歌川派の初代豊國(1769年〜1825年)は、たくさんの弟子を抱えていました。その一人で早くから才能を認められていたのが、國貞(1786年〜1865年)でした。彼は、美人画と役者絵で評判を得て、人気絵師になったのです。はじめの頃に、五渡亭と称したのは、材木問屋であった父が、本所の竪川五ツ目の船渡しの株を持っていたからです。
初代豊國が1825年2月に没した後には、彼の養子の豊重が襲名して、二代豊國となりました。他方、國貞は、歌川派の内部で勢力を拡大して、天保改革が終わった1844年には、二代豊國と対抗して、豊國と名乗るようになりました。彼のリーダーシップの下で、歌川派の勢力は拡大して、幕末には、「歌川派の絵師でなければ絵師ではない」とまでいわれるようになりました。しかし、画壇の大御所となってからの彼の絵は、粗製乱造となり、生気を欠くようになりました。今回展示する扇絵は、五渡亭時代の國貞が、四世鶴屋南北(1755年〜1829年)作の歌舞伎「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)」の大詰「仲之町鞘当」の名場面(歌舞伎十八番の一つ)を描いたものです。
四世鶴屋南北は、「名古屋山三(なごや さんざ)」と「不破伴左衛門(ふわ ばんざえもん)」との確執の物語に基づいて、「浮世柄比翼稲妻」を書きました。「鞘当」の場面では、昔同じ佐々木藩に仕えていた二人、つまり、浪人の「不破伴左衛門」(扇面の左手の人物)と、ならず者の「名古屋山三」(右手の人物)が描かれています。浪人の「名古屋」は、昔佐々木藩の腰元であった花魁の「葛城太夫」の恋人です。他方、「不破」も「葛城太夫」に惚れていました。その二人が、「葛城太夫」に会いにゆくために、吉原の仲之町の道を歩いているとき、二人の鞘の尻が当たりました。それは侍にとって無礼なことなので、お忍びで来ていた二人は、深編笠をとり、刀を抜いて喧嘩を始めるのです。本展示品では、鞘尻がカチットと当たり、振り返りざまに刀を抜こうとする、緊迫の瞬間が描かれています。
扇絵の裏面には、松尾芭蕉の弟子であった宝井其角(1661年〜1707年)の俳句が書かれています。また、舞い落ちる桜の花びらが、11枚描かれています(桜は俳句の上部にあるとの場面設定ですので、白色あるいは桃色の花びらは、左端には描かれていません)。俳句の署名としては、普子(宝井の別称)キ角が用いられています。箱には、「浮世繪不破名古屋」「歌川國貞丹青 裏面普子ノ句仝筆」と書かれていて、絵だけでなく俳句も、國貞が筆で描いたことが示されています(江戸時代は、浮世絵師が描いた肉筆画も、浮世絵と認識していたので、1790頃から発行された「浮世絵類考」では、岩佐又兵衛が浮世絵の始祖とみなされたのです)。
國學院大学文学部の岡田哲教授に、俳句の判読をお願いしたところ、次のような回答をいただきました。
花に鐘 そこ退給(のきたま)へ 喧嘩かひ(買)
この句は、1747年に刊行された其角の代表的俳諧句集『五元集』に掲載されています。幕末の知識人の間では、芭蕉や其角の有名な俳句は、知れ渡っていました。俳諧に馴染んでいた國貞は、自分の好みで、あるいは、注文主の希望で、この句を入れたと思われます。
この句からは、桜が咲き誇る上野寛永寺からの「時を告げる鐘の音」が聞こえてきます(芭蕉は「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠んでいます)。「火事と喧嘩は江戸の花」といわれたように、庶民にとって火事と喧嘩は日常的な出来事でした(俳句の「鐘」には、火事を知らせる半鐘をも含んでいるかもしれません)。上野の桜見物でも喧嘩が起こりますが、物見高い庶民は、喧嘩が始まると「喧嘩かい」と叫んで、「そこ退給へ」と、人込みを押し分けて駆けつけるのです。今と違って、当時の庶民はとても元気だったのです。
この句と「鞘当」との関係は、まずは「花」にあります。吉原には、春になると客寄せのために、桜が移植されます。その桜の花が散る??原仲之町の道で、「名古屋」と「不破」の鞘当が起こるのです。「喧嘩買」という言葉からは、鞘当で売られた喧嘩は買い取って、刀を抜くことが連想されます。また、仲裁人が「そこ退給へ」と喧嘩の現場に駆けつけるのです(舞台では、幡随院長兵衛の女房のお時(おとき)が、駆けつけて仲裁に入ります)。
ところで、國貞は、「鞘当」の扇絵を、他でも描いています。その一つが、鴻池の扇絵コレクションに収まっています(太田記念美術館の特別展「没後150年記念 歌川国貞」の前期に展示されていました)。次に、本展示品と、鴻池コレクションの扇絵との関係を見てみます。
1841年からは、水野忠邦のイニシアティブの下で、天保の改革が始まっています。その改革では、綱紀粛正と奢侈禁止が命じられて、歌舞伎への弾圧が行われます。その弾圧の象徴は、7代目市川團十郎が江戸からの追放刑を受けたことでした。本展示品は、金や銀を使った豪華な扇絵です。それゆえに、1841年以前に描かれたものであることに間違いありません。もしかしたら、1823年に中村座でおこなわれた初演の直後に、大金持ちからの依頼で、國貞が描いたものかもしれません(國貞は、1827年頃から「香蝶楼」と称しています)。もしそうであれば、実力をつけた37歳のときに、この扇絵を描いたことになります。大金持ちの有力な後ろ盾があったからこそ、天保の改革が終わった翌年に、華やかな浮世絵を取り戻すために、國貞は、豊國を名乗ることが出来たのでしょう。
ところで、鴻池コレクションの扇では、乱暴者の「不破」の衣装は、黒地に雲に雷(いかづち)、色男の「名古屋」の衣装は、浅葱(あさぎ、薄い水色)に、雨に濡れ燕になっています(これは、今日まで定番となっています)。本展示品の二人の衣装と比べると、きわめて地味なので、鴻池コレクションの扇は、天保の改革以降に描かれたと推測されます。
三代豊國は、粗製乱造で代表作といえるものはないといわれています。しかし、國貞の落款で描いている肉筆画の多くは、絵師としての腕の確かさを証明しています。本展示品も、その肉筆画の一つであり、もしかしたら、彼の最高傑作といえるものかもしれません。(2014年10月21日執筆)
この随筆は、「歌川国貞のち三代目歌川豊国 没後150年展」(2014年11月4日〜11月22日、於 川崎・砂子の里資料館)での展示の資料として書かれたものです。
前に戻る | トップに戻る | 次に進む |
---|