ぼくは菅原方丈から、鉄門海上人の伝記を書いてくれと頼まれていた。菅原方丈の言うところによると、鉄門海上人は俗名砂田鉄。鶴岡大宝寺に生れた荒らくれで、青龍寺川の水争いから武士を殺し、逃がれて注連寺に至って木食行者となり、湯殿山仙人沢に参籠した。そこへ馴染みの女が迫って来たが、自ら男根を切って女に渡し、もはや俗念を断ったことのあかしとした。その後、江戸に上がって眼病の流行するを見、われとわが隻眼をくり抜いて祈念した。以後、加茂坂の改修、行者寺の建立等々多くの功績を残した、云々である。しかし、鉄門海上人の即身仏、ミイラが行き倒れのやっこであると聞かされては、ぼくも筆をとる気がしなかった。
「月山その山ふところにて」(『森敦全集』第八巻、382頁)
 
 
神聖なあの世に行くためには精進しなければならず、講中の代人はわかぜ(若者)小屋に籠って男女の交わりを絶ち、別火と称して肉類を料理した火を用いず、身を清め、隊伍を組んで先達と称する山伏に導かれて山にはいる。一方、あの世すなわち死の世界は、正者にとっては穢れた忌むべきものである。そこで、三山を巡り終わると精進落としと称して歌い騒ぎ、湯田川温泉、湯野浜温泉、鶴岡市等の遊廓などで遊んだという。
「遥かなる月山」(『森敦全集』第八巻、132頁)
 
 
菅原方丈の言うところによると、鉄門海上人は俗名砂田鉄。鶴岡大宝寺に生まれた荒くれで、青龍寺川の水争いから武士を殺し、逃れて注連寺に至って木食行者となり、湯殿山仙人沢に参籠した。
「月山その山ふところにて」(『森敦全集』第八巻、382頁)
 
 
あの即身仏といわれる木食行者はむろん、それにたぐいする行者たちは仙人沢の行者小屋に籠り、渓流を沢のぼりして日ごとこの大岩石を仰ぎ見た。
「出羽三山」(『森敦全集』第八巻、386頁)
 
 
なお、本書にも述べられているように,わが国の入定ミイラの一世行者たちはかつて悪行を犯して寺に駆け込んで救われたものが多い。それだけに罪業の深さを悟り、木食して常人のなし得ぬ難行苦行にも堪えたのであろうが、また寺側にもそれよって信徒をひきつけ繁栄を計ろうとしたたくらみがあったとは言えないだろうか。わたしが吹雪に耐えて冬を過ごした注連寺も、そのもっとも繁栄したころは盛んに博奕が行われ、むら内にも田畠を失って縊死して果てたものも少なくなかった。
「深作光貞著『ミイラ文化誌』*書評――ミイラロードをたどり宗教の本質に迫る」(『森敦全集』第八巻、40頁)
 
 
かつては仙人沢に集まった修験者たちが、五穀十穀を断ついわゆる木食をし、日々ここを拝して千日、二千日の苦行をして広く世に霊験をほどこし、みずから土中入定をして即身仏(ミイラ)になった。大日方、ことに注連寺系の寺々にそれが多い。
「最上川に沿って」(『森敦全集』第八巻、297頁)