森 庄内平野の大きな家は、農家でも「壺」と言いまして、立派な庭を持っているんです。天保の飢饉のころに、庄内平野は米の産地ですから、たくさんの難民が流れ込んできた。そんな中の山水河原者という、特別な人たちが裕福な家に参りまして、庭をつくったんです。
 庄内平野というのは最上川で両分されていて、鳥海山側の方は河北、月山の方は河南と言います。庭も河北ですと鳥海山を、河南ですと月山を借景にしているんです。ぼくはそういう家をあの家この家と紹介していただいて、離れにいて見ていましたが、それぞれの家から見た鳥海山というのが、おなじ相貌をしながらも微妙に表情を変えているんです。それによって山は生きる。月山の場合にも同じです。それでせっかく来たんですから、いろんな山の生きた姿を見ようと思っているうちに、いつとはなしに加茂にも行ってみたいという気になったんです。
「『われ逝くもののごとく』まで〈インタビュー〉」聞き手 石毛春人」(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、5~6頁)
 
 
鳥海山は海抜二二三〇メートル、一名出羽富士と呼ばれ、その裾を日本海へと曳く秀麗な山である。
「出羽富士―鳥海山」(『森敦全集』第八巻、417、418頁)