同じ長さの棒を描いたそうなんです。で、クラスでみんなで話をして、みんなは笹子ちゃんの方がいいという話になったんです。何故なら、笹子ちゃんの方が簡単だからということになった。笹子ちゃんは確かに答えは間違っているかも知れないけれどもまとめるということができているので、笹子ちゃんの考えと72本書いた子の考えを足すと67と72の違いがよく分かるというすごい実践があって、それを大学の授業でやったことがあるんですけれど、そんな相手の世界が分かるということが小学校1年生でも大事なことで、普通は笹子ちゃんの答えは間違っているので笹子ちゃんのことを理解しようとしないと思うんですが、笹子ちゃんが何で67の方が大きいと言ったのかさかのぼったらその中にも正しさがあって、その正しさは他の子から見れば自分たちも笹子ちゃんの考え方を取り入れると自分たちももっとよくなるというすごい話だったので、今、ふと思い出しました。

付記

 この報告を録音テープから起こして下さったのは、杉並区立済美養護学校の松村緑治先生です。私の中でなかなか形になりきれずにいたものに、形を与えていただく機会を作っていただいた上に、大変面倒な作業までやっていただきました。心より感謝申しあげます。

(1)  これは、本紀要に掲載してきた以下の論稿をさす。「障害の重い子供の身体と世界」(1987)「体を起こした世界─その1.姿勢の諸相」(1989)「体を起こした世界─その2.感覚と運動の働き」(1990)「外界への働きかけの始まり」(1991)「感覚と運動の織りなす世界の始まり」(1992)「対象物の空間的な関係づけへの道程」(1993)「対象物の空間的な関係づけへの道程その2─終点の状態の確認と先取りの萌芽」(1994)「対象物の空間的な関係づけの成立─入れるという行為をめぐって─」(1999)を意味する。

(2)  中島昭美のもっとも基本的な考えは、重複障害教育研究所研究紀要第1巻第2号「人間行動の成りたち」(1977)に詳しい。

(3)  進一鷹は、「前起こしの姿勢」として整理している。(『重度・重複障害児の発達援助技法の開発』1996年、風間書房)

(4)  村瀬学は『子ども体験』(1981年、大和書房)の中で、こうした行動を「包の体験」として非常に興味深い考察を加えている。

(5)  村瀬学、『初期心的現象の世界』(1984年、大和書房)

(6)  宇佐川浩、『障害児の発達臨床とその課題』(1998年、学苑社)

(7)  拙稿「重度肢体不自由児・者における文字学習に関する一考察─パソコンによる自己表現の試み─」(日本教育心理学会第43回総会発表論文集)で、13名の学習の状況を簡単にまとめた。

 


図1.学習の水準1、および2における主体の働きと身体および外界の構成

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


図2.学習の水準3における主体の働きと身体および外界の構成

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


図3.学習の水準4における主体の働きと身体および外界の構成