石毛 話は変わりますが、森さんのお母様は、日露戦争の日本海海戦に遭遇されたとか。日本の赤十字社の看護婦として従軍されて。ずいぶん気丈な方だったでしょうね。
「『われ逝くもののごとく』まで〈インタビュー〉」聞き手 石毛春人(『一即一切、一切即一―『われ逝くもののごとく』をめぐって/森敦対談集―』法蔵館、昭和63年8月、28頁)
 
 
母は日露戦争のとき、志願して赤十字社の従軍看護婦になり、病院船博愛丸に乗り込んで、危くバルチック艦隊に遭遇しかけたことを、終生の誇りにしていた。
「双点*森敦・古山高麗男往復エッセイ」(『森敦全集』第七巻、506頁)
 
 
 母は陽気でぼくらがショゲたりすると、怒って若者の癖にと言い、わたしなどはこれでも赤十字社の従軍看護婦になり、日本海海戦では危うくもバルチック艦隊に遭遇しかけたが、たじろぎもしなかったと胸を張ってみせた。もし、ほんとうにバルチック艦隊に遭遇でもしていたら、その意気たるや大変なものだったろう。
 戦後間もなく、闇市をブラブラしていると人混みの中を、母が前に身を倒すような恰好の早足で歩いている。母は気ばかりはやって足がともなわず、こんな恰好の早足になるのだが、それにしてもなにをそんなに急いでいるのだろう。そう思いながら、ぼくもいつしか母を追いかけはじめた。
 ぼくが追って来たと母も気づいたらしい。母は突如逃げはじめ、闇市の角を曲がって消えた。つづいてぼくも曲がると、母は更に向こうの角を曲がろうとしていたが、なんとか追いついた。
「なぜ、追っかけて来るの」
 観念したように母は立ち止まって、息を切らしながら言った。
「追っかけるって、逃げるからさ。なぜ、逃げるの」
「だって、お前のような大きい息子がいると思われちゃ恥ずかしいじゃないか。早くあっちにお行き」
 母はすでに六十を越していたが、まだ若いつもりでいたし、若くもみられたかったのだ。もって、母がどんな女だったか知ることができるだろう。母はみずから進んで従軍看護婦になったぐらいだから、謂わゆる青雲の志があり、できれば女医になりたかったに違いない。女性の身ながら医学校を設立し、今日の東京女子医大をなさしめた吉岡弥生さんを尊敬してい、あるときぼくにこう言った。
「ほんとうに偉い人ね。あれだけの仕事をされながら、終戦になるとすっぱり身を引き、立派な有料養老院をつくって、ご自身が第一番にはいられたそうよ」
「母の望み」(『森敦全集』第八巻、68頁)
 
 
なにかといえば、母はこれでも病院船博愛丸に乗り込んで、玄海灘でバルチック艦隊と遭遇したことがあると自慢していた。日露戦争が終わると自力で実践女学校を出、共立職業学校に通ったというほどだから、意気盛んで明るすぎるほど明るく、教育熱心なこといまの教育ママに、優るとも劣るものではなかった。
「習う振りして教えた母」(『森敦全集』第八巻、87頁)
 
 
母は日赤の看護師になり、病院船博愛丸に乗り組んで、危うくバルチック艦隊に遭遇するところだったなどと自慢げに話すひとだったが、日露戦争が終わると、従軍で得た金で共立女子職業学校に通い、造花を習った。それで造花屋を開いたのだが、その後朝鮮に渡って京城に居を構えたところをみると、うまくいかなかったのだろう。しかし、たえず銀屋町で造花屋をしていたころを懐かしんで、お諏訪さん(諏訪神社)のおくんちの話をしてくれた。
「私とわらべうた――母とおくんち」(『森敦全集』第八巻、290頁)
 
 
わたしの母は、日赤にはいり従軍看護婦になって博愛丸に乗船、玄海灘でバルチック艦隊に遭遇したことを、いつも自慢にしていた。決して弱音をはかず、わたしが働いていたときは働いていたときで、遊んでいたときは遊んでいたときで、つねに手紙をくれ、激励してくれた。
「私の転機――母親の絶えざる激励」(『森敦全集』第八巻、464頁)