日本海沿いに走る羽越本線が庄内平野にはいったとき、女房の母が「あれが月山、向こうに見えるのが鳥海山よ」と言った。なるほど、出羽富士と呼ばれる遥かな鳥海山に対峙して、月山は悠揚として牛の背にも似た稜線を彼方の空へと引いていた。むろん、そのときは月山が死者の行く、あの世の山とされる霊山であることを知りもしなければ、やがてはぼくが庄内平野を転々とし、月山の山ふところの七五三掛にはいって、破れ寺といっていい注連寺で冬を過ごそうなどとは思ってもいなかった。しかし、そうしたのもそう言ったあのときの母の声が心の底に残ってい、招かれでもしたように行かずにいられなくなったのかもしれない。
「死者は「月山」にあり」(『森敦全集』第七巻、464~465頁)
わたしは思いだした。注連寺にはいる前、庄内平野の村々を転々としていた。たしかにもとはどの村にも講があり、さまざまな焼き印を烙した金剛杖を立て並べて、いつどこから勧進されてどのお山に何度登ったかなどと、老人たちが炉端の話柄にしていた。
「金剛杖」(『森敦全集』第八巻、228頁)
わたしは注連寺にひと冬を過ごして去り、『月山』を書いたので、そのときはまだ羽黒山も知らなければ、湯殿山も知らず、况や月山の頂きに立ったこともなかった。いまは月山にも八合目までバスで行ける。しかし、たまたま行ったときは立っていられぬほど風が吹き、頂上をきわめることなど思いも及ばなかったが、羽黒山、湯殿山には行くたび参拝する。
月山もむろんそうであろうが、羽黒山も湯殿山も神官の支配するところ、すなわち神社になっていた。殊に羽黒山の三山神社は壮大だが、問題なのはその開基とされる蜂子の皇子(能除太子)の像である。その顔はきわめて醜怪で、天狗ではないが天狗を想起させる。わたしはこれがほんとに開基の神ではないかと思った。
「羽黒の天狗」(『森敦全集』第八巻、406頁)
ほとんど月山のふところといってもよい七五三掛の古寺、注連寺にいた一年程の間中、わたしはいつも、死というものが、畏怖を誘うものでありながらも、決して厭わしくない、何か妙に親しみの深いものとして暮らしていました。
それは、月山が、古来死者の行くあの世の山とされており、その死者の山のあまりにも身近に、ふところ深く抱かれていたからかも知れません。ただ死というものは、それに近づくにつれて恐ろしく、厭わしいものとなるものですが、月山は、あの世のやまでありながら、まさにそれ故の横溢さともいうべきめぐみをひそめているのでした。
「月山―死と生と」(『森敦全集』第八巻、453頁)
放浪していたとき、ぼくはどこに行きついたとしても、あらかじめなにかをよそうしていたのではない。ただ行きついたところをおのが住み家として留まり、留まることができなくなれば働き、働いてはまたなにを予想するでもなく、どこかに行きつこうとして働くのをやめたのである。そこにもし人生があったとすれば、そのことがすでに人生というものの姿であったので、ぼくが注連寺を訪ねたとしても、かつてを懐かしむというだけで、もはや人生を見ることなどできようはずがない。そうは思っても酒田に行けば、かつての住み家を訪れる。かつての住み家は幸いにして大火にもあわず残っているが立派に改装され、どの家もどの店もすっかり変わっていて、酒田がすでにぼくの知る酒田ではないのである。
「放浪への誘い」(『森敦全集』第八巻、239頁)
注連寺も火災にあって再建された本堂の伽藍と二階建ての大きな庫裡を残すばかりになったばかりか、わたしがはじめて訪れたときは、屋根に積もった豪雪の雪崩で傾いた伽藍に押されて庫裡までも歪み、殊に庫裡などは仕切りの襖も天井張りの板もなく、ガランとして廃墟のような様相を呈していた。目ぼしい仏像群はむろん、確たる記録もない。それに、その業績でよく羽黒山の天宥上人に比べられる鉄門海上人の即身仏さえ出開帳されたまま行方不明になり、あれは、火災のとき焼けたので、じつは行き倒れのやっこを燻してつくったミイラだなどというあらぬ噂まで囁かれていた。(中略)わたしはその噂を信じるともなく信じて噂のまま『月山』に書いたが、その後各地を転々として行方知れずになっていた鉄門海上人の即身仏が京都で見つかって無事注連寺に戻って来たばかりか、その手の指紋が、酒田市海向寺に残された鉄門海上人の生前残した手形のそれと一致することがわかり、噂は噂に過ぎなかったことが証明された。
「肉髻の謎」(『森敦全集』第八巻、300頁)
道が変われば世界が変わる。あるいは、世界を変えるためには、道を変えねばならぬと言っていいかもしれない。あの旧道もそもそもは名川や梵字川のダムの資材運搬のために開発されたので、かつてはすべて本妙寺から十王峠を越えた。十王峠に立てばすでに注連寺は眼下にあり、鶴岡を発った湯殿山詣りの客たちの最初の宿泊地として、大日坊とともに栄えたのである。それがあの資材道路が開発されると、注連寺は迂回して辿りつかねばならぬ見捨てられた行きどまりの寺となった。しかし、そのために謂わば注連寺の寺村ともいうべき七五三掛は、密酒をもって生計を潤すところとなり、わたしが注連寺にいたのもちょうどそのころだったのだ。
「月山再訪」(『森敦全集』第八巻、72頁)
むらは注連寺にちなんでそういうのか、むらにちなんで注連寺と呼ばれたのか知らないが、七五三掛と言う。その杉の樹の下から向こうの西山にかけて、深い渓谷をつくっている斜面にあり、そこに萱葺き合掌造りの家々が点在して、むらをつくっているのだが、これらの家々もまた高々と下枝をおろした、さまざまな樹木におおわれている。
「月山の杉」(『森敦全集』第七巻、149頁)
いまではもう六十里越街道から遠く離れてしまったが、ぼくは目の先の十王峠を越えれば庄内平野に出るという、もとの六十里越街道沿いの七五三掛の注連寺にいて、四季を過ごしたことがあった。
「変貌する大自然」(『森敦全集』第七巻、529頁)
ぼくはかつて深く月山の山懐にはいり、注連寺でひと冬を過ごした。ようやくその冬も去ろうとする雛祭りが来ると、寺の下にかけてある七五三掛の家々では、残雪を踏んで訪う者はだれであろうと喜び迎えて、額や掛け軸を披露する。
「贋物偽作」(『森敦全集』第八巻、185頁)
ここから道を左にとって、行けるだけ行くと、七五三掛の注連寺になる。山また山の中にあるわけだが、真言宗の大寺院である。
その境内にぼくの文学碑が建てられ、この八月二十八日除幕式が行われた。文学碑は横三・五メートル、高さ二・五メートル、重さ十六トンもある巨大なもので、除幕式には二、三百人も集まるという盛大なものになった。
「まり子さんの講演」(『森敦全集』第八巻、359頁)
浪々の末、ぼくは月山の山ふところなる朝日村――当時は東村といった――大網七五三掛の注連寺に辿りついた。注連寺は湯殿山口真言四カ寺のひとつで、伽藍はかつての繁栄を思わず雄大な結構をみせていたが、雪崩の傾きに押されて、傾いて荒廃しきっていた。
「人間の生涯」(『森敦全集』第八巻、390頁)