第3回・翻刻少納言 「『分かる』は理解できているのか?」

 育実習の際に授業の感想を書いてもらったが、「面白かった。分かりやすかった。」「分からないところが分かった。」等、ありがたい感想を生徒は書いてくれた。が、そこで私自身としては、「理解する」の意で使用する「わかる」は仮名で書くのが一般的だと思っていたのでちょっと違和感を感じた。個人の好みと片付ければそうなのだが、理由もわからずモヤモヤとしていたのでこのコラムを書くにあたってちょっと調べてみた。

 国立国語研究所で発行している、新「ことば」シリーズ12によれば、「ひと」と書く場合に、「ヒト」「女」「他人」「人」と様々に書き分けられるが、それはひらがなやカタカナ、漢字の持つ性質や形によるイメージがあるとのことだった。同音異字が多い日本語ではそのイメージというのが文章の中で効果的に使用されていると思われる。つまり「ひと」ならば、他人(たにん)とは言い切らないが、その語の持つ『自分との隔たり』という性質を感じさせたい時に「他人」を使用するようである。同様に「女」は『女性』の、「ヒト」は『科学的・異質的』な印象を与えると思われる。

 これを考慮に入れれば、「分」という漢字の性質が「わかる」にいくらか反映されるのであろうか?中学生にその意識があるかは疑問であるが、複数のクラスにわたって使用されているので、同じ学区の生徒がそのまま進学してくることを鑑みると、小学校の先生で使用していた方がおられて、そのクラスの生徒たちの何割かが、板書を写す際に覚えたと思われる。その小学校教諭の方も意識して書いているかは判然としないが、そういう用法が存在してきたのは最近の話ではないのであろう。

 辞書的に調べれば、日本国語大辞典(初版)の「わかる」の項には、【分・解・別】が示されていて、第一義が「別れる」の意で、次が「理解する」の意で別々の立項ではなかった。次に大漢和辞典で「分」の性質・文字的意義を調べると大きく分けて四つあり、「1わかれ、単位の一つ、2律、3分(身分等)、4均しくわける」となっていた。つまり、「理解する」の意は立項されていなかったのである。ではなぜ「わかる」に「分かる」が使用されているのか?大槻文彦の大言海によれば、「わかる|別|分|〔分(ワク)の自動、別けらるノ約転カ〕(一)心ニ解()シ知ル。会得ス。合点ス。(振り仮名の位置、漢字の新字体への変更は執筆者)」とあった。ちなみに「別れる」の意の「わかる」は別に立項されていた(示されていた漢字も同じ)。

 とすると、「分」が使用され始めたのは少なくとも大槻が編集を始める以前だと思われるので最近の話ではない。簡単に現代における誤用・転用と片付けるのも訳にもいかないようである。また、その初出・典拠を探るのは困難だと思われる。

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