ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> b. 研究会 >> グループ2「神道・日本文化の形成と発展の研究」 第10回 古代・中世の神道・神社研究会「神仏関係論の再検討」 | |||
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1 開催目的 COEプログラム開始から4年目となった今年度は、「神仏関係の再検討」というテーマで、古代から中世に至る過程の神仏習合・神仏隔離などの諸相について取り上げる。 古代の神仏関係論については、辻善之助説が永らく基本的理解となっていたが、その後再検討の必要性が多く唱えられている。また中世においては、周知の通り顕密体制論を核心にしながら論議が続けられている。 今回はこうした研究動向を踏まえ、平安中後期までの展開を、3人の発題者の報告を中心に議論を進め、神仏関係を再検討することを目的とする。 2 開催日時 平成17年(2005)5月28日(土)13:30〜18:00 3 開催場所 國學院大學院友会館・3階大会議室 4 発題者・批評者・司会(敬称略) 発題者 吉田一彦(名古屋市立大学大学院人間文化学科教授) 「初期神仏習合論」 笹生衛(千葉県教育庁教育振興部文化財課主任文化財主事) 「東国の集落遺跡と神仏習合―神郡・香取郡内、香取神宮周辺の集落遺跡と仏教信仰―」 佐藤眞人(北九州市立大学文学部比較文化学科助教授) 「神仏習合の研究史―近年の研究動向と課題―」 批評者 須田勉(国士舘大学文学部史学地理学科教授) 三橋正(明星大学日本文化学部言語文化学科助教授) 鈴木靖民(事業推進担当者) 杉山林継(事業推進担当者) 司会 岡田莊司(事業推進担当者) ※なお、今回の参加者は97名だった。 5 研究会の詳細 5-1 会の概要 (い)吉田一彦「初期神仏習合論」 吉田氏は今回の発表で、主に次の3点について検討した。 (1) 初期の神仏関係の話として著名な崇仏・廃仏の争いについての検討(はたして『日本書紀』(以下、「書紀」)に記される廃仏の話は史実を伝えるものか?)。 (2) 書紀に見える「神道」の文言についての検討(いつどのような思想に基づいて記された文言なのか?)。 (3) 日本の神仏習合は仏教からのアプローチによって8世紀前期に開始されたものであり、その際に語られた「神身離脱」「護法善神」の思想は中国仏教の思想を受容して開始されたとする自身の説の再確認。 それぞれの検討内容は以下の通りである。 (1) 仏教伝来記事は書紀編纂者による全くの創作であり、関係記事全体が「末法→廃仏→廃仏との戦い→三宝興隆」という1つの構想で創作されている。これは中国の南北朝〜隋の仏教史に関する言説を参照して、8世紀初頭に入唐した僧・道慈によって構想された。 (2) 「神道」の語はもともと中国的な神信仰を表現する語であり、日本において用いられるようになったのは、道慈による書紀の記述以後、日本語として定着していく。「神身離脱」を示す史料でみられる「神道」は「神という業障多き境遇」の意であり、このような用例が中国史料に見える。 (3) 「神身離脱」「護法善神」の用例が中国史料である『高僧伝』『続高僧伝』などに豊富に見えることから、日本の神仏習合の思想・表現は、中国仏教で説かれていた思想・用語・概念が取り入れられたものである。その受容の時期は8〜9世紀初頭であり、道慈が萌芽となり、その後、複数の入唐僧によって波状的に導入された。受容形態としては、まず中央で受容されて地方に展開していき、その過程において神宮寺が建立され、神前読経が実施されるようになった。 (ろ)笹生衛「東国の集落遺跡と神仏習合-神郡・香取郡内、香取神宮周辺の集落遺跡と仏教信仰-」 笹生氏は、常陸国・鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と、対となる下総国・香取神宮(千葉県佐原市)周辺で古代集落の発掘調査が進み、あわせて古代の仏教信仰に関する資料の蓄積も行われていることに注目し、東国の神郡内、特に香取神宮周辺の古代集落と仏教信仰との関係を、地域景観の中で具体的に復原することが可能であるとした。今回の分析では、文献史料に残された東国神郡内の神仏習合信仰の具体的なあり方やその周縁部の様相について、考古学資料からの復原を試みた。その要点は以下の通りである。 吉原三王(吉原)遺跡(以下に示す遺跡はいずれも香取神宮の南東4km以内に所在)集落周辺に居住した中臣部・中臣、占部姓の人々は香取神宮の神官層であり、この神官層は仏教信仰を受容し、鹿島神宮寺の満願と同様の性格を持つ修行僧と共に、8世紀中頃に、多田寺台遺跡の寺院集落や山林内の修行場・織幡妙見堂遺跡を成立させていたと考えられ、その仏教信仰には当初から山林修行の要素が備わっていた。仏教信仰を受容した神官層は、「連」姓を持つ一族や中臣部姓の一族であったが、「赤祝連國刀自女寺」という寺名が示すように、現任の神官ではなく、一族の女性の関与が認められ、香取神宮との位置関係を含めて神仏隔離の問題と関連する。多田台・日向遺跡、妙見堂遺跡の仏教施設は、9世紀代には整備・拡充されるが、その背景には、鹿島神宮寺の例から考えても、神宮や国司の関与が想定できる。以上のように、9世紀代には、神郡の集落内に仏教と神祇信仰とが並存する信仰環境を形成していた。 10・11世紀代には、神官層が居住した神部集落・吉原三王(吉原)遺跡などの集落遺跡の景観が変化し、同時に多田台・日向遺跡の寺院は消滅した。それまで山林修行の場であった妙見堂遺跡周辺は開発が行われ、新たな神仏関係が形成されたと考えられる。 12世紀代、吉原三王遺跡・多田台遺跡・妙見堂遺跡周辺は、大禰宜家・大中臣氏の根本私領とされる領域に位置することから、8・9世紀代に吉原三王遺跡に居住し、多田台遺跡の寺院集落を修行僧と共に建立した赤祝連・中臣部姓の人々が、大禰宜家・大中臣氏の先祖であった可能性が高いとおもわれる。それはつまり、8世紀以来、仏教信仰で繋がれた吉原三王・多田台遺跡周辺と織幡妙見堂遺跡周辺の地域を中心に、中世の香取社領の中核である大禰宜家私領が形成されたと考えられる。 (は)佐藤眞人「神仏習合の研究史―近年の研究動向と課題―」 佐藤氏は、まず奈良時代の神仏習合に関する研究を幾つか紹介し、その論点として、 (1)吉田一彦氏による、田村圓澄氏説(「護法善神説と神身離脱説とは別系統の思想」「神身離脱説は地方において自制的に発生した説」「中央の神宮寺と地方の神宮寺とは対照的に捉えられる」)への批判。 (2)寺川真知夫氏によって指摘された「中国と日本の神身離脱説の差異」という問題。 (3)神の受戒をめぐる問題(中国仏教説話のように「神が僧侶から受戒する」という説が日本には見えない)。 (4)「菩薩」となった神をめぐる問題(中国文献には神に対する菩薩号の付与が見えない)。 以上の点を挙げた。特に(4)では、大陸における儒仏道の習合との比較が必要であるとした。 次に氏は、平安時代の本地垂迹説が、奈良時代の神仏習合説のように、中国文献の中に、はっきりとした典拠が見出せないことを指摘した。また、本地垂迹説の成立年代を示す史料として『日本三代実録』貞観元年8月28日辛亥条を挙げ、(1)「本地」という語は登場しないが、仏が神として垂迹するという本地垂迹説の論理は明白に述べられている、(2)春日・賀茂両神のために年分度者を申請するための上表であることから、日本の神と仏との関係を説明付ける論理として垂迹説が持ち出されていることは明白である、と結論付けた。そして、本地垂迹説の形成を考える上で画期となる史料として位置付けるべきであると論じた。 この他、「最澄の六所宝塔願文」「円珍の三ヶ条遺誡」などには、奈良時代の神仏習合説では説明できない、神を救済者と捉える思想が見えており、これは本地垂迹説に密接に関連する思想動向であって、本地垂迹説の形成を考える上で重要な問題であると指摘した。 (い)吉田一彦氏の報告を受けて、コメンテーターの鈴木靖民氏、三橋正氏から以下のような指摘がなされた。 ・ 吉田氏のいう神仏習合外来説は国際的契機論に通じるものと受け止められる。しかし、今回のような宗教思想の問題に関しては、仏教を受容する側の国内的要請や社会的状況とどのようにリンクさせて理解していけばよいのかが課題である。(鈴木氏) ・ 書紀には、古代国家を担っていた者たちの国家仏教の歴史観が反映されており、それに僧侶が加担していたことは、遣唐使のあり方からすれば当然のことと思われる。しかしそれは、地域社会における地方豪族の信仰、民衆の信仰とは異相のものであり、仏教の受容は多様化を呈していたはずである。(鈴木氏) ・ 「神道」という用語について:中国で「神道」といった場合、「墓所に至る道」を指すが、日本ではそのような用例はない。ゆえに中国の用語を輸入したものとは言えないのではないか。「神道」という用語が日本で使われた場合、中国の用語とは切り離されて使われた可能性が高いと指摘できる。「神道」という用語が、日本ではどのように展開したのかが問題である。(三橋氏) ・ 言語的修飾と実態との違いについて:書紀にみられる仏教関連記事は、仏典の影響を強く受けているが、どこまでを事実として認めて、どのように考えるのかということが吉田氏の報告からは見えてこなかった。書紀における言語的修飾と実態をどのように捉えるかが問題である。(三橋氏) さらに会場より、(1)書紀崇仏論争の成立過程について、本当に道慈1人の考えに帰すものであったのか、(2)その背景の思想的考証が必要なのではないか、という疑問提示・指摘がなされた。 (ろ)笹生衛氏の報告を受けて、コメンテーターの須田勉氏、杉山林継氏より以下のような指摘がなされた。 ・ 村落社会の仏教施設の性格について:単なる仏教信仰の場であるのか、仏教施設を中心とした開発と関係がある場であるのか。また、神郡内の仏教施設は他の地域のものと比して特別なのか否か。(須田氏) ・ ルートの問題について:神郡内の道路関係から人の動きを把握することにより、信仰の波及のルートを考えることができるのではないか。(杉山氏) ・ 地域神社との比較:今回は、香取神宮を維持している人々の居住地における神仏関係についての報告であったが、この地域の他の神社との位置関係等も比較検討してはどうか。(杉山氏) (は)佐藤眞人氏の報告を受けて、コメンテーターの三橋正氏より以下のような指摘がなされた。 ・ 菩薩号の付与について:中国文献には菩薩号の付与は見られず、日本文献のみに見られるということは重要な指摘である。 ・ 神前読経・神宮寺:神へ仏教儀礼をささげることにより、その神威を高めたいという発想があるのではないか。 ・ 日本における外来宗教の受容形態について、習合現象のみを見るのではなく、神道と仏教というものが、併存して行なわれているという日本の宗教のあり方に目を向けて、日本宗教史全体の検討に入っていく段階なのではないか。 5-2 研究会で得られた成果と課題 今回の研究会では、文献史料のほか考古史料を用いての報告がなされ、多角的分野からのアプローチにより、初期の神仏関係の流れが明らかになってきた。また、考古史料を用いての報告は、これからの新しい研究のきっかけになると思われる。今後、神道学的立場では、神祇の中身の実態がどのように対応していったのかという点について突き詰めていくべきであり、次回のシンポジウムに繋げていきたい。 文責: 小林宣彦(日本文化研究所共同研究員) 精園佳子(大学院文学研究科博士課程後期) |
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