We learn by hearingby seeingby doing〜人と人を結ぶNGO活動〜」

 

はじめに

 

第一章       人と人を結ぶNGO活動

    1.NGOとは

2.日本におけるNGO活動の現状

3.インドにおけるNGO活動の現状

 

第二章       私とインドの出会い

1.私と第三世界の出会い

2.いざインドへ出発

 

第三章       インドにおける2つのNGOの取り組み

1.インドNGOCSSS

    2.日本NGOSOMNEED・サンガム」

 

第四章 CSSSの活動

1.プロジェクト形成の手法―PRA:参加型農村開発調査

2.識字教室

    3.日本人とインド人をつなげる森のトラストプログラム

 @.森のトラストの仕組み

 Aインドでの活動の様子

 B日本での活動の様子

 

第五章 NGOの可能性

1.住民参加の必要性とNGOの役割

    2.NGOの今後の課題

    3.日本における市民社会への実現へむけて

    

終わりに

 

 

経済学部 経済ネットワーキング学科

 

(論文要旨)

 

論題 「We learn by hearingby seeingby doing〜人と人を結ぶNGO活動〜」

 

 先進国と開発途上国との格差は一貫して拡大し続けている。21世紀の中頃には、世界人口は現在の2倍、100億人を超えるといわれているが、その人口増加の9割は第三世界(開発途上国)の人々である。自分の身近に、病気や飢えで苦しんでいる子供がいるとしたら、私達誰もが、何らかの行動をおこそうと思うだろう。泣いている子供を無視することはできないはずである。しかし私達は、何百人もの子供達が、避けることができる飢えと痛みのために毎日泣いている1つの地球に住んでいながら、しかも、そのような状況を変えるために何かができるにも関わらず、ほとんど何もしようとしない。「目に見えないものについては、心は悲しまないものである」これはイギリスの古い諺である。自分の身近にいる子供と地球上にいる子供の違いは何だろうか。なぜ、一人一人が自分たちのできることのほんのわずかしか、行わないのであろうか。

 本論文では、普通の人たちが国境や国籍の違いをのり超えて、人と人のつながりを持ちながら協力活動を展開するNGOの活動を考察し、その活動を通して私達一人一人が自分の身の回りを見つめ直すきっかけとなることを目指している。

 第一章では、NGOとは何か。日本とインドにおけるNGO活動の歴史と現状について考察を深め、NGO活動の概要について論じている。

 第ニ章では、自分自身が第三世界に興味をもったきっかけや、初めて訪問したインドの様子を論じている。

 第三章では、インドにおけるNGOの取り組みとして、日本とインドのNGO活動を紹介している。

 第四章では、実際に見学してきたCSSSの活動紹介。また「森のトラスト」という具体的なプログラムを通して参加した日本とインドの人々の変化の様子を比較している。

 第五章では、住民参加の必要性、今後のNGOの可能性、市民が積極的に社会の運営に関わる市民社会の実現を考察する。

 そして本論の結論として、実際に自らインド、タイを訪問したことによって見えてきたことについて、あまりにも大きく膨れ上がった日本の大量生産・大量消費・大量廃棄のライフスタイルへの途上国の側からの視点を通しての反省と考察を行った。すなわち、現地で感じたこと、学んできたこと、とりわけ貧困や飢餓、環境破壊、人権侵害などの多くの問題を抱えている現実に目をひらかされた。現在、これらの多くの問題は、実は日本を含む先進国に住む私達の経済活動のあり方や生活様式に密接に関わっている。これらの問題の改善に取り組み、国境を超えて地球上に共に生きる人間として、私達個人が世界の人々の問題を自分の問題としてとらえ、知識や経験を分かち合い、行動していくことの必要性を結びとしている。

はじめに

 

 国際協力という言葉が頻繁に飛び交う今、その実体にふれる糸口がなかなかない、どこから取りかかっていいのか戸惑いを覚えるのが正直なところではなかろうか。狭い意味の国際協力とは、本来必要としている人たちに必要なものを入手することを手助けする、ということである。そのためには、まずどこに必要な人が存在し、何が必要なのかを知ることが第一歩となる。それは日ごろからなるべく多くの人と出会い、相手の顔が見えるようにしておくことが基本である。出会った人々とのつき合いが長いものになるために、なるべく無理をしない、肩を張らない、力を抜いて、ほんの少しだけ分かちあう、その少しの分かち合いが集まると大きな力となる。これこそが目指すべき国際協力なのではないだろうか?ここ数年間の私の体験を通しての1つの結論である。

 

 以下、国際協力について、NGOを介して見えてきた事柄について私なりに考察していくことにしたい。

 ODNGOと様々なところで国際協力という名の元で活動が行われている。それらの評価も様々で、何を基準にして成功といえるのだろうか。開発活動における主体は、本来住民である。住民こそが自分たちの未来を決めるのである。しかし、現状では、力のある者が彼らの運命を握っている。現状において住民は本当に貧しいのか。弱いのか。特定の地域を定めNGOは住民の為に活動をする。けれども、貧しい、弱いと決め付けられている彼らの中にある強さを引き出し、無学・無能だとみなされた彼らの中にある知恵と能力を開かせ、抑圧・搾取されてきた彼らに自信と権利を回復していくのは、彼ら「住民」自身にしかできないのである。NGOの役割とは、彼らが主体となる活動形成に協力してくことである。

 「豊かさとはなにか」精神的なもの、物質的なもの。ある程度の経済的豊かさと安定を享受している人にとって、さらに富を増やすことがより豊かになるのかといえば答えは難しい。物質文明の先端を行く日本では精神的な豊かさが求められている。「貧しいことは精神的な豊かさを持っている」とよく聞くがそれは本当だろうか。極度の物質的貧困は、心をゆがめ、苦しめる。インドの都市で出会った子供達は金銭を人にせがむことでしか、得る方法を知らない。労働をしてお金を得ることを知らないのである。しかしインドにはその労働力を吸収するような投資はないのであった。

 私たち日本人が何十倍も甘受してしまっているものをわかちあうために大きな課題が残されている。

 

 

 

 

第一章 人と人を結ぶNGO活動

1.NGOとは

 NGOとは、英語のNon-Governmental Organizationの省略で、日本では「非政府組織」や「民間海外協力団体」などど訳されている。開発問題、人権問題、環境問題、平和問題などの地球規模の諸問題の解決に「非政府」かつ「非営利」の立場から取り組む市民主導の国際組織、国内組織を「NGO」と呼ぶのが一般的となっている。

 様々な問題に対して、国際機関や先進国と呼ばれる国々は1950年代から援助を行っている。ある面では成果をあげているものの、先進国と発展途上国の経済格差は広がり、また援助を受けた国でも国内での貧富の格差が拡大した。また、一部の国では、開発の名のもとに環境破壊が進んだ。更に、発展途上国の累積債務が増大し、借入金とその利子の支払いのため援助される国から援助する側の国への資金の流れが大きくなるという皮肉な事態さえも生じている。政府や国際組織による援助は、いろいろな思惑や制約があり、期待通りの成果があげることが難しくなっている。

 このようなことから政府や国際組織の限界を乗り越えていくために登場したのが「NGO」である。

NGO活動の特徴

政府の援助が届かない最低辺の人々と関わろうとしていること。

人と人との絆を基礎としていることから、きめ細かな心の通う協力活動ができること。

組織が比較的小規模であることから、活動は柔軟性や機動性に富むこと。

一般市民への情報提供、教育活動などを通して、市民運動として広がりや成長が計られること。

 

 国際協力に携わるNGO活動は、植民地時代のキリスト教による布教活動や慈善活動がその基盤になっているといわれている。1960年代は、救援・慈善活動が中心に行われていた。1970年代は、外部からの投入や関与による開発活動に対する反省が行われ、開発活動の担い手が地域住民自身に移っていく。先進国のNGOは、地域住民の自助自立のための開発活動を進める発展途上国のNGOを資金的に支援したり、地域住民の参加を促す活動に移行していく。1980年代、発展途上国のNGOは地域の貧農組織などを支援していくことが中心となる。先進国のNGOは、発展途上国の人々の自主的な活動を側面的に支援する媒体としての役割を果たすようになる。

 

.日本におけるNGO活動

日本のNGO活動の歴史を振り返ると、数は少ないが、第ニ次世界大戦前に設立された団体がある。これらの団体は、日本国内におけるハンセン病患者への援助や女性の社会的地位向上といった日本国内における救済や啓蒙を目的として創られた。そして国内でのそうしたニーズの減少や、軽減に伴い、活動の対象地域をアジアなどの国外に移していった。                 

1960年代前半に、主にアジア地域での開発問題に取り組むことを目的とする団体が設立されるようになり、70年代の初頭に、国際的な人権擁護や環境保護を目的とした国際NGOの活動拠点が日本にできた。1979年に始まったインドシナ難民の大量流出問題を契機にインドシナ難民の救援を目的とする団体が相次いで設立され、日本のNGO活動の歴史において、大きな転機となった。これらの団体は、その後、農村開発や日本国内の定住難民に対する支援活動へと活動の幅を広げている。

 活動分野は「教育」「保健医療」の活動が特に盛んで、日本のNGO活動の双璧といえる。そして年々、環境保全、女性への関心が高まっている。

今日、日本のNGOを取り巻く環境が急変する中で、活動理念や目的を再確認し、具体的な役割や活動方法を再検討する時期に来ていると思われる。また自らの組織運営や事業運営に対して、持続的なモニタリングや定期的な事後評価を実施し、その結果を広く一般に公開し、その成果を検証していくことによって、社会的な信用を得ようとする努力が今後ますます求められてい

(図1)日本のNGO

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出所:森井利男編:『現代のエスプリ ボランティア』至文堂、1994年

.インドにおけるNGO活動

 現在、世界では貧富の差が拡大し続けている。インドの人口は約9億2千万人となり、そのうち5億人近くの人が、1日2ドル以下の収入しか得ることができないと考えられている。この数字は、全世界の最貧困者数の約3分の1にあたる。一国での貧困者数の絶対数としては、世界で1番多いかもしれない。

 またインドは、アジアの国の中でも、急速な経済成長を遂げつつあるが、その成長はその最貧困層の5億人の人々を置き去りにした成長であり、貧富の差は国内において拡大して行く傾向があ

 協力や援助の受け手であるインドでは、「国際協力に携わる」という区分けが意味を失う。多種多様な組織や運動体を、NGOとくくることが難しい。インドでは現在まで、NGOという用語は、政府を含め社会に広く受け入れられてはいない。宗教活動や政治活動、経済活動(企業や協同組合)や労働組合も、結局同様な目的を有しており、社会の中で相互に複雑に絡み合っており、しかもそれらは人間にとって不可分な日常生活の一部となっている。

 植民地時代以前には、パンチャーヤトと呼ばれる村落の自治組織などを中心に、村内外の困窮者被災者のための炊き出しなどの活動がされていた。1960年代、飢饉に陥り、それに対応する「緊急救援」が行われたが、外からの援助への依存を生むことになる、との反省が起きた。70年代、現存の社会構造の変化、富の分配や社会関係をより平等なものに変えていくためにNGO活動は貧困層に主眼をおいた。80年代において、政府は貧困対策における限界を認識し、さらにそれを補うあるいは代行するものとしてNGOを認知し、その結果、NGOの活動はより大きな広がりをみせている。

 活動分野は緊急救援、社会福祉活動、民衆の社会的・経済的地位の向上をめざす、環境やジェンダーなどの課題にも活動の領域は広がっている。資金源は内外の支持者や活動参加者、政府(特に中央政府)、官民の外国援助団体、銀行、国内の企業や財団などから活動資金を得てい

 

 

 

第二章 私とインドの出会い

1.私と第三世界の出会い

 1年次、たまプラーザで開講されている「第三世界における開発と文化」の授業で毎年行われているタイスタディーツアーに参加した。同時期にインドスタディーツアーも行われているが、毎年病人が続出するインドへは行く自信がなかったので、タイを選択したのだった。タイツアーでの農村滞在は第三世界を考えるきっかけとなった。

 農民達は、精霊を信じ農作業においても、けがをした時も指示に従う。家は粗末にもかかわらず、寺院は立派であり、信仰のあつさに驚いた。ホームスティさせてもらった家には、テレビしかなく村で冷蔵庫を持っている家は珍しい。夜空の星は無数であった。「この星空を残してください」と、村人に言った。後で、タイでは、星の見え具合が発展の尺度とされることを聞かされた。そう言った自分は、一時期の滞在者にすぎない存在であることを自覚した。とても、恥ずかしかったのである。日々の女性の労働、洗濯板で洗濯、早朝に起きご飯を炊く、水を汲みに行くことは重労働である。この労働から開放されたなら、女性はもっと楽になるはずである。近代的な生活を住民はしてみたいと思っているかもしれない。

 映像の影響力はものすごい。ブラウン管越しに見るバンコクの高層ビル街、人々の生活、スーツ姿の人、ファーストフードの食事、コカ・コーラをさわやかに飲むこと。テレビが村に入ったとにより、子供たちは、みんなで遊ばなくなったと聞いた。十代後半になるとバンコクに職を求めて出かけていく。その稼ぎで電気製品を購入する。本当に必要なのだろうか。戦後、日本は様々な犠牲と引き換えに今日の経済大国となった。犠牲の代償として得たものとは一体何だろう。物質的豊さだけを追い求めてきた日本ではそのことに疑問をもつ声がだんだん増えてきている。日本は、それに気づくのが遅かった。いや、気づいたけれども開発のペースを遅らせることをためらった。しかし、それとは違ってタイはこれから発展して行く国であり、実際にその変貌ぶりはめざましい。東京と同じようなバンコクの生活の波が徐々に農村にも押し寄せてきているように見える。仕方がないこととは思うけれども、どうか簡単には呑み込まれてほしくはないと一人の日本人として願ってしまうのであった。

 物質的に豊かになっていく一方で、市場経済に依存せず自立しようと考えている人にも出会った。「地元を愛する子供の」のリーダーはこう語っていた。「昔を忘れず、今に流されず、自分たちの新しい生き方を見つける」住民自らが行動を起こそうと考えるきっかけはどこにあるのか、何を契機として起きるのだろうか。それは自分自身で現状を批判的に把握することからはじまるのである。気づかない限り活動には結びつかない。自分の村で、生きることの基本に据え、自立した暮らしができるように、新しい生き方を見つけていくとはどういうことなのだろうか。

 市場経済に組み込まれた生活か、自給自足の生活か、どんな生活を望むのか、あくまでそれは農民の意志である。私が、現在の日本社会に愛想を尽かしているとしても、タイの農民は日本のようになりたいと思っているかもしれない。農民自身が選択すべきことではあるが、家庭の味や家族の絆、友情・文化などお金で買えるものと買えないもの、市場経済から外れているものがあること、自然と共存している普段の生活の貴重さに気づき、忘れてはいけない大切なものを失ってほしくないと、私は素直に願った。

 タイから帰国し普段の生活に戻った私は、第三世界での様々な問題、貧困、食糧、農村と都市の格差の問題など実際に垣間見た私は、何をすれば良いのか途方に暮れていた。同時に、次々にやらなければならないことがあり、自分を見つめ直す時間、自然を感じる時間が全くない生活が続いていった。一番大切なこと、自分が何をしたいのか、していきたいのか、じっくり考える時間が必要だった。

 これからの自分を考えるため、自分と第三世界の関わりを見つけるためインドに行こうと決心した。たとえ、病気になろうとも。

 

2.いざインドへ出発

 カルカッタはインド第二の都市である。タクシーから見る街並み。なんてインドは貧しく汚いところだと感じたのが正直な第1印象である。根強いカースト制度が存在しているため貧富の差が激しい。子どもたちはゴミの山から何かを拾い、平日の昼間にも関わらず男性が街でうろうろする。想像以上の物乞いの人と、自分にまとわりつくストリートチルドレン、道路で横たわる両腕のない身体障害者。自分の目の前にいる、この人達をどうやって受け止めればいいのか分からずとても混乱した。

  ストーリートチルドレンは服に捕まりなかなか離れてくれない。その子どもから逃げる自分は本当に冷たい人間だと思った。助けを求める人を無視している。ましてや小さな子どもである。触ったら折れてしまうのではないかと思うくらいの細い腕と足、穴だらけの服。そんな子どもを前にして、自分はどう対処すれば良いのかずっと悩み続けた。ストリートチルドレンにお金をあげたほうが良いのか悪いのか。日本にいたときにストリートチルドレンにお金をあげても、その場だけの自己満足で何にも解決にならないと話を聞いていたので滞在中一銭もあげることはなかったが、その行動に不安が残る。決してお金持ちに見えない普通のインド人が、困っている人にお金をあげているところに何度も遭遇した。インド人はインドの社会を熟知し、人にはそれぞれ生きる場があるのだ、という気持ちがその動作から伝わってくる。その目はとても優しかった。宗教的な理由が背景にあると聞いたが、宗教は関係なく一人の人間の意志だと感じた。

 インドのその様子を見た時、日本の都会の浮浪者を思い浮かべていた。日本人は彼らを無視し、また彼らも周囲の人を無視し、ごみ箱をあさっている。彼らを見る日本人の目こそ冷酷な目であり、豊かと言われる日本の本当の姿ではなかろうか。

 外国人の多くが集まる安宿街、サダルストリートは、人間のるつぼであった。ここではなくインドという国自体にいえることかもしれない。こんなに多人種の人たちの中に自分がいることは生まれて初めてだった。自分がとても小さく見えたのと同時に、日本に生まれてきたことをとても残念に思った。

 日本ではマイノリティーは差別されている。けれどもインドでは、マイノリティーにより構成されているのであった。国籍、文化は関係なく、ただの人間なのである。個性の強い人や集団、個人の価値観、それぞれの生き方、出会った人すべてを受け入れる心の広さが必要であった。それを持ち合わせていなければ、すぐに想像を絶することでも平気で起きてしまう。私は日本人を離れ、一人の人間として、人との出会い、人の温もりのを感じていた。インドの強い日差し、誇りっぽい空気、汗の臭い、騒音…そして病気になっては困ると警戒していた。盗難に気を使い、道路を歩けば人が寄ってくる。歩くだけで疲れてしまうカルカッタの一日であった。 

 夜行列車に乗り込み私たちがお世話になるNGOが活動しているパラサへ向かう。電車の外装はさびた鉄だったが、中は冷房が寒いほどにきき、揺れはすごかった。 目覚めると列車から見える風景は、果てしなく続く緑の地であった。騒がしいカルカッタとは全く異なる景色が広がっていた。

 宿舎へ向かうでこぼこした道路を走っていると、途中水牛の群れが道幅いっぱいに広がっているため、何回も行く手を阻まれる。熱波で何千人、何万人もの犠牲者がでたと聞いていたが、その面影は見られず、ごつごつした岩がでている山と、緑の田んぼが広がっていた。物乞いの人と、ストリートチルドレンは存在しない。都会のカルカッタよりも、田舎の方がみんな仕事をしている。

以下、私の参加したスタディーツアーにもとづいて、活動内容を紹介するとともにNGOの活動を考察したい。

 

 

 

第四章       インドにおける2つのNGOの取り組み 

1.インドNGOCSSS

 CSSSComprehensive Social Service Society農村総合開発協会)は、インドアーンドラ・プラティッシュ州スリカクラム県にあるNGOで、1978年以来農村部の弱者の立場に立った地域開発に取り組んでいるNGOである。現在71の村にその活動を広げ、その対象地域全体の人口は、約15万人ほどで、彼らの活動地域は、幹線道路からも孤立し、行政からも見放されている僻地である。不可触民とよばれ、差別、抑圧を受けてきた人たちや、また山岳少数民族として孤立して生きてきた人たちの多く住む村である。プロジェクトは(1)森のトラスト(2)村の基盤整理(3)識字教育(4)障害者プログラム(5)収入向上プログラム(6)政府共同プログラムがある。

 CSSSは「開発とは、社会のある層だけが一方的に損をしたり、正しい法の適用が受けられなかったりすることがなく、皆が等しい権利を得られる状態になることであ」と定義している。貧しい村人に対する教育と、そして彼らが何か行動できるようになることの効果を信じている。また教育とは、単に本を読んだり、書いたり、計算したり、を学ぶことだとは思っていない。教育を受けるとは、人が自分の住んでいる社会、環境を批判的にみる目を養うことである。また、何事も仕方ないで済ませるのではなく、自分自身をも見つめ直せるようになることではないだろうか。何が権利であり義務であるかを学ぶことで、自分自身の開発につなげていくことである。

 住民達が力を発揮する場として地域の住民組織サンガムを形成する。サンガムを育て民衆の意識化を図る。なぜ自分たちが必要最低限の生活ができないのかを考えさせ、意識化することにより自分たちのおかれた状況を理解し、活動を始めさせる。ちなみにサンガムとは、現地の言葉で、農民の組織する男女別の「生活協同組合」を意味する。もともと仏教用語で、サンガ(寄り合う)という語源が有ると言われている。インドの土地なし農民が自ら主体的に生活向上に取り組むように、CSSSのような現地のNGOが組織化を進めている。

 CSSSの活動資金は日本のNGOSOMNEED・サンガム」からの資金協力により支援されている。

 

2.SOMNEED・サンガム

 岐阜県高山市にある「SOMNEED・サンガム」は、1993年からCSSSの活動を支援している。SOMNEEDは、(Society  For Operation Minimun Needs最低必要生活基盤支援協会)の略。その協力体制は、たんなる資金提供者とその受け皿という関係ではない。共同でプログラムを立案し、調査・評価・スタッフトレーニングなどを行う体制をとっている。

 SOMNEED・サンガムの財源は、会費によって運営されている。(1999年7月31日現在)

正会員(法人の社員) 30人 

:351人  

:323人

:704人

プロジェクトを行うに当たっての2大原則

環境にやさしいプロジェクトであること

住民参加を前提としたプロジェクトであるこ

 海外協力のNGOといえば、東京・大阪などの大都市と頭に浮かぶ。この会が小さな地方都市にあることが、日本の社会が市民社会として成長する1つの指標であると思われる。日本の中央と都市の差が本当の意味でなくなる、個性を保ちながらも地方が地方でなくなる時代が近づいているのではないだろうか。すなわち「地方」のどんな場所にいても、全国的あるいは世界的な仕事ができる、そんな時代の到来である。

 

 

 

第四章 CSSSの活動

1.プロジェクト形成の手法―PRAParticipatory Rural Appraisal(参加型農村開発調査)メリアプッティー群 ディーナバンデュプラム村

 

 自分たちの生活を1番良く知っているのは彼ら住民であり、能力があるのは、住民であり、行動するのは住民であるということが前提である。1980年代後半にNGOによって開発されたこの方法は、地元住民の能力を重視し、持続的な地元住民の活動と組織化を目的としている。

 

「政府からどんな援助を受けているのか」を調べる

 

PRAのやり方

1.村人全員(46件)に集合してもらう。

2.地面に村の中の家、池等の配置を書く。

3.自分家の上に、政府からもらった援助を次のようにおいていく。

    援助は次のように葉っぱ、草などにより現される。

    マンゴーの葉っぱ−政府からマンゴーの木をもらった家

    カシューナッツの葉っぱ−政府からカシューナッツの木をもらった家

    長い緑色の茎−農業用の電気(ポンプをまわすために使う)

    丸い輪状態になっている草−飲み水用の井戸

    茶色い草−畑・田用の井戸

    コイン−この地域では一人暮らしの老人は50ルピーもらっている(図2)

 

住民全員でPRAを行うことにより、より確実なデータをより早く簡単に取得することができる。誰か一人でインタビュー調査する場合、間違う可能性があり、一日にせいぜい10件くらいしか回れないことが予想される。住民が隣の家と自分の家を比較して、自分の家の問題気づき、それを解決するためには、どうすればいいのかということの一貫としてCSSSはこのようなことを行う。この方法を使って、家族構成や、収入なども同じようなやり方で調査する。

(図2)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.識字教室

 ヒラマンダラム群 テュンガタンパラ村

 

 1994年下半期から、9歳から15歳までも子供たちを対象とした識字教室はCSSSのスタッフのトレーニングを行うワークショップの中から生まれた。そのトレーニングとは、数字として表れたデータをどう見ていくのかという、いわば基本的な統計についてのトレーニングであり、その中でたまたま取り上げられたのが、村の年齢階層別の識字率であった。郡の平均よりは高いが、州の平均よりは低いというあまり芳しくない結果を見たサンガムのある村の識字。その理由を学校からドロップアウトした子どもたちをにあると見当をつけたことが、このプロジェクが始まったきっかけであ          

 実際私が訪問したこの辺りの村は皆、土地なし農民である。女の子は昼間水くみ、子守りと仕事に追われている。対象は9歳〜15歳と聞いていたが、教室に集まった子どもはもっと幼い6歳くらいの子もちらほら見えた。毎日夜間行われていて、全過程を終了すると昼の学校に行けるシステムである。草葺き屋根下で、土の上にござをひき、黒板、石板を持ってそこに腰掛ける10数人名の子どもたち。目は真剣である。14過程あり1ヶ月1課程進んでいく。この課程は昨年の8月から始まり、今日は、9課程目の授業であった。

 第1課は「マウル」、テルグ語で「私たちの村」という意味である。なお、村人の母国語はテルグ語ではないが、少数民族以外の隣人たちとの会話は、州の公用語であるテルグ語である。黒板に先生が「マウル」と書く。「マウル」のイメージを先生が生徒たちに聞く。自分たちの村(マウル)についての、それぞれのイメージを話し合う。生徒たちが黒板のところに出てきて「マウル」の簡単な地図を書く。・・・そして、「マウル」を「マ」「ウ」「ル」の三つのテルグ語の音素に分解し、それらを自由に組み合わせて新しい言葉を見つけ、声を上げて各自のノート(石板)に書いていく。

 これは、「アイウエオ」から始まる機械的な識字に対する批判としてブラジルのパウロ・フレイレたちによって考案された「対話的・意識的方法」による識字である。文字の獲得と同時に、地域社会での生活・文化・政治の主体に生まれ変わろうとする〈学びの方法〉であ。CSSSでは独自のプログラムにより行われている。 

第1課  私たちの村

第2課  私の村がテュンガタンパラです。

第3課  このテュンガタンパラ村が必要としているもの

第4課  女の人は何が必要か

第5課  教育、お金を稼ぐこと

第6課  健康と体力が必要です。その為にすべきことは何か

第7課  家、仕事、水が必要です。

第8課  私の一日の給料は1ルピー25パイサです。

第9課  私たちは何をすべきか

勉強中は自分たちの村の表を使い話しあう。先生が次々と質問し、生徒は自分の生活を振り返る。

先生「田んぼの草取りの賃金は政府はその労働賃金を39ルピーと決めている」

生徒「 実際は3分の2の25ルピーしかもらっていない。」

先生「なぜ低くなってしまうのか?」

生徒「そういう法律があったことを自分たちは知らなかった。」

また、村の周辺に麻が植えてあり、それを裂いて束にする仕事を子どもたちはしている。政府はその労働賃金を39ルピーと決めているが、実際は一束1ルピーであり、一日で10ルピーほどにしかならない。しかし、 米の収穫時期は政府が定めている金額より多くもらっているということもある。

 そして先生は最後に「“知らなかった”ということを教えたのだから、家に帰ったら皆に教えてあげなさい。」とまとめ、今日のレッスンは終了する。

この識字教室の生徒に質問をしてみる。

Q.「現金とお米、どちらの給料がいい?」

A.「お米。すぐに食べることができるから」

 

Q.「男の子と女の子どっちが多く稼げるの?」

A.「男の子、仕事が大変だから」

 

Q.「大きくなったら何になりたい?」

A.「仕事がしたい」

   「村を出て街に行きたい」

   「農民になりたい。今は土地を持っていないから」

質問に対して目を輝かせて答える明るい生徒たちを見て、貧しい中に希望の光をみた。

 

3.日本人とインド人をつなげる森のトラストプログラム

 1927年のインド森林法制定以降、森林所有は国家に帰属すると規定された。1952年に出された国家森林政策は、工業化による国益の向上が優先され、木材などの森林の生産性向上がうたわれた。一定の森林産物の採取活動が認められてはいたが、法的な権利としての保証が得られないものであった。森林に依存する人々の生活上の基本的ニーズ(食糧、燃料、現金収入のための森林産物)の充足は十分に保障されてこなかっ。また、近年では大都市の住宅建材や紙パルプの生産のために伐採され、ますます洪水が起こりやすくなり、人々は生きていくためにさらに木を切るという悪循環が起きている。

 CSSSの関わる住民達は古来より森林と共生関係によって生活を営んできている。森林から食糧を採取し、燃料として小木、小枝、草木などを採集している。また家屋の資材、薬草などとしても利用され、人びとは活用方法を熟知している。さらに、森林は、精神的・宗教的よりどころとしても尊重されている。儀式や行事が行われる際、一切伐採や採集をしなくなる。森林は生活と切り離すことができないのである。これらの伝統、慣習、技術が生かされれば、持続可能な森林開発・利用が行われるものと期待されている。森林に依存している人々が森林保全の主体となれば、生活の向上に加えて森林の保全にも貢献するのではないだろうか。

 

@     森のトラストプログラムの仕組み

 「森のトラスト」とは、資金提供者と実際に植樹する農民がパートナーとなって、植樹から、木を育てること・維持・管理まで、共に責任をもって行う制度である。日本において苗木一本200円で購入し、日本側窓口SOMNEED・サンガムを経て、インド窓口CSSSが責任を持って、苗木を選び、自分のパートナーが植樹する。1993年8月から行われているこのプログラムは、1999年現在受益者数615人、数量280.513本、作付面積338.26エーカーという成果をだしている。

 この活動の目的は日本の支援者とインドの受益者つまり植樹を行う人とを直接を結ぶことであり、現時点ではパソコンを使い支援者と受益者の顔写真が交換され、お互いの家族構成が確認できる。またインドの受益者が植樹という仕事が得られ、さらにその木の果実の販売益を得て、中期的には木材の販売益が確保されるという。長いスパンの中で、収入向上が達成できる。さらに荒地に植えられた木は大地に根を張り、洪水が起きるのを防ぐのである。林業が盛んな岐阜県の技術をこのプロジェクトに生かしている

 

Aインドにおける活動の様子

 アーンドラプラティッシュ州ヒラマンダラム群 マミディジョラ村にて、実際に私が見学してきた様子について述べる。植林された木は食用カシューナッツ、木材用ユーカリ、家具用チークなど7種類のものが2haの土地に植林してある。植林活動をするために、PRAを用いて経済状態を調査する。14歳以上が大人扱いで家族の人数、家畜の数、畑、水田、井戸等を調べる。これから全員で地図を作り、自分たちの村の場所、状況、改善すべき課題を分かり合う。

植林の実施が決まると、各村のサンガムにプロジェクトの説明を行い、理解と協力を求める。特に、植樹のように具体的な土地を必要とする場合、土地無し農民が主な受益者となるため、どの土地を使用するかは、村全体の合意を必要とする重要な問題である。また、受益者の選抜そのものも、サンガムの合意がなくては行えない。申込者を募り、CSSSのメンバーが使用できる土地の大きさを計る。どれだけの植林ができるか種をまず育てる。一年スケジュールを表にする(図3)。この村では農作業と森から取れるもの意外の収入はない。農民たちの夢も表にしてあった。

 

 

・この計画に関わっている人が多くの仕事をもらえるように

自分自身から積極的に何かできるように

農業のための水が確保できるように

植林や農業をするための土地を開墾する

村全体の衛生状態をよくする

自助グループを活性化する

飲み水を得ることができるように

 

 このシステムを取り入れることにより変わったことは、以前は木を切って収入を得ていたのだったが、保護することになり生活が苦しくなった。だが、このままだと木がなくなりもっと生活が厳しくなるということが分かり、農民は未来の為に保護を優先するようになった。しかし、森林はこの村だけの所有ではないので、外部者が木を切りに来るというさらなる問題に直面していたのだった。

(図3)農民の一年スケジュール

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 インドの森林減少理由は、悪い管理、法律が機能していない、人間が必要としている資源、そして人間の欲望であった。インドでは森林面積が国土の20%しかないが、それでも木材を輸出する話を聞き、日本での生活を思い出していた。私が思うには、改革すべき国は、日本ではないだろうか。ファーストフードで食事をすると、ものすごい量のゴミがでる。ほとんど紙である。使い放題のペーパーナプキンも、便利なコピーも問題である。インドの村滞在中、紙を使うのは私たち日本人だけであった。メモ帳、トイレ、フィルムの箱など。植林しなければならないくらい生活が追いこまれているインド人は使わず、木を輸入している日本人が使い放題という奇妙な構造が存在していたことに気づかされたのだった。

 日本人と村人の木に対しての考え方は全く違っている。東京では、木を見る機会が少ない。見るとしても道路の脇に植えられている植木ぐらいであろう。そんな木を見て、その木の役割、大切さが理解できるだろうか、木が根をはる自然の偉大さが分かるだろうか。村人は、木と生活が密接に関わっている。仕事のない人に、木は、仕事を与え、生活の燃料となるのである。土地の侵食、汚染、地下水の水の流れにも木は関係している。

 日本は、多量の木材輸入をしているにもかかわらず、国土の70%を濃い森林で覆っている。なぜか?それは他国から木材を輸入することで解決しているのである。これまで、フィリピン、インドネシア、マレーシアなどが、その供給国となった。

 インドの農村以外の中上流家庭の人々が木材に関してやっていることは、日本がやってきたことと同じであるといえる。生存のために森を必要とする住民に対して、その入手を制限する一方で、自分たちは建設資材や燃料を森から得ているのである。これは一国内部における経済格差を増し、分国化へと導く。管理や利権は少数の者の手にある。これらの資源に頼って生きる多数の者は資源から遠ざけられてきた。

 CSSSはまず、森林の大切さを知ってもらうことから、活動を始める。森林減少により生活が苦しくなった農民は、現状の問題点を理解し保護をすることに協力する。日本人が資金をだし、インド人が木を育てるというこの植林事業は、日本人がこれまで消費してきた紙の量を取り戻すきっかけとなるべき活動である。そういった自覚を日本人に持つべきである。

 

B日本における森のトラストの様子

 一本200円の苗木を買い、遠く離れたインドの人々の生活に役立ててもらう。希望を持ってひたむきに努力し続けている人々に出会い帰国後、ささやかであるが私も苗木を購入した。私の購入した苗木が、パートナーである植樹者の手によってすくすくと育ち、インドの広大な大地に根を張り実を結ぶことが、私自身の生活を変えなければいけないという決心を後押ししてくれると思ったからであり、また、インドで乱伐されて日本に送られてきた木を、日本で生活している私も享受しているからである。

日本での生活を改善することについて、その一つの試みとして、インドへ行った人たちとフリーマーケットを行うようになった。自分たちの生活をシンプルにしていく。まだ使えるにもかかわらず、飽きた、古くなったからといってすぐものを買う日本。それを再利用することによって、無駄なく使う。私たちの活動は、小さなことかもしれないが、それを持続していくこと。一人でも活動していくことは重要であると思った。日本の支援者は大勢いる。個々の活動は些細ものかもしれないが、各自、自分の場所で、自分の出来る範囲で何か活動することにより、少しずつ大きな変化が日本にも起きてくることを期待したい。

 

 

 

第5章 NGOの可能性

1.住民参加の必要性とNGOの役割

 住民が開発活動に参加する重要性は、なにかを与えられるものではなくて、自分で見出していくところにある。つまり「魚」を与えるのではなく、「魚のつり方」を教える、ということである。住民達が日々の生活を振り返り、自分の考えや経験を発言し議論を深め、新たな視点を得て、学んでいく。自分の生き方は自分で決めていく。自分で決めたことには責任を持ち、実践していく。

 住民は外部が持っていない知識を持っているため、何が一番必要か、問題なのかを知っているのである。NGOは意見交換の場を設け、住民の気づきのプロセスの道筋をつけていくことであ。そうすることにより、NGOが去ってからも住民が自分たちでプログラムを実施しているという自覚を持ち、支援が終わった後でも、自分たちで活動を続けることが出来る。

 私は現地に足を運び、CSSSの活動を見ると共に、村人の生活も見学することができた。私利・私欲を求めず、他人のために汗を流すことのできる精神的豊さと、地域の人々の心に通じあうカリスマ性を持ち合わせた人間性に感激した。どこの村へいっても、村人たちがとても親切にしてくれた。確かに、外国人が訪れて珍しいこともあると思うが、それ以上にCSSSとの関係が良くできているからだと思う。村人たちのことを本当に考えて一緒に活動してきた結果であると感じた。

 日本のNGOのなかには、現地スタッフに任せっぱなしの団体がある。海外という遠い土地での活動を支援することは、ともすると現実を想像するということを忘れがちである。飢餓問題が発生しているのなら、空腹の人たちをもっと想像してみて欲しい。着るものがなければ、寒さで凍えていることをもっと想像してみて欲しい。その想像がいかにリアリティーに富んでいるかで、自分達が何をすればよいのかということが分かってくると思う。飢餓問題を想像していれば、食べ物を大切にするようになり、寒さで凍えていることを想像していれば、少しくらい汚れた長袖の服は捨てないだろう。 想像をした上での独自の活動。NGOのメンバーは、柔軟に意欲的な改革を試みる人たちとの協同性を尊重していく。その時々の創意工夫が積み重なっていけば、無限の可能性をもっているといえる。

 「住民の意思を尊重する」ことと、外部者という立場がどのようにつながっていくのか。「自ら気づき行動を起こしていくこと」と「外から開発を行うこと」は、根本的にどこかで矛盾を生じるものかもしれない。この矛盾を、常に心に置きながら、住民たちの参加への意欲が維持されるために、慎重に対処することが外部者に求められている。 

 

2.NGOの今後の課題

 欧米のNGOに比べて、日本のNGOは活動の歴史が浅いものの、地球が抱える複雑で困難な問題に対して多様な活動を展開し、これまでの実績が現地では確実な評価を得てきている。また今日では、国内外の各方面からの関心や協力要請も急速に高まっている。その一方で、日本のNGOが抱える課題も少なくないと思われ、以下、3点の課題があげられる。

 第一は、NGO活動の理念やNGOのアイデンティティーに関わる課題である。国際社会が急激に変容する今日、NGOが描く世界観やビジョン、活動の理念や目的を再確認し、具体的な役割や活動方法を再検討する時期にきていると思う。特に最近、「NGO」という言葉だけが一人歩きを始め、その意味が拡大解釈されていく傾向も否めない。「NGOとは何か?」ということを改めて自問していく必要性があると指摘できる。

 第二は、組織化に関わる問題であ。組織が「人材」「資金」「情報」「マネージメント」などからなるとすれば、現在の日本のNGOはこれらを十分に確保しているとはいいがたい。また、NGOにとって望ましい「組織」の姿とはどのようなものであろうか。NGOという組織は、これに関わる人々のボランタリズムに大きく依拠するものだが、NGOが取り組む課題の困難さを考えれば、これからは必要十分な専門性を備えた人材の育成や組織づくりが求められることは必至であろう。

 第三は、国内活動に関する課題である。日本のNGOの多くは、海外の現場を活動の中心としてきた。しかし、国際協力は「海外」だけを対象とするわけではなく、学校教育や社会教育との連携、そして、行政や企業活動に対する提言や働きかけなど、日本国内でNGOが取り組むべき課題も少なくない。国内の市民団体との連携や各種団体との協力関係を図るとともに、一般市民からより多くの理解と参加を得て行く努力も必要となるだろう。

 

3.日本における市民社会の実現へむけて

 日本社会において、ただ一国だけの国益や経済利益だけを最優先する企業的考え方を超えた新しい社会を提案するNGOは、今後ますます必要とされてくる。

 新しい社会とは、自然と人間のお互いの尊厳と地域社会の多様性を保障しているものでなければならない。そのような社会形成に際しては、一人一人が自主的に行動を起こすことが求められる。それらの行動の連帯、相互協力することが大きな力を発揮する。市民が積極的に社会の運営に関わる市民社会の実現の基盤となるものがNGOではないだろうか。

 自分の払った会費がインドの農民の新しい生活を送るのに貢献できているのか、いないのか。会員になることでその世界の形成(例えば「自立」への試み)に参加したい、自分が「寄付者」であるよりは、参加する「市民」でありたいと考える。

 SOMNEED・サンガムは、たまたま高山という地方都市にNGOという形で国際協力の考え方を持ち込んだにすぎない。しかしながら、高山を含む飛騨地方は林業の地である。その地元の林業技術者、また山を測ることを知っている測量技術者がこの海外プロジェクトへ参加をするようになったとき、SOMNEED・サンガムのあり方も大きく変わった。農村開発に必要な技術協力者を、地元でリクルートできる。思えば当然のことだが、この当然のことが、地域の人々の国際協力への参加意識を呼び起こす契機となった。いわば、地元でごく当たり前に使っている技術が、そのまま国際協力につながるという新しい可能性の実感である。期せずして、SOMNEED・サンガムが地元に根付き、地元を大きく意識することによって、地元に発想の飛躍の翼を与えるという効果に結びついたのである。 また、地域それぞれの切実な課題に関わり、それらの経験が相互に呼応しあい、つながっていく、というネットワークがこれからの「地球市民」の流儀であると私は思う。本当の意味の開発とは、共に開き合う関係を生みだすことではなかろうか。

インドの農民の顔を頭に思い浮かべながら、そして数週間でも南のフィールドで汗を流した経験を胸に抱きながら、同じ気持ちを抱くサラリーマンや看護婦や主婦や学生たちが日本のあちらこちらに住んでいたら、そしてそのような人たちを結ぶネットワークが広がっていたら、私たちの住む社会の風通しもいくらかよくなるのではないだろうか。

 

 

 

終わりに

自然と共存していくことは人間だれでも持っている能力であると思う。森の中にいると気持ちがやすらぐ。今の日本人は自然とふれあう機会がなく、森に行く時間もない。自分が持っている能力を呼び起こすことができないでいる。自然を感じる余裕がないのである。いくら高度な技術を持っていても、自然に逆らって生活することは不可能である。 モノは何もないが、たくましく生きるインドの村人たち。それも自然に逆らわずに生きているからだと思う。彼らはハイテクのような技術を開発する能力はないかもしれない。だが、インドがとても魅力的に感じられたことの1つに、人間と自然が共に呼吸しているということがある。日の出と共に起き、日の入りと共に寝、裸足で歩き、小さい子は裸で遊んでいる。私も素足で歩き、右手で食べ、外でトイレに行っているうちに、それがとても心地よくなってしまった。自然に包まれて生活するのは、なんて気持ちがいいのだろう。日本人はそれを忘れてしまっている。自然の暖かさ、自然が人間を抱擁する力の大きさ。さらにインドには、自然に育まれた人達の心の豊さと広さがある。

 「皆さんは、皆さんの暮らしを変え、皆さんの社会を変えて下さい」。これはCSSSのリーダーの言葉だ。

私たちは、日本の経済システムの中に組み込まれ、「モノに囲まれている日本にいるのだから、しょうがない」「少しでもおいしいものを食べたい、儲けたい」という意思が合体して、人間本来の自然の摂理に沿った生活から切り離れて、地球環境を日々破壊している。そんな枠の中で生活している一方、それと裏腹に、システムを形作っているのも私たち一人ひとりである。私たちは、あきらめから脱出し、人に期待するだけでなく、自分から人々へ働きかけていかなければならない。

私は日本で行動していく。知るということは、情報が発達している日本において容易なことである。知った事に心を動かされ、心引かれる。気になるがそのままという状態ではなく、どうやって個々人が行動に移していくのか。あらゆる社会変革は個々人の行動によってもたらされる。また行動することにより、自らも変わって行く。自分が行動の発端となり、人々にきっかけをあたえる。一度かぎりでなく、何度も繰り返し行うことにより、人々の意識を変えていきたい。現在、多くの問題に対して、多くの人が一人でも立ち向かっている。その人たちとネットワークをつくりながら、お互いに励ましあい、社会変革を実現していきたい。

(注)

(1)政府開発援助(ODA)とは、一般に、発展途上国に対する贈与率が25%以上である先進国の政府資金供与をODAと呼ぶ。日本のODA総額は、1987年に一兆円を突破(1兆782億円)アメリカを抜いて世界一の援助国になっている。大園友和:『新・アジアを読む地図―21世紀に大変貌する経済・政治・民族・宗教・文化の徹底分析』講談社、P167―169、1998年

(2)NGO活動推進センター(JANIC)発行『NGOってなんだ!?』P4−21

(3)サンガムの会発行『サンガム』No.23、5月1999年

(4)大橋正明:NGO大国インド、その活動、歴史、ネットワーク、『NGO大国インド』斎藤千宏編著、明石書店、P22−35、1997年

(5)「地元を愛する子供の会」とは、サコンナコン県ブア村にて現在の学校教育に疑問を持ち、自然と共に自分たちの手で、村の土地や文化に対して教育していくという運動を行っている。会員である村に住む12歳以下の子供たちと畑を作ったり、苗木を育て販売している。農業においては池を中心として、数多くの在来種の野菜を育て、自然の循環と多様性を考える、混合農業を行っている。

(6)サンガムの会発行『サンガム』No.2.5月、1993年

(7)同上No.23.5月、1999年

(8)同上No.13.5月、1996年:インド全体の識字率:45.1%、アーンドラ・プラティッシュ州の識字率:男52.24%、女33.71%、スリカクラム県の識字率:31.11%

(9)同上

(10)楠原彰:5回目の南インド『スタディーツアー報告集―出発―』國學院大學教育学第6研究室発行、P.15、1997年

(11)長峯涼子:市民参加による森林保全『NGOが変える南アジア』斎藤千宏編著、コモンズ、P196、1998年

(12)サンガムの会発行『サンガム』No.19、11月、1997年

(13)第三世界の開発活動に関わっているが、自分自身は農村やスラムに住まず、また貧しくもない政府・民間双方に属する人々を指す。ロバート・チェンバース(穂積智夫、甲斐田真智子監訳):『第三世界の農村開発:貧困の解決―私たちにできること』明石書店、P20、1995年

(14)住民が参加し、気づき、組織化の必要性を進めたのは、パウロ・フレイレである。フレイレは、ブラジル出身の教育実践者で、ラテンアメリカやアフリカの解放運動、識字教育に影響を与えた。著書に(小沢有作、楠原彰、柿沼秀雄、伊藤周訳)『被非抑圧者の教育学』(亜紀書房、1979年)がある。

 

(参考文献)

中田正一:『国際協力の新しい風―パワフルじいさん奮戦記』岩波新書、1990年

高木仁三郎:『市民化学者として生きる』岩波新書、1999年

高木仁三郎:『いま自然をどうみるか』(増補新版)、白水社、1998年

金子郁容:『ボランティア もうひとつの情報社会』岩波新書、1996年

見田宗介:『現代社会の理論』岩波新書、1996年

岩崎俊介:『地球人として生きる』岩波ジュニア文庫、1998年

イヴァン・イリイチ他:『脱「開発」の時代』晶文社、1998年

ジョン・フリードマン:『市民・政府・NGO 「力の剥奪」からエンパワーメントへ』新評社、1995年

・斎藤千宏編:『NGOが変える南アジア』コモンズ、1998年

斎藤千宏編:『NGO大国インド』、明石書店、1997年

中村尚司:『人びとのアジア―民際学の視座から―』、岩波新書、1994年

中村尚司:『豊なアジア 貧しい日本』、学陽書房、1989年

朝日新聞「地球プロジェクト21」編:『市民参加で世界を変える』朝日新聞社、1998年

・森井利男編:『現代のエスプリ ボランティア』至文堂、1994年