森 庄内平野の大きな家は、農家でも「壺」と言いまして、立派な庭を持っているんです。天保の飢饉のころに、庄内平野は米の産地ですから、たくさんの難民が流れ込んできた。そんな中の山水河原者という、特別な人たちが裕福な家に参りまして、庭をつくったんです。
 庄内平野というのは最上川で両分されていて、鳥海山側の方は河北、月山の方は河南と言います。庭も河北ですと鳥海山を、河南ですと月山を借景にしているんです。ぼくはそういう家をあの家この家と紹介していただいて、離れにいて見ていましたが、それぞれの家から見た鳥海山というのが、おなじ相貌をしながらも微妙に表情を変えているんです。それによって山は生きる。月山の場合にも同じです。それでせっかく来たんですから、いろんな山の生きた姿を見ようと思っているうちに、いつとはなしに加茂にも行ってみたいという気になったんです。
「『われ逝くもののごとく』まで〈インタビュー〉」聞き手 石毛春人」(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、5~6頁)
 
 
森 ええ。そうすると庄内平野というものがまた、まさしく月山、鳥海山とそれらを結んで連互する山々や、海沿いの防風林に囲まれて一つの「世界」を形成しているんですね。 「『われ逝くもののごとく』まで〈インタビュー〉」聞き手 石毛春人」(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、11頁)
 
 
森 「ぼくが新潟におったのは雪を見たいから、どんなものかと思って見に行ったんだ。そして、それは見たけれども、どうも新潟の空はいつもどんよりと雲がかかっていて、雲が雲の形をしていない。それで、たまたま汽車で湯野浜に行ってみたら、庄内平野は、雲が本当に雲の形をしているんだ。だから、ここだっと思ってぼくは来たんです」
「『われ逝くもののごとく』まで〈インタビュー〉」聞き手 石毛春人(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、22頁)
 
 
森 『われ逝くもののごとく』は、真っ先に、一番小さい加茂という町から書いてあるんですね。それから加茂を出れば大山という町がある。それよりもっと大きい円を描きますと鶴岡が入ってくる。もっと大きい円を描くと酒田。もっと大きく円を描くと庄内全体になる。
「マンダラの恍惚―仏教と日本文学―」対談者 瀬戸内晴美(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、41~42頁)
 
 
 庄内平野は最上川、赤川に灌漑され、日本海沿いに走る砂丘の松林にまもられた目も遥かな美田で、鳥海山や月山、そしてそれらを結んで連亙する山々に囲まれている。
「あきど聟」(『森敦全集』第七巻、7頁)
 
 
庄内平野は延々と続く砂丘の松林によって、日本海からの強風と荒浪から守られた、一望果てもなき稲田におおわれた沃野で、こんもりとした杉林を持って点在する農家が浮島のように見える。しかも、その北限には出羽富士と呼ばれる鳥海山がその山裾を日本海へと曳き、それに対峙して月山が東を限って臥した牛の背に似たながい稜線から、その山腹を強く平野へと雪崩れ落としているばかりではありません。これらの山はいずれも一九〇〇メートルを越す東北有数の高山で、多くの川を生みなしているのですが、なかでも庄内平野を両分して流れる最上川は水量も豊かで、その潤すところも、おのずから知られるというものです。
「庄内の里ざと」(『森敦全集』第七巻、185頁)
 
 
 話がきまるとわたしはむろん、すぐ酒田市を訪ねてみたのです。暘の母はわたしを連れて、吹浦に行きました。吹浦は庄内平野も尽きようとする北の果てに、富士に似た秀麗な山裾を曳く鳥海山の麓にある農漁村で、折りから形容もしがたいように美しい夕焼けた空でしたが、暘の母はふと立ち止まってわたしの手を握り、酒田市に移ったことも知らずにいたわたしにただひとこと、
「信じていましたよ」
 と、言うのです。さすがのわたしも、
「有り難う」
 そう答えることしかできませんでしたが、(中略)ところが、暘は不幸にも耳をわずらい、即刻手術しなければ脳に来ると医者に言われ、酒田市の病院に入院させて、里に面倒をみてもらうことにしました。暘の母も疎開して里に帰っていましたし、当時は食糧事情が極度に悪く、たださえ暘に行き来してもらって、米を運んでもらったりしていたからです。
 いきおい、わたしも酒田を訪れることが多くなり、いつしか庄内平野の町や村を転々として歩くようになりました。そこには先に述べたような鳥海山が秀麗な姿をみせているばかりか、出羽三山として知られる月山が、牛の背に似たながい稜線から、その雄大な山腹をなだれ落としている。これらの山々はいずれも激しい日本海の気流に立っているが、海沿いに延々と続く砂丘の松は防風林をなしていて、庄内平野は見渡すかぎりの青田になり、やがてみのって黄金の稲穂がゆるくかすかに波打つようになるのです。しかも、冬には吹雪がつづき、やんだかと思うと雲間から鈍色の光の柱が立って、動くともなく動いて行くのです。そこからはなにか光あれ!といった神の声でもして来るようで、これこそ千年の心というものだという気のして来ることがありました。
「わが妻 わが愛」(『森敦全集』第七巻、211~212頁)
 
 
ところが、実は、そうして降り積もった雪の融水が、豊沃な庄内平野を生みなし、育くみ、潤沢な利水となっているのです。庄内平野のこの世における豊饒のすべては赤川、最上川の水によるのですが、その水こそ、まさにあの世の山である月山のめぐみといってもよい。
「月山―死と生と」(『森敦全集』第七巻、453頁)
 
 
庄内平野はわが国でも屈指の広大な沃野とされ、見渡す限りの青田の中に、こんもりとして杉に囲まれた村落が浮島のように散在していた。いまもそうした当時の面影がなくなったとまではいえぬものの、至るところに工場が見え前夜一泊した湯野浜温泉から鶴岡の旧市街にはいったときは、かえってここだけがもとの姿を変えないでいるようにすら思われた。
「死者は「月山」にあり」(『森敦全集』第七巻、465頁)
 
 
いずれにしても庄内平野はこれら二つの霊山とその間に連亙する山々に抱かれ、これら二つの山とその間に連亙する山々も、庄内平野によってその霊山たる所以の景観を明らかにする。しかし、これらの霊山はいずれも激変する日本海の気流をまともに受けて、その全貌を現すことは稀で、稀なるが故にまた霊山の名を高からしめているのかもしれぬ。
「月山再訪」(『森敦全集』第八巻、71頁)
 
 
庄内平野は富士に似た秀麗な山裾を、遥かに延びる防風林の彼方の見えぬ日本海へと落とす鳥海山を北に、右手に金峰山を控えた臥した牛の背のような稜線を悠揚と空に曳く月山を東にし、それらを結んで連亙する山々に囲まれた大穀倉地帯である。
「遥かなる月山」(『森敦全集』第八巻、131~132頁)
 
 
わたしは思いだした。注連寺にはいる前、庄内平野の村々を転々としていた。たしかにもとはどの村にも講があり、さまざまな焼き印を烙した金剛杖を立て並べて、いつどこから勧進されてどのお山に何度登ったかなどと、老人たちが炉端の話柄にしていた。
「金剛杖」(『森敦全集』第八巻、228頁)
 
 
山形県は月山によって分断されている。一つを庄内平野、他を内陸部という。山形県の歴史はこれらを結ぼうとする、先人の努力をまざまざと語っている。幸いにして、内陸部は空港を持っている。だからといって、庄内平野に空港はいらないという論議はなり立たない。庄内平野が空港を持って、遥かな日本の各地に結ばれるということは、ひとり先人の努力を成就するばかりでなく、日本にとっても豊饒な経済圏を参加させることになるのだ。
「空の時代だ、飛びたて庄内」(『森敦全集』第八巻、315頁)
 
 
 山形県庄内平野は日本海に面し、二つの名山と二つの大都市を持っている。二つの名山とは北の鳥海山と東の月山、二つの大都市とは酒田市と鶴岡市である。
「まり子さんの講演」(『森敦全集』第八巻、359頁)
 
 
 山形県はこれに続く諸連峰によって、大きく二分されていると言ってよい。二分されて一は山形、上山、米沢等の諸市を持つ内陸部となり、一は鶴岡、酒田の諸市を持つ、日本海に面する庄内平野となる。(中略)僕は山形県が好きで、全県足跡の至らざるはなしと言っていいほどだが、殊に庄内平野は各地に居を構えて転々とした。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、396~397頁)
 
 
 山形県は南北に連亙する山並みによって東と西とに分かたれる。西を庄内平野といい、庄内平野に立ってその山並みを眺めるとき、そのもっとも高きものを月山という。
「慈覚大師の母の声」(『森敦全集』第八巻、527頁)
 
 
「逝くものはかくのごときか、昼夜を舎かず」とは「川上嘆」として知られる言葉だが、夜も更けてむら人も加わり、本堂での宴も酣なときふとこの言葉を思いだす。
「おらさも一杯、注がしてくれちゃ」
「おお、源助のばさまかね」
「ンだ。おら家のばさまが丈夫なこったば、涙を流して喜ぶんでろの」
 とすれば、四十年前に見たばさまは逝ぎて、娘がいま見るばさまになっているのだ。ほんとうはわたしが逝ぎて、われ逝くもののごとく夢見ているのではないだろうか。この度書いた『われ逝くもののごとく』の筆は庄内全円におよぶもその心はこれである。
「深夜の宴」(『森敦全集』第八巻、548頁)
 
 
新潟から山形、といっても庄内地方であるが、に移ったのも、そこに新潟に見られなかったような荒々しい雲を見、それに心惹かれたからであった。
 分けてもその雲の寄せ、またその雲を湧き立たせる月山、鳥海山に心惹かれた。それらの山はつねに本然の姿を失わずしてそこにありながら、見るところの僅かな高低の差、僅かな角度の違いによって様々に変容する。その変容を捉らえんがために庄内地方のあるむらに住み、またしばらくにして他のむらに移った。かくて庄内地方のむら、むらを転々としたのだが、流れる水がなんの考うるところなく、自然にそう流れるように、流れているとしか思っていなかった。
 ところが、庄内地方を去るに及んで、ああして庄内地方のむら、むらを転々としたのは捉らえようとしても捉らうべくもない、月山、鳥海山の本然の姿を捉らえようとしていたのではないかと思いはじめた。たまたま、『群像』から小説執筆の依頼があった。(中略)さすれば、題は「われ逝くもののごとく」としようと思ったそのとき、わたしと共に「われ逝くもののごとく」逝った善男善女のさざめきが聞こえはじめた。様々に変容する月山、鳥海山の本然の姿に迫まることは出来なかったが、捉らえようとして庄内地方のむら、むらを転々としたように、わたしと共に「われ逝くもののごとく」逝った善男善女のさざめきを思いだして行けば、あるいは月山、鳥海山が本然の姿を現して来るのではあるまいか。
「逝く雲逝く水善男善女のさざめき」(『森敦全集』第八巻、54頁)