森 それと、もう一つは、ぼくは若いときに東大寺にいました。東大寺というのは『華厳経』なのです。『華厳経』はいわゆる恍惚を書いている、恍惚への教えなのです。それが生死一如とか、坐禅だとか、身心脱落だとか、そういうものに全部通じるんです。
では、ひとつ、『華厳経』の終わりになって登場し、善知識を歴訪する善財童子を書かにゃいかん。善財童子の尋ねたところは五十三あるのです。実際は五十四ですけれども、東海道五十三次の五十三で、善財童子のつもりで少女サキを登場させ、「われ逝くもののごとく」と教えてくれ、かつ加茂の洞窟から消えた人を探し求めるサキの行くところ、「われ逝くもののごとく」が拡がって行き、ついにすべてが「われ逝くもののごとく」と呼ばれるようにさせたのです。
「小説背後論理」対談者 小島信夫(『一即一切一切即一 ―『われ逝くもののごとく』を巡って/森敦対談集』、法蔵館、84頁)