話がきまるとわたしはむろん、すぐ酒田市を訪ねてみたのです。暘の母はわたしを連れて、吹浦に行きました。吹浦は庄内平野も尽きようとする北の果てに、富士に似た秀麗な山裾を曳く鳥海山の麓にある農漁村で、折りから形容もしがたいように美しい夕焼けた空でしたが、暘の母はふと立ち止まってわたしの手を握り、酒田市に移ったことも知らずにいたわたしにただひとこと、
「信じていましたよ」
 と、言うのです。さすがのわたしも、
「有り難う」
 そう答えることしかできませんでしたが、(中略)ところが、暘は不幸にも耳をわずらい、即刻手術しなければ脳に来ると医者に言われ、酒田市の病院に入院させて、里に面倒をみてもらうことにしました。暘の母も疎開して里に帰っていましたし、当時は食糧事情が極度に悪く、たださえ暘に行き来してもらって、米を運んでもらったりしていたからです。
 いきおい、わたしも酒田を訪れることが多くなり、いつしか庄内平野の町や村を転々として歩くようになりました。そこには先に述べたような鳥海山が秀麗な姿をみせているばかりか、出羽三山として知られる月山が、牛の背に似たながい稜線から、その雄大な山腹をなだれ落としている。これらの山々はいずれも激しい日本海の気流に立っているが、海沿いに延々と続く砂丘の松は防風林をなしていて、庄内平野は見渡すかぎりの青田になり、やがてみのって黄金の稲穂がゆるくかすかに波打つようになるのです。しかも、冬には吹雪がつづき、やんだかと思うと雲間から鈍色の光の柱が立って、動くともなく動いて行くのです。そこからはなにか光あれ!といった神の声でもして来るようで、これこそ千年の心というものだという気のして来ることがありました。
「わが妻 わが愛」(『森敦全集』第七巻、211~212頁)
 
 
歩けばかなりの道のりなのに、悠揚として頂を青空に曳く臥した牛さながらの月山のこなたに、鶴岡市はもうそこにあるように平たく拡がってみえる。ようやく街にはいると低い家並みの商家の間を、在所の衆が荷を背負ったり、リヤカーを曳いたりしているのに出会うが、どこがということもなく鶴岡市には寂かな気品が感じられる。鳥海山を背景とする酒田市は、出羽の本間で名を知られた商港で、これを庄内平野の大阪とすれば、月山を背景とする鶴岡市は酒井の殿様の城下町で、京都にも比することができると言われている。
 街の中心に近づくにしたがって商家はまばらになり、明治を偲ばすような木造の洋館があったり、殿様のお屋敷らしい古い門構えがあったりする。そのあたりに致道博物館というのではなかったかと思うが、萱葺きの多層民家と呼ばれる民家が移築されてい、山の人々の暮らしや道具をひと目で見ることができるようになったりしていた。やがて、桜の散り敷く公園になり、これが城あとだと聞かされた。そういえば、お堀のようなものもあるものの、かくべつ石垣が高く聳えているのでもない。ぼくは心地よい疲れを覚えながら、あのナタネやレンゲの花を見つつここに至ったことを、いつも仄かな幸福としたものである。(中略)あれから何年たったであろう。七五三掛の人々は二十年も前になると言っていた。羽黒山の老杉の道はバイパスにおき去られ、湯殿山への道筋も変わって、村々にもかつての萱葺きの多層民家など殆どみられなくなった。むろん、鶴岡市も大きく変わりつつあるが、中心のあたりは意外に変わらず、依然としてもはや忘れられたと言っていい過去を夢みさせてくれる。いや、ときとしてもはや忘れられたと言っていい過去を夢みると、いつしかぼくは鶴岡市のそうしたところどころを想い描いているのである。
「鶴岡への想い」(『森敦全集』第七巻、574頁)
 
 
わたしの住んだ吹浦はこの鳥海山の山裾にある漁村、狩川は最上川の河岬の清川の在、酒田はその河口の街、大山は砂丘の南限が隆起してなるところの高館山の平野側にある酒どころとして知られた町、湯野浜、加茂はそれぞれその山の海側にある温泉街であり、漁港であります。
「庄内の里ざと」(『森敦全集』第七巻、185頁)
 
 
酒田市は最上川がまさに日本海にはいろうとするところにある河口の街である。ぼくは暗い日本海の彼方から、ようやく白々と吹雪が寄せて来ようとするころ、鳥海山麓の農漁村吹浦を去ってこの街に来たのだが、女房と共に暮らした僅かな期間のひとつと言っていいだろう。
「母からの手紙」(『森敦全集』七巻、461頁)
 
 
放浪していたとき、ぼくはどこに行きついたとしても、あらかじめなにかをよそうしていたのではない。ただ行きついたところをおのが住み家として留まり、留まることができなくなれば働き、働いてはまたなにを予想するでもなく、どこかに行きつこうとして働くのをやめたのである。そこにもし人生があったとすれば、そのことがすでに人生というものの姿であったので、ぼくが注連寺を訪ねたとしても、かつてを懐かしむというだけで、もはや人生を見ることなどできようはずがない。そうは思っても酒田に行けば、かつての住み家を訪れる。かつての住み家は幸いにして大火にもあわず残っているが立派に改装され、どの家もどの店もすっかり変わっていて、酒田がすでにぼくの知る酒田ではないのである。
「放浪への誘い」(『森敦全集』第八巻、239頁)
 
 
満場の観客から拍手が起こった。まり子さんが「ガード下の靴磨き」を歌い出したのである。わたしはかつて酒田市の街中にいた日のことを思いだした。近くに映画館があり、屋上からスピーカーであの甘美な強く訴えて来るメロディーを終日流していた。
「ねむの木学園に行く」(『森敦全集』第八巻、241頁)
 
 
といって、それら市町村に映画館がなかったわけでもなければ、商業主義映画ばかりをかけていたわけでもない。商業主義映画ばかりをかけている映画館が、料金を落として深夜営業をするといったら、ポルノ映画の興行だろうと思われる向きもあるかもしれないが、案に相違して「岩波シネサロン」で行われているようなかつての名画を観せてくれるところがある。山形県酒田市にあった「グリーン・ハウス」などは、規模は小さいが施設が完備し、そうした点では日本一ではないかと小島信夫も書いたほどだ。
「随感」(『森敦全集』第八巻、306頁)
 
 
酒田市は最上川河口、日本海に面して発展した商工業都市で、わたしのもっとも忘れ得ぬ街である。先年の大火で街の半分を消失してしまった。海からくる強風に煽られて、あっという間にそうなったということだが、酒田市は盛んな街だから、たちまち復興するとの声があった。事実そのとおりで、わたしが大火からいくばくもなくして訪れたとき、酒田市は目を見張るばかりかばかり、整然とした近代都市に生まれ変わっていた。 わたしはかつて酒田市の、ほとんど中心といっていい、匠町の繁華な通りに面した、二階屋の二階に住んでいた。鳥海山がその富士に似た秀麗な山裾を、まさに日本海へと没しようとするあたりにある農漁村吹浦で夏を過ごして、移って来たのである。たまたま東京から友が来ると、そのころはまだ健在だった女房に、焼酎を買って来てもらい、窓際に食卓を寄せて、通りを眺めながら語り合った。
「凍雲篩雪図」(『森敦全集』第八巻、309頁)