ぼくはその海沿いの景観が素晴らしいので、鶴岡市あるいは酒田市に至るため、羽越本線を利用する。鶴岡市からは羽黒山へも、湯殿山へもバスが出ている。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、397頁)
 
 
わたしは注連寺にひと冬を過ごして去り、『月山』を書いたので、そのときはまだ羽黒山も知らなければ、湯殿山も知らず、况や月山の頂きに立ったこともなかった。いまは月山にも八合目までバスで行ける。しかし、たまたま行ったときは立っていられぬほど風が吹き、頂上をきわめることなど思いも及ばなかったが、羽黒山、湯殿山には行くたび参拝する。
 月山もむろんそうであろうが、羽黒山も湯殿山も神官の支配するところ、すなわち神社になっていた。殊に羽黒山の三山神社は壮大だが、問題なのはその開基とされる蜂子の皇子(能除太子)の像である。その顔はきわめて醜怪で、天狗ではないが天狗を想起させる。わたしはこれがほんとに開基の神ではないかと思った。
「羽黒の天狗」(『森敦全集』第八巻、406頁)
 
 
歩けばかなりの道のりなのに、悠揚として頂を青空に曳く臥した牛さながらの月山のこなたに、鶴岡市はもうそこにあるように平たく拡がってみえる。ようやく街にはいると低い家並みの商家の間を、在所の衆が荷を背負ったり、リヤカーを曳いたりしているのに出会うが、どこがということもなく鶴岡市には寂かな気品が感じられる。鳥海山を背景とする酒田市は、出羽の本間で名を知られた商港で、これを庄内平野の大阪とすれば、月山を背景とする鶴岡市は酒井の殿様の城下町で、京都にも比することができると言われている。
 街の中心に近づくにしたがって商家はまばらになり、明治を偲ばすような木造の洋館があったり、殿様のお屋敷らしい古い門構えがあったりする。そのあたりに致道博物館というのではなかったかと思うが、萱葺きの多層民家と呼ばれる民家が移築されてい、山の人々の暮らしや道具をひと目で見ることができるようになったりしていた。やがて、桜の散り敷く公園になり、これが城あとだと聞かされた。そういえば、お堀のようなものもあるものの、かくべつ石垣が高く聳えているのでもない。ぼくは心地よい疲れを覚えながら、あのナタネやレンゲの花を見つつここに至ったことを、いつも仄かな幸福としたものである。(中略)あれから何年たったであろう。七五三掛の人々は二十年も前になると言っていた。羽黒山の老杉の道はバイパスにおき去られ、湯殿山への道筋も変わって、村々にもかつての萱葺きの多層民家など殆どみられなくなった。むろん、鶴岡市も大きく変わりつつあるが、中心のあたりは意外に変わらず、依然としてもはや忘れられたと言っていい過去を夢みさせてくれる。いや、ときとしてもはや忘れられたと言っていい過去を夢みると、いつしかぼくは鶴岡市のそうしたところどころを想い描いているのである。
「鶴岡への想い」(『森敦全集』第七巻、574頁)
 
 
鶴岡市は酒田市とともに、庄内平野の枢要な都市である。その鶴岡市から湯殿山行きのバスに乗る。バスはやがて赤川のほとりに出、大鳥川と別れて梵字川ぞいに走り、朝日村大網地区に至る。
「吹きの寄するところ――朝日村に建った「月山」文学碑」(『森敦全集』第八巻、312頁)
 
 
ぼくは菅原方丈から、鉄門海上人の伝記を書いてくれと頼まれていた。菅原方丈の言うところによると、鉄門海上人は俗名砂田鉄。鶴岡大宝寺に生れた荒らくれで、青龍寺川の水争いから武士を殺し、逃がれて注連寺に至って木食行者となり、湯殿山仙人沢に参籠した。そこへ馴染みの女が迫って来たが、自ら男根を切って女に渡し、もはや俗念を断ったことのあかしとした。その後、江戸に上がって眼病の流行するを見、われとわが隻眼をくり抜いて祈念した。以後、加茂坂の改修、行者寺の建立等々多くの功績を残した、云々である。しかし、鉄門海上人の即身仏、ミイラが行き倒れのやっこであると聞かされては、ぼくも筆をとる気がしなかった。
「月山その山ふところにて」(『森敦全集』第八巻、382頁)
 
 
出羽三山とはこの庄内平野からみる眺めにもとづいたもので、向かって左に尾根を曳いて、またやや高くなったところを羽黒山、中央にながく牛の背のように連なるあたりを月山、その背のまさに終わろうとして、大渓谷をなして来るあたりを湯殿山という。しかし、いずれも日本海の激しい気流に抗して立つので、曇り霞み、あるいは吹雪いて、容易にその全貌を現すことがない。その全貌を現すとき、庄内平野に住む人々でさえ、声をのんでしばし足をとどめる。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、384頁)
 
 
ぼくは山形県が好きで、全県足跡の至らざるはなしと言っていいほどだが、殊に庄内平野は各地に居を構えて転々とした。月山は鳥海山とともに、日本海の気流をまともに受け、季節によっては容易に姿を現わさない。しかし、これが姿を現わすとき、謂わゆる出羽三山なるものを一望にすることができる。悠揚と牛の背に似た稜線を引く、月山が首を垂れて頭をなすあたりを羽黒山といい、更にその尻に至って隠しどころのごとく大渓谷をなすあたりを湯殿山といい、この羽黒山、月山、湯殿山を出羽三山というのである。出羽三山なる石碑が東北各地は言うに及ばず、関東、北陸にあるのを見ても、いかに出羽三山が広大な信仰圏を持っていたかが知られるであろう。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、397頁)
 
 
森 湯殿山というところは大火口底で、中央に大岩石があります。その大岩石の上から温泉が湧出して茶褐色にただれ、巨大な女陰のようにみえる。それを万物を産みなし、かつ破壊するところの、したがって万物を流転せしむるところの「胎蔵界大日如来」だと言って、真言の徒が崇めていた。それだけならよかったのですが、羽黒山に宥誉という傑僧が出て来まして、上野東叡山寛永寺の第一天海と結んで天宥と称し、全山を挙げて天台にしようと……。(中略)だけど、湯殿山側は羽黒みたいに山伏や僧兵がいるわけでもありませんし、武力がありませんから、一種の大衆信仰をねらったんです。
「『われ逝くもののごとく』まで〈インタビュー〉」聞き手 石毛春人(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、12~13頁)
 
 
森 (前略)ぼくは注連寺に一年近くもいて、湯殿山も知らずに帰りました。それがテレビの仕事かなんかで、はじめてあの大火口底の胎蔵界大日如来といわれる大岩石を見て思いだしたのです。
 春といっても雪はすこしもへっていない。その雪を踏んで白衣の男たちが鶴岡から注連寺に来て、湯殿山開きに行くというのです。寺守のじさまはぼくにも連れて行ってもらえと言って、自分のモンペまで持って来てくれたのに行かなかったのです。そのモンペはぼくには小さすぎて、はこうにもはけないと寺守のじさまにも分かっていたんでしょうがね。『月山』に湯殿山が出て来なかったのはそのためだったのですが、あれは金剛界曼荼羅だったんだ。湯殿山を見たからには、こんど書くなら胎蔵界曼荼羅だと、そう思ったんです。
「小説背後論理」対談者 小島信夫(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、80頁)
 
 
注連寺はもともと湯殿山の参拝者のためにできた寺で、湯殿山に行くには鷹匠山を回らねばならぬ。塞の峠を越えねばならぬ。仙人岳に至らねばならぬ。寺のじさまは割り箸を何本つくればどこまで行くときめていて、さながら吹雪の中を歩くようなつもりでいたのかもしれぬ。ある夜は鷹匠山を過ぎて、塞の峠まで行き着くこともあった。仙人岳に至ることもあった。これらの山々を越えても、また注連寺まで戻らねばならぬ。こうして、ひと冬かかっても、ついに湯殿山には行き着くことはできなかった。しかし、行き着くべきところに行き着かぬが故に、かえっていまも行き着こうとしているかのように、寺のじさまはわたしの胸に生きているのである。
「ある生涯」(『森敦全集』第八巻、371頁)
 
 
わたしが湯殿山に詣でるようになったのは、この十年来のことである。すでに述べたように、かつては注連寺にも羽越本線で鶴岡市からバスで行ったが、いまは空路で神町の山形空港から月山の左を迂回して、寒河江川沿いに六十里越街道を自動車で走る。あの注連寺への山路が湯殿山を過ぎ、ここまで来て山形市に至っているのだが、六十里越街道はむろん古い姿をとどめてはいない。新しい道のためには古い道は亡びなければならぬ。すでに六十里越街道も月山花笠ラインと改称された。しかし、わたしはこれをすこしも嘆いてはいない。古い言葉は聞かれなくなっても、そこにはまた新しい言葉が生まれて来るからである。こうしてたやすく湯殿山に着く。近年は湯殿山ホテルもホテルらしい景観を呈すようになった。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、386頁)