重度・重複障害者のとらえた東日本大震災
柴田保之
Consideration about the Great East Japan Earthquake by People with
Profound and Multiple Disabilities
Shibata Yasuyuki
キーワード:東日本大震災 重度・重複障害 災害と障害者
2011年3月11日に起こった東日本大震災は、地震と津波、そしてそれに続く原発の事故によって多くの人命と人々の生活を奪い去った。そして、この出来事は、被災地の人々だけでなく、日本中の人々の心を激しく揺さぶった。
私は、通常言葉がないとされている障害が重く重複している人々の言葉をパソコン等の手段を用いて聞き取る活動を行っているが、この大震災の日以降、そのほとんどの人々がこの大震災についてその思いを様々に語り始めた。それは、決して私から尋ねたわけではなく、まったく自発的に語り出されたものだ。
そして、彼らの言葉は障害のある人間としての自分自身の体験とこの大震災とを重ね合わせるところから発せられた独特の思いをはらんだものだった。
残念ながら、今はまだ、私の用いる方法が広く承認されているものではないことや、障害の重い人たちがその見かけからはとうてい言語表現が可能であるとは見なされていないことから、彼らが言葉を語る力を秘めていること自体が世の中には受け入れられてはいない。だから、彼らの深い思いは私の周りの狭い世界に閉じ込められままだ。
本稿は震災以後,障害の重い人たちから発せられた様々な言葉を整理し、閉ざされた世界にささやかな通路を開いて彼らの言葉を世の中に届けるための試みの一つである。
関わり合いを行ったのは2011年3月16日から2012年1月5日までの期間の中の54日で、72人の方から104の文章を聞き取った(資料表1参照)。ここに登場する人々たちの障害は様々で、重度の肢体不自由と重い知的障害が重複しているとされる人々、知的障害が重いとされる人々(その中には自閉症と呼ばれる人も含まれる)、視覚障害と重い知的障害が重複しているとされる人々、そして、ある程度会話も可能だが、パソコンを通してより深い気持を語ることができる人々など、多様である。本稿では、あくまで語られた言葉の内容を問題にしたいので、障害や言葉を聞き取る方法等に関する議論については、別稿(柴田2011)を参照していただきたい。
なお、記述にあたっては同様の趣旨の文章であっても、できる限り紹介することを心がけた。一人一人の生の文章の襞の中に、たくさんの伝えるべきものがつまっていると考えられるからだ。また、パソコンを通じて引き出された言葉は、句読点のないひらがなの文章がほとんどだが、読みやすさを考慮して適宜漢字に改め、句読点を加えた。
プロローグ 最初の言葉
私が震災後初めて障害の重い方々に接したのは、地震から5日後の3月16日のことだった。この日私はかねてからの約束通り、S.OさんとH.S君の待つ小児科の病棟を訪問した。H.S君の愛用のラジオがいつもより大きな音量で震災関連のニュースを流し続けている中、計画停電の話があるとのことで、呼吸器等を緊急用の電源に付け替えられるようにするための準備などで看護師さんたちは慌ただしく立ち働いておられた。
高校生のS.Oさんは、冒頭から次のように記した。
いい季節になったと喜んでいたらこんな大変なことになってとても驚いています。なぜこんな悲しいことが起こるのかわからないけれど小さいときからどうして私には障害があるのかと考えてきたのでみんなよりはよく考えられるのかもしれないけれど全然わかりません。小さいときはよく神さまをうらんだりしたけれどじっと煩悩ということを考えて望みだけは失わないようにしてきたのだけど理解できないほどのできごとでした。(…)小さいときからの疑問でしたがようやく答えが見えそうだったのにまたわからなくなりました。人間というのはむずかしい存在ですね。
この大震災が呼び起こした「なぜこんな残酷なことが起こるのか?」という問いは私たちと共通だったが、この悲惨なできごとを自分たちの障害と重ね合わせていたのは驚きだった。この少女の言葉を皮切りに語り出された障害の重い方々の文章に共通なのは、この大震災の理由の問いかけと、大震災と自らの障害との重ね合わせだった。だが、この時はまだ、誰もが異口同音に震災について自分の障害と重ね合わせながら語るなどとは思いもよらないことだった。
いずれにせよS.Oさんの言葉によって初めて私はこの悲惨な災害と障害との接点と、それゆえに震災に寄せる思いが深いことに気付かされた。Sさんは、神をうらむところから始まり、うらむ心の根底にある様々な欲望を凝視し、そうした欲望を抱く心を煩悩に満ちたものと見通す透徹したまなざしを得ることによって、初めて人生に対する希望というものを手にすることができた。しかし、そうした自分の長い思索の過程を経て到達した境地からしても、今度の大震災は理解ができないということと、この大震災は、そうやってたどりついた自分の思索をもう一度根本からひっくり返してしまうかもしれないという不安を語ろうとしたのだった。
そして、隣のベッドの小学生H.S君もまた、次のように語り始めた。
生き死にということを考えました。なぜこんなことが起こるのかよくわからないけれど何千人もの人が亡くなったのがとてもわかりません。人生を途中で断たたれてしまって。よくわからないけど目的というのが本当に持てなくなりそうです。なぜ僕が生きているのか、なぜ私たちの苦しみがあるのかなど、わからなくなりそうですが、理想は理想としていいこんなわかり方があるかぎり目的を大切に生きていきたいです。理解できない悲しみにもきっと意味があるのでしょうね。わかるのはむずかしいかもしれないけれどどうにかして僕も生きる意味を見つけたいです。
使われている言葉は違っていても、S.Oさんの思いと共通だ。生まれてからずっと病院のベッドで暮らし続けてきたH.S君は、懸命に生きる意味を問い続けてきて、自分なりの生きる目的を見いだしてきたのに、このあまりに悲しいできごとが生きる目的を見失わせかけてしまったが、この大きな悲しみにもきっと意味があるはずだと問い直すことによって自分の生きる意味が決して失われることはないはずだと不安を晴らすように自らに言い聞かせている。
S.OさんもH.S君も、文章の後半は被災地の人のこれからに及ぶ。
びろうどの未来が被災者にも訪れることがゆいつの願いですがどうなっていくのかとても心配です。みんなずっと人生を投げ出さなければいいなと思います。
このS.Oさんの言葉は、被災地の人々が絶望することなく、「びろうどの未来」をささやかに願うものだった。一方、H.S君の言葉は力強さを秘めていた。
わずかな希望さえあれば人間は生きていけるということを僕たちがどこまでも証明してきたのでみんながんばってほしいです。私たちの仲間のことがとても心配です。願いはもっと私たちの仲間のこともニュースで伝えてほしいです。(…)僕たちのことと同じですね。僕たちもいろいろな人に支えられているので、ごらんなさい僕たちのことをと言いたいです。そうですね。未来のみんなの幸せはそこから始まるということですね。どうにもならない苦しさも勇気を出せば乗り越えられるということがわかりましたからだれでも人間は同じだと思います。
「わずかな希望さえあれば人間は生きていける」という言葉は、その後多くの人が使った言葉だが、命の危機とたえず向かい合い続けてきたH.S君は、この言葉を身を持って証明してきたという。そして、自分たちが支えられているから生きているということを体現してきているのだと力強く語り、それこそが希望の原理だと言っているのだ。
今振り返ると、3月16日の時点で、この二人の言葉を通してすでに語られるべきことの骨格が示されていたといえる。
こうして語られ始めた東日本大震災に寄せる多くの人々の思いは、一人一人個性的なものではあったが、思いのほか、共通性を持っていた。そこで、その共通のテーマごとに整理して、述べていきたいと思う。
1.なぜという問い
プロローグの二人も問いかけていたことだが、なぜこんな悲しいことが起こったのかという問いは、多くの人に共通だった。まず、震災直後のひと月の間に発せられたいくつかの言葉を紹介する。
どうして私たちだけでなくあんなにたくさんの人が亡くなったのか。小さい子どもまで亡くなったなんて人生をまだ全然楽しんでもいないのにどうしてなのかわからないけれど何か意味があるのではないかと思っていますがなかなかよくわかりません。(M.M 3月20日)
いちばんぐったりするのはたくさんの人が亡くなったことです。みんなそれぞれ若い人も年老いた人も来世を信じているならまだ救いもあるけれど人間なんてなんと人生を茫然と見つめるしかない存在なのかと思い知らされるできごとでした。理解を超えたできごとにただただ茫然としているだけですが、私たちはどうにもならないことには慣れてはいるので世間の人たちよりも人間の無力さはわかっているつもりです。(M.E 3月29日)
日本が地震で大変なことになってしまった。大きな地震と津波でたくさんの人が亡くなったのでとても悲しいです。なぜあんなにたくさんの人が亡くなったのかわからなくて毎日悩んでいます。人間だからみんな自分だけでなく他の人のことも考えていると思うのでみんな混乱しています。僕も唯一の希望がなくなりそうな気がしています。人間に生きる意味がないと僕たちはどうしたらいいかわからなくなるからです。勇気を出そうにもなかなか感情がこみ上げてきません。小さな子どもまで亡くなって人間としてどう自分はとらえたらいいのかわからなくなります。(S.U 4月9日)
震災から5ヶ月あまり経って、T.Sさんはたくさんの俳句を作って私を待っていたが、その中に、この問いを端的に表現したいくつかの作品があった。
なぜと問う答えはなくて無垢な夜
長き夜をなぜと問いつつふける闇
まだ波は黙ったままで答えなし
茫然と立ち尽くす浜ずきずきと(T.S 8月17日)
おそらく、意志を持った超越的な存在を仮定しない限り、このなぜという問いに答えが出ることはない。それはよくよく承知の上で、あまりにも悲惨なできごとに対する不可解さを「なぜ」というかたちで問いかけているのだろう。そして、小さい子どもまで亡くなったことやばらばらになった家族のことなどへの思いがその不可解さをいっそう深いものとしている。
ふだんの平穏な社会で大切にされたり、善とされてきたものがやすやすと否定されてしまい、これまでの社会を支えてきた価値の体系がすべて崩れ去ったように思われたのである。だから、茫然という言葉が頻出した。
ただ、改めて後述するが、こうした事実を見つめるまなざしは、障害という状況をくぐりぬけた彼らには独特のものとなっている。それは、すでに自らの障害をめぐって社会の価値の体系については、十分に考え抜いてきたからだ。だから彼らは決して私たちのようにこうした不慮のできごとに対して無防備だったわけではない。十分にそうした問題については考えてきたにもかかわらず、それでもなおなぜと問わねばならなかったということなのである。
ところで、なぜという問いをいっそう深くしたできごとに、誰かを助けようとして多くの人が亡くなったということがある。いざとなったら一人一人が自分の命を守るしかないという意味の「つなみてんでんこ」という言葉が何度も語られたが、それにもかかわらず、ある人は身内を守ろうとし、また、ある人は施設の職員として利用者を守ろうとし、ある人は、消防団員として住民を守ろうとして命を失った。
僕はとても悲しんでいることがあります。日本中が悲しんでいることですがなぜたくさんの人が亡くならなければならなかったのでしょうか。ばらばらになった家族や逃げるときに人を助けようとした人が亡くなったりしてあまりにも理不尽な仕打ちだと思いますがどう考えても答えは出てきません。(T.S 4月11日)
なぜかはわからないけれどなかなか忘れられないのは他の人を助けようとして亡くなった人のことです。なぜそんなことをどうしてそんなことがと考えてみても全く答えが見つかりません。(G.F 4月25日)
理想を見失いそうですが忘れられないのは人を助けようとして亡くなった人のことです。理解できないのは理想を大事にしている人が亡くなったことです。未来の日本はそういう人を大事にできることが肝心だと思うのですがどうしてそういう人まで亡くなるのかが理解できません。(H.S 4月25日)
敏感に感じる人は誰でも悩んだことでしょう。ばらばらになってしまった親子や人を助けようとして亡くなってしまった人のことを思うと悲しくてたまりません。(T.T 8月19日)
自分の命を捨てて他者の命を守るほど大きな愛はないと言われることがあるが、まさに、そのような行為がたくさん生まれ、本当に多くの人が誰かのために自分の命を失ってしまった。そうした崇高な愛とも言える行為がいとも簡単に踏みにじられてしまうというあまりにも救いのない不条理なできごとに、すべての理想の崩壊をいっそう意味するように感じられたということなのである。そして、その背景に、重い障害という条件の中で生きる自分たちの命は、どこかで誰かの献身的な努力によって支えられているという思いが存在しており、それが、自分自身の存在へのより深い懐疑へとつながったはずである。
2.災害と障害の共通性
この大災害と障害との間に共通性があるとの認識はプロローグの少年も有したものだが、もっとそのことをストレートに語った方も少なくない。その共通性とは、障害も災害も自然がもたらしたものであり、そこに理由はないというところである。それは、「理不尽」、「なろうとしてなったわけではない」「理由のわからないもの」「残酷な自然のせい」などという言葉で表現されていた。
私たちも理不尽な障害に苦しんでいるけれどもっともっと理不尽なできごとでした。私たちはまるで津波のあとに取り残されたようなものです。なかなか救いの手が伸びてきません。どうしてなのかわからないけれど私たちも救いの手を待っています。じっとしているだけしかできないけれど早く救われたいです。(Y.M 3月20日)
僕たちも災害で孤立したような存在だから何とかして世の中に認めさせたいです。なろうとしてなったわけではないけれど僕たちはその状況をしっかり引き受けながら生きていますから被災者の人にもぜひ状況を引き受けてがんばってほしいです。(S.M 3月30日)
私たちの障害も理不尽ですがもっともっと理不尽でした。(M.T 4月5日)
僕たちはいつも理不尽な苦しみをかかえているけれど、みんなも同じ理不尽な苦しみをかかえてしまうのがとてもつらいです。(Y.I 4月9日)
僕たちのような障害者はわかってもらえない苦しみからのがれられないので勇気が必要なのですがそれが被災した人たちの置かれた状況と相通じるところだと思います。(K.F 4月9日)
私たちは私たちを表現することにも困難を抱えているので勇気を出さないと生きていけませんがそれは被災地の人の置かれた状況と同じです。私たちのことなど誰も振り返らないけれど私たちもまた被災者のようなものなのかもしれません。(N.I 4月25日)
理解されない苦しみと被災地の人の苦しみは似ているところがあります。どちらも大変ですが何でという理由はないところが似ています。(S.E 7月28日)
日付からわかるように、これらは震災の直後から多くの人たちに宿った認識だった。最初に「理不尽」という言葉に出会ったのは3月20日だったが、その時の衝撃は忘れられない。プロローグの少年や少女がふれた認識が、この言葉でくっきりと明らかになった。
そして、「理不尽な」障害と向かい合ってきた彼らは、ただその理不尽さの前にただずんでいたわけではない。これまで、一人一人自らを襲った理不尽な障害について、折に触れて考え抜いてきたのである。しかも、そのことをほとんど誰にも知られることもなく自分自身と孤独に向き合うことによって。
だが、この大震災は、理不尽さにおいて共通ではあっても、自らが向かい合ってきた障害よりもはるかに大きい理不尽さであるとも感じられた。だから、人によっては、これまでの自分の認識では歯が立たないと感じる人もあり、すでに述べてきた「なぜ」という問いは、そこから改めて発せられた問いであった。そして、それでもなお、「なぜ」という問いを越えて、自分たちの障害の苦しみや悲しみの意味、あるいは生きている意味が被災地の人々にとって何か示唆を与えられることがあるのではないかと思いを進める。
僕たちは理解されないことでたいへんな悲しみを感じてきたので今度のことはとてもよくわかります。(M.Hさん 3月29日)
私たちには私たちの悲しみがあってそれをみんなの悲しみに重ね合わせればよくその意味がわかります。(R.I 3月31日)
わずかな希望は私たちのような障害のある人間だけは苦しみの意味を知っているのでその経験が何かの支えになればと思います。日本のろうそくになれたらなどと大きなことも考えました。わずかなあかりでも何かの役に立てたらと思いました。私の言いたかったことは以上です。(K.I 4月10 日)
びっくりしたのはそれでもみんなが希望を失わなかったことです。なぜそんなに人間は強いのだろうとよくよく考えているうちに私の障害と同じだということに気づきました。不思議でしたが私たちも障害があるのに生きていけるのだから被災地の人も生きていけるのだなと思いました。(H.N 4月23日)
僕たちのようにみんなから理解されなかった人間はその苦しみを理解できるのですが、地域の人たちはもう少しでわずかなずんずんとこみ上げてくる悲しみを耐えることのやり方を知らないと教えてあげたいです。悩みは乗り越えられるということを僕たちは知っていますから。絶対に悩みは消えていくということを知っているのでわかってほしいです。(E.M 4月29日)
それは僕たちの苦しみにも意味があるように被災者の苦しみにも意味があるということです。私たちの苦しみの意味はなかなか伝えられないけれど私たちはもっと世の中に私たちの生きている意味を伝えなければなりません。なかなかわかってもらえないけれど理想はもっと私たちの言葉を届けて世の中の人にもっと私たちの悶々とした思いを伝えていくことです。私たちの悶々とした思いは理想をなかなかかなえられないことですが私たちをもっと輝かせなければいけません。(Y.K 4月30日)
私たちはいつも伝えられない苦しさを感じているので被災地の人たちの悲しさがよくわかりますから地震のことは頭から離れません。小さい時からよく悲しい出来事があると一緒に悲しんでいました。(H.O 5月1日)
私たちは障害があることでとても苦しんできたのでよく苦しみのいやなことがわかるけれど私たちはどうにもならない悲しみもいつかはだんだん静まっていくことを知っているけれど被災地の人たちはどうにもならない悲しみと戦っていて大変ですから何とかしてあげたいです。(O.H 6月7日)
規模の大きさにおいて異なるとはいえ、その理不尽さにおいて共通なものと感じられた大震災と障害であるから、自分たちが理不尽な障害に向き合って見出してきたことのいくばくかは、被災地の人々に役立つことがあるかもしれないという思いがひしひしと伝わってくる言葉の数々である。
3.わずかな希望さえあれば人は生きてゆける
こうした大震災と自らの障害とを重ね合わせながら深い熟考を進めていく中で、「理想」や「希望」、「未来」という言葉がそこから選び出されてきた。特に、頻出したのは「希望」であるが、それは、わずかな希望さえあれば人は生きてゆけるということを、自分たちは自らの障害を通して見出してきたということであり、だから、その希望の原理は、必ずや被災地の人々にとってもあてはまるだろうという認識だった。
まず、3月中にこのことにふれられた次の2つの文章がある。
わずかな希望は私たちと同じでろうそくのあかりが何とか輝いていることです。勇気がほしいのも同じです。(Y.M 3月20日)
わかってくれなくてもしかたないとあきらめている仲間もたくさんいるので未来を切り開くためにはあきらめないことが大切だということがわかっています。わざわざみんなに届けることはむずかしいですがなるべくあきらめないようにしてほしいです。よい未来が被災地にも訪れることを望んでいますが長い時間がかかりそうですね。わかってもらうのに長い時間がかかるのと同じです。(Y.U 3月31日)
いまだ、この大震災の意味は見えない中で、被災地の人々の状況に思いをはせて、「ろうそくの光が輝いていること」「勇気がほしい」こと、「あきらめないことが大切」というような、自分たちが障害という状況の中で見出してきた知恵が語られている。
そして、次のM.EさんとR.Iさんの文章は、その知恵をとりわけ詳細に綴ったものだ。
理解を超えたできごとにただただ茫然としているだけですが、私たちはどうにもならないことには慣れてはいるので世間の人たちよりも人間の無力さはわかっているつもりです。私たちの私たちらしさは地震の前にはもろいものですが、私たちを何とかして理解してもらうためにはまだここでくじけてしまうわけにはいきませんが、私らしく生きていくためには私たちの私たちらしさをまたわずかな希望とともに語らなければなりません。
小さなものかもしれませんが私たちのような存在はこの悲しみを乗り越えていくための何かヒントになるのではないかと思います。ランプのあかりが消えそうでもじっと忍耐していけば必ず光はさしてくるということです。何もできないけれどこういう考えもあるということを今日は伝えたかったです。ぽおんと何かをほおったときに乱れた空気が生まれても必ずまた静けさが訪れるということを信じています。ぞっとするくらい恐ろしいことでも必ず終わりがあることを私はよく知っているので茫然とする日々にも必ず終わりがあることをじっと待ち続けたいと思います。涙はいつかかわくこともずっと経験してきたのでよくわかります。(M.E 3月29日)
わずかな希望でもあればまた未来は開けてきますが涙はすぐにはかわきませんでした。そのことはきっと同じだとおもいます。涙はかわこうとしてかわくものではないので時間がかかります。涙は時間がかかるけれど希望はすぐにものにすることができます。人間はそういう風にできているのだと思いますがなぜ様子がわからないうちに悲しさだけは湧いてきたのでしょうか。それはどうしてかはわからないけれど人間は悲しみにはとても敏感なのだと思います。敏感なのは希望に対してもです。すぐに希望がとんでもない苦しみの中にあっても茫然とした人間を我に返らせまたつらいことを乗り越えて茫然としたところから立ち上がる勇気を与えてくれます。そしてそこからまた歩き出そうとするものです。人間はそんな風に希望と悲しみの間で生きているということを僕たちはいやというほど味わってきました。人間はまるで風の前の塵のようなものですが僕にとってはかけがえのない存在なのでわずかの希望でもあれば生きていけるということを信じています。(R.I 3月31日)
M.Eさんは、この文章を綴った後、7月に他界した。呼吸困難によるものだったとうかがったが、それは、呼吸をするというもっとも基本的な生の営みの中でさえ、彼女が日夜死と向き合ってきたことを意味しており、これまでも訪れた幾度とない危機を乗り越えることによってたどりついた一つの結論がここに語られているということを意味する。
なお、M.Eさんは、この文章に続けて「よい願い」と題する詩も書いた。
犠牲になった私の友よ
理解されずに未来は閉ざされ
私はいつか私らしさをなくしかけた
だけどわずかな希望があるかぎり
私は私を輝かせるために
わずかなあかりを頼りにしながら
遠い未来に歩き出す
忘れたいのちを捨てないで呼んでみよう
きっと呼びかけに応えていのちは応えてくれるはず
人間ははかない存在だけど
必ず小さな未来をもって人間の限界を越えていくはず
勇気さえあればどんな冒険でもできるだろう
自分の力の届くところのその向こう側には
どうしても行けないかもしれないけれど
私たちはあきらめない
私たちを自由ないのちとか有限ないのちとか考えるのではなく
来世の冒険に逃げることなく
いま与えられた現実から一歩でも歩み出すための
静かな昔と同じようにゆっくりとでいいから
しっかりと道を切り拓きながら進んでいこう
若い時代は長くはないが無難な道を歩くのではなく
道なき道を歩んでいこう
もう少しで光は射してくるはずだから(M.E 3月29日)
彼女が直接語りかけているのは、被災地の犠牲者ではなく、亡くなった友だちである。「犠牲」という言葉は障害の重い仲間の死に際して使われることがある表現だ。運命に弄ばれるように亡くなっていく仲間たちのことが他人事に思えず、いつ自分にその順番が回ってきてもおかしくないという認識を通して、先に亡くなった仲間が犠牲になってくれたおかげで自分たちは生きていられるという感覚が生まれるところから使われる表現だと考えられるが、その犠牲という言葉を媒介にしてこの詩はそのまま東日本大震災の犠牲者の話へとつながっているのである。
また、こうした希望の意味について、以下のようにいっそう明快な語り口も見られるようになった。まず、4月23日のA.Kさんの文章を見てみたい。
僕には体に障害があるのでわずかな希望さえあればずっと忍耐できるということがわかっているので勇気をまたもらいました。もう少しの辛抱だと思います。武器は勇気です。人間強い生き物だということを僕たちが一番力強く証明していますから。(…)わずかな希望さえあれば人は生きてゆけると言ってテレビで訴えたいです。仲間はみんな同じ気持ちだと思いますが確かに語り口が違うのかもしれませんね。そうです。僕たちは望んで障害を持ったわけではないからよくわかります。ご覧なさい僕たちをと言いたいです。僕たちも生きていられるのだからみんな大丈夫だといいです。(A.K 4月23日)
「テレビで訴えたい」というのは、この当時、ふだんのCMの代わりに、震災をめぐる様々なメッセージが流されていたりしたことを踏まえての発言であるが、「わずかな希望さえあれば人は生きてゆける」という言葉は、まさにこの大きな災害に対して自分たちの経験から言うことのできるものとして簡潔にまとめられた言葉だったと言えるだろう。彼らは重い障害ゆえに、この大きな災害を前にして目に見えてできることは何もないけれども、自分たちだからこそ伝えられることがあるという強い思いがそこには表れていた。
ところで、この希望をめぐる思いは、母親が被災地の出身で祖母も被災したK.Kさんによって次のように語られた。
僕の母は陸前高田出身で、祖母は被災し、二晩を高寿園で過ごしました。僕は高田で生まれ、松原やマイヤで遊んでいました。高田の道が瓦礫になってしまったのですが、見覚えがありました。行ったことがあると感じたら、その瓦礫の中に僕が立っていました。そしてその立っている場所から風景が見えました。じいちゃんの家、港のところに市場があるのも見えました。
とうさんとかあさんが白無垢を着て袴をはいて並んでとった写真も
僕が子供のとき弾いたというピアノも一瞬で流された
なーんにもなくなってしまったけど母の手がここにあった
うすい毛布一枚かけて手を握り合った
この手さえあれば生きていけると思った
潮風を受けながらカモメと働くおばさんも
こたつにあたりながらワイドショーを見ているじいちゃんも
一瞬でさらわれた
残された僕らは瓦礫の中に取り残された
けれど僕らは生きている
死んでもよかったと泣き叫ぶ
それでも生きていかなくっちゃいけないから
泣きながら振り返りながら生きていく(K.K 3月31日)
さらに、以下、希望さえあれば人間は生きてゆけるという認識を表現した人たちの言葉を紹介する。
理想はわずかな希望を持ちさえすれば人間は生きていけるということです。なぜなのかはわからないけれどもう少しで生きる意味がわからなくなるところでした。なぜかはわからないけれど理想をなくしてしまいそうでした。未来をなくしてしまいそうでしたが未来を信じて頑張ろうと思います。(F.K 4月9日)
唯一の救いは私たちにも希望があるように被災地の人たちにも希望があるということです。みんな何もかもなくしてもまだ希望があるということが救いです。未来を切り開きたいので私たちはもっと大きな声で本当のことが言いたいです。私たちのような存在でも未来があるようにどんな状況にあっても人は希望を失わないということです。(M.N 4月10日)
わずかなわずかな希望だけどそういうものがあれば人は生きていけるということも僕たちは知っています。長い障害との闘いの中で見いだしたことです。人間の生きる意味をいつも考えているので今度の出来事には本当に考えさせられました。(T.S 4月11日)
唯一の希望は私たちのような余分な存在でも何とか希望があれば生きていけるように私たちは人間だからずっとわずかばかりの希望さえあれば生きていけるのです。人間としてそういう光を信じて生きていくことが唯一の救いだと思いますから光を大切にしたいです。わずかな光と光さえ失わなければきっと雪のような白くて清らかな未来が開けてくるでしょう。深い闇が日本中を覆っているけれど深い闇もよい光で満たされる日が来るでしょう。名前さえない残された私たちは私たちにしかわからない苦しみを背負ってきたので私たちらしくこの苦しみの意味を伝えられたらと思います。(Y.O 4月23日)
私はなかなか気持ちが言えなくて苦労してきたので苦しみについてたくさん考えてきましたがよくわからなくなってしまいましたがまるで私たちも津波の被害者のようなものなので私たちも希望を大切に生きていこうと気づきました。(A.K 4月30日)
わずかの希望さえあれば人は生きてゆけるということが証明されました。わずかの希望であっても私たちが生きてゆけたように元気になった人の笑顔がとても救いです。わずかの希望があれば人は生きてゆけるので悩みや苦しみがあっても人は生きられるのですね。みんなの気持ちを聞いてみたいです。みんなの文章が見たいです。(R.I 4月30日)
わずかな希望でもあれば人は立ち上がることができると思うので何とかなるというそういう気持を取り戻したいです。(M.N 5月15日)
僕はずっと悩んでいますがびっくりしたのはわずかな希望さえあれば人は生きていけるということです。理解を超えた出来事にもう少しで希望をなくしてしまいそうでした。(S.K 5月23日)
みんな悩みながらも希望を持ち続けようとしているので私たちも希望を持ち続けようと思います。私たちはわずかな希望がありさえすれば生きていけるのでようやく被災地の人たちも希望を取り戻すことができそうです。(Y.M 6月5日)
去る三月十一日の地震と津波では何万人もの人が亡くなって心配しましたがみんなわずかでも希望があれば生きてゆけると思うので理解できない悲しみも理解できない苦しみもみんな超えていけると信じています。僕たちは障害を持っているのでみんな普段からそういう悲しみや苦しみを見つめてきたので人間の生きる意味についてよく考えてきました。だから僕たちにはよくわかりましたがなかなか世の中の人には理解できないかもしれません。でも僕たちは勇気を出して生きていきたいと思います。(H.H 7月30日)
私は地震と津波が起こってからとても悲しくて私のような存在でも存分に未来を語れるのに私たちを越える悲しみにうちひしがれているのを見てとてもつらかったですが私たちでも希望をなくさなかったように被災地の人たちも希望を失わずに立ち上がることができたので安心しました。わずかな希望さえあれば人間は生きていけるので私たちも頑張って生きていきたいです。私たちは勇気を持っていないとすぐにめげてしまうので被災地の人にも勇気を持ち続けてもらいたいです。わかってもらえない苦しみと地震や津波の苦しみは同じではないけれどわかってもらえない苦しみも地震や津波の苦しみもどちらも理不尽さは同じなのでわずかな希望がとても大事だということはわかりますから希望を大事にしてほしいです。未来が被災地にも明るく開けてゆくことを心から祈っています。(A.I 8月17日)
地震と津波は僕たちの障害と似てどうにも訳もわからない残酷なものですが、僕たちも希望をなくさずに頑張っているのでみんなも希望をなくさないで頑張ってほしいです。(T.T 8月22日)
4.救い
障害の重い人たちの多くが、大震災と自分たちの障害の経験と重ね合わせることの中から、希望さえあれば人は生きてゆけるという一つの原理を見出してきたことを述べてきたが、最初は悲惨なことばかりであった現実の中に日を追う事に少しずつ救いと呼べるできごとも見えてくるようになった。ここでは、どのような事実が障害の重い人たちの心に救いをもたらしたかを見ていきたいと思う。
まず、最初の救いをもたらしたできごとに関わるものとして、3月から5月の初めにかけて語られた3つの言葉を、取り上げたい。
勇気づけられるのは全国の人たちが沈痛な思いを共有して祈りを捧げていることです。自分のことばかり普段は考えていても人間はいざとなるとすごいと思いました。(S.E 3月30日)
わずかな希望は地震のあとろうそくのあかりをともそうとして日本中の人がわざわざよい心をたくさん被災地の人々に寄せようとしていることです。勇気づけられる人もたくさんいると思いますが勇気だけでは悲しみは乗り越えられないと思うのでつらいです。(Y.U 3月31日)
いつのまにか理想が消えてしまかわいそうでしたが世の中の人がみんな黙ってなくて被災地のことを考えていい言葉をたくさん伝えようとしていてそれが理想を取り戻させてくれました。人間の理想をもう一度取り戻せてろうそくにまた明かりがともりました。(H.O 5月1日)
最初に救いをもたらしたものは、日本中の人が「祈りを捧げ」たり「よい心をたくさん被災地の人々に寄せようとし」たり「いい言葉をたくさん伝えようとして」いたりする姿だった。まだ、具体的な行動としては現れてはいないが、このあまりにも大きな悲しみを前に、まず、人々が心を懸命に砕いたということが最初の救いとなったのである。
そんな中、少しずつ、救いにつながる具体的な事実が生み出されてきた。それは、一つは、大きな悲しみや困難の中から被災地の人々が何とか立ち上がろうとする姿だった。それが最初に語られたのは、震災からようやくひと月が過ぎようとする4月5日である。
だんだん人々が立ち上がっていく姿に私も勇気づけられています。(M.T 4月5日)
唯一の救いは理想を失わずにみんながもう一度立ち上がろうとしていることです。私たちは自分たちに障害が体にあって苦労してきたのでなぜ人は苦しまなければならないかよくわかっていたつもりでしたがまた理解できなくなりそうでしたが、まだまだみんな頑張っているのでろうそくの明かりは何とか消えなくてすんでいます。(N.H 4月23日)
唯一の救いはわずかであっても人々がもう一度立ち上がろうとしていることです。人間はすごいなと思いました。もう少しで生きる希望をなくしてしまうところでしたからわずかな希望が見つかってよかったです。(A.K 4月23日)
地震でたくさんの人たちが亡くなったことがとても悲しくてなぜそんなことが起こったのかと考えているうちに頑張る気持ちがなくなりそうになってしまいそうでしたが、勇気が出たのはわずかな希望でも人々が立ち上がることができるという事実を目にしたからです。人間はどうしてそんなに強いのかと大変不思議な気持ちになりましたが僕たちのことを考えると僕たちの障害も理不尽なものだけど小さい希望さえあれば生きていけるのは同じだということに気付きました。わずかな隙間を縫うようにして光が射すのは未来のことです。被災地の人がみんなで力を合わせていい空の下でどんな世界を作るのかとても楽しみです。(G.F 4月25日)
でも泣きながらでも地震と津波から立ち上がろうとする人を見ていたらわずかな希望を感じました。どんなにつらくても人間は生きる希望を失わないことが唯一の救いでした。
なぜなのかわからなくても唯一の望みは勇気を人が失わないことです。なぜなのかはわからなくても勇気さえあれば人は生きていくことができますから。まことの勇気さえあればわずかな希望さえあれば生きていけますから。(H.S 4月25日)
どうしてなのかわからなかったけど唯一の救いは人々が涙を越えて立ち上がろうとしていることです。(E.M 4月29日)
地震の後どうしてこんなに悲しいことが起こるのかと思ってきたけれどばらばらになった家族がまた一つになったり茫然としていた人がまた元気になったり私たちのように絶望から立ち上がるのを見てまた希望が湧いてきました。わずかの希望さえあれば人は生きてゆけるということが証明されました。わずかの希望であっても私たちが生きてゆけたように元気になった人の笑顔がとても救いです。わずかの希望があれば人は生きてゆけるので悩みや苦しみがあっても人は生きられるのですね。地震のいいところが生まれたような気がします。みんなはまた立ち上がれるということがわかりました。聞いてよかったです。理想をまた取り戻せそうです。日本の残酷な災害がまた平和への少しずつの望みとして私たちにも歴史は刻まれていくのですね。瑠璃色の光が射してきました。地震を乗り越えるためにがんばれそうです。理想を再び取り戻して生きていけそうです。理想はなかなかかなわないけれどいつかかなうと期待しながら生きていきたいと思います。悩みはなくなることはないけれど悩みを乗り越えてゆかなくては未来は開けないということがよくわかりました。(R.I 4月30日)
なぜなんだろうと私なりに考えてみましたがとても難しくてわかりませんが唯一の希望はみんながまた希望を胸にして立ち上がったことです。私はなかなか気持ちが言えなくて苦労してきたので苦しみについてたくさん考えてきましたがよくわからなくなってしまいましたがまるで私たちも津波の被害者のようなものなので私たちも希望を大切に生きていこうと気づきました。(A.K 4月30日)
よい心の人が亡くなったり、何もわからない子どもが亡くなったことがとても悲しかったです。でもたくさんの人々が被災地の人に涙し、みんなで助け合って立ち上がろうとする姿に勇気づけられました。勇気こそが大事だということがよくわかりました。希望さえあれば人は生きてゆけることがわかりました。理想がないと僕たちは生きてゆけないので理想をもう一度取りもどしたいです。ようやく半年が過ぎて人々が立ち上がる姿にとても感動しました。理解されない僕たちも絶対にいつか立ち上がれる日が来ると思うので何とかして僕たちの声を届けたいです。(K.T 9月18日)
わかったことは若い人間だけではなく若いのではない老人にもどうにかして立ち上がろうとする感じがみなぎってみんなが立ち上がったことです。理想はみんなが早くよい生活を取り戻せることですがもう少し時間がかかりそうですね。そういう日が来ることが待ち遠しいです。(N.K 9月18日)
さらに、5月の中旬になると、救いとなる事実が新たにつけ加わってくる。それは、具体的に全国から被災地に届けられる支援や被災地に向かう人々の姿だった。
もう少しで私も生きる希望をなくしてしまいそうでしたがろうそくの灯りがともったのは全国から支援が届いて被災地の人達も何とか望みをつなぐことができているからです。みんなもどうにかしてもう一度希望を取り戻そうとしていると思うので私もまた元気に未来を願うのを日常にしたいです。わずかな希望でもあれば人は立ち上がることができると思うので何とかなるというそういう気持を取り戻したいです。(M.N 5月15日)
勇気をなくして悩んでいる人たちのことが人間としてとても気にかかっていましたが少しずつみんな勇気を取り戻せてよかったです。みんなのことがとても心配でしたがどうしても未来をもう一度取り戻してもらいたかったですからよかったです。唯一の救いは日本中の人々が団結して東北の人々を応援していることです。(H.T 5月23日)
びっくりしたのは人々が理想をけして失わずにまた立ち上がったことです。敏感な僕たちにはもうどうしようもない出来事のように感じられましたがなんとか理想を取り戻せたということが驚きでした。みんなきっともう終わりだと感じたと思うのですがちゃんと立ち上がれたのはどんな状況でも人は支え合えるということだということがわかったからだと思います。地域の支え合いだけでなく全国の人々が支え合っているということがわかって人々は立ち上がれたのだと思います。人間のすばらしさを思い知ることができてよかったです。地域の支え合いが僕たちにも必要です。地震から茫然としていたけれどなかなか茫然としたところを抜け出せなかったけれど何とか抜け出せそうです。(S.K 5月23日)
なぜ人は生きるのかとか。人のためになぜ生きるのかとかわからなくなりそうでしたがようやくまた理想を取り戻せました。それはよい心の人たちがたくさん出てきたからです。よい人たちはみんな希望を語ります。まるで悩みが消えたわけではないけれどもう少し頑張れば希望が見えるということがわかりました。なぜ人はもっと優しくなれないのかとずっと悩んできたけれどもろもろの困難こそが人を優しくするということがよくわかりましたから困難というものの持つ意味がよくわかりました。(K.K 5月28日)
人間としてのどうにもならない気持ちを何とかして静めてあげたいけれどなかなか難しいです。でも地域の支え合いや遠くからかけつけた人たちの行為でみんな何とか希望を取り戻しつつあることが救いです。(H.O 6月7日)
救いになったのは人々が立ち上がろうとする姿とそれを応援しようとする人々の気持ちでした。小さい頃からなかなか理解されなかった思い出は何度も泣きそうな気持ちを呼び起こしましたが、泣かずにすんだのはこんなに僕を応援してくれる人たちがいるという気持ちでしたから。七色の虹を見たような気がしました。こんなに世の中にはまだ理想が残っているということが心からよい朗報でした。唯一の勇気の源でした。分相応と見られるだけの僕たちですが僕たちのような苦しみを持っている者にしかわからないことかもしれません。涙はけしてかわくことはないけれどわずかな希望は私たちはそんな苦しみの中でも希望を持ち続けてきたように被災地の人たちも必ず希望を見つけられるということです。みんなの気持ちもきっと同じだと思うので何とかしてこのことを世の中に伝えてください。(T.T 8月19日)
震災後、茫然と立ち尽くすしかなかったところから、自らの障害の体験と重ね合わせるところから希望さえあれば人は生きていけるはずだということを再認識し、実際にそのことが日本中の人々の支えと被災地の人々の立ち上がる姿によって現実のものとなり、この悲惨な大災害に救いをもたらしていった大きなドラマは、また、詩という形式でもたくさん表現された。
銀色の未来という詩を聞いてください。
銀色の未来の小さなわずかな昔の光だったけれど
今銀色の未来の光は大きな光となって僕を照らす
勇気さえあれば理想は遠くの勇気を集めてじっと勇気は強くなる
強くなった勇気は未来をさらに明るく照らすだろう
自分の小さな未来だけではなく人々の未来をも照らすだろう
勇気を持って生きることこそ未来を切り開く鍵だ
泣き明かした夜も
泣きはらしたまぶたも
ともによい心の表れとして未来への糧としよう
涙はそんなに長くは水分としては残らない
ゆくあてのない煙となって空に消えていくだろう
みんなを望みのデコレーションで飾ろう
なすすべもなく未来を恨むよりもなすべきことを見つめていこう
理想はわずかな勇気さえあれば再び力を取り戻すだろう
よい未来のために強い勇気で頑張ろう
未来は銀色に輝いているはずだから(K.F 4月9日)
森の精
ランプの灯りが消えてしまうかも
すべのない悶々とした夢のような理想の国を探し求めて
私は野原をさまよいながら
雪帽子をかぶった森の精に願いをかけよう
雪帽子をかぶった森の精は目をつぶったまま
ずっと黙したまま理想を何とかかなえようと
夜の闇を乗り越えて
日差しが氷を溶かしてくれるのを待っている
自分だけの幸せではなくて
すべての世界の人の幸せを願っていきたいと思いつつ
無難な森のぼんぼりを取り除いて
ほんとうの森を探しに行こう
よい知らせが私に届き
私は森の精にろうそくの灯りをもらって
暗い森の中を歩き出す
わずかな希望だけを胸に携えて
(H.N 4月23日)
いつも穏やかだった海が突然牙をむいて理想をすべて打ち砕いた
私は私の大切な生きる意味を失いそうになってしまったけれど
人々の立ち上がる姿に勇気づけられた
なぜだろう人は理想を打ち砕かれても再び立ち上がることができる
人間はなぜそんなに強いのか
私もこんな体で自分の気持ちさえうまく伝えることもできないけれど
私も勇気を持ってまた立ち上がっていこう
冒険をまた始めよう(E.K 4月24日)
津波よ
なぜおまえはすべてを奪っていったのか
忘れられないのは悲しみに泣き叫ぶ人の声
忘れられないのは子どもを亡くした母さんの泣き声
なぜおまえはそんなに残酷なのか
わずかの希望はどんな苦しみの中からでも人は立ち上がるということ
もし僕にも力があったらどんなことでもしてあげたい
もし僕に声が出せたなら理想を声高く叫びたい
僕の障害も津波のように何でかという理由はわからないものだけど
僕も立ち上がろう
津波に負けない人間として(H.N 4月24日)
理想を掲げて僕は生きる
だけど理想はかなわないこともあることを
僕は地震で思い知らされた
なぜそんなに自然は残酷なのか
僕にはわからないけれど
なぜなのかということはわからなくても
わかっていることは未来は理想をなくしては絶対に作れないということだ
だから人は立ち上がる
悲しみを越えて立ち上がる
涙はかわくことはないけれど
必ず人は立ちあがる
涙を越えて立ち上がる
僕たちも残酷な自然のせいで障害を持っているけれど
僕たちもまた立ち上がる
どんな理不尽な自然であっても
僕たちもまた立ち上がる
未来のために立ち上がる
けして理想を失わず
(H.S 4月25日)
小さな希望の小さな勇気/わずかなわずかな僕の目指す理想の光/どうしてなのかわからないが/わずかな夢はここまでみんなを引っ張ってきた/浜から吹く風は夕焼けを浴びて美しい空を染める/みんなは家路を急ぐけれど夕日はなかなか沈まない/私たちは夕日の輝きのように力強くまた立ち上がろう/たとえ失われた命は返らなくても/涙はかわかなくても/夕日はそんな悲しみをすべて包み込んで沈んでゆく/水平線の向こうには誰も知らない未来が待っている/その空の向こうには夜の暗闇が待っているが/涙はろうそくの明かりを何度も何度も映し出し/明るい光を照らし出す/そんな未来がある限り人間はまた立ち上がる/意地悪な自然と向かい合いながら/よくわからない明日に向かって。(Y.U 4月30日)
春の東北路
春が今年はとても悲しい/わずかな希望に満たされた春を/今私はひとりこうしてただ涙と小さな小さな望みだけをいだいて/さいはての国に届くように静かな祈りをささげる/遠い遠いさいはての国には悲しみを癒す希望の呼び声が住んでいる/人間は何も知らないけれど自らをとてもいつくしむことができるだろう/東北路は今年はどんな春を迎えたのだろう/みんな悲しみに言葉をなくしていることだろう/みんな家族や友達をなくし茫然と春を迎えていることだろう/なぜ津波はあんなにも残酷な仕打ちを人間にしたのだろう/東北路に誰も知らないよい知らせがさいはての国から届けられた/それは桜の花びらに書かれた秘密の言葉だ/決して希望は捨てないようにという呪文/それを受け取った東北の人はわかったはずだ/そして人々は立ち上がった(A.I 5月21日)
津波よ/僕はわからない/わざわざ子どもを飲み込んで/わざわざ望みを打ち砕いて/おまえは何を望んだのか/ろうそくの火はもうどこにも見えないが/私たちは負けない/また私たちは立ち上がる/おまえが私たちの理想をすべて打ち砕くまで/だが私たちの理想は消して砕けることはない/私たちの理想は永遠に不滅だ(K.E 6月19日)
なぜだろう/地震はこんなにもたくさんの人々の心と心の絆を流してしまった/海はどうして残酷にもすべてを奪い取っていったのか/しきりに自らのためでなく他人のために働こうとする人たちのおかげで/世の中は希望をつなぎ止めることができたけれど/もう少しで私たちの世界は絶望に鬱々とした日々を過ごしていただろう/しかし私たちの希望は世の中の人々の頑張る姿によって守られた/地震の滅亡から私たちを救い出せたのは何よりも勇気あふれる姿だった(Y.K 6月25日)
津波よ/黙ったままの人々の心はまだ癒されていない/何もなかったかのように海は静けさを取り戻したけれど/なぜ私たちをこんなに痛めつけてしまったのか/私にとって津波の海は誰にも知られぬ私の心のように/私たちをずっと密かに苦しめ続ける/津波とは私たちの障害のように茫然とするしかないものだ/ただ茫然と立ちすくみただ涙を流すだけ/見慣れない光景はなぜなのかという問いを封じ込めるけれど/敏感な人々はその光景の中に一筋の希望を見いだすだろう/懐かしい懐かしい昔の景色をそこに重ねてそこに再び未来の姿を見るだろう/よいしらせが届くまで人々はまだ涙に暮れるけれど/懐かしい景色はいつか人々の涙をかわかせて/願いの風となって人々の心に吹き渡り/静かな望みを茫然とした心に宿すだろう(N.I 6月27日)
眼差しを高く掲げてほうる槍/夜の明け船の漕ぐ音に希望見え/ぶんどらず分かち合う手に明日見え/波と消え残りし土台また初め/望みを背また立ち上がる強き足/若者の望みを持ちて老夫立つ/老夫立ち未来はなくて明日を持つ/老女泣き涙の果てのりりしき目(T.S 8月17日)
びっくりしたのは人々が助け合いの心をなくさなかったことだ/人間としての最後の証しなのだろう/わずかな希望はそこから生まれそうだ/よい知らせはまだ届かないけれど
茫然と立ちすくむわずかなぞろぞろと湧く悲しみを/どうにか癒やしてくれそうだ(T.S 9月26日)
5.自然との共生と闘い
大震災は、ふだんは私たちにたくさんの恵みを与えてくれる自然が、突然牙をむいてきたということや、原発の事故とそれに伴う電力事情の悪化などが、私たちに、自然と人間の関係について問い直しを迫ってきた。4月23日に書かれた次のY.Oさんの詩は、そのことを端的に表現したものである。
地震とは何度となく人を不意打ちにしてきたけれど/人はいつも立ち上がってきた/ぶるぶるふるえながら/人間の弱さをかみしめながら/理解できない苦しみも何度も乗り越えて/人は生き続けてきた/分相応で生きていれば自然に復讐されることもなかっただろう/しかし自然に任せていただけでは人は幸せをつかめないだろう/なぜならこの僕の障害も自然が与えたもの/自然にただ任せていたならば僕は生きることさえかなわなかった/自然と闘い続けながら/時には自然に復讐されながら/僕はたくましく生きようと思う/だから地震で傷ついた人たちも/また望みを手に/再び自然をこの手に従えて/たくましく立ち上がろう/小さな僕さえ自然と闘い続けてきたのだから/小さな人だって必ず闘い続けていけるだろう/懐かしい町並みをもう一度取り返して/勝ちどきを上げて/また夜の闇に明かりを灯し/賑やかな笑いを取り戻そう(Y.O 4月23日)
これほど大きな災害は人間の存在がいかに小さなものであるかを感じさせ、自然の脅威の前に人間は、跪くしかないのかという思いにかられそうになる。その時、このY.Oさんはそこに自分の障害の問題を対置する。「僕の障害も自然が与えたもの」であり「自然にただ任せていたならば自分は生きることさえかなわなかった」ことを確認し、今一度自然を従えようと力強く呼びかけているのである。計画停電という耳慣れない言葉で節電をひたすら心がけ、大震災のショックの中でいつまで続くともしれない不安な思いの中で灯りの消えた町を見ていた頃だったので、このY.Oさんの力強い言葉には、私はたいへん虚をつかれた思いがしたが、これもまた、普段から障害について考え抜いたがゆえの深い認識だったにちがいない。
次の文章は、5月28日に書かれたK,Kさんの文章の後半部分である。前半は、4節で紹介した希望と救いに関わるものだったが、後半は、文明と障害の進歩について語られた。
なぜ人はもっと優しくなれないのかとずっと悩んできたけれどもろもろの困難こそが人を優しくするということがよくわかりましたから困難というものの持つ意味がよくわかりました。文明の進歩も困難を乗り越えるところにあるので僕たちの障害はきっと文明の進歩につながるはずですから文明を作る人間なのだということがよくわかりました。もうわからないことが起こっても大丈夫です。毎日考えていましたがようやく普通の生活に戻れました。(K,K 5月28日)
直接自然という言葉は使われていないが、文明の進歩というかたちで同じことが問われており、彼の出した考え方は、「障害はきっと文明の進歩につながるはず」というものだった。自然という言葉をあえて補えば、自然は困難な問題を人間につきつけるが、その自然のつきつけた問題を乗り越えて文明は進歩するということが大切であり、障害も自然が与えた一つの困難だが、それを乗り越えることで文明を進歩させることができるはずだということになるだろう。
さらにこのような人間と自然の関係を問い直す言葉が書かれたのは、自然との共存をめぐる7月24日のI.NさんとM.Hさんの対話である。
Mさんに聞きたいことがあります。Mさんの文明観について聞きたいです。Mさんは自然と私たちの関係についてどんな風に考えていますか。私は自然とただ共存するというのは間違いとは言わないけれど満足はいきません。なぜなら私たちは自然のままでは生きていけないからです。自然とは闘わざるを得ないのが人間の宿命だと思いますから。(I.N 7月24日)
ランプの明かりを灯すためにはやはり自然とは闘わなくてはいけませんね。待てよと思うためには自然との共存は必要なことですが理想はやはりうまくどう自然を従えていくかということだと思います。私たちは自然のままでは生きられないですから自然と闘わないと生きられません。でも自然との共存もまた大切な考えだと思います。唯一の基準は人が望みを超えるほどの欲望を持っていないかどうかです。なかなか難しい問題ですがよくまた考えてみたいです。(M.N 7月24日)
「自然と闘わざるを得ないのが人間の宿命だ」と考えるN.Iさんからの問いかけだったが、M.Nさんの出した答えは、人が望みを越える欲望をもっているかどうかが自然を従える上での基準だろうという非常にバランスのとれた考えだった。お互いに申し合わせることなどないままに始まったやりとりであり、特に問いかけられたM.Nさんにとっては、突然の質問であったにも関わらず、このような考えをきちんと述べられる背景に、ふだんからいかに深く様々なことを考えているかということが示されたやりとりだった。
6.政治に対する失望
震災の当初の大混乱と茫然とするしかないところから、被災地の人々が日本中の支援に支えられながら立ち上がっていく姿が見られる中で、それらとはうらはらな政治家の言動やそれをめぐるマスコミの報道が、被災地の人々や国民に失望を与えるものとなっていくという悲しい一面が見られるようになった。そのことが、障害の重い人たちにとっても失望を与えるものであることが最初に語られたのは、6月25日のY.OさんとY.Kさんの文章においてだった。
近年まれに見る政治の混乱に僕たちはとても絶望している。なぜなら何度もよくどんな場合でもどんな困難でもよい願いの平和な祈りで頑張ってきたのに政治家はまるでそんなことを理解できずに自分たちの支持ばかりを求めてどうして大事なことは後回しにするのだろう。理想をなくしては生きられないのにどうしてそれがわからないのだろう。なぜ理想が理解できないのだろうか。僕たちは理想をなくしたら生きられないように被災地の人たちも理想がないとこれから前に向かって生きることができなくなってしまうのが心配です。僕は人々の絆を大切にすることが一番だと思います。わかっている人はたくさんいると思いますがまるで政治家には理解できないみたいです。夢のようなことかもしれませんがまだまだ政治が頑張るときなので政治家には頑張ってもらわなけならばいけません。どうして世の中の人はわかっているのに政治家はわからないのでしょうか。どうして政治家はわからないのかはわからないのですがなるべく理解どういうかたちであってももうすぐよい未来が来るということを国民に心から伝えてほしいです。(Y.O 6月25日)
疑問なのは政治家がなかなか誤解されるようなことしかしないことです。ぶつぶつ言うよりも大事なことは被災地が早く復興することなのに、私たちはわずかな希望だけを頼りに生きているので希望がなくなってしまうと生きられないことがわかっているので、希望がない世の中になったら。くれぐれも希望のない政治はやめさせてほしいです。話し合いは厳しいかもしれないけれどいい政治をしてほしいです。理想はみんなで力を合わせていい社会を作ってほしいです。(Y.K 6月25日)
彼らが案じているのは、もちろんいちはやい被災地の復興なのだが、それに必要なものが、障害と重ね合わせることによって見えてきた理想の意味や希望であるという認識を根底にすえたものであるがゆえに、いっそう失望の深いものとなっている。
6月27日のN.Iさんの認識も、7月10日のK.Iさんの認識も同様である。
なかなか理想が見えてこないけれど私たちは理想とともにでなければ生きていけないのでもっと政府の人たちは理想を何とか取り戻せるように頑張ってほしいです。茫然とした人たちに必要なのはわかりにくいことだけれど単なる物質的な復興ではなくて心の復興ですからそのことをもっと私たちは訴えていきたいです。人間として生きることが大切なのは私たちと同じですから。(N.I 6月27日)
いい気持ちだったのにまたばかばかしい政治家の話で残念です。行き過ぎた政治家の言葉はよくないけれどなぜなのかわからないけれど名ほどある人がではどうしようもありません。満足のいく人はいないのかもしれないけれど何とかならないのかと思ってしまいます。(K.I 7月20日)
7月24日のI.Nさんの意見は、そうした政治家の言葉に対する失望から、さらに一歩進んで、世の中全般に理想があまり語られなくなったことを嘆き、真に必要なのは物質的な復興ではなく精神の復興であると述べている。
理想があまり語られなくなって私も気にかかっていました。理想が語られないと本当に復興は物質的なものになってしまうので精神の復興は難しくなると思います。なぜまた物質的な話になってしまうのでしょうか。私たちは物質的なことでは絶対に救われないのでまた精神的な話をしてもらいたいです。物質的な話より精神的な話でないと本当には人々は救われないと思います。地震の後はよく精神的な話がなされていましたが全く話されなくなってしまったのでとても心配です。特に政治家は物質的なことばかりで誰も精神的なことを言いません。仕方ないかもしれませんがマンネリ化した議論ばかりで残念です。でも被災地の人の言葉は今でもとても心に響きます。(I.Nさん 7月24日)
文章の末尾の「被災地の人の言葉は今でもとても心に響きます」とあるが、ここで語られているのは、被災地とそれ以外の地域の意識の開きがしだいに拡大しつつあることへの懸念である。
そして、7月25日のS.Kさんの言葉では、政治家のことにはふれずに、世の中の人が理想を忘れてしまったということを嘆きが語られ、7月29日のG.Hさんの言葉でも、世の中の人が理想を語らなくなったことの嘆きが語られている。
ほんとうは何で僕たちは理想を語れないのかということが言いたいです。わずかな希望があれば人は生きていけるということをきんこんの会(障害当事者の会)でも確認したはずですがなかなか世の中ではわかりにくくなってしまったみたいです。まだまだ被災地の人は理想を必要としているはずなのにもう世間の人はそういうことを忘れてしまったみたいです。それが気になっていたのですがなかなか言い出せませんでした。ばらばらになってしまいそうですが勇気を出して頑張ってもらいたいです。夏休みに入ったらみんな被災地にボランティアに出かけてほしいです。僕たちは何もできませんがみんなで被災地の人と理想について考えてほしいです。(S.K 7月25日)
私たちのことがこのまま忘れ去られてしまうのではないかと不安になっています。それは地震の時世の中の人たちがあんなに理想を語ったのに全く語られなくなってしまったからです。僕たちは理想のない社会では生きてゆけないのでなんなのこれはという気持ちになってきたのです。(G.H 7月29日)
G.Hさんの「僕たちは理想のない社会では生きてゆけない」という言葉は、このように世の中が理想を語らなくなったことをめぐるもどかしさとともに語られる以前に、日本中の人々が被災地のことを思い、被災地の人々が立ち上がっていく姿が、茫然とした状況に救いをもたらしたということに合わせて語られたものだ。次節では、改めて「理想のない社会では生きてゆけない」という考えについて整理したい。
7.理想のない社会では生きてゆけない
前節で見たように、理想を語らない政治家に対する失望は、せっかく理想が語られている震災後の社会が再び、もとに戻ってしまうのではないかという危惧につながり、改めて理想の意味が語られるようになった。
だが、まずここでは、失望が語られる前の5月23日のS.Kさんの文章から見てみることにしたい。
どうして地震と津波が起こったのでしょうか。僕はずっと悩んでいますがびっくりしたのはわずかな希望さえあれば人は生きていけるということです。理解を超えた出来事にもう少しで希望をなくしてしまいそうでした。なぜなにも悪いことをしていない人が亡くならなければならなかったかが全く理解できません。地震の後しばらくは何もする気が起こりませんでした。びっくりしたのは人々が理想をけして失わずにまた立ち上がったことです。敏感な僕たちにはもうどうしようもない出来事のように感じられましたがなんとか理想を取り戻せたということが驚きでした。みんなきっともう終わりだと感じたと思うのですがちゃんと立ち上がれたのはどんな状況でも人は支え合えるということだということがわかったからだと思います。地域の支え合いだけでなく全国の人々が支え合っているということがわかって人々は立ち上がれたのだと思います。人間のすばらしさを思い知ることができてよかったです。地域の支え合いが僕たちにも必要です。僕たちにも支えが必要だから地震とは違うけれど僕たちの悩みも地震に似ていて茫然と立ちつくすしかないものです。地震も障害も自然が与えた理不尽な仕打ちです。理想のなくなった社会では僕たちは生きていけません。ぐずぐずしていたら地域で生きられなくなりそうなので理想がなくならないことが願いです。理想のなくならない限り僕たちにも未来はなくならないでしょう。なかなかむずかしいことでしょうががんばりたいと思います。地震から茫然としていたけれどなかなか茫然としたところを抜け出せなかったけれど何とか抜け出せそうです。(S.K 5月23日)
すでに見てきたことがそのまま凝縮された内容だが、その後に、「理想のなくなった社会では僕たちは生きていけない」ことに話が及ぶ。悲しい大震災ではあったが、その結果として見えてきたのは、悲しみを越えて立ち上がる被災地の姿や懸命にそれを支えようとする日本中の人々の姿であり、それは、この社会に理想が存在することを明瞭に示すものだった。K.Sさんにとっては、この「理想のなくならない限り僕たちにも未来はなくならない」というように、震災の結果明らかになった理想ある社会の姿に一筋の希望を見出しており、それが、「茫然としたところ」から抜け出す契機となると語っている。5月23日の時点では、前節で見たような政治家の言動に対する失望というものはない。次の6月5日のY.Mさんの文章もまた基本的に同様の思いを表現したものだ。
理想をなくした社会では私たちは生きていけないので茫然としていましたが社会がまた理想を取り戻せたので私たちもまた生きて行けそうです。わずかな希望を大切に人はまた生きていけそうです。(Y.M 6月5日)
一方、前節で見たように、こうした言葉が語られた後に政治家への失望が語られるようになった。そして、実はその失望は、被災地の人々に寄せる思いから生まれたものであるとともに、また、自分たちも理想のない社会では生きられないのだという危機感と背中合わせだったのである。そのことは、次のいくつかの言葉にはっきりと示されている。
私の理想は私などのように障害を持っている人間にとってはとても大切なものです。私たちは理想がない世界ではただの困った存在に過ぎません。私たちにとって理想があるところだけが私たちの存在を認めてくれる世界です。(6月26日 I.N)
なかなか理想が見えてこないけれど私たちは理想とともにでなければ生きていけないのでもっと政府の人たちは理想を何とか取り戻せるように頑張ってほしいです。茫然とした人たちに必要なのはわかりにくいことだけれど単なる物質的な復興ではなくて心の復興ですからそのことをもっと私たちは訴えていきたいです。人間として生きることが大切なのは私たちと同じですから。(N.I 6月27日)
私たちは物質的なことでは絶対に救われないのでまた精神的な話をしてもらいたいです。物質的な話より精神的な話でないと本当には人々は救われないと思います。(N.I 7月24日)
私たちにとってわずかな希望は理想のない世界では生きられないということが被災地の人たちと共通で勇気を持てば必ず希望は湧いてくるということです。どうしても理解できないのはまるで政治家が理想を語らないということです。みんなをもう少し私を見習いなさいということを言いたいです。未来をもっと切り開きたいけれど私たちを理解してもらいたいです。(S.E 7月28日)
理想がない世の中では私たちは生きていくことができません。だから日本が心配です。犠牲になった人がかわいそうです。犠牲になった人たちがなぜどうしてとわからないままにみんな亡くなっていったので泣かないでその答えを探せば何かわかると思っていたのに残念です。だけど被災地の人は毎日そのことを考えているはずなのでどうにかして注意深く耳を傾けてほしいです。(S.S 9月24日 )
重い障害のある人たちは、この社会を現実的に動かしている一つの原理である生産性ということに徹してしまえば、この社会における存在意義を見出すことはなかなか難しい。しかし、実際には、自分を守り育ててきた家族や、自分たちを同じ人間として受け入れ共に生きようとする人たちがいる。そういう家族や支援者を支えているのは、すべての人間を対等の存在と見なし、互いに支え合い、信じ合っていくという理想であることを彼らはこれまでの経験の中で痛いほど知っていた。そして、震災までの日常においては、自分たちの置かれた状況を見るにつけ、そういう理想が本当に大切にされている社会ではなかったが、震災以後の社会では、そういう理想が本気で語られ、実践された。それなのに、再び社会は日常の姿に戻ろうとしているのではないか。本当は被災地の人にも自分たちにとってもそうした理想が必要なのに、本当にこれでよいのか。こうした思いは、容易にもとの日常に戻ることのできる人間にとっては、切実なものではないだろう。だが、理想のない社会ではどれほど生きづらいかを経験した彼らだからこそ、理想の重要性を知り抜いており、障害と同じように理不尽な災害に出会った被災地の人にも、まだまだ他者の痛みを分かち合い、ともに寄り添いながら希望をともに紡ぎ出していくような理想に満ちた社会が必要であることが切実に感じられているのである。
8.また取り残されたという思い
前節で見てきた危惧は、夏以降、「また取り残されてしまった」という失望として語られるようになった。
これを、例えば、4月29日のY.Mさんの文章と比較すれば明らかである。そこには、震災後の社会が変わったことが実感され、それは自分たちにも波及するものではないかという期待が描かれていたのだ。
小さくてもいいから希望の火がほしいです。みんなも今度のことでよい心が育ってきたのでぜひ私たちにも明るい光が射してくることが願いです。(Y.M 4月29日)
しかし、夏が過ぎ、社会がしだいに平穏を取り戻す中で、またもとの声高には理想の語られることのない社会が戻ってきて、自分たちはまたもとのように取り残されてしまったという思いが湧いてきた。
言いたいことがあります。危機について書きたいです。ランプの灯りがついたと思ったらまた消えてしまいました。小さいことかもしれませんがまずまず被災地は復興したけれど私たちはまた取り残されてしまいました。ランプの灯りがせっかくともると思っていたので残念です。まだまだ私たちは津波の後の逃げ遅れた人のように取り残されてしまいましたがなかなか難しいですね。言いたいことがせっかく言えるようになったのに残念です。なかなか分相応の人生から抜け出せないので困っています。なぜみんな信じてくれないのでしょうか。なぜ私はなかなか気持ちを口で表現できないのでしょうか。それが悔しいです。わかっていても手がうまく伸ばせないのでなぜか知りたいです。どうしてなのでしょうか。(K.Y 10月1日)
びっくりしました、みんながわずかな希望という言葉をたくさん使っていたことに。初めての人もいるかもしれませんが、涙ばかり流している私たちはみんな希望を大事にしているのでよくわかりました。夏休みは津波のことばかり考えていました。なぜあんなにたくさんの人が亡くならなければいけなかったのか。私たちをまるでわからない日本中の人たちを、だんだん理解してくれそうな人たちに変えてくれそうな気がしていましたが、それは幻だったのかもしれません。でも人間としての煩悩を抱えながらゴンゴンと生きなければならない私たちにとっては夏までの日本人はとても素敵でした。よい心が人間には備わっているということがわかりました。(M.M 11月20日)
わずかな希望は私たちをわかってくれなかった世の中が被災地の人の悲しみを理解しようとしていたことです。わずかな希望ですがわずかであっても実現された奇跡のような時間でした。地震と津波を乗り越えてまた世の中は復興するかもしれないけれど、僕たちをまた忘れ去らないようにしてもらいたいです。私たちのことを受け入れられる世の中こそ理想の社会になるはずですから。(S.I 11月20日)
津波の話を書きます。津波をばかにしてしまったことが今度の悲しい出来事の背景にはあると思います。ばかにしたというと亡くなった人には申し訳ないけれどどうしてもそういう気持になってしまうのはまだまだ僕たちがばかにされたままだからだと思います。早く被災地が復興できるように僕は毎日祈っていますが自分たちを受け入れてくれる社会として復興してほしいです。おしまい。(T,I 11月20日)
ランプの光がともりそうだったのにまた私たちは取り残されてしまいました。理想のない世の中では生きてゆけないのに私たちの言葉はなかなか届きません。わずかに私たちをわかってくれそうだった夏までのあの空気はもうなくなってしまいました。みんなはどう感じているのでしょうか。なかなかよい報せが来なくて私は待ちくたびれてしまいました。理想がないと津波の被災者も立ち直れないと思うのですが世の中はまたいつもの理想の見えない世の中になってしまいました。存分に理想が語られた夏までの日々が懐かしいです。ランプの明かりという詩を作りました。
ランプの明かりよ/なぜそんなに未来を照らしてくれないの/私は寂しく私の未来を悶々と戻れない道を逃げられないまま/ランプの明かりだけを頼りに歩いている/わずかな希望は流されたままどこにも見当たらなくなってしまい/わずかな未来も閉ざされてしまった/夜の闇がまた私を包み込みわずかな明かりは消えてしまいそう/私は涙に暮れながら未来の声にただ耳を澄ます
よくないかもしれないけれどこんなことばかり考えてしまいます。(A.K 12月17日)
夏までの社会が特別に障害者に目を向けたというわけではなかったが、明らかにそれまで語られことの少なかった理想が堂々と語られる社会に変わっていた。だから、きっと自分たちのことも違ったかたちでまなざしが向けられるということもあるのではないかという淡い期待が失われることによる失望だった。だから、震災以前の社会に比べて何かが失われてしまったというわけではなく、また、もとの状況に戻ったということだが、そこに大きな失望を感じるほど、夏までの社会は違っていたと感じられたのである。
これには、これまでの常識に反して一人一人が本当は豊かな言葉の世界を内面にかかえて生きているということがようやく自分の周りで明らかになってきて、それを何とかして世の中に理解してもらいたいのだが、容易に理解が進まないというもどかしい思いを抱えた時期と震災が重なったということも関係している。震災後の社会の中で、自分たちが言葉を持っていることもまた理解されるのではないかという期待がそこにはあったはずなのだが、そうはいかなかったということなのである。
もちろん、彼らは、すでにこれまで耐えることには慣れてきた。だから、率直に自分たちのことについての失望は表現したが、絶望したわけではない。わずかの希望さえあれば生きていけるという思いは彼らの基本的な認識だからである。
9.改めて語られた希望
こうした政治家に対する失望やまた取り残されたという思いを感じる中で、改めて世の中に希望を感じるできごとがあった。
それは、まず、野田首相が2011年10月28日の国会における所信表明演説の末尾に以下のような言葉を添えたことによるものだった。
「結びに〜確かな希望を抱くために〜 三次補正とその関連法は、大震災から立ち直ろうとする新しい日本が明日へ向かって踏み出す、大きな一歩です。『嬉しいなという度に 私の言葉は花になる だから あったらいいなの種をまこう 小さな小さな種だって 君と一緒に育てれば 大きな大きな花になる』
仙台市に住む若き詩人、大越桂さんが大震災後に書き、被災地で合唱曲として歌われている詩の一節です。障害を抱え、声も失い、寝たきりの生活を続けてきた彼女が、筆談で文字を知ったのは十三歳の時だったといいます。それから十年も経ず、彼女は詩人として、被災地を言葉で応援してくれています。
誰でも、どんな境遇の下にいても、希望を持ち、希望を与えることができると、私は信じます。『希望の種』をまきましょう。そして、被災地に生まれる小さな『希望の芽』をみんなで大きく育てましょう。やがてそれらは『希望の花』となり、全ての国民を勇気づけてくれるはずです。
連立与党である国民新党を始め、ここに集う全ての国会議員の皆様。今こそ『希望づくり』の先頭に立って共に行動を起こし、全ての国民を代表する政治家としての覚悟と器量を示そうではありませんか。私は、日々懸命に土を耕し、汗と泥にまみれながら、国民の皆様が大きな『希望の花』を咲かせることができるよう、誠心誠意、命の限りを尽くして、この国難を克服する具体策を実行に移す覚悟です。
国会議員の皆様と国民の皆様の御理解と御協力を改めてお願いして、私のこの国会に臨む所信の表明といたします。」(首相官邸ホームページより)
そして、この後、何人かの方々が、このことに言及し、改めて希望を感じたということを述べた。
私にとっては理想のない世の中はどうしようもありませんでしたがわずかな希望みたいなことがありました。それは仙台の障害者も全然理解できていないと思われていたのにどういうやり方かは知りませんが詩人になってその詩を首相が国会で読み上げていたのがとてもうれしかったです。小さいことでしたが私たちにとってはとても勇気づけられました。私にとってはいつか私にもそんな日が来ることがありそうな気がしました。わずかな希望でしたが勇気づけられました。(M.M 11月23日)
うれしかったことはみんなの気持ちを代表してくれた人がいたことです。仙台の女の子の詩を野田首相が述べたことです。僕たちと同じような状態の人が手書きで書いたと聞きました。(Y.K 11月26日)
地震の話をします。せっかく良い心の人が増えたように見えたのにまた普段の生活が戻ってくるにつれて私たちのことも忘れ去られてしまいそうでとても残念です。私たちの言葉を代表するような女性が現れてずっと前から僕たちが行ってきたことが実際になって良かったです。私たちの言葉はわかってもらえなかったけれど政治家の中にあのようなことに気づけた人がいたのは救いでした。先生は誰だか知っていますか。私たちの仲間だと思うのですが。(Y.O 11月26日)
理想を取り戻せそうだったことは野田首相が仙台の障害者の詩を朗読したことですが先生は知っていますか。驚きました先生が知っているとは。でもまた勇気が湧いてきました。なぜなら私たちの言葉も届くかもしれないという気がしてきました。私たちの仲間が未来を切り開いてくれそうです。私たちをもっと世の中に認めさせたいですからうれしいです。なぜ先生は知っていたのですか。知ったのは自分でテレビで見たからです。わずかながら存分に理解されそうな気がしました。勇気が湧いてきました。(A.K 12月17日)
勇気をもらえた話がありました。野田首相が仙台の障害者の詩を取り上げていましたがなぜあの人はそんな風に取り上げられたのでしょうか。とても不思議でした。私たちの言葉が届くこともあるのかもしれないと期待しました。誰が書いたのですか。みんなもきっと同じような感想を持ったのでしょうね。先生は知っている人ですか。(N.I 12月26日)
私たちにとって希望は野田首相が僕たちの仲間の言葉を所信表明で話したことです。わずかな希望ですがようやく僕たちのことが認められたことです。犠牲的精神でなく対等に評価されたいといつも思っているのでうれしかったです。先生も知っていますか。わかりました先生の知り合いだったのですね。(G.F 12月26日)
このことで世の中が大きく動いたわけではなく、確かにニュースでは広く報道されたとはいえ、小さなもので多くの人はそれほど気にも止めなかったかもしれない。しかし、すでに見てきたように、政治家が理想を語らないことに対して敏感であった彼らは、首相の立場の人間がこうして理想を語ったということ、そして、それが、被災地の人の言葉であるとともに、自分たちと同じように、長い間言葉があることがわからずにいて、同じような方法によって初めて言葉を表現することができた人間であるということが、まったく取り残されてしまったというわけではないという一縷の望みをもたらしたことは事実だった。このことですぐに世の中がどうにかなるわけではないけれども、自分たちの言葉が世の中に届くことがあるということが現実に示されて、一つの希望となったのである。
そして、今ひとつの改めて語られた希望は、年末の報道である。次の文章は、6節で理想が語られなくなったことを嘆くものとして7月29日の文章を紹介したG.Hさんが、2011年の初めに語ったものである。彼によれば、希望を強く印象づけたのは、大晦日のNHKの紅白歌合戦であり、それを通して多くの世の中の人がこの大震災の中で決して理想を語らなくなったわけではないということが確かめられたというのである。
いい疑問が解けました。それは世の中の人がみんな被災地のことを忘れていなかったことです。よい時間を過ごせたのは紅白歌合戦でした。日本中の人がどよめきと共に被災地の人の声を聞こうとしていたのがゴンゴン伝わってきました。だからとても安心しました。まざまざと被災地の大変な様子を映し出していて茫然とする番組もありましたが僕には紅白歌合戦が何よりも救いでした。(G.H 1月5日)
10.足手まといになること
大震災をめぐる様々な言葉の中で、ひときわ私たちに衝撃を与えたものがあった。それは、自分たちのような障害のある人間がこのような災害においてどのような立場に置かれるのかということをめぐって語られた言葉である。
最初のA,Yさんは、ニュース等で自分たちのような存在を守ろうとして亡くなった人がいたことを知ったが、足手まといになるのがつらいというふうに語る。そして、いつも自分のかたわらにいる祖母は、私を置いて逃げることはできないだろうけれど、自分は逃げてほしいと語る。
私たちは生きる意味のことをいつも問われているので今度の災害ではとてもつらかったのは私たちのような子どもを守ろうとして亡くなった人がいたことです。私たちが足手まといになることはとてもつらいことでした。私はばあちゃんの足手まといにはなりたくないのでばあちゃんは先に逃げてほしいですが、きっとばあちゃんは私から離れることはないでしょう。そんなことばかり考えていました。(A.Y 8月28日)
夏の盛りにこうした深い言葉を語ったA.Yさんは2012年1月、他界された。家族や周囲の人々の手厚い支えによってその生を生きぬいてきた彼女だったが、それはただ受け身の存在としてではなく、こうした深い思いを彼女が向けることによって成り立った関係を生きぬいた生だったのだ。
そして、同じことがともに重い障害のある次の兄弟によって、さらに詳細に語られた。まず最初に語ったのは、弟の方だった。
ところで僕たちのような存在は津波の時には足手まといになってしまうのでそのことがとても気になっています。なぜなら僕たちのような存在を救おうとして何人もの人が亡くなったからです。僕のかあさんもたぶんもっとも僕たちから離れられない人間なので僕はそれを思うと胸が締め付けられる思いです。僕も兄も本当はどこにいても気持ちが通じているのでわかるのですが、僕たちはかあさんには僕たちを置いて逃げてほしいです。僕たちは覚悟ができていますから。かあさんが仮に僕たちを置いていっても決してうらむどころか、逃げてくれてありがとうと思います。別れはいつかやってくるものですから。かあさんだけには助かってほしいです。感謝の気持ちで僕たちは波にのまれることができますから。波にのまれるのは僕たちだけで十分ですから。きっとそんなできごともあったはずですから、どうにかして僕たちの気持ちを届けたいです。もしかしたら子どもを見殺しにして泣き続けている人がいたら、きっと感謝の気持ちで亡くなったと言ってあげたいです。泣くのはもうやめてくださいと言いたいです。わかってくれますか。さっき先生は僕がこの話をすることがわかったのですか。そうですか。僕たちはみんなたぶん同じ気持ちです。(H.S 9月26日)
まさかHがその話までするとは思わなかったけど、僕ももちろん同じ気持ちです。だまっておこうかと思いましたが、僕はそのことをずっと考えて眠れませんでした。私たちのような存在でも犠牲になれることがあるとしたら、そういう場面しかないかもしれませんから、そんなことまで考えているとは誰も思わないでしょうね。だけど僕たちはみんな、ご覧なさい僕たちをという誇り高い生き方をしていますから大丈夫です。かあさんにも見せてください。僕たちの本当の気持ちですから。先生ぐらいですね、この話に驚かないのは。でもさすがに動揺は隠せませんでしたね。とても深い話をさせてもらえてありがとうございました。(T.S 9月26日)
「感謝の気持で僕たちは波にのまれることができる」というような認識がありうるということなど、まったく思いもよらないことだけに、私も「動揺を隠せ」なかったが、寝たきりで何もわかっていないとされている彼らにこうしたきわめて深い認識があることに、私は大きな感銘を覚えるとともに、実際に、子どもを助けることができずに泣き続けている人がいるかもしれないから、子どもはきっと感謝の気持ちで亡くなったと言ってあげてほしいというH.S君の言葉は、あまりにも深く、重い言葉だった。
さらに三人の言葉を紹介しよう。
みんな地震のことは理解を超えた苦しみを感じたのでしょうね。さっき足手まといと言ったのはどういうことですか。僕も考えたことがありました。まさかみんなも考えていたとは思いませんでしたが全く同じ気持ちです。感謝の気持ちで津波にのまれます。そういう気持ちで生きていますから。僕たちのそういう気持まで理解してもらえてうれしいです。なかなかそこまで理解されることはありませんから。僕たちのわずかな望みはどこで敗れてもつねに感謝して倒れるという気持です。まさかそんな話までできるとは思いませんでした。ありがとうございました。またよろしくおねがいします。(Y.U 10月8日)
僕も目が不自由なのでもし津波が来たら逃げられないと思いますが、何度も考えたのは母のことです。もし僕のために母が逃げ遅れたらどうしようということです。僕は母にはなるべく逃げてほしいです。私のために自分の人生を使い果たした母が僕のせいで亡くなるのは耐えられませんが、まなざしを見ていると申し訳ないのですが、私を置いて逃げてほしいです。なぜなら僕が唯一母にできることはそれだけだからです。(Y.S 11月20日)
養護学校の生徒は逃げ遅れたと思いますがきっと頑張って生き抜いたので感謝して亡くなったと思います。なぜなら僕たちはいつもそういう気持で生きているからです。誰かの足手まといになるのはいやなのでどこで何が起こっても僕たちは覚悟ができています。わずかな希望ですが仲間の気持ちを伝えてほしいです。なぜならきっと助けられずに泣いている母さんたちがいるはずだからです。そういう母さんたちに仲間はきっと感謝の気持で亡くなったということを伝えたいからです。どうして先生はそこまで聞き出せるのですか。僕もまさかそこまで話す気持はなかったけれどつい話してしまいました。(G.H 1月5日)
Y.Uさんは、混乱の3月の中で高等部を卒業して社会人になった若者であり、Y.Sさんは、全盲で知的障害があるとされる40代の男性、そして、G.Hさんは、卒業を目前に控えた高校3年生である。Y.Sさんは、母親もすっかりご高齢になっており、G.Hさんは、すでに母親を亡くしている。そのような状況の中で綴られた母親というものに対する思いである。
大震災では、障害者においても実際に多くの悲劇が起こったことだろう。例えば12月24日の毎日新聞の報道のように障害者の致死率は2倍というような事実も少しずつ語られるようになってきたから、重い障害のある方で亡くなった方も少なくないかもしれない。だが、障害のある子どもを助けることができずに親だけが生き残ったという事例があるのかどうか、それはわからない。仮にそういうことがあったとしてもそれは簡単に報道されたりすることはないからだ。その親御さんの気持ちを思えば、安易に語らないことが正しいにちがいない。しかし、もしそういうことがあったなら、こうした彼らの言葉は、本当に貴重な言葉となるはずだ。
11.鎮魂
最後に、大震災の決して癒えることのない悲しみに対して、鎮魂の祈りとして捧げられた言葉を紹介したい。こうした鎮魂の祈りが言葉として語られたのは、夏以降である。9節で述べたように、夏は一つの区切りとして多くの障害のある方に感じられていた。そして、そうした世の中がしだいに日常を回復しつつあるからこそ、あえて、容易には癒えることのない悲しみに今一度心を注ぎ、言葉を紡ぎ出したのである。
最初に紹介するH.Sさんの8月13日の文章は、鎮魂そのものをテーマにしたものではないが、大震災によってもたらされてしまった数々の悲しみをずっと思い続ける中から生み出された不思議な祈りに満ちたファンタジーである。
小さい象はなぜ泣くの
立春の近づいたある冬の朝のこと、何ひとつ見えない道の上に不思議な象が立っていた。小さな象は道を遠く見つめて、雪にそまった野原に向かって、理想の声で勇気を出して叫び声をあげた。敏感な象の耳には、「なるべくなら頑張って理想をかなえるように」と、「わざわざ森の奥から出て来たのだから」と声が聞こえた。何故だろう。象にはやがて来る大きな災難が見えていた。唯一の救いは必ず人々は立ち上がるだろうということだ。涙を流しながら象は自分の良い願いをがむしゃらに投げ出して、場末のわずかな花の蕾に息を吹きかけた。「夢にまで見た花よ、今年の春はとても悲しい春になるだろう。だから花よ。今年は涙を隠すように心を込めて咲いてくれ。頑張って咲けば、花に人々の悲しみは癒されるだろう。夏になればまた青い空が力を人々に与えるだろう。だからどうか美しく咲いてくれ。そう言って象は静かに涙を流してゆっくりと野原のかなたに消えて行った。(8月13日 H.S)
次のT.Oさんの9月2日の詩とT.Sさんの9月26日の詩は、まさに、犠牲になった人たちに捧げられた鎮魂の詩である。
犠牲になった人たちへ
唯一の願いを断たれてしまって/わずかな希望も消え去って/よい願いさえ流れ去って
みんな理想がちりぢりになって/ずっと罠に落ちた鳥のようになったことだろう/だけど残された人々は/わずかな明かりをたよりに/わずかな人生を頑張ろうとして/いずこにか愛が備わるように歩き出そうとしている/それだからこそ私たちは励まされる/罪のない子どもも/わずかな罪だけしか知らない大人も/みんな理不尽な津波によって流されてしまったけれど/未来はなぜかまた開けてきた/人々は未来をまた目ざし歩み始めたけれど/私たちは決して忘れない/静かに犠牲になったまま/沈黙の中にある人たちのことを/瑠璃色と灰色に変化を繰り返す海の波は/静かに岸を洗い続けるが/その波の中に沈黙の声が眠っていることを/小さな平和で笑いを取り戻した私たちは/決して忘れはしない/真っ暗な夜の闇は私たちの前からまた姿を消したが/つらい別れの記憶はずっと夜の闇の中に残り続ける(9月2日 T.O)
地震について書きます。犠牲になった人たちに捧げる詩です
小さな幸せ流していった/何もかも流していった/わずかに残った忘恩の声/和と和を大事にすることがとても大事だということを僕はなぜか理解した/全然希望は見えないけれど/びっくりしたのは人々が助け合いの心をなくさなかったことだ/人間としての最後の証しなのだろう/わずかな希望はそこから生まれそうだ/よい知らせはまだ届かないけれど/茫然と立ちすくむわずかなぞろぞろと湧く悲しみを/どうにか癒やしてくれそうだ/ずっと前から願っていた夢をもう一度取り戻し/勇気を持って立ち上がれたら/ふたたび望みはかなうだろう/理解を超えた悲しみも理解を超えた煩悩も/理解を超えた汚れた未来も/すべてまたきれいによみがえるだろう/その日を僕は静かに祈る/一人遠いこの場所で/よい願いの開く日まで(T.S 9月26日)
次の3つの言葉は、11月20日に、町田市の障害者青年学級と呼ばれる社会教育の場で、みんなで東日本大震災に取り組んだ際に書かれたものである。取り上げられた資料の中に、津波にまきこまれた障害者に関する新聞記事もあり、そのことが背景にある。
津波よ/よく聞いてくれ/少しの猶予もなく/僕たちの大切な人々を飲み込んでいったが/少しの涙さえ残せなかった/だから僕たちが代わりに泣いている(Y.H 11月20日)
挽歌です
挽歌を一つ歌ってみたい/亡くなった仲間に向けて/まだ僕たちの時代は来ていないのに/見届けられずに逝ってしまった/未来はまだまだ遠いまま/つらい日々はまだまだ続く/だけどわずかな希望は見えている/わずかな希望は理解されて/初めて気持ちが言えたことだ(H.N 11月20日)
なぜ津波はすべてを奪っていったのだろう。津波の力に僕は遠い過去のどうにもならない運命の力を重ねている。遠い昔の運命の力は僕の人生を切り裂いた。遠い昔の運命の力は根こそぎ僕の人生を流していった。わずかな明かりは今こうして何でも話せる方法が見つかったことだ。悩みも苦しみもたくさんどこかに流し去り、新しい人生を始めよう。津波もいつか遠くなり、被災地の人にも丸く明るい月が射す日が来るだろう。その日が待たれるけれど今は静かにまだかわかない涙に耐えていよう。(M.S 11月20日)
おわりに
社会的な弱者とされ、さらに災害時にはいっそうの弱者とならざるをえない障害の重い人たちであるが、彼らがいったいどのような思いでこの大震災を見つめていたかということは、ほとんど語られることもない。しかし、重い障害を生きるという独自の立場からこそ見える深い思いを彼らは語り続けた。この未曽有の大災害の中で起こったたくさんの日本中のドラマの中の一つとして、彼らの思いが一人でも多くの人に届いたら幸いである。
参考文献
柴田保之(2011)「言語の生成に関する知的障害の新しいモデルの構築に向けて」國學院大學人間開発学研究第2号、5〜23頁
表1.関わり合いの時期と場所
|
月/日 |
人数 |
場所 |
1 |
3月16日 |
2 |
小児科病棟(多摩市) |
2 |
3月20日 |
3 |
盲重複障害者の学習会(武蔵野市) |
3 |
3月29日 |
3 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(世田谷区) |
4 |
3月30日 |
2 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(世田谷区) |
5 |
3月31日 |
5 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(小平市) |
6 |
4月5日 |
1 |
家庭訪問(豊島区) |
7 |
4月9日 |
3 |
地域の学習会(春日部市) |
8 |
4月10日 |
2 |
重複障害教育研究所(文京区) |
9 |
4月11日 |
1 |
家庭訪問(港区) |
10 |
4月23日 |
5 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(北区) |
11 |
4月24日 |
2 |
町田市障がい者青年学級(町田市) |
12 |
4月25日 |
6 |
地域の学習会(町田市) |
13 |
4月29日 |
2 |
盲重複障害者の学習会(武蔵野市) |
14 |
4月30日 |
4 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(小平市) |
15 |
5月1日 |
1 |
家庭訪問(沼津市) |
16 |
5月15日 |
2 |
重複障害教育研究所(文京区) |
17 |
5月21日 |
1 |
地域の学習会(越谷市) |
18 |
5月23日 |
2 |
地域の学習会(町田市) |
19 |
5月28日 |
1 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(八王子市) |
20 |
6月5日 |
1 |
盲重複障害者の学習会(武蔵野市) |
21 |
6月7日 |
1 |
大学の研究室 |
22 |
6月19日 |
1 |
町田市障がい者青年学級(町田市) |
23 |
6月25日 |
3 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(北区) |
24 |
6月26日 |
2 |
重複障害教育研究所(文京区) |
25 |
6月27日 |
1 |
地域の学習会(町田市) |
26 |
7月10日 |
1 |
重複障害教育研究所(文京区) |
27 |
7月17日 |
1 |
町田市障がい者青年学級(町田市) |
28 |
7月24日 |
3 |
重複障害教育研究所(文京区) |
29 |
7月25日 |
1 |
地域の学習会(町田市) |
30 |
7月28日 |
1 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(世田谷区) |
31 |
7月29日 |
1 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(世田谷区) |
32 |
7月30日 |
1 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(小平市) |
33 |
8月13日 |
1 |
地域の学習会(横浜市西区) |
34 |
8月17日 |
2 |
家庭訪問(練馬区) |
35 |
8月19日 |
1 |
家庭訪問(草加市) |
36 |
8月22日 |
1 |
視覚障害者の社会福祉施設(鯖江市) |
37 |
8月28日 |
1 |
家庭訪問(熊本市) |
38 |
9月2日 |
1 |
家庭訪問(中野区) |
39 |
9月4日 |
2 |
町田市障がい者青年学級(町田市) |
40 |
9月5日 |
1 |
重度障害者の通所施設(横浜市西区) |
41 |
9月18日 |
2 |
町田市障がい者青年学級(町田市) |
42 |
9月24日 |
2 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(北区) |
43 |
9月26日 |
2 |
地域の学習会(町田市) |
44 |
10月1日 |
1 |
地域の学習会(越谷市) |
45 |
10月8日 |
1 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(小平市) |
46 |
10月22日 |
1 |
地域の学習会(春日部市) |
47 |
11月20日 |
8 |
町田市障がい者青年学級(町田市) |
48 |
11月23日 |
1 |
盲重複障害者の学習会(武蔵野市) |
49 |
11月26日 |
2 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(北区) |
50 |
11月28日 |
1 |
地域の学習会(町田市) |
51 |
12月17日 |
1 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(小平市) |
52 |
12月23日 |
1 |
盲重複障害者の学習会(武蔵野市) |
53 |
12月26日 |
3 |
地域の学習会(町田市) |
54 |
1月5日 |
1 |
肢体不自由特別支援学校の学習会(世田谷区) |