歩けばかなりの道のりなのに、悠揚として頂を青空に曳く臥した牛さながらの月山のこなたに、鶴岡市はもうそこにあるように平たく拡がってみえる。ようやく街にはいると低い家並みの商家の間を、在所の衆が荷を背負ったり、リヤカーを曳いたりしているのに出会うが、どこがということもなく鶴岡市には寂かな気品が感じられる。鳥海山を背景とする酒田市は、出羽の本間で名を知られた商港で、これを庄内平野の大阪とすれば、月山を背景とする鶴岡市は酒井の殿様の城下町で、京都にも比することができると言われている。
街の中心に近づくにしたがって商家はまばらになり、明治を偲ばすような木造の洋館があったり、殿様のお屋敷らしい古い門構えがあったりする。そのあたりに致道博物館というのではなかったかと思うが、萱葺きの多層民家と呼ばれる民家が移築されてい、山の人々の暮らしや道具をひと目で見ることができるようになったりしていた。やがて、桜の散り敷く公園になり、これが城あとだと聞かされた。そういえば、お堀のようなものもあるものの、かくべつ石垣が高く聳えているのでもない。ぼくは心地よい疲れを覚えながら、あのナタネやレンゲの花を見つつここに至ったことを、いつも仄かな幸福としたものである。(中略)あれから何年たったであろう。七五三掛の人々は二十年も前になると言っていた。羽黒山の老杉の道はバイパスにおき去られ、湯殿山への道筋も変わって、村々にもかつての萱葺きの多層民家など殆どみられなくなった。むろん、鶴岡市も大きく変わりつつあるが、中心のあたりは意外に変わらず、依然としてもはや忘れられたと言っていい過去を夢みさせてくれる。いや、ときとしてもはや忘れられたと言っていい過去を夢みると、いつしかぼくは鶴岡市のそうしたところどころを想い描いているのである。
「鶴岡への想い」(『森敦全集』第七巻、574頁)
鶴岡市は酒田市とともに、庄内平野の枢要な都市である。その鶴岡市から湯殿山行きのバスに乗る。バスはやがて赤川のほとりに出、大鳥川と別れて梵字川ぞいに走り、朝日村大網地区に至る。
「吹きの寄するところ――朝日村に建った「月山」文学碑」(『森敦全集』第八巻、312頁)