障害者青年学級の創作歌 民衆文化の創造の試みとして

柴田保之

はじめに

私の前にある一冊の手作りの歌集。ここにはある集いの中で、10年あまりにわたって創作され、そして歌い継がれてきた20数曲の手作りの歌が収録されている。集いの名は町田市障害者青年学級。知的な障害をもった人たちがひと月に2回公民館に集まりいろいろな文化活動を集団的に繰り広げている場である。(註1)

 私がその集いの場に援助者としてかかわるようになって17年が経過した。活動がこのような形で結晶するとは、関わりを持ち始めた頃には全く予想だにしなかったことである。

 この障害者青年学級の活動は、社会教育活動の一環として知的な障害を持った青年や成人の学ぶ権利を保障する場であるが、私たちは、こうした活動を一つの民衆文化を創造する活動としてとらえてきた。本稿では、この青年学級の歌について考察を行うことによって、青年学級の文化について検討を加えてみたい。

一.町田市障害者青年学級について

 町田市障害者青年学級は、1974年11月に、障害者の親たちの、「非行から子どもたちを守り、就労が継続されるために、学校卒業後も安心して集まることのできる場がほしいという要望」から、町田市の社会教育の事業の一環として開設された。開設当初の学級生の数は20名であったが、1996年度には162名の参加をみるまでに発展を遂げてきた。開催場所も、当初は公民館だけであったが、参加者数の増加のために、1991年に新たにひかり療育園を加えることとなり、さらに、1997年度より、休日の小学校を借りて、3つ目の学級を開設することとなった。公民館とひかり療育園の学級は、同一の日曜日(原則として第1、第3日曜日)に開催されているが、3つ目の学級は、土曜日に開催されている(原則として第2、第4土曜日)。

その活動の形態は、時期によって違いはあるが、現在の形を紹介しておけば、音楽を中心としたコース、劇づくりを中心としたコース、生活をめぐる話し合いや活動を中心としたコース、スポーツを中心としたコース、自然の散策などを中心としたコースなどに別れて目的別の活動が繰り広げられている。(なお、土曜学級は、目的別ではなく、集団作りを目ざし、3つの同質の班からなる体制を組んでいる。)

また、1988年から、ほぼ毎年1回、青年学級の活動を母体として市民ホールで「若葉とそよ風のハーモニー」というコンサートが開かれるようになり、地域の中に自分たちの活動をアピールしていく重要な場となっている。

 

二 青年学級オリジナルソングの歴史

1.オリジナルソング成立にいたるまで

(1)青年学級にふさわしい歌の発見と表現活動の芽生え

 この青年学級が開設された1974年当時、今日の状況と比べて、障害者の生きる場はあらゆる面にわたって制限されていた。学校を卒業しても、一般就労のできないものは、在宅もしくは施設入所の道をたどる場合がほとんどで、共同作業所などの福祉就労の場は、まだ産声をあげ始めたばかりだった。また、学校教育についても、東京都はようやくこの年から希望者の全員就学を実施し始めたところで、全国的には障害が重ければ、学校教育すら保障されていないという状況にあった。

 したがって、彼らの文化的な環境ということについては、享受できる文化の選択肢がきわめて限られており、テレビを見たり、ラジオやカセットテープを聞いたりすることが中心となりがちで、しかも、それは孤独の中で行われていたことであった。

私は、開設当初はまだスタッフとしてかかわっていたわけではないが、当時の状況を知るものの話として、次のようなエピソードが伝えられている。

 それは、スタッフが、みんなで歌う歌のリクエストをとったところ、学級生たちが出したものは、演歌調の流行歌で、それが果たしてみんなで歌う歌としてふさわしいかということがスタッフの間で議論になったというのである。もちろん演歌自体を頭から否定することはできない。しかし、その歌が表現しようとしている内容や、それが表現される場が、青年学級にふさわしいのかということである。

 そうした議論が起こった1970年代中葉というのは、1960年代の学園紛争等によって高まっていた学生たちの政治意識が退潮していく中で、社会の正義というものに強い関心をもった学生たちが、障害者問題などの具体的な問題に目を向けようとしていた時代であると私は考えている。そして、そのような意識をもった若い学生を中心とするスタッフにとって、演歌に象徴される流行歌は、社会や変革などに無縁で、古い体質を引きずったものに思われたはずである。しかも、その頃、若者たちは爆発的に流行を始めていたフォークソングによって、古い世代に対抗する自分たちの歌を、ギターをかき鳴らしながらともに声を合わせて歌うという文化を生きていたのである。したがって、若いスタッフにとって演歌などに違和感を感じるのはむしろ当然であった。

 この時、議論が演歌の是非に終始するばかりだったならば、それはあまり生産的な議論とは言えなかっただろう。しかし、この議論を通じて明らかになったことがあった。それは、学級生のおかれた文化的環境がいかに制約されたものであるかということである。そして、真に問われるべき問題は、この制約をどのような形で越えていくかということだったのである。

 そして、それに答える試みとして、うたごえ運動(註2)と呼ばれる流れの中で歌い継がれてきた歌や、フォークソング、テレビの青春ドラマの主題歌などが持ち込まれることとなった。当時、学生や労働者の様々な集会などでそうした歌は歌われていた。それらは、青春や友情、夢などをテーマとしたものが中心で、メロディーもリズムも集団で声を合わせて力強く歌いあげるのに適したものであった。また、振り付けのついている歌もいくつかあり、一緒に体を動かしながら声を合わせて歌うことで集団の一体感が深められ、閉ざされがちであった学級生の身体は解放されていった。

 なお、この時、フォークソングとして当時マスメディアをにぎわせていたものが、そのまま持ち込まれているわけではないということも注目しておいてよいだろう。それ以前には、プロテストソングなどという言い方をされていたフォークソングは、政治意識の退潮と歩調を合わせるようにして集団性を失い、個人の心情の発露ないし恋愛の物語を歌いあげるものへと変貌しており、青年学級のような場にはなじみにくくなりつつあったと言えるだろう。

 それらの歌は、ほとんどが学級生の知らない歌だったが、そのことがかえって青年学級の場を他の生活の場から際立たせることとなり、それらを覚え、歌うことによって、青年学級への帰属感がより深められることにつながっていった。そして、学級生たちにとって、それは、「青年学級の歌」としてとらえられていったのである。

 しかも、家族の誰もが知らない歌を持つといういささか秘密めいた事柄はどんなにささやかなことであっても、家族からの自立の芽をはらむものであり、大人への道をさらに一歩踏み出すことを意味していたのである。これは、もちろん歌だけに限られたことではなかったが、青年学級の新しい文化の創造の場が障害のある青年たちに開かれ始めたということを象徴するものとなっていたと言えるだろう。

 そして、青年学級を訪れる者は、学級の初めと終わりの集いで学級生たちが力強く歌いあげる姿に、激しく心を揺さぶられるというような情景が繰り広げられるようになっていった。

 それは、一人寂しくカセットテープの音楽に耳を傾けるという中で生きざるをえなかった当時の障害を持った青年たちのイメージを一新するものであった。新しく参加してくる学級生も、そしてスタッフも、こうした歌を覚えることによって初めて集団への参加を遂げることになったと言ってもよいだろう。

 しかし、まだこの時期、歌うという活動は、活動の始まりや終わりなどに、一体感を確かめ合うかのように歌われていたのであって、開級式に始まり年度末の成果発表会に向かって高まっていく一年の流れの中に有機的に組み込まれていたわけではない。

 年度の初めに作られる班のメンバーがそれぞれを互いに知り合いながら一人一人の集団の中での位置がしだいに明確になっていく中で、それぞれの思いが語られ始め、最終的に成果発表会へとつながっていくプロセスの中で重要な役割を演じていたのは、むしろ、劇などを中心とした表現活動であった。(当時は、目的別のコース体制ではなく、班体制であった。)

 また、自分たちの思いをつづるものとして、「とびたとう」という文集も作られており、今日にいたっている(なお、この文集の名前は、うたごえ運動の歌「とびたとう」の名前からとられたものである)。

このように、一方では、自分たちにふさわしい歌の広がりを通して、他方では、班活動を通した表現活動の発展を通して、文化的な制約の中で形にならぬまま密かに醸成されてきた一人一人の文化への熱い思いが、少しずつその独自の姿を現し始めてきたといえるだろう。

 なお、この時期さかんに歌われた歌は、うたごえ運動で歌い継がれた歌としては、「青春」「たんぽぽ」「とびたとう」「ぼくのひこうき」、フォークソングや青春もののドラマの主題歌としては、「若者たち」「太陽がくれた季節」「青春時代」「これが青春だ」などをあげることができるだろう。

 特に、うたこえ運動の歌の中でも名曲として名高い「青春」は、学級生たちの熱い思いの表現にふさわしいもので、腕を突き出して前を指さしながら「なくしたくない、この燃え上がる熱いもの」と歌う姿は、非常に感動的なものだった。

(2)一人の一人の言葉を歌にのせる試み

 青年学級では、一人一人の生活を見つめ直すことを開設当初より目ざしてきたが、活動の深まりと集団の高まりを通して、一人一人の生活の中での様々なできごとや思いが少しずつ語られるようになり、上述したように、劇や文集といった形で表現されるようになってきた。

 そして、そうした中で、国際障害者年(1981年)を迎え、この年のねらいとして、「生活を見つめ直し自分たちの思いをアピールする」ということを掲げ、活動を進めていくことが班長会で確認された。

 私は、この年度から関わりを始めたのだが、当時の雰囲気は、その2年前に養護学校義務制が実施され、障害児や障害者にかかわる人間はいやおうなしにその是非についての議論に向き合うことが求められるような熱気あふれるものだった。そして、そこに国際障害者年というものが重なったわけで、マスコミを通した様々なキャンペーンも行われる中、若いスタッフたちも障害者と社会の問題にいきおい目を向けるようになっていたのである。

 こうしたねらいに基づいて青年学級の活動を組み立てていく中で、表現活動の取り組みはいっそうその重要性を増し、年度末の成果発表会では、劇を通して仕事を中心とした自分たちの生活の中の様々な思いが語られるようになっていった。

 しかし、生活を見つめ直し、自分たちの思いをアピールするということは、それほど容易なことではなかった。若いスタッフたちの思いは、当初、学級生たちの被差別体験や、生活上の諸困難に照準を定める傾向を持ってしまった。当時の障害者問題の語られ方からするとそれも無理からぬことではあったが、そうした体験を語ることは、結果的には、活動を非常に重苦しいものにしたり、希望を見いだせないというような展開を生んでしまった。そして、そうした学級生たちにとって否定的な意味を持つ体験だけにとらわれるのではなく、もっと肯定的な意味を持つ生活上の体験にも目を向けていくべきであることが、確認されたのである。

 そして、活動の中で肯定的な体験として、夢を語ること、できること、現在の自分の誇らしい姿を語ることが意味を持つということが実践的に明らかにされ、それぞれ、「〜したい」、「〜できる」、「〜している」という形式の表現が、頻繁に使われるようになり、積極的に生きている学級生の姿が浮き彫りにされるようになってきたのである。

 そして、こうした活動の自然な流れとして、自分たちの思いを歌にのせるという試みが見られるようになってきた。しかし、それは歌い継ぐ歌としての歌とは一線を画すもので、簡単な創作メロディー(1982年)や歌いやすい童謡や流行歌の替え歌(1983年)であった。こうした歌では、あえて歌を完成度の高いものにするよりも、できるだけ学級生の言葉をそのままの形で表現できることに重点を置かれていた。

 また、1984年には、成果発表会の発表の中で、当時アマチュアバンドで活躍していた一人のスタッフがイメージソングのようなかたちの歌を創作してきて、合唱するということもあった。しかし、これも、あくまで成果発表会のための歌であり、歌い継ぐ歌とはならなかった。当時、完成度の高い歌い継げる歌は、あくまで、外の世界の専門家が作ったものであり、一人一人の思いを大切に言葉にした歌詞から歌い継げるだけの質を備えた歌が生まれると考える者はいなかったといえるだろう。

2.青年学級のオリジナルソングの誕生と発展

(1)コース制への移行をきっかけに

 そのような中で、しだいに文化ということの重要性が認識されるようになり、活動の内容に応じたコース制が1985年から導入されることになった。それまで午前と午後との活動を、集団活動を重視する「班活動」と、一人一人の学習要求に答える「各自の課題」とに分けていた活動の形式を一新し、それぞれの要求に集団的に答えていくために、一日同じ集団で活動するコース制になったのである。

 例えば音楽については、各自の課題に「音楽班」というものがあり、歌を歌ったり楽器を練習したりする活動が行われていたわけであるが、この中には、上述したような集団の高まりの中で語られる生活の思いを語る場ではなかった。それが、コース制の導入によって、音楽をやりたいという要求をもって集まってくる学級生が、同時にそれまで班活動によって取り組まれてきた自治的な活動や生活を見つめ直す活動を、音楽という素材と関係づけながら取り組んでいくというようになったのである。

 そして、スローガンとして、生活の見つめ直しから生活づくりということが語られるようになった。月2回の青年学級の活動ではあるが、生活を学級活動に持ち込むところから、学級活動の成果を通して一人一人の生活が再創造されていくことを目標にすえることになったわけである。

 初年度のコースの中には、文化芸術コースという野心的な名前をつけたコースも生まれ、劇や音楽を総合的に取り組むことを目ざし、年度末の成果発表会で劇と「愛ってなに」というオリジナルソングを歌った。学級生たちと、生活の思いの中でもとても大切な愛をめぐる思いを一緒に考えようよというメッセージからなるこの歌は、現在からみれば、歌い継がれても全く不思議はなかったのであるが、あくまで成果発表会のための一つの歌にとどまり、その後、ほとんど歌われたことはない。

 しかし、こうした質の高さを備えた歌作りの作業は、少しずつ歌の創作の気運を高めていくこととなり、1985年の音楽コースで、新しい動きが生まれた。それは、「ともだちのうた」と「僕らの輝き」の創作である。この年、音楽コースは人数の関係で二つのコースに分かれていたのであるが、積極的にみんなの思いを歌にすることを試みた。一方のコースでは、始めは音程の動きの少ないメロディーに一人一人の言葉をそのままのせるところから始めた(「夏の思い出」)のであるが、その発展として、まず、「ともだちのうた」が作られた。ともだちってなんだろうというテーマについてみんなで話し合いながら出た意見を黒板に書き取っていき、それをつなぎ合わせて一つの歌に仕上げたのであるが、それが思いのほかうまくいき、今度は、もう一方のコースで一人一人のすばらしいところ、いちばん輝いているところを出し合って、それをもとに「僕らの輝き」が作られた。(なお、当初はそのコースの人数分の歌詞があったが、歌い継がれる中で、4人の歌詞が定着した。)

 この二つの歌は、一人一人の思いがそのまま歌詞に表現されている上、非常に歌いやすい歌だったので、繰り返し歌われることになり、歌い継ぐ歌としてしだいに、意識され始めるようになってきたのである。

 

 『夏の思い出』

私の夏の思い出は(静岡の海へ)出かけたことです

(大きな波にのったり砂山を作って遊びました)

私の夏の思い出は(静岡の海へ)出かけたことです

※()内にめいめいの言葉を入れる

 

 『ともだちのうた』

ともだちともっといろんな話がしたい ともだちをもっとたくさん作りたい

仕事が終わってうちに帰った時 誰かに電話をかけてみたくなる

病気で休んでる美穂子さんは 今頃どうしているだろうか

ともだちともっといろんな話がしたい ともだちをもっとたくさん作りたい

ともだちともっといろんなところへ行きたい ともだちをもっとたくさん作りたい

私の車椅子押してくれる ともだちと一緒に町へ出たい

一人じゃつまらない映画やコンサート ともだち一緒に出かけたい

ともだちともっといろんなところへ行きたい ともだちをもっとたくさん作りたい

 

  『僕らの輝き』

僕らの輝きを君に届けよう 今歌声にのせて

大きな声で歌を歌えば 胸に勇気がわいてくる

仲間が道に迷った時には 元気な私が助けてあげる

ドラムにあふれる思いやり キャリアが豊かな僕だから

リズムにのせて伝えたいのは 僕の心のやさしささ

僕らの輝きを君に届けよう 今歌声にのせて

ボンゴでリズムをたたいてる時の 僕の姿を見てほしいよ

得意のポーズもきまってるだろう とってもかっこよく見えるだろう

音楽にのせ自分の思いを みんなにアピールしてゆきたい

踊りが得意なすてきな僕が 僕の人生の主人公さ

僕らの輝きを君に届けよう 今歌声にのせて

 

(2)若葉とそよ風のハーモニーコンサートへの発展

 そのような中、1987年の秋、共同作業所全国連絡会の東京支部の主催で開かれた文化祭典「キラキラ笑顔のメッセージ」に、かたつむりの家共同作業所の発表を応援する形で、3つのコースが自分たちの歌を携えて参加することとなった。「かたつむりの家」の利用者や職員が青年学級に参加していたからである。曲目は上述の「ともだちのうた」「僕らの輝き」に加えて、「かたつむりの家」のテーマソングであった。

このかたつむりの家は、養護学校卒業後に通える場所を作ることを目指して親たちが始めた運動によって生まれたものであるが、青年学級の学生スタッフの一人が、早くからこの運動に共鳴し、卒業後も青年学級のスタッフを続けながら、その作業所作りの運動を進めてきた。そして、まさに、この文化祭典が行われた1978年の4月、養護学校を卒業したメンバーを迎えて作業所の実質的な活動が開始されたところであった。1980年代には、こうした動きは全国的な広がりを見せており、この文化祭典も、都内各地の同様の運動の高まりの中で催されたものであったのである。

 この催しに参加して、私たちは、自分たちの表現がいささか異質のものを含んでいることを感じた。もちろん、他の作業所の歌声は、非常に感動を呼ぶものであったが、私たちの歌が、とりわけ、障害者自身の思いを力強く表現したものであったことに気づいたのである。

 それは、一人一人の肯定的な体験に焦点をあてていくという生活を見つめ直す活動の一つの成果であったと言ってよいだろう。

 都内各地から集まった共同作業所の大勢の観衆に、自分たちの歌が十分にアピールしえたという体験は、大きな自信を与えてくれた。そして、「市民ホールで歌いたい」という希望がある学級生から提起され、その感動の余韻の中で市民ホールでのコンサートに向けての取り組みが始まることになったのである。これが、若葉とそよ風のハーモニー(以下「わかそよ」と略す)にほかならない。そして、1987年度に作られた「はたらく友」「心のキャンバス」「ぼくたちの夢」を加えて第一回のコンサートが1988年4月に開催されたのである。

 この新たに加えられた三つの曲の誕生は、自分たちの歌を作るという流れを確かなものとした。いったん自分たちでも歌を作ることができるという事実を手にしてしまうと、堰を切ったように、新しい歌が生まれ始めたのである。しかも、「ぼくたちの夢」は、音楽に取り組んでいるわけではないものづくりコースで作られた歌だった。

 青年学級では、実践の柱として文化的な活動の重要性をすえていたが、ここに、自分たちの歌としての文化がはっきりとしたかたちをもって確立され始めたと言えるだろう。そして、こうした集団の場をもとにした手作りの歌が生活実感を生き生きと表現し、文化の送り手となりえているということから、まさしく一つの民衆文化の創造であるということも確認された。

 

 『はたらく友』

私の好きな彼の 作業所に行ってみたい

遠く離れているけれど 何をしてるのかしら

彼のはたらく姿を そっとのぞいてみたい

頑張っているところを 歌にできたらいいな

白いコック帽子 響く朝の歌声

ピカピカ光る冷蔵庫 ここが私の机

僕たちの仕事場へ ようこそ友だちよ

あなたに話したい 僕らの仕事のことを

 

  『ぼくたちの夢』

ぼくたちみんな夢がある 胸にしまっておいたこと

あなたの夢を聞かせてほしい ぼくらの夢を話そう

いつか花束かあさんにあげて やさしいお嫁さんになれたらいいな

きれいなドレスを着て

ぼくたちみんな夢がある きままなドライブコンサート

お風呂屋の番台に座ってみたい そんなぼくたちの夢

一人一人の小さな夢が もっと大きくなったらいいな

すてきな明日を夢見て

 

3.オリジナルソングの広がりと蓄積

 わかそよのコンサートが開催された1988年度以降、音楽コースや劇ミュージカルコースでは、むしろ、歌を作ることが当たり前のようになっていった。現在、青年学級の歌集として編集されているものには、こうやって歌い継がれたオリジナルソングが25曲掲載されている。

 この歌集は、1997年に開かれた第8回のわかそよが終了した時点で編集されたものであるが、この10年近くの問に作られてきた歌の中には、そのまま歌われることがなくなり、歌集にも掲載されていないものもあって、それらも含めれば実にたくさんの歌が作られてきたことがわかるだろう。

 この間、青年学級自体も、どんどん規模を広げていき、公民館学級だけでは収まりきれなくなった。そして、1991年に二つの学級に分かれ、重度障害者の通所施設、「ひかり療育園」の場を借りた「ひかり学級」が誕生した。こうした青年学級の規模の拡大には、わかそよのコンサートを通して、青年学級の存在とその活動の内容が広く知られるようになったことも一役かっていたと言えるだろう。

このひかり学級誕生の時には、こんなすてきなエピソードがあった。それは、「ひかりのテーマ」の創作である。「さあ行こう今ぼくらの旅が始まる」という言葉で歌い出されるこの歌は、公民館の仲間たちと別れることの寂しさを越えて、新しい場所で新しいものを作り出すという希望に満ちた歌で、みんなが抱えていた不安を吹き飛ばして、ひかり学級の活動が順調に動き出す原動力になったと言ってもよいだろう。

 

  『ひかりのテーマ』

さあ行こう 今ぼくらの旅が始まる ひかりの世界へ

さあ行こう 今ぼくらの旅が始まる ひかりの彼方へ

ここで君と出会って話せたこと ぼくは忘れないよ

君とともに一つのステージに立ち 輝いたあの青春の日々

ぼくらの道は 今二つに別れても また会える約束さ

さあ行こう 今ぼくらの旅が始まる ひかりの世界へ

さあ行こう 今ぼくらの旅が始まる ひかりの彼方へ

 

 また、1992年にはほとんど同時期に行われた二つのイベントにも参加した。一つは、国連障害者の10年の最終年を記念して都庁のおまつり広場で開かれた「芸術祭おまつり広場」で、もう一つは、共同作業所全国連絡会の全国大会のイベント「うたごえ東京」である。町田から外へうって出て行われたこの二つ催しへの参加は、改めて自分たちの活動の確かさを再確認することにつながった。もう、どんな場所に出ても動じることのないたくましい集団として成長を遂げていたのである。

 この時に歌った歌の中には「君への旅立ち」がある。これは、青年学級のスタッフであった共同作業所の職員が、共同作業所全国連絡会の募集に応募して入選した曲であるが、言わば青年学級やわかそよの土壌の上に花開いたような歌であり、すっかり、青年学級の歌として定着している。

 今年も、第8回のわかばとそよ風のハーモニーコンサートが開催された。そして新しいオリジナルソングも生まれ、新しいミュージカルにも取り組んだ。青年学級の文化創造の歩みは、一歩一歩ずつであるが、休むことなく続けられ、そして今もまた続いている。

 

  『君への旅立ち』

どんなに果てしない海であっても 人は越えてきたよ 長い歴史の中で

だけど君とぼくの間に広がる海を 越えることが こんなにもむずかしい

ぼくの声小さいですか 君の心に届くには

この同じ地球に生まれ 今めぐりあえたのに

信じたい小さないのち 小さな人間だけど

君の海へとこぎだす船を きっとみつけるよ

はるか雲のかなた 空をめざして人は 翼求め いくども飛び立った

だけど君とぼくの間に 広がる空を越える翼 誰にもみつからない

ぼくの道ぼくの人生 君の心に伝えたい

見つめあいわかりあって 同じ道を歩きたい

信じたい小さないのち 小さな人間だけど

君の空へと飛び立つ 翼きっと見つけるよ  (平野まみ作詞作曲)

 

三.オリジナルソングの創作や継承をめぐって

(1)オリジナルソングとは何か

 「学級ソング」という呼び方がいつの頃からかなされるようになってきた青年学級のオリジナルソングだが、いろんな観点から分類することが可能である。

 まず、創作のきっかけとしては次のような四つをあげることができる。

 第一に、青年学級の日常的な表現活動の一環として生まれてくるものである。これは、どこかで成果発表会やわかそよを意識していないわけではなく、結果として成果発表会やわかそよで歌われることはあるわけだが、まずは、コースの活動の中で一人一人の思いを形にするために作られてきた歌である。

 第二に、あげられるのは、青年学級の成果発表会のために作られたものである。これは、ステージでの発表をより豊かなものにするための活動として生まれるものである。

第三番目は、わかそよのコンサートのために作られたものである。これは、「夢のかけ橋」や「すてきな笑顔」のように、わかそよの実行委員会の活動の中で生み出されたりしてきたものである。ミュージカルの劇中歌などとして生み出されてきた歌もたくさんあった。

 第四番目は、青年学級に縁の深い場で作られたものである。例えば、「君への旅立ち」のように、学級生やスタッフが通っている作業所などで生み出された歌が、青年学級の中で歌われるようになってきたものなどを上げることができるだろう。

 また、歌詞の作られ方からは、次の三つをあげることができる。

 まず、第一に、学級生たちが集団活動の中で語り合ったり綴りあったりした言葉をそのまま並べたりいくらかの手を加えてできあがった歌である。歌詞としては、形式的にぎくしゃくしたり、意味の流れがやや滑らかでなかったりすることはあっても、生の思いがそのまま表現されやすくなる。

 第二に、青年学級の活動のイメージをもとに、スタッフが作るものである。ただし、スタッフが作るとはいえ、それはスタッフ個人の思いを表現するわけではなく、あくまで青年学級の場で生み出されたものが根底にあって、多くの場合学級生の具体的な言葉や思いをできる限り生かしながら作られてくるもので、例えば、1996年度の「トマバナサンバ」などをあげることができる。

 

 『トマバナサンバ』

大空へと続く道 カタカタ靴音鳴らして

思わず歌いたくなる 君のこと思いながら

流れる雲 丘の街 愉快に飛び交う鳥たち

瞳に映るすべてが ロマンティックに輝き出すよ

トマトマトマト ラララバナナ こんな気持ち伝わるかな

バナバナバナナ ラララトマト 届けたいなトマバナサンバ

今もどこかの街で 笑顔ふりまいてるだろう

歩き疲れた時も そんな君を思い出す

あきらめかけていた夢 もう一度追いかけようかな

どうしてだろうこんなにも 勇気で胸がいっぱいさ

トマトマトマト ラララバナナ こんな気持ち伝わるかな

バナバナバナナ ラララトマト 届けたいなトマバナサンバ

ときめきの風に ほら背中押されてる

ずっと言えなかった ひとことが言えそうさ

トマトマトマト ラララバナナ こんな気持ち伝わるかな

バナバナバナナ ラララトマト届けたいな トマバナサンバ

 

 第三に、学級生が個人的に作る場合をあげることができる。こうした歌詞の創作を行っている学級生の数はまだ限られているが、ある車椅子の女性は、これまでに、「さよならの風」「夢かけ橋」「ステージ」といった歌の歌詞を手がけてきている。

 

  『さよならの風』

さよならの風が 通り過ぎてゆく

少女から大人へと 旅立つ私

思い出の中の 20年の日々

まるで夏の空のよう 輝いているよ

雨上がりの午後の日ざし あざやかな緑

一歩ずつ階段 のぼってく私       (杉本直美作詞)

 

 最後に曲の作られ方について触れておくと、これまでのところ、直接学級生が参加したということはほとんどなかった。しかし、曲の創作について特筆すべき点は、多くの場合、メロディーを創作したスタッフは、ほとんど曲など作ったことがなかったということである。

いくつかの曲は、実際に音楽活動を行っている人の手になっているわけだが、むしろそれは例外であったといってよいだろう。

 また、1995年度の「夢にのせて」のように、学級生が口ずさんだメロディーをもとに作られた歌も現れているということや、1997年度の「抱きしめたいこころ」において、みんなで作った歌詞を黒板に書いたものに、一人の自閉的な障害のある女性が口ずさむようにしてメロディーが生まれるというようなことも起こりつつある。

(2)オリジナルソングが青年学級の歌になるまで、

 以上のようなオリジナルソングは、それでは、どのようにしてみんなに歌い継がれて、青年学級の歌として定着していくのだろうか。

オリジナルソングは、どんなにいい歌であっても、最初は、一つのコースの中だけで歌われるもので、そのままでは全体の歌にはならない。これまでの歌が学級ソングとして歌い継がれてくるのに、決定的な役割を果たしてきたのは、やはりわかそよのコンサートだった。

わかそよの歌として練習することを通して歌の歌詞もリズムもメロディーも一人一人の学級生の体の中に刻み込まれてきて、学級ソングとなってきたのである。

 そのように考えると、一つの歌がわかそよで歌われるかどうかということが、学級ソングとして歌い継がれるかどうかのポイントだということになる。

 それでは、一つの歌がわかそよで歌われるまでにどのような経過をたどるのだろうか。

まず、何と言っても、一つの歌がコースの中で共有され、歌い継がれていなければならない。今年度のわかそよでも、オリジナルソングがコースの歌になるかどうかでいくつかの議論があった。

 例えば、トマトバナナコースで取り組まれた「トマバナサンバ」は、アップテンポのリズミカルな曲で、これまでの青年学級の歌にはなかったものが含まれていた。しかし、それだけに、学級生たちに受け入れられるのに時間がかかった。この時、必ずこの歌が学級生たちに受け入れられるとの見通しがスタッフの側になければ、この歌がみんなの体に刻み込まれるまで歌い続けることはできなかったかもしれない。

また、一昨年度の音楽コースで作られたオリジナルソングは、成果発表会に向けて急いで作られたこともあって、必ずしも十分にみんなのものになりきれずに次の年度を迎えた。この時は、一人の学級生が自分たちの歌としてこの歌を大切にしていたために、次年度の音楽ハッピーコースで曲名(「小さな声と小さな夢」)をつけ、歌い継ぐことになった。この時、スタッフの側はむしろ歌い継ぐことへの見通しを十分には持ちきれていなかったと言える。

生活コースでも、1995年度の成果発表会のために、「夢にのせて」が作られた。しかし、まだ十分に歌い継がれるものとはなっていなかった。ところが、次年度の活動が進んだ段階で、スタッフの側で、もう一度歌うことを提案した。しかも、この時は、音楽トマトバナナコースのメンバーも巻き込んで一緒に帰りのつどいで歌ったのである。やや歌いにくいところのある歌だったため、すぐには歌い継ぐ歌にはならなかったが、このことがきっかけで、この歌は忘れ去られることなくわかそよにつながっていったのである。

 このように、一つの歌が、コースの中で歌い継がれていくためだけでも、その歌を大切にしていこうとする気持ちや、歌い継ぐ歌にしていくための見通しといったものが必要であったことがわかる。

 こうしたコースの歌が、さらに、わかそよで歌われる歌になっていくためには、どのようなプロセスがあるのだろうか。

同じく今年度の取り組みの中で、次のようなことがあった。

 わかそよで歌う歌を決定するのは、青年学級の場ではなく、青年学級とは別にもたれる実行委員会においてである。もちろんこの実行委員会には学級生たちも数多く参加しているのだが、青年学級に参加していない学級生もいる。今回のわかそよでは、最初は、青年学級で新たに生まれた歌のうち、わかそよで歌うことに決まった歌は「トマバナサンバ」だけであった。「夢にのせて」や「小さな声と小さな夢」はこの段階では、採用されなかったのである。

それは、歌いにくかったり、歌詞が未完成であったことが理由なのだが、それを克服するために、二つの曲にはスタッフによって手が加えられた。残念ながら、こうした作業が年度の変わり目だったため、学級日がなく、学級生たちとともにその作業を行うことはできなかった。そうした問題を抱えながらも、こうしたことの結果として、この二つの歌は、わかそよのステージで歌われることとなり、みんなに歌い継がれることとなったのである。ここにも、歌を大切に思う気持ちやその歌がわかそよで歌えるための見通しを持つことが必要であることがわかる。

 このようなプロセスは、わかそよが始まった当初の集団の規模ではあまり問われることはなかったが、最近のように学級自体が大きくなり、わかそよも市民をまきこんだ大きな取り組みになってきた段階では、意識的にとらえていかなければならなくなって.きたように思われる。実際、今回のわかそよで新たに歌われた三つの歌に限ってみても、上述したようなことのどれかが欠けていたら、歌われることなく忘れられていったかもしれなかった。

 

  『小さな声と小さな夢』

君の小さな声 僕の小さな声 聞こえてくるよ あのメロディー

君の小さな夢 僕の小さな夢 大切な思い出教えてよ

あの電車に乗って 一人で切符を買って 次の町まで行くよ

家に帰った時 うまく言えない時 僕をはげますあのメロディー

前を見つめる時 一歩ふみ出す時 私の電車動き出す

君の小さな声 僕の小さな声 聞こえてくるよ あのメロディー

君の小さな夢 僕の小さな夢 大切な思い出 教えてよ

仕事の手を止めて 心の耳をすませば みんなの歌が聞こえるよ

今度の日曜日 みんなに会えるかな 僕の気持ち伝えたい

今ごろみんなも 仕事をしてるかな いっしょに歌おうあのメロディー

 

  『夢にのせて』

誰にもじゃまされないで 自由に生きてみたい

どこまでも続け どこまでも走れ

ぼくのサイクリングロード 私のブルーバス

だけど好きな人と二人で暮らすのもぼくの夢

どうしたら好きと言えるかな 結婚できるかな

二人で働くのもきっと楽しいな

みんなの幸せそれは私の幸せなの

かなわない夢でも大切なことは夢を持つこと忘れないこと

どうしたら幸せになれるのかしら

お金があればそれだけでいいのかな

だけど私は幸せのケーキ作ってあげたい

 

四.民衆文化としての青年学級のオリジナルソング

 私たちは、青年学級の文化を民衆文化としてとらえ得る条件として、次のようなことをあげてきた。すなわち、「集団による創造」、「生活実感の表現」、「手作りであること」、「文化の受け手から送り手への変容」というものだった。ここでも、基本的にはその枠組みをふまえて検討を加えたい。」

(1)集団による創造

 青年学級のオリジナルソングの表現するものをひとことで説明しようとすれば、それは、集団の場で初めて形作られた思いというように言えるのではないだろうか。通常、詩と言われるものは、個人の内面の表出と考えられることが多い。それは、決して詩に限られたものではなく、近代以降の芸術は一般に個人の内面の表出というモデルで考えられてきたといってよいだろう。

 しかし、青年学級において表現されているものは、単純な内面の表出モデルでは語ることができない。

 それは、まず、一人一人の個人的な思いが表現される場合であっても、それは、語り合う集団の場があって初めて成立しえたということである。日常の生活の中で様々な思いを一人一人は抱いている。しかし、それはそのままでは、形にはなりにくい。そうした思いが形を取るのは、自らの話に耳を傾けてくれる仲間がいるからであり、また、仲間の語る思いが自分自身の思いに響きあうからである。しかも、そうした思いの交わし合いは、励ましの言葉を生んだり、して、単なる思いの語り合いから、未来への発展を生み出すこともある。例えば、1994年度の「私の想い」の中には、次のような一節がある。すなわち

「大切なお姉さんがなくなりました 私は二階で泣きました 一人になるのが少し心配」という一人の言葉に対して、「なんとかなるさ仲間がいれば大丈夫 いつか気の合う仲間と グループホームで暮らしたい」と答えるのである。

 一方、表現された内容が、初めから集団の中で感じられたことを形にしたものもある。1994年度の「おどりだそうよ」という歌の歌詞の一部は次のようなものである。

 

どこまでもつづく青い空 ポカポカおひさまあったかい

大好きなあの人と いっしょにおどりたい

広場にみんな集まれば ほらからだが動き出す

ちょっぴり恥ずかしいけれど とても幸せ気分さ

ラララみんなで手をつないで 大きな輪をつくろう

そしてリズムに合わせて踊りだそうよ

 

 ここに、表現されているものは個人の内面なのではなく、集団があることによって初めてもたらされるもので、集団の場で共有されている一つの気分や思いを表現したものだと言えよう。

 ところで、こうした集団による創造とオーケストラなどにおける集団性との違いにもひとこと触れておきたい。オーケストラなども集団による創造活動であることは間違いないが、表現されているものは、一人の作者の内面である。もちろん、集団の個性は創造に反映されてはいるが、表現内容の中心ではないのである。

このような集団による創造ということをつきつめていくと、作者という問題にぶつかる。

 こうした歌の創作という場合、歌詞やメロディーの作成のプロセスに、必ず特定の個人の作業が存在している。そして、すでに述べたように、特にメロディーについては、ほとんどスタッフが作ることが多い。したがって、その人をもって作者ということは間違いではない。

しかし、その作業はあくまで全体のプロセスの中の一部であり、歌詞やメロディーの作成をするというのは、集団の中での一つの役割を演じているにすぎないとも言えるだろう。実際こうした役割を演じるスタッフは、集団の高まりに突き動かされるようにして、歌詞やメロディーを作るのであり、主体性は集団の側にあると感じることが多く、作者はあくまで集団であるというのが実感である。

(2)生活実感の表現

 生活と言うものを主題に据えた青年学級の活動においては、上述したような集団による表現の内容は、往々にして生活実感を表現したものになる。例えば、青年学級の歌の中でもとりわけ生活実感を表現していると想われる「生きているぼくら」という歌は次のような歌詞である。

 

  『生きているぼくら』

今日も朝早く仕事にでかける 一日元気に働けますように

いつかはやってみたいそんな仕事も 胸の中にはいっぱいあるけれど

僕たちはみんな今日を生きてる 働くことの意味を考えながら

一人で暮らすことはどんなことなの 気楽で自由で楽しいことなの

夜中に目を覚ますと風が吹いてる そんな時にはやっぱり寂しいな

僕たちはみんな今日を生きてる 暮らすことの意味を考えながら

 

 この歌にこめられているものは、日々の労働や一人暮らしといった生活の中で素朴に感じられている思いである。素朴ではあるが、一人一人の生活の中での感じている思いがしみじみと伝わってくるものであり、生活というものに向き合っているもののみが表現しうる独特の強さをもっているように私には思われる。

 典型的な民衆文化である日本の民謡は、農業や漁業、あるいは子守などといった労働の中で感じられる生活実感を表現したものであったが、近年、そうした労働と結びついた歌は、失われてしまった。先に問題にした演歌と呼ばれる歌なども、生活と向き合う者のある種の実感に添うものではあろうが、生活実感そのものを表現したものではない。

 また、若者の歌には、時に、例えば尾崎豊の歌などのように、青年期特有の身もだえを表現したものが広く聞かれたりすることがあり、それは若者の生活実感を表したものと言えるものかもしれないが、労働や日々の暮らしにしっとりと向かい合ったものとは一線を画すものであると言えるだろう。

 そうした中で、青年学級で表現されたものは、そうした労働に結びついた生活実感を見事に歌い上げていると言えるのではないだろうか。

(3)手作りであること

 こうした青年学級の創造活動は、手作りであるという特徴をもっているわけだが、それは、まさに自分たちの集団の独自性や生活実感にかなったものを表現するという目的から必然的に要求されたものであった。もちろん、既製の文化を否定するわけではない。それが、学級生の要求にかなうものであれば、積極的に取り入れていくべきであり、うたこえ運動の歌はそういうものだった。しかし、活動が発展すればするほど、自分たちの独自性に見合う表現を必要としてくるようになってきたのである。

青年学級においては、そうした手作り性は単に歌だけではなく、劇やミュージカル、作文、自分たち独自のルールを持ったスポーツというように、他の活動においても見られてきたことで、様々な活動の中核となっているといってよいだろう。

 ただし、手作りのものは、往々にして質の高さを維持することがむずかしい。手作りであればそれだけですぐれているというわけではないのだ。したがって、そこには、本当に一人一人の学級生の要求に答えることができているかという絶えざる吟味が不可欠となる。

 また、われわれはマスメディアを媒介として日々伝えられてくる商業主義的な文化に取り巻かれているために、そうした文化が引き寄せる力とどのように折り合いをつけていくかということもしばしば問われることとなる。例えば、好きな歌を歌おうという働きかけをするような場合、たくさんの選択肢の中から主体的に一つの歌を選び出すというのでなく、限られた選択肢の中からマスメディアの流れに巻き込まれたまま半ば受動的に選び出されたものであるならば、それは、学級生の要求を満たすものとはいいがたく、反対に、本当の要求を覆い隠すものにさえなりかねないだろう。

(4)文化の受け手から送り手への変容

 二─1で述べたように、青年学級が開設された当初の学級生たちの状況は、マスメディアが流す商業主義的な文化を受動的に享受することがほとんどであった。そうした中、歌に限って言えば、うたごえ運動の歌やオリジナルソングを通して、そうした文化に対抗する自分たち独自の文化を創造してきた。しかし、初めから文化の送り手を目指すというような発想で進められてきたわけではなかった。

一方、私たちは1981年の国際障害者年に「生活を見つめ直し自分たちの思いをアピールする」というねらいを掲げたわけだが、その時、アピールするということの具体的なイメージを持つことはむずかしかった。年度末の成果発表会で自分たちの思いを表現したり、文集を作ったりしても、それが、公民館の外の社会に届いているという実感はなかなか得られなかったのである。しかし、何かメッセージを社会に向かって送りたいという思いは、こうした活動の中で少しずつ高まっていった。

 そういう中で、私たちは、1987年の文化祭典「キラキラ笑顔のメッセージ」と出会うこととなったのである。そしてすでに述べてきたように、この時、自分たちは、歌を通して社会に向かってアピールしていくことが可能であるということを発見した。そのような中で開催された若葉とそよ風のハーモニーコンサートは、私たちを一気に文化の送り手と自覚させることとなったのである。

 しかもコンサートの回数が重なるにつれ、歌の数も増え、群読やミュージカルといった新しい表現手段も加わって、様々な思いを広くアピールするということが可能となったのである。

 そして、こうした文化の送り手になるということは、聴衆に対して自分たちの思いを届けえたという現実的な成果だけでなく、送り手になりえた自分を発見するという意味で一人一人の意識を変えるものだった。自分たちの思いをアピールすることで生まれる社会の側の直接的な変化は、残念ながら期待されるほど大きなものではない。しかし、アピールすることを通して一人一人が文化の送り手の主体となるということの持つ意味は、・はかりしれないほど大きい。学級生はわかそよ以降、地域の中で主人公として生きるという誇りを手にした。

それは、目々の生活の中に少しずつ反映されているに違いない。そして、そうした変化を通して障害のある人々の新しい姿が生み出されることによって、社会の障害者観というものにも新たな変更が加えられていくこととなるだろう。

(5)対抗文化としての意味

 以上述べてきた民衆文化としての青年学級のオリジナルソングは、ささやかではあるが、

現代の社会の主流を占めているマスメディア主導の文化に対して、一つの対抗文化としての価値を有していると考えられる。

 幸い、わかそよコンサートは、会場に足を運んでくださる方々に、好意をもって受け入れられ、感動したという感想をいただくことも少なくない。また、スタッフとして参加してくるメンバーの中には、こうしたわかそよのコンサートに感動したことが動機となっている人もいる。

 こうした感動は、障害者の表現活動だからというある種の同情に基づく理由では説明がつかないように思われる。

 現代の社会では、ここで述べてきたような民衆文化の特徴を備えた文化は、きわめて限られたものとなってきた。地域の共同体の絆はどんどん希薄なものとなり、生活実感も失われる中で、人々は既製の文化の洪水の中にさらされ、文化の送り手となる機会はなかなか与えられることがない。そのような中で、わかそよの場で表現される青年学級の文化は、現代の文化に対抗する一つの文化として、その存在意義を主張しえていると言ってもよいのではないだろうか。

 もちろんそこに障害という条件が深く関わっていることは間違いない。しかし、ここで問題になっているのはハンディがあるということではない。障害という条件を有しながら、その生を生き抜いてきたという事実によって、自ずともたらされた独自性が、生み出されてきた文化の根底に存在しているのである。

 

 

 おわりに

 障害者青年学級の場で生まれてきたたくさんのオリジナルソングを軸にしながら、その歴史やそこで生み出されてきた文化の意味について考察を加えてきた。今日、こうした知的な障害のある人々の表現活動の営みは、徐々に盛んになりつつある。こうした活動が、社会の中で本当の意味で存在意義をもちうるようになる日もそんなに遠くないことだろう。

 そして、そのためにも、まず、町田市障害者青年学級の活動がよりいっそう豊かなものへと発展していくことに私は心を注がなければならない。

ところで、スタッフとして関わる私は、援助者という位置づけになる。しかし、この活動に参加させてもらうことを通して、私自身は大切なことをいくつも学び、自分自身の成長の機会を与えられてきた。そして、この青年学級は、私が私らしく生きられる大切な場所にほかならない。その意味で、学級生として参加する障害のある人たちに、私は心から感謝している。

註1.拙稿「障害者の社会教育に関する実践的考察─町田市障害者青年学級の活動から」『国学院雑誌第94巻1号』

註2.矢沢寛によれば、うたごえ運動とは、1948年、日本青年共産同盟中央合唱団から始まったもので、1953年に正式にその名前をかかげた運動として発足、60年代には作られた歌の数は膨大なものになった。しかし、70年代に入って人々がバラバラに切りはなされ、これに対応するものとしてカラオケが繁盛するようになったとされている。(『歌声青春歌集』現代教養文庫1997年)したがって、この障害者青年学級が始まった頃はすでにうたごえ運動は退潮期に入っていたことになる。