暘は不幸にも耳をわずらい、即刻手術しなければ脳に来ると医者に言われ、酒田市の病院に入院させて、里に面倒みてもらうことにしました。暘の母も疎開して里に帰っていましたし、当時は食糧事情が極度に悪く、たださえ暘に行き来してもらって、米を運んでもらったりしていたからです。
「わが妻、わが愛」(『森敦全集』第七巻、211頁)