森 湯殿山というところは大火口底で、中央に大岩石があります。その大岩石の上から温泉が湧出して茶褐色にただれ、巨大な女陰のようにみえる。それを万物を産みなし、かつ破壊するところの、したがって万物を流転せしむるところの「胎蔵界大日如来」だと言って、真言の徒が崇めていた。それだけならよかったのですが、羽黒山に宥誉という傑僧が出て来まして、上野東叡山寛永寺の第一天海と結んで天宥と称し、全山を挙げて天台にしようと……。(中略)だけど、湯殿山側は羽黒みたいに山伏や僧兵がいるわけでもありませんし、武力がありませんから、一種の大衆信仰をねらったんです。
「『われ逝くもののごとく』まで〈インタビュー〉」聞き手 石毛春人(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、12~13頁)
森 (前略)ぼくは注連寺に一年近くもいて、湯殿山も知らずに帰りました。それがテレビの仕事かなんかで、はじめてあの大火口底の胎蔵界大日如来といわれる大岩石を見て思いだしたのです。
春といっても雪はすこしもへっていない。その雪を踏んで白衣の男たちが鶴岡から注連寺に来て、湯殿山開きに行くというのです。寺守のじさまはぼくにも連れて行ってもらえと言って、自分のモンペまで持って来てくれたのに行かなかったのです。そのモンペはぼくには小さすぎて、はこうにもはけないと寺守のじさまにも分かっていたんでしょうがね。『月山』に湯殿山が出て来なかったのはそのためだったのですが、あれは金剛界曼荼羅だったんだ。湯殿山を見たからには、こんど書くなら胎蔵界曼荼羅だと、そう思ったんです。
「小説背後論理」対談者 小島信夫(『一即一切、一切即一─『われ逝くものごとく』をめぐって/森敦対談集─』、法蔵館、昭和63年8月、80頁)
注連寺はもともと湯殿山の参拝者のためにできた寺で、湯殿山に行くには鷹匠山を回らねばならぬ。塞の峠を越えねばならぬ。仙人岳に至らねばならぬ。寺のじさまは割り箸を何本つくればどこまで行くときめていて、さながら吹雪の中を歩くようなつもりでいたのかもしれぬ。ある夜は鷹匠山を過ぎて、塞の峠まで行き着くこともあった。仙人岳に至ることもあった。これらの山々を越えても、また注連寺まで戻らねばならぬ。こうして、ひと冬かかっても、ついに湯殿山には行き着くことはできなかった。しかし、行き着くべきところに行き着かぬが故に、かえっていまも行き着こうとしているかのように、寺のじさまはわたしの胸に生きているのである。
「ある生涯」(『森敦全集』第八巻、371頁)
臥した牛に似た月山はその首を垂れて、僅かにもたげた頭の部分を羽黒山と呼び、阿弥陀浄土と称してあの世を現し、その後脚を曲げた隠し所にあたる渓谷の温泉の湧出する大岩石を、胎蔵界大日如来の顕現するところとして湯殿山と呼び、弥勒浄土としてこの世の生まれかわりを現す。
「遥かなる月山」(『森敦全集』第八巻、132頁)
これを以て出羽三山と呼ぶが湯殿山は羽黒山のごとく一山を形成するのではない。月山の右手を抉る一大渓谷で、出羽三山の奥の院とされ、熱湯の湧出する大岩石が女陰を形づくるを以て、胎蔵界大日如来とされる。
「慈覚大師の母の声」(『森敦全集』第八巻、527頁)
注連寺の注連も七五三掛の七五三も、ともにシメ縄のシメであって、ここにおいて結界されていることを示す。なんのために結界されているのか。湯殿山があるがためである。湯殿山は海抜一五〇四メートルの火口底で、温泉の湧出する女陰を思わす大岩石で、胎蔵界大日如来と称して神体とする。したがって、注連寺に入るやわたしたちはすでに胎蔵界にある。
「深夜の宴」(『森敦全集』第八巻、547頁)