森 荒廃して跡形もなくなったら困りますけど、加茂が昔の姿を残したままじーっと荒廃しているのは、懐かしいなと思いました。まあ、そういうところをひとつ小説に書いてみようというので、まず加茂の描写からはじめたんです。加茂には一年まではおりませんでしたけれども。
「『われ逝くもののごとく』まで〈インタビュー〉」聞き手 石毛春人(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、8頁)
森 一つの「世界」の中に「世界」があるというんで、ぼくは『月山』を書きましたときに、まず庄内平野からはじめました。これを一つの「世界」であると思って。その庄内平野という「世界」の中には大網という「世界」があって、その中に七五三掛という「世界」があり、更に注連寺という「世界」がある。(中略)そういうふうにして、中へ中へと「世界」つくって行って微塵の中の「世界」に至ったのが『月山』なんです。だから、今度の『われ逝くもののごとく』は逆に外へ外へと「世界」をつくっていけないものかなと思って、まずその微塵の中の「世界」、といっては叱られるかも知れませんが、加茂から書いたのです。しかし、山々に囲まれた加茂も加茂坂トンネルを抜けますと、一挙に大山という「世界」が開けます。
「『われ逝くもののごとく』まで〈インタビュー〉」聞き手 石毛春人(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、10頁)
森 酒田の柳小路に犬をつれて、ただ日向ぼっこをしていた老人を。あれがぼくに加茂の近くの洞窟におなじような老人がいたのを絶えず思いださせていて、そもそも「われ逝くもののごとく」という言葉の拡がるもととなったのです。ふと見るともののけみたいな女がいる。その女にはどういうわけか、いつもめんこい女の子がついている。むろん、酒田でのことですが、不思議なことにぼくはこの二人を鶴岡でも見たのです。大山でも見たのです。そして、加茂に住んでみて、この二人が加茂のものであることを知ったのです。よし、このめんこい女の子を善財童子に見立てて、「われ逝くもののごとく」と言って回らせようと思い立ちました。
「小説背後論理」対談者 小島信夫(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、95頁)
庄内を離れ、庄内に来ては離れしているうちに、いつとなく庄内が帰るべきところででもあるように、どこに行っても庄内に来るようになりました。こうして、わたしは吹浦に住み、狩川に住み、酒田に住み、大山に住み、湯野浜に住み、加茂に住むというようにして、庄内平野の町や村をわがふるさとのごとく転々として歩いたのです。
「庄内の里ざと」(『森敦全集』第七巻、185頁)