第7回 古代・中世の神道・神社研究会


1 開催目的

 COEプログラム事業の一環として、古代を中心とした神社・神道に関わるデータベースの作成が行われている。このデータベースは古代の基礎的な神祇史料を提供するものであり、これを基にして新たな古代神社論の構築を目指している。
 古代の神社論を形成するために、まずは基礎的な神祇史料を再確認・再認識しながら論議する必要性があると判断し、今回の研究会を開催した。奈良時代・平安時代初期の神社・神社行政に焦点を当て、従来の神社研究における問題点を踏まえながら、神社制度の基礎的な部分を討論する。

2 開催日時

 平成16年(2004)10月30日(土)

3 開催場所

 國學院大學120周年記念2号館2402教室

4 発題者・批評者・司会(敬称略)

 発題者
  小林宣彦(COE奨励研究員)
  川原秀夫(明和学園短期大学)

 批評者
  小倉慈司(宮内庁書陵部)
  藤森馨(国士舘大学・事業推進協力者)

 司会
  岡田莊司(事業推進担当者・本学教授)

5‐1 発表の概要

 小林宣彦「律令期の神社の性格について」
 今回の発表では、神主の制度的な変遷を考察しながら律令期の神社の性格について論じた。

1.官社の性格
 神社は官社に預かる以前から神社として存在しており、独自に奉斎する集団が存在していたことを指摘した。そして、官社に預ることによりその奉斎集団が消滅したとは考えられないとし、その神社では「律令祭祀」と「既存の奉斎集団による祭祀」とが並存して執り行われ、法的には「律令祭祀」と「既存の奉斎集団による祭祀」とは別個のものであると論じた。
 また、官社の建築物は正税・神税を用いて建てられており、官舎の一種としても見做されていたことを指摘した。さらに、もともと神社では祭祀に臨んでの清浄が求められていたが、神社の恒常的な修理を求める施策が度々行われるに伴い、「常に神社を清浄に保つ」という意識が生まれ広く普及した可能性を示唆した。
2.神主の性格
 神主は、8・9世紀を通じて、特定の氏族の中から補任されていたが、律令制下の職として整えられていくのは9世紀以降であることを指摘した。
 そして、奈良時代において氏族内の役割的・臨時的な職であった神主は、延暦以降、氏族の役割的な性格に、律令的な性格が付与され、氏族的な性格と律令制的な性格の両方を兼ね備えていったとし、これにより神主は、氏族と神社との関係に加え、朝廷と神社との関係にも責任を持たなくてはならなくなり、さらに神主の補任を氏族内からと法的に確認することで、神社と氏族との関係を明確にし、奉斎氏族からの支えをも期待していたと論じた。

 古代の多くの神社では、神事を掌り経済的に支援していたのは、奉斎する氏族や在地の人々であり、官社においても、人的・経済的な面では、氏族性・在地性は必要不可欠であったという認識が必要であることを指摘した。


川原秀夫「社殿造営の成立と展開」
 古代における社殿造営の研究史を検討し、古代国家形成期における社殿造営は政治的に強制して造営されたという要素が強いことを示唆した。
 まず、社殿造営の目的は、国家守護のための国家的祭儀を諸神に対し行う場の確保と国家守護の儀式を行う仏教の寺院造営に対し、固有信仰により国家守護を行う祭場の荘厳化を行うことの2点であるとし、社殿造営は国家の政治的意図による政策であると指摘した。
 そして、在地社会は国家が強制した神祇祭祀や社殿造営に対しては消極的だが、在地で行われる祭祀は、在地首長である郡司も含め、共同体の中で重視されていることを指摘した。社殿造営の具体像としては、社殿を造立したい国家側と社殿を拒む在地社会との間で軋轢が生じていた可能性を示唆した。
 また、古代の社殿の条件として
 (1)「正殿」(=依り代の常設空間)
 (2)「囲繞施設」(=外界との区切り、清浄空間の捻出)
 (3)「鳥居」
 の3つが挙げられるとし、考古の遺構の特色として
 (1)作り替えをしない
 (2)遺構の近くに依り代などの形跡が見られない
 (3)祭祀遺物を伴わない
 (4)柵列・溝など外部と区別する施設を持つ
 以上の点が確認できれば、その遺構を社殿と想定できるのではないかと論じた。

 発表の論点は次の3点にまとめられる。
 ・律令国家は神宮制を基盤とし、官社制・神階社制により全国的な社殿造営政策を展開した。社殿は「神宮」(=神の常住空間)から「神社」(=依り代の常設空間)造営へと変質したことで、在地社会が受け入れるようになった。
 ・在地社会には社殿に対する消極的な態度は見られたが、国家は強制的に社殿造営を実施しており、8世紀において、社殿は造営されつつあった。
 ・8〜9世紀における社殿造営は在地社会の必要性からではなく、国家の政治意図により造営されるものであり、社殿の選地や形態を在地社会が受け入れた段階での基準で判断すべきではない。

5‐2 研究会で得られた成果と課題

 まず小林の発表を受けて、コメンテイターの藤森氏より、神主はもともと氏長者であったが、延暦17年以降、氏長者とは限らない者が氏の中から選ばれ、さらにそれが神主と天皇とが直接結びつくという3段階の過程を経て、神主という役職が出来上がったのではないかという指摘がなされた。
 さらに、
 ・大三輪神話の大田田根子は大神神社の神主であり氏長者であるが、これも祭祀構造として今回の発表と同一円心上にあるのではないか。
 ・奉斎集団が積極的でなければ神社の維持は不可能であり、社殿の造立については、氏族・在地が非積極的だったとは言えないのではないか。
等の指摘がなされた。
 コメンテイターの小倉氏は、神主は神戸が置かれた神社に存在するのではないかという可能性を示唆した。また、延暦期以降に神祇官の機能が縮小していったことを指摘した。
 会場の山本信吉氏からは、神祇の性格における重層性・多重性・多様性・多面性を重視すべきであり、神主の制度化は、神社のもつ多面性を解決するために朝廷が意図したものではないかという指摘がなされた。

 次に川原氏の発表を受け、小倉氏からは
 ・国家の統制力をどの程度評価すべきなのか。
 ・律令以前の神社の古い形式が続いていった可能性はないのか。
 ・神社社殿が造営されることによって祭祀形態はどのように変化したのか。

 等の問題提起がなされた。
 藤森氏からは、社殿の機能において、「幣帛を置く施設」と「神殿」を弁別すべきではないかという指摘がされ、それを受けて司会の岡田氏からは、社殿の機能論を明確にする必要性があるのではないかという問題提起がなされた。
 また会場からの牟禮仁氏からは、川原氏が挙げた「本来、神は山や川など自然界に存在し、特定の場所にとどまらず、神は祭祀のたびに臨時の祭場に設置された依り代(=ヤシロ)へ降臨する」というテーゼに対し、「神は常時滞在する神(=滞在神)」と「祭のたびに降臨する神(=来迎神)」という二重構造が実態なのではないかという問題が提起された。
 また、氏神祭祀も来迎神から発生したのかという問題も提起された。
 その他会場から、
 ・国家が何故社殿を必要としていたのか。
 ・摂関期以降はどうなるのか。
 等の質問がなされた。

 今回の研究会は、神社にとって、国家・氏族・在地がもたらす影響力を再確認・再認識する必要があるという意味において貴重なものになったようである。
 神祇データベースの作成に連動し、新たな古代神社論を構築する必要性があり、本事業で求められる研究発信の推進にとって有意義な研究会であったように受け止められた。
文責:小林 宣彦(COE奨励研究員)





日時:  2004/11/25
セクション: グループ2「神道・日本文化の形成と発展の研究」
この記事のURLは: http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=144