ぼくは菅原方丈から、鉄門海上人の伝記を書いてくれと頼まれていた。菅原方丈の言うところによると、鉄門海上人は俗名砂田鉄。鶴岡大宝寺に生れた荒らくれで、青龍寺川の水争いから武士を殺し、逃がれて注連寺に至って木食行者となり、湯殿山仙人沢に参籠した。そこへ馴染みの女が迫って来たが、自ら男根を切って女に渡し、もはや俗念を断ったことのあかしとした。その後、江戸に上がって眼病の流行するを見、われとわが隻眼をくり抜いて祈念した。以後、加茂坂の改修、行者寺の建立等々多くの功績を残した、云々である。しかし、鉄門海上人の即身仏、ミイラが行き倒れのやっこであると聞かされては、ぼくも筆をとる気がしなかった。
「月山その山ふところにて」(『森敦全集』第八巻、382頁)
 
 
木食行者とは五穀、十穀を断って、千日、二千日と湯殿山仙人沢で行を積み、真言の唱える即身成仏を具現するためにみずから入定してミイラになったものである。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、397頁)
 
 
湯殿山ホテルのワゴン車で山あいの道をはいり、仙人沢祈禱所を通り過ぎてしばらく行くと、ただ渓流のせせらぎばかりが激しく聞こえるような薄闇の中に、湯殿の大神とされる巨大な岩が神鏡を前に赤黄色く、女性器そのもののように浮き上がって見えた。
「月山ふたたび――六十里越街道をゆく」(『森敦全集』第七巻、488頁)
 
 
すでに標高一五〇三メートル、さすがにひんやりとして肌寒い。壮大な大渓谷の彼方に聳える朝日連峰を背にして、湯殿山ホテルの左手から小型バスに乗りかえて山あいを僅かに走ると仙人沢山籠所になる。もとはここに行屋といって、行人たちが籠って荒行をした粗末な木小屋があったものだが、いまはそれも大きなコンクリートの建物になろうとしている。
「遥かなる月山」(『森敦全集』第八巻、136頁)
 
 
しかし、わたしはなお心に湯殿山のことを思い浮かべていた。いつだったか、わたしは一度ちょうどいまごろ湯殿山に行ったことがある。湯殿山といっても山中の大渓谷で、それ自体は山ではない。もう閉じていてさすがに参拝客の姿もなく、いちめんに蒼く薄雪でおおわれた仙人沢から奥へはいると、山がせばまって茶褐色の大岩石があり、湧出する温泉が岩肌を濡らしてせせらいでいた。これが芭蕉も語ることを憚った秘奥の地、出羽三山中の奥の院とされ、梵字川の源流にもなっている。かつては仙人沢に集まった修験者たちが、五穀十穀を断ついわゆる木食をし、日々ここを拝して千日、二千日の苦行をして広く世に冷厳をほどこし、みずから土中入定して即身仏(ミイラ)になった。
「六十里越街道に沿って――立石寺・慈恩寺と月山 最上川に沿って」(『森敦全集』第八巻、297頁)
 
 
あの即身仏といわれる木食行者はむろん、それにたぐいする行者たちは仙人沢の行者小屋に籠り、渓流を沢のぼりして日ごとこの大岩石を仰ぎ見た。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、386頁)