森 最澄のほうがえらい優遇されて中国へ行ってるんですね。通訳もおるんです。ところが空海という人は、中国語がペラペラなんです。大安寺というお寺が奈良にありまして、向こうから日本へ来た人は必ずそこへ行く。そこで覚えてしまった。それで語学力は強いし、『御請来目録』というのがありますが、密教の文献や道具をもの凄くたくさん持ってきちゃったんです。それを見た最澄は、真言密教はこの人に習わんならんと思っちゃったわけですね。
「マンダラの恍惚―仏教と日本文学―」対談者 瀬戸内晴美(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、53頁)
それに、ぼくは東北の日本海沿いの町や村を転々し、月山の荒れ果てた真言宗の山寺で生活したりしているうちに、なんとなく次のような事実を肌で感じるようになっていた。こうした山寺はほとんどもと山岳宗教―これがすでに神仏混淆を意味していると思われるが―の本家ともいうべき真言宗であったのだが、次第に天台宗の侵すところとなったということ。そして、真言宗が貴族仏教として諸大名の庇護を受け、加持祈祷で栄えている間はよかったものの、それに甘えて檀家らしいものをつくらなかったため、いつとなく来をさぐると、糖蜜といわれる真言宗や台密といわれた天台宗と、おなじジャンル密教に属するとされているから、密教的にもその必然がないとは言えないのである。
「遠く推古へ」(『森敦全集』第七巻、108頁)