第32回・平成14(2002)年7月29日(月)

      カバン持ち 「ラ抜きことば」

どうもカバン持ちです。

今回は何について書くかというと、「ラ抜きことば」についてです。

こんなことをいきなり言うと、「今更何を言ってるんだ。」「そんなのとっくに知ってる。」などといった声が聞こえてきそうですが、僕ももちろん、「本来は「見られる」「食べられる」といわなければならないのに「見れる」「食べれる」と言っている人が多い。」とか「この「ラ抜き」と言う現象は五段動詞の可能系に一段動詞が……(全部書くと多分かなり長いので省略)」などと言うつもりはありません。

では、何を言いたいかというと、これを外国人に教えるとき、つまり日本語教育ではこれをどうすればいいかといったことです。と言っても、「こうあるべきだ」なんて事は言えません。あくまで問いかけです。

 

「まず最初に正しい形である「−られる」を教え、その後で「こういうのもあるんだよ」程度に、ラ抜きの形を教える。」というのが大方の意見ではないでしょうか。僕もこの考え方自体には異論はありません。

ただし、実情を考えると全てこうとはいえないと思います。

「考える」などといった語幹が長いものは、まだ正しい形「‐られる」のほうが優勢でしょう。(ただしこの間「考えれる」と言っていた人を見ましたが)

「見る」「着る」や「食べる」「起きる」といった語幹が短いものは、現在ではもうかなりラ抜きの形が優勢だと思います。特に「見る」の場合はもうほとんどの人が「見れる」を使っているのではないでしょうか。あくまで僕個人の感覚ですが。

 

また、「来る(カ変)」はどうでしょうか。

「来ることができる」という形は本来「来られる」となるわけですが、現在、「来られる」をきちんと使っている人はどれぐらいいるでしょうか。

僕は特に調査したわけではないので実際の数はわからないのですが、「見れる」以上に、「来れる」を使う人は多いと思っています。

この間見たテレビのニュースでもアナウンサーは「来れる」と言っていました。ただし民放ですが。

 

たとえ間違った形とされていても、それが優勢になれば市民権を得て「正しい」形となる、というのが言葉の変化のプロセスだと思います。

だとすると、これらの言葉は教える時にまだ二番煎じ扱いしていていいのでしょうか。

みなさんはどう考えますか?

 

    週刊・会員コラムに戻る  表紙に戻る