日本海沿いに走る羽越本線が庄内平野にはいったとき、女房の母が「あれが月山、向こうに見えるのが鳥海山よ」と言った。なるほど、出羽富士と呼ばれる遥かな鳥海山に対峙して、月山は悠揚として牛の背にも似た稜線を彼方の空へと引いていた。むろん、そのときは月山が死者の行く、あの世の山とされる霊山であることを知りもしなければ、やがてはぼくが庄内平野を転々とし、月山の山ふところの七五三掛にはいって、破れ寺といっていい注連寺で冬を過ごそうなどとは思ってもいなかった。しかし、そうしたのもそう言ったあのときの母の声が心の底に残ってい、招かれでもしたように行かずにいられなくなったのかもしれない。
「死者は「月山」にあり」(『森敦全集』第七巻、464~465頁)
 
 
羽越本線が海を離れて庄内平野にはいると、右手に牛の背に似た悠揚たる稜線を空に引く月山、左手に目も遥かな防風林、そして正面には出羽富士と呼ばれる秀麗な鳥海山が聳えている。平野には鎮守の森を思わす集落が点在し、わたしはひと目でここに魅せられ、あるいは農家の離れ、寺院の庫裡に宿を借りて、転々として十年を過ごした。
「羽黒の天狗」(『森敦全集』第八巻、404頁)
 
 
庄内平野は延々と続く砂丘の松林によって、日本海からの強風と荒浪から守られた、一望果てもなき稲田におおわれた沃野で、こんもりとした杉林を持って点在する農家が浮島のように見える。しかも、その北限には出羽富士と呼ばれる鳥海山がその山裾を日本海へと曳き、それに対峙して月山が東を限って臥した牛の背に似たながい稜線から、その山腹を強く平野へと雪崩れ落としているばかりではありません。これらの山はいずれも一九〇〇メートルを越す東北有数の高山で、多くの川を生みなしているのですが、なかでも庄内平野を両分して流れる最上川は水量も豊かで、その潤すところも、おのずから知られるというものです。
「庄内の里ざと」(『森敦全集』第七巻、185頁)
 
 
 話がきまるとわたしはむろん、すぐ酒田市を訪ねてみたのです。暘の母はわたしを連れて、吹浦に行きました。吹浦は庄内平野も尽きようとする北の果てに、富士に似た秀麗な山裾を曳く鳥海山の麓にある農漁村で、折りから形容もしがたいように美しい夕焼けた空でしたが、暘の母はふと立ち止まってわたしの手を握り、酒田市に移ったことも知らずにいたわたしにただひとこと、
「信じていましたよ」
 と、言うのです。さすがのわたしも、
「有り難う」
 そう答えることしかできませんでしたが、(中略)ところが、暘は不幸にも耳をわずらい、即刻手術しなければ脳に来ると医者に言われ、酒田市の病院に入院させて、里に面倒をみてもらうことにしました。暘の母も疎開して里に帰っていましたし、当時は食糧事情が極度に悪く、たださえ暘に行き来してもらって、米を運んでもらったりしていたからです。
 いきおい、わたしも酒田を訪れることが多くなり、いつしか庄内平野の町や村を転々として歩くようになりました。そこには先に述べたような鳥海山が秀麗な姿をみせているばかりか、出羽三山として知られる月山が、牛の背に似たながい稜線から、その雄大な山腹をなだれ落としている。これらの山々はいずれも激しい日本海の気流に立っているが、海沿いに延々と続く砂丘の松は防風林をなしていて、庄内平野は見渡すかぎりの青田になり、やがてみのって黄金の稲穂がゆるくかすかに波打つようになるのです。しかも、冬には吹雪がつづき、やんだかと思うと雲間から鈍色の光の柱が立って、動くともなく動いて行くのです。そこからはなにか光あれ!といった神の声でもして来るようで、これこそ千年の心というものだという気のして来ることがありました。
「わが妻 わが愛」(『森敦全集』第七巻、211~212頁)
 
 
庄内平野は富士に似た秀麗な山裾を、遥かに延びる防風林の彼方の見えぬ日本海へと落とす鳥海山を北に、右手に金峰山を控えた臥した牛の背のような稜線を悠揚と空に曳く月山を東にし、それらを結んで連亙する山々に囲まれた大穀倉地帯である。
「遥かなる月山」(『森敦全集』第八巻、131~132頁)
 
 
あれはぼくが奈良市瑜伽山の山荘にいたのも遠いむかしの話になり、山形県のいまは鶴岡市になっている大山と呼ばれる町にいたころのことである。こうしてぼくは気のむくままに転々としてはいたものの温かい厚意を受け、はるばる訪れてくれる友もあったのだ。おそらく、夏もまだ終わらぬころであったであろう。町は高館山とその尾根のなす太平山を背にしながらも、目も遥かに青田の拡がる庄内平野を前にし、その果てるところの右には月山が晴れ渡った空に、悠揚として臥した牛の背のような稜線を連ね、左には秀麗な鳥海山が防風林の彼方の見えぬ海へと、富士に似た山裾を曳いていた。
「想いかそけく」(『森敦全集』第八巻、100頁)
 
 
歩けばかなりの道のりなのに、悠揚として頂を青空に曳く臥した牛さながらの月山のこなたに、鶴岡市はもうそこにあるように平たく拡がってみえる。ようやく街にはいると低い家並みの商家の間を、在所の衆が荷を背負ったり、リヤカーを曳いたりしているのに出会うが、どこがということもなく鶴岡市には寂かな気品が感じられる。鳥海山を背景とする酒田市は、出羽の本間で名を知られた商港で、これを庄内平野の大阪とすれば、月山を背景とする鶴岡市は酒井の殿様の城下町で、京都にも比することができると言われている。
 街の中心に近づくにしたがって商家はまばらになり、明治を偲ばすような木造の洋館があったり、殿様のお屋敷らしい古い門構えがあったりする。そのあたりに致道博物館というのではなかったかと思うが、萱葺きの多層民家と呼ばれる民家が移築されてい、山の人々の暮らしや道具をひと目で見ることができるようになったりしていた。やがて、桜の散り敷く公園になり、これが城あとだと聞かされた。そういえば、お堀のようなものもあるものの、かくべつ石垣が高く聳えているのでもない。ぼくは心地よい疲れを覚えながら、あのナタネやレンゲの花を見つつここに至ったことを、いつも仄かな幸福としたものである。(中略)あれから何年たったであろう。七五三掛の人々は二十年も前になると言っていた。羽黒山の老杉の道はバイパスにおき去られ、湯殿山への道筋も変わって、村々にもかつての萱葺きの多層民家など殆どみられなくなった。むろん、鶴岡市も大きく変わりつつあるが、中心のあたりは意外に変わらず、依然としてもはや忘れられたと言っていい過去を夢みさせてくれる。いや、ときとしてもはや忘れられたと言っていい過去を夢みると、いつしかぼくは鶴岡市のそうしたところどころを想い描いているのである。
「鶴岡への想い」(『森敦全集』第七巻、574頁)