注連寺も火災にあって再建された本堂の伽藍と二階建ての大きな庫裡を残すばかりになったばかりか、わたしがはじめて訪れたときは、屋根に積もった豪雪の雪崩で傾いた伽藍に押されて庫裡までも歪み、殊に庫裡などは仕切りの襖も天井張りの板もなく、ガランとして廃墟のような様相を呈していた。目ぼしい仏像群はむろん、確たる記録もない。それに、その業績でよく 羽黒山の天宥上人に比べられる鉄門海上人の即身仏さえ出開帳されたまま行方不明になり、あれは、火災のとき焼けたので、じつは行き倒れのやっこを燻してつくったミイラだなどというあらぬ噂まで囁かれていた。(中略)わたしはその噂を信じるともなく信じて噂のまま『月山』に書いたが、その後各地を転々として行方知れずになっていた鉄門海上人の即身仏が京都で見つかって無事注連寺に戻って来たばかりか、その手の指紋が、酒田市海向寺に残された鉄門海上人の生前残した手形のそれと一致することがわかり、噂は噂に過ぎなかったことが証明された。
「肉髻の謎」(『森敦全集』第八巻、300頁)
ぼくは菅原方丈から、鉄門海上人の伝記を書いてくれと頼まれていた。菅原方丈の言うところによると、鉄門海上人は俗名砂田鉄。鶴岡大宝寺に生れた荒らくれで、青龍寺川の水争いから武士を殺し、逃がれて注連寺に至って木食行者となり、湯殿山仙人沢に参籠した。そこへ馴染みの女が迫って来たが、自ら男根を切って女に渡し、もはや俗念を断ったことのあかしとした。その後、江戸に上がって眼病の流行するを見、われとわが隻眼をくり抜いて祈念した。以後、加茂坂の改修、行者寺の建立等々多くの功績を残した、云々である。しかし、鉄門海上人の即身仏、ミイラが行き倒れのやっこであると聞かされては、ぼくも筆をとる気がしなかった。
「月山その山ふところにて」(『森敦全集』第八巻、382頁)