七五三掛も注連寺もそこで結界されていることを意味するもので、十王峠を下ってここに至ると湯殿の領域で、もう俗世間ではないということです。
「マンダラの恍惚―仏教と日本文学―」対談者 瀬戸内晴美(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、38頁)
寺は広大で湯殿詣での客たちが、もとはみな道を六十里にとり、十王峠を下りて来て泊まったのだそうですが、いまは遠く離れた梵字川――これがやがてあの赤川になるのです――沿いにバスで行くので訪うものもなく、荒廃するにまかせられていました。
「あきど聟」(『森敦全集』第七巻、7頁)
幸い、注連寺には加行をするため、いまの酒田市海向寺の住職伊藤永恒君がいた。むろん、当時は永恒君もまだ二十歳そこそこだったが、庫裡の二階はいたずらに広く、朽ちた雨戸から吹き(吹雪)の吹き込む中で、凍える手に息を吹き吹き手伝ってくれ、蚊帳ができ上がると十王峠を越えて、師匠のいる鶴岡市へと帰って行った。ぼくも吹きの中を途中まで送ったが、永恒君は別れの挨拶をすると、ちょっと立ち止まり、十王峠を仰ぎみてまるでこの世に戻る決意でもするように、ひとり頷いて山合いに姿を消した。
「月山の杉」(『森敦全集』第七巻、148頁)
これが鶴岡市から寒河江に抜ける六十里越街道になるのだが、当時はすでに十王峠を越す道は廃せられ、庄内平野を潤す赤川から梵字川へとさかのぼり、この六十里越街道に出て、逆に十王峠へとはいらなければならなかった。
「義母の声」(『森敦全集』第七巻、405頁)
そんなことを思っているうちに、落合の家並みにはいり、梵字川は赤川となって対岸の彼方に、小さく送電線の鉄塔の立っている十王峠が見えて来た。
「月山ふたたび――六十里越街道をゆく」(『森敦全集』第七巻、479頁)
いまではもう六十里越街道から遠く離れてしまったが、ぼくの目の先の十王峠を越えれば庄内平野に出るという、もとの六十里越街道沿いの七五三掛の注連寺にいて、四季を過ごしたことがあった。
「変貌する大自然」(『森敦全集』第七巻、525頁)
赤川はもと最上川と合流して、鶴岡とともに庄内平野でもっとも栄える酒田市をつくったのだが、わたしたちは対岸の本妙寺の彼方に針のような送電線の立つ小高い山並み、すなわち十王峠を左に眺めながら一路にこれを遡る。
「月山再訪」(『森敦全集』第八巻、71頁)
道が変われば世界が変わる。あるいは、世界を変えるためには、道を変えねばならぬと言っていいかもしれない。あの旧道もそもそもは名川や梵字川のダムの資材運搬のために開発されたので、かつてはすべて本妙寺から十王峠を越えた。十王峠に立てばすでに注連寺は眼下にあり、鶴岡を発った湯殿山詣りの客たちの最初の宿泊地として、大日坊とともに栄えたのである。それがあの資材道路が開発されると、注連寺は迂回して辿りつかねばならぬ見捨てられた行きどまりの寺となった。しかし、そのために謂わば注連寺の寺村ともいうべき七五三掛は、密酒をもって生計を潤すところとなり、わたしが注連寺にいたのもちょうどそのころだったのだ。
「月山再訪」(『森敦全集』第八巻、72頁)
しかも、わたしがたどったあの山道は、注連寺のそば近く聳えている十王峠を降りて来る、六十里越街道と呼ばれるかつての本道で、注連寺にとまった、あるいは大日坊にとまろうとする湯殿山詣りの信者たちが、引きもきらず歩いたものだということを聞いた。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、385頁)
注連も七五三もシメ縄のシメということで、湯殿山参詣のために十王峠を越えて来た人々に、これから先は禁域であることを教える。
「田毎の月」(『森敦全集』第八巻、415頁)