道が変われば世界が変わる。あるいは、世界を変えるためには、道を変えねばならぬと言っていいかもしれない。あの旧道もそもそもは名川や梵字川のダムの資材運搬のために開発されたので、かつてはすべて本妙寺から十王峠を越えた。十王峠に立てばすでに注連寺は眼下にあり、鶴岡を発った湯殿山詣りの客たちの最初の宿泊地として、大日坊とともに栄えたのである。それがあの資材道路が開発されると、注連寺は迂回して辿りつかねばならぬ見捨てられた行きどまりの寺となった。しかし、そのために謂わば注連寺の寺村ともいうべき七五三掛は、密酒をもって生計を潤すところとなり、わたしが注連寺にいたのもちょうどそのころだったのだ。
「月山再訪」(『森敦全集』第八巻、72頁)
永恒さんが頷いて、さもおかしげに笑ったりしているうちに、ぼくたちははやくも七五三掛にはいり、注連寺に着いた。かつては大日坊の下でバスを降り、長い山道を歩かねばならなかったので、鶴岡市からでもちょっと朝立ちが遅れると、日のあるうちに着くのはむずかしかった。
「浦島」(『森敦全集』第七巻、219頁)
ふと見ると上村の上の山を造成して新築の家が立ち並んでいる。地滑りでなやまされた関谷の衆がそこに移動したのだという。このあたりの家もみなかぶと造り多層式の萱葺き合掌づくりだったのだが、もはやそうした家はまったく見られない。ただどの家の庭も草花を咲かせている。大日坊に詣で、特に畑道を通ってもらって中村を抜け、七五三掛の注連寺に向かった。七五三掛もむろんほとんど新築の家になってしまっている。
「月山ふたたび――六十里越街道をゆく」(『森敦全集』第七巻、492頁)
寒河江川にそうて遡る道は、いわゆる六十里越街道で、やがては湯殿山を越えて遥かに大日坊、注連寺へと達するのである。
「六十里越街道に沿って――立石寺・慈恩寺と月山 夢見るともなく夢見して」(『森敦全集』八巻、295頁)
おろそかに見過ごして境内に出たが、たまたまこれから湯殿山を越えて行こうとしている大日坊に、肉髻がそのまま伸びて男根の形をなしている飯山白衣権現という立像があると話すと、それならここにもあると言って住職はわたしを更に傍の堂のひとつに案内された。
「六十里越街道に沿って――立石寺・慈恩寺と月山 夢見るともなく夢見して」(『森敦全集』八巻、296頁)
遠く風に乗って大日坊の鐘の音が聞こえると、注連寺のある七五三掛の人々はああ、また大日坊に客が来ていると嘆いていたものである。
「六十里越街道に沿って――立石寺・慈恩寺と月山 肉髻の謎」(『森敦全集』八巻、298頁)
湯殿山系即身仏、ミイラは注連寺の鉄門海上人のほか、注連寺に優るとも劣らない大寺院大日坊の真如海上人、東岩本本明寺の本明海上人、酒田海向寺の忠海上人および円海上人、鶴岡南岳寺の鉄龍海上人がある。
「月山その山ふところにて」(『森敦全集』第八巻、381頁)
しかも、わたしがたどったあの山道は、注連寺のそば近くに聳えている十王峠を降りて来る、六十里越街道と呼ばれるかつての本道で、注連寺にとまった、あるいは大日坊にとまろうとする湯殿山詣りの信者たちが、引きもきらず歩いていたものだということを聞いた。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、385頁)