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ホーム >> COEプログラム事業の遂行と成果について >> a. 調査 >> グループ2「神道・日本文化の形成と発展の研究」
日光東照宮文庫調査 
公開日: 2004/1/14
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1.調査テーマ
日光東照宮文庫における徳川将軍家日光社参史料調査

2.調査日 
平成15年8月22日(金)〜25日(月)

3.調査先 
栃木県日光市 日光東照宮文庫

4.調査参加者 
 根岸 茂夫(國學院大學教授・事業推進担当者)
 吉岡  孝(國學院大學兼任講師)
 松本 久史(國學院大學日本文化研究所助手)
 清水 正彦(國學院大學大学院研究生)

5.調査目的
 徳川将軍の日光社参の史料収集のため、栃木県日光市の日光東照宮文庫を調査した。
 近世の祭祀と儀礼・国家の関係を考える上で、徳川幕府の祖神を祭った日光東照宮の存在は重要である。
ことに、将軍が日光に参詣した「日光社参」は、江戸幕府にとって極めて政治的な意義を持っていたことが指摘されており、その一連の行為や東照宮における祭礼・祭祀は、近世の政治権力・武家儀礼などと仏教・神道が入り交じる場所でもあった。当時、東照宮は輪王寺宮の下に置かれ、日光山内には本坊とともに20院・80坊の僧が山内の運営にあたり、東照宮も別当大楽院の所管であり、その下に社家6家が存在したのである。
 将軍の日光社参は、元和3年(1617)の2代将軍秀忠以来、江戸時代を通じて19回行われ、3代家光がもっとも頻繁であったが、17世紀中葉以降は減少し、寛文3年(1663)の4代家綱以降、享保13年(1728)の8代吉宗、安永5年(1776)の10代家治、天保14年(1843)の12代家慶のみであった。社参においては、前年からさまざまな準備が行われ、将軍は大名・旗本数万の人数を率いて日光道中を通行し、江戸・沿道・日光で多様な儀礼が繰り返され、日光においては仏事と神事が荘厳に執行され、また十数万の農民が人足や助郷に動員された。将軍社参のない年は、将軍の名代として譜代大名が参詣し、また毎年朝廷からも例幣使が派遣されていた。
 東照宮をめぐる朝廷と幕府との関係も議論のあるところであるが、以上のような東照宮をめぐるさまざまな事例の検討から、近世の祭礼・祭祀・儀礼・政治などやそれをとりまく社会の特徴が明らかになろう。
 ところで、日光社参の研究は、従来から政治史・交通史の問題として検討されていた。まず政治史においては、将軍の政治的権威の確立や高揚と関連づけて論じられ、また関東の農民の動員と役をめぐる民衆支配・領域支配の問題、天保期の日光神領の荒廃と尊徳仕法による復興、その実態と政治的意義などが考察されてきた。また社参と交通制度の展開や助郷の問題などが、交通史の立場から研究されていた。ただ、日光社参の過程における江戸や日光の動向、諸大名・旗本の負担や動員、なによりも社参による神事祭礼の実態など、日光社参そのものは検討されては来なかったのである。
 我々は、いままで国立公文書館内閣文庫などにおいて、特に徳川幕府に伝来した日光社参の関係史料の調査にあたっていたが、今回の調査では東照宮所蔵の史料を対象とし、その残存状況などを確認し、従来調査してきた史料と日光東照宮の史料との関連やそれぞれの特徴、さらに関係史料の体系を考察しようとしたのである。

6.調査の内容と成果
 日光東照宮文庫は、日光東照宮の所蔵する史料が収められており、膨大な史料のためすべての史料を調査することは不可能であったが、日光市史編さん室が作成した『史料所在目録』を手掛かりに、関係史料を調査した。目録からは、日光社参に直接関係する史料は50点余りであり、それは(1)東照宮の社家の記録、(2)東照宮に献納されたり、近代に収集されたりした史料、に大別できる。以下主な史料を列記する。
(1)東照宮の社家の記録
 「御社参日記」(7類11号) 享保12年7月〜13年正月 中麿勝視・古橋義矩 2冊
 「御道中日記」(7類18号) 享保13年9月 中麿勝視        1冊
 「御社参日記抜出」(7類19号) 享保12年7月〜13年4月 社家中  2冊
 「御社参日記」(7類21号) 安永4年7月〜5年4月 社家中    1冊
 これらは、享保13年の吉宗・安永5年の家治の日光社参に当たっての社家側の日記であり、日光叢書「社家御番所日記」と同様の性格を持つと思われる。
 「社参之節公方様より被下物并日光門主より献上物覚」(7類42号)享保13年カ1通
 「万石以上家督之節献備覚」(7類44号) 宝暦6年   1通
 社参に当たっての献上物の覚であり、宝暦6年は将軍の社参ではないが諸大名の献上の実態が判明する。
 「惣代順次覚書」(7類13号) 寛保4年正月〜天保11年4月        1冊
 社家の年番が交替で記載し、名代などで参詣した大名に対応した社家の名等が記され、社家の勤務の様子が窺える。
 概して、社家側の記録は少なく、東照宮別当として社家を支配した大楽院などの史料は見いだせなかった。別当など院坊の史料は、明治初年に日光山内が東照宮・二荒山神社・輪王寺に分割されたのち、輪王寺が所蔵し一部が現存していることを、東照宮文庫長青山隆生禰宜から御教示いただいた。
(2)献納史料・収集史料など
 「供奉御役附」(7類46号) 享保12年8月             木版 1冊
 「日光御宮御参詣御供奉」(7類9号)天保13年4月         木版 1冊
 「日光御宮御参詣供奉御役人附」(7類8号)天保13年5月      木版 1冊
 「日光御宮御参詣供奉御役人附」(7類10号) 天保13年8月     木版 1冊
 以上は、吉宗・家慶の日光社参に供奉したり、江戸留守・日光警備などに動員されたりした大名・旗本の一覧であり、日光社参時の動員体制が判明する。また江戸市中・日光などで販売されており、社参についての人々の情報源としても検討する価値があろう。ただし、東照宮文庫にどのような経路で収められたかは不明である。
 「日光御社参御書付類」(7類37号) 安永5年 河野吉十郎        1冊
 「婦當羅日記」(7類36号) 天保14年 臼井采女房輝  勝海舟旧蔵書   1冊
 「晃山扈従私記」(7類37号) 天保14年 成島司直            3冊
 以上は日光社参に供奉した幕臣の記録や日記であり、河野は目付、臼井は小納戸、成島は儒者である。特に成島の紀行は詳細であり、狩野量川院中信の挿絵がある。これらは、東照宮文庫に長く奉仕されていた柴田豊久氏が収集し、献納した史料であり、他にも柴田氏献納の史料が多く存する。
 献納史料のなかでも、注目されるのは、元越後高田藩主榊原家が昭和49年に東照宮に献納した家蔵史料47点である。榊原氏は、徳川家康の四天王榊原康政を祖とし、上野館林から播磨姫路などに転じ、越後高田で明治を迎えた譜代大名であり、しばしば日光社参に供奉し、将軍の名代としても日光に参詣した。史料は慶安2年(1649)から文化13年(1816)までのものであり、特に安永5年(1776)の家治の日光社参に、榊原政永が手勢を率いて日光外山台を警護した記録、文化12年の東照宮二百回忌に榊原政令が世子徳川家慶の名代として参詣した記録は、質量共に注目される。日光における祭礼・儀式については記載が少ないものの、江戸・国元における藩の動向や幕府・大名、輪王寺・日光山とのさまざまな儀礼、社参の道中や日光滞在中の諸事などが詳細であり、ことに政治史を中心に近世の日光東照宮の位置づけを考察することができる。かつ、今後の検討により多様な研究が可能となろう。
 調査では史料全体の一部しか確認できなかったが、良質の史料が多く、有意義な調査であった。今後さらに調査を続けていきたいと考えている。
 調査にあたり、東照宮宮司稲葉久雄氏、権宮司平田紀之氏、東照宮文庫長青山隆生氏に、多大な御配慮と御教示を賜り、深謝する次第である。
(文責:根岸茂夫)
 
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