『われ逝くもののごとく』が加茂という港から書きはじめて、描写が大山という町に拡がって来たとき、安というやっこが登場します。これが尋ねもしないのに、行き会う人に「明日は晴れる」とか、「曇る」とか言うのです。むろんこれが当るというわけではない。たまたま当ったとき、「そういえば、安がこう言っとったの」と言うぐらいです。大山は有名な酒所ですが、安がはいって行くと、どこの酒造所も黙って安の持って来たわっぱに、酒をいっぱい入れてやっていました。なぜそんなことをしてやるのかだれも分からないが、とにかく嫌がられもせず安は結構幸福にやっていたのです。
「わが放浪、わが宗教遍歴」対談者 山折哲雄(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、154頁)