注連寺はもともと湯殿山の参拝者のためにできた寺で、湯殿山に行くには鷹匠山を回らねばならぬ。塞の峠を越えねばならぬ。仙人岳に至らねばならぬ。寺のじさまは割り箸を何本つくればどこまで行くときめていて、さながら吹雪の中を歩くようなつもりでいたのかもしれぬ。ある夜は鷹匠山を過ぎて、塞の峠まで行き着くこともあった。仙人岳に至ることもあった。これらの山々を越えても、また注連寺まで戻らねばならぬ。こうして、ひと冬かかっても、ついに湯殿山には行き着くことはできなかった。しかし、行き着くべきところに行き着かぬが故に、かえっていまも行き着こうとしているかのように、寺のじさまはわたしの胸に生きているのである。
「ある生涯」(『森敦全集』第八巻、371頁)
道が変われば世界が変わる。世界を変えようとすれば、道を変えてかからなければならない。そういう思いは、私の人生に大いなるものをもたらしたが、そのときはいたずらに谷間遥か、車体を銀色に輝かしながら行くバスの小さな姿に目をやったり、その山道が迂回して行くという鷹匠山や、越えて行かねばならない塞ノ峠、もう湯殿も近いであろう仙人岳を眺めやるばかりで、わたし自身湯殿山に行ってみようともしなかった。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、385頁)
はじめ、月山の頂がほんのりと赤らんで来たとき、ぼくは空が夕焼けているのだと思った。夕焼けではない、紅葉だと知ったときは、仙人岳が赤らんで来、塞の峠が赤らんで来た。鷹匠山が赤らんで来た。と見る間に、注連寺のあたりも紅葉になった。
「わが放浪の月山」(『森敦全集』第八巻、457頁)
森 月山が白くなったから「これで帰る」と言ったら、「いや、月山ていうものは早くから白くなるんで、あの下に仙人岳というのがある。仙人岳が白くなって、塞ノ神峠が白くなり、鷹匠山が白くなる。それからこの注連寺の横にある十王峠が白くなる。そしたらほんとに雪になるんだから、それから帰りなさい」と言ったんです。
「『われ逝くもののごとく』まで〈インタビュー〉」聞き手 石毛春人(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、26頁)
月山の頂が白くなった。これで帰ろうというと、門脇のじさまはまだまだ仙人岳が白くなっても、バスは出ると言ってきかない。こうして塞の神峠が白くなり、鷹匠山が白くなり、それでもまだまだと引き止められているうちに、音もなくシンシンと雪が降りはじめ、もう帰ることなど断念しなければならなくなった。(中略)ときに、門脇のじさまのもとに行くと、手を休めて湯殿山は遠いの、今日鷹匠山までしか行けなかったなどと言う。門脇のじさまは割り箸がなん束できれば、どこまで行くといった数え方をしていたのである。あるときは、塞の神峠まで行けたこともあった。仙人岳まで行けたことすらあった。しかし、ついに湯殿山には行きつけなかった。
「人間の生涯」(『森敦全集』第八巻、390~391頁)
翌朝、宮掌の富樫三雄さんに招かれ、ホテルの主渋谷賢造さんに運転してもらって、ふたたび湯殿へと向かった。ゆうべは仄暗くそうとも感じなかったが、道は品倉大和仙人岳の間を曲折していて意外に遠い。しかし、案内された社務所から神体はすぐ下にある。
「月山ふたたび――六十里越街道をゆく」(『森敦全集』第七巻、489頁)