岐阜県・愛知県における、牛玉宝印版木・関連文書等調査


1、調査テーマ 岐阜県・愛知県における、牛玉宝印版木・関連文書等調査

2、調査日 平成15(2003)年7月27日〜30日

3、調査先

 岐阜県白鳥町長滝 長滝白山神社、白山長滝寺
 岐阜県白鳥町石徹白 白山中居神社、白山中居神社旧社家石徹白家・同上杉家
 愛知県名古屋市中村区 願成寺

4、調査参加者

 千々和 到(國學院大學教授、事業推進担当者)
 太田 直之(COE研究員)
 倉橋 真司(國學院大學文学研究科博士課程後期満期退学)

* 他に久保 康顕(COE奨励研究員)が同行。

5、調査目的
 本グループでは、日本人の信仰の変遷を考える手段として、護符・起請文の調査を続けており、昨年度3月には和歌山県熊野三山等での調査を実施した。
 今回の調査では、白山信仰を背景に、東海地方を中心として戦国時代に起請文料紙に用いられた、白山滝宝印を中心とする白山牛玉宝印の版木や、その発祥に関する文献史料を調査することを主な目的とした。
 白山牛玉宝印は、熊野牛玉宝印ほどではないにしても、起請文の料紙として少なからず使用されており、今調査は護符・起請文研究に関する基礎データ収集として大きな意味を持っている。

6、調査概要

 1)長滝白山神社・白山長滝寺
 長滝白山神社は美濃馬場とよばれる美濃側からの白山登拝口にあたり、同じく越前側の登拝口に位置する平泉寺(越前馬場)、加賀側の白山比me神社(加賀馬場)と共に、白山信仰の拠点を形成していた。特に美濃馬場では白山信仰を広める御師の組織が発達し、白山滝宝印は、これら御師によって東海地方を中心に広く頒布された。
 一方、白山長滝寺は、長滝白山神社の境内に位置し、明治の神仏分離以前まで長滝白山神社と一体として機能していた。白山神社神主の若宮氏によれば、明治32(1899)年の火災で全焼するまで、両者は回廊で連結していたということである。
 なお、現在ではどちらでも牛玉刷りは行われていない。
 さて、今回調査させていただいた牛玉宝印は、白山神社神主若宮家所蔵の「白山滝宝印」版木3点、「白山牛玉宝印」版木1点、長滝寺所蔵「白山滝宝印」版木1点である。白山牛玉宝印には他に「白山権現宝印」とするものも知られているが、こちらは1点も含まれていない。
 この内白山神社所蔵の1点は、その形態的特徴(版木の削り面にノミ跡が残らず、滑らかに調製されている)から、中世に遡ると判断できるもので、字体も他所で確認されている、中世の白山滝宝印との類似が認められた。
 また、他の1点には裏に「若宮筑後自筆/細工」の墨書銘があるが、若宮氏によればこの人物は文化・文政期から明治初年まで存命した人らしい。
 さらに、長滝寺所蔵の1点には、寛文5(1665)年、「古板之筆法」に誤りがあった為に作成された旨の銘が確認された。江戸時代前期の銘のある版木として貴重である。
 中世に遡るものを除く2点の版木は彫り出された文字部分の厚みが非常に厚い点が特徴的で、中世の物を除く残り2点の版木にも、同様の特徴を見いだすことが出来た。
 これら牛玉宝印版木の他に、様々な護符の版木11点も調査させていただいた。祈祷札の他、疫病退散や、息災延命・祈願成就を祈る祓いの札など数種類が存在し、活発な配布活動を伺わせるものである。

 2)石徹白地区

 石徹白は白山の御師の村であり、村人は白山登拝者の宿の世話などの便宜を計り、また農閑期には祈祷・配符活動を通じて、白山信仰を広めた。
 今回調査させていただいたのは、この様な御師の家であった、石徹白家と上杉家である。
 石徹白家は比較的新しい分家ということで、古い版木などは存在しないが、明治時代の旦那場からの祈祷依頼や礼状などが残っており、近代の御師の活動を知る良い史料となっている。
 上杉家では、「白山滝宝印」1点の他20点余りの護符の版木を調査した。この版木は白山神社・長滝寺のものと比べて小振りであり、字体も大きく異なる。おそらく近世から近代の、それほど古い時期のものではないと思われるが、牛玉宝印版木の他に、宝珠の朱印と、宝珠を捺す際に用いる朱を入れる木皿、牛玉宝印を頒布する際の包み紙に捺したであろう「白山社御牛玉札」の版木がそろって残っている。牛玉宝印の作成・配布に関する具体像が垣間見える、興味深い史料であると言えよう。

 3)願成寺

 願成寺に天正11年銘の白山牛玉宝印があること自体は既知の事実であったが、なぜこの寺が所蔵しているのかなど、不明な点も多く、中世の紀年銘を持つ貴重な事例であるので、今回調査することとなった。
 銘文については『日本歴史地名体系23 愛知県の地名』(1981 平凡社)の「願成寺」の項に「□州愛知郡高須賀山願成寺住僧□□坊権大僧都盛順発之云々」と紹介されている。実見した所、版木裏の右端・中央・左端の三ヶ所に墨書されていて、右に「愛智之郡高須賀山願成寺」、左に「于時 天正拾一年癸未林鐘上旬□□」とある。以上は比較的明瞭に読み取れるものの、中央については、上2文字の「住僧」のみ判読できたが、それ以下は墨が非常に薄くなっており、読むことができなかった。しかし、これにより、この版木が他所からの流入ではなく、もとから願成寺にあったものである事が再確認できた。
 また、同寺では多くの近世文書を所蔵しており、これらによれば、かつて願成寺薬師堂にある八剱社の末社として、白山神社が存在していた(現在寺院境内には現存せず)。この白山神社と牛玉宝印の関係などについては、現在のところ明らかにしえないが、文書の内容検討などから、今後考察して行く必要がある。
 この他、願成寺では那智滝宝印の版木も所蔵している。この牛玉宝印は薬師三尊像の版木と表裏に彫られており、牛玉宝印の面の左に不自然な未使用部分があることから、おそらく、薬師三尊像が最初に彫られ、後にその裏を那智滝宝印の版木として利用したものと判断できよう。願成寺は薬師堂の薬師像(伝行基作)の存在で近隣の信仰を集めていたが、この薬師堂は戦国末期に織田信長によって焼かれてしまった。その後薬師堂は寛永年間に再興勧進が行われており、この薬師三尊像がその際に用いられたものだとすれば、那智滝宝印は17世紀中頃以降、それほど下らない時期のものと考えられるだろう。
 この様に、願成寺では時期が異なるとはいえ、種類の全く違う2種類の牛玉宝印を発行していたことがわかった。両者がどのように関わるのか、発給の主体や配布の具体像などが、今後明らかにすべき課題となるだろう。

文責:太田 直之(COE研究員)








日時:  2003/9/19
セクション: グループ2「神道・日本文化の形成と発展の研究」
この記事のURLは: http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=51