ぼくはながく大山という町に住んでいた。ながい日本海の砂丘が終わって聳え立つ高館山や太平山を背にした広い庄内平野を限る月山を前に、鳥海山を遠く左手に眺めることができる。思わぬ歳月をここに過ごしたのはそのためだが、用を足すには鶴岡市まで出掛けねばならなかった。鶴岡市までは羽越本線でひと駅、湯野浜電鉄でも幾駅しかない。
「鶴岡への想い」(『森敦全集』第七巻、574頁)
 
 
 あれはぼくが奈良市瑜伽山の山荘にいたのも遠いむかしの話になり、山形県のいまは鶴岡市になっている大山と呼ばれる町にいたころのことである。こうしてぼくは気のむくままに転々としてはいたものの温かい厚意を受け、はるばる訪れてくれる友もあったのだ。おそらく、夏もまだ終わらぬころであったであろう。町は高館山とその尾根のなす太平山を背にしながらも、目も遥かに青田の拡がる庄内平野を前にし、その果てるところの右には月山が晴れ渡った空に、悠揚として臥した牛の背のような稜線を連ね、左には秀麗な鳥海山が防風林の彼方の見えぬ海へと、富士に似た山裾を曳いていた。
「想いかそけく」(『森敦全集』第八巻、100頁)
 
 
たとえば、大山の裏手に大山公園と呼ばれる、高館山の尾根をなす太平山という小さな山がある。庄内の人たちはこれをたいふぇいざん(TAIFEIZAN)と言って、たいへいざん(TAIHEIZAN)とは呼びません。(中略)してみれば、太平山ももとはたいぺいざん(TAIPEIZAN)と呼ばれていたので、いまはたいふぇいざん(TAIFEIZAN)と言われているが、これとてたいへいざん(TAIHEIZAN)と読むわたしたちの言葉に比べれば遥かに古いので、これが古語であることを知って、わたしがその方言にまで懐かしさを覚えるというのも、これも始原への思慕、ふるさとへの思いに遠くつらなるものかもしれません。
「庄内の里ざと」(『森敦全集』第七巻、186頁)