国学院大学法学部横山実ゼミ


台 湾 へ の ゼ ミ 旅 行


横 山 実

(この随筆は、ゼミ誌から転載しました。)

1998年3月23日

 6時に起床。e−mailで手紙が来ていないかを、確認する。前アメリカ犯罪学会長のジム・ショート先生と、ドイツのマンフレッド・ブルステン教授から、手紙が届いたので、とりあえず「台湾旅行から帰ったら、詳しい返事を書く」とパソコンで打って、e−mailで送っておく。

 東京駅8時発の成田エクスプレスに乗る。成田第2空港駅でおりたら、同じ列車に乗っていた岩崎君と会う。待合い場所には、すでに全員が揃っていたので、すぐに搭乗手続をする。免税店で、土産の酒を買って、11時発の日本アジア航空203便に乗る。快晴。窓際の席だったので、奄美大島までの島々の写真を撮る。向かい風が強かったために、10分遅れで中正国際空港に到着する。

 警政署刑事局国際刑警科の汪俊鋒さんが、空港で私たちを出迎えてくれた。汪さんは、陳朝新さん、黄進順さんとともに、3年前に國學院大學大学院に科目等履修生として在籍していた。汪さんと陳朝新さんは、その時に、私たちのゼミ旅行にも参加し、富山刑務所と湖南学院(金沢の少年院)を参観している。汪さんとは、それ以来の再会である。まずは、汪さんに案内してもらって、日本アジア航空のカウンターに行き、返りの飛行機の券の確認をしておく。ゼミ生は、銀行の一つがすぐに閉まって、両替ができず、困っていた。 汪さんにもう一つの銀行を案内してもらって、全員が、両替することができた。汪さんが切符を買っておいてくれたので、すぐに台北火車站(中央駅)行きのバスに乗る。窓から11年ぶりに見る台湾の景色が、懐かしかった。駅からは、タクシーで中華飯店へ。4時10分に到着。私は、岩崎君と308号室に泊まる。部屋で荷物の整理をしていると、汪さんが、葉華堂先生とともに部屋にやってきた。

 葉先生とは、1986年秋に、南イリノイ大学に留学しているとき、知り合った。その縁で、1987年3月の世界一周旅行の帰路に、台北の先生のお宅を訪れたのである。葉先生は、顔面神経痛を患ったとのことであったが、元気を回復された様子だった。5時に、ゼミ生がロビーに集合したところで、葉先生は帰宅された。

台北新公園の228記念碑 (Memorial at New Taipei Park)

 汪さんの案内で、私たちは、台北新公園を歩く。まず228記念碑を訪れた。その後で、東門の近くを通り、中正記念堂まで歩く。巨大な建物が、夕闇の中でそそり立っていた。ここで引き返して、南山南路と北路を歩いて、中華料理店に7時頃に到着する。国際刑警科組長の劉志偉さんが、遅れて到着した私たちを、入り口で待っていてくれた。彼らの接待で、私たちは、おいしい中華料理をご馳走になる。劉さんは、英語でゼミ生と話をするつもりでいたが、それができず、残念だったようだ。夕食の後で、民権西路駅から、地下鉄に乗り、汪さんの案内で、大東街の士林夜市を散策した。小さな屋台や店が建ち並び、アジア全般をおそった不況を感じさせないような、にぎわいであった。私たちは、既に満腹だったので、屋台で売っている食物を買い食いできず、ただ、散歩を楽しんだ。汪さんにホテルまで送ってもらい、12時に就寝する。ゼミ生も疲れていて、早く寝たようだ。

1998年3月24日

 朝、ホテルの地下のレストランで、岩崎君と朝食をとる。台湾のホテルで朝食付きというのは、珍しいという。朝食は、台湾食、和食、洋食の3種類から選ぶことができた。私は、お粥と魚の台湾食をとった。9時に汪さんが迎えに来てくれた。汪さんが買っておいてくれた特急券で、台北火車站から9時55分発の自強号に乗る。汪さんと話をしながら、約30分の乗車を楽しみ、2つ目の桃園駅で下車する。駅前では、台北監獄の名前の入ったマイクロバスが、私たちを待っていた。私たちは、それに乗って、台北監獄に行った。

 監獄では、作業科長の張智雄さんをはじめとして、4名の幹部が、私たちを迎えてくれた。施設を紹介する英語の映画を見て、張さんの案内で、私たちは、監獄の中を廻る。面会室では、多数の受刑者が、椅子に座り、ガラスの向こう側の面会人と電話機で会話をしていた。このような光景は、始めて見た。監獄の作業所で作られる物の展示室にも、案内された。台北監獄では、足枷が作られている。その足枷は、今でも、死刑囚に使われているとのことであった。女区では、女子受刑者が、縫製の仕事をしていた。日本で女子刑務所を見たことがなかったゼミ生は、女区を見ることができて、喜んでいた。監獄の庭は、きれいに手入れされていた。しかし、過剰拘禁で警備が困難なためか、建物の外には、受刑者の姿はなかった。監獄の一部には、学校の施設があった。ここでは、選ばれた受刑者が、内容の高度な教育を受けていた。

会議室での話し合い (Meeting at Taipei Prison)

 会議室に戻り、私たちは、ウナギの弁当をご馳走になる。日本で食べるウナギの多くは、台湾で養殖されたものであることを、思い浮かべた。その後で、2時まで、質疑応答がなされた。はじめは、ゼミ生の質問に、張さんたちが答えてくれた。後半は、日本の刑務所における処遇について、張さんたちから質問が出たので、私が説明した。アジアの国の矯正の幹部職員の多くは、東京の府中市にある国連のアジア極東犯罪防止研修所に招かれているので、日本の矯正の仕組みを知っている。しかし、台湾は、日本との国交がないので、この研修には招かれず、日本の実状をほとんど知らないようであった。

 次に、マイクロバスに乗せてもらって、桃園少年輔育院(日本の少年院)を訪れた。会議室で、まず、施設紹介の英語の映画を、見せてもらった。教務組長の簡永池さんと女性の教官の案内で、施設の中を廻った。施設には、外壁があったが、中での拘禁度はそれほど厳しくなく、グランドでは、少年達が、バスケットボールをしていた。会議室では、1時間以上もの間、熱心に話し合いが行われた。ここでも、日本の少年犯罪や少年院の処遇について尋ねられたので、私が説明した。

 今回の台北監獄と桃園少年輔育院の見学は、汪さんと、警務處外事科の陳朝新さんとが、私たちのために、手配して下さった。それに対して、礼を申し上げる。特に、汪さんは、施設の訪問中に、ずっと、私たちのために、通訳の仕事をして下さった。私は、英語の通訳をした経験があるので、通訳がいかに大変であるか、よく知っている。それだけに、ひたむきに通訳して下さった汪さんに、厚くお礼申し上げる。

夜市でのガラス細工職人 (Craftsman at Night Market in Taipei)

 待機していたマイクロバスで、桃園駅まで送ってもらった。駅での待ち時間に、ゼミ生達は、プリクラを楽しんでいた。私たちは、特急茜光号で台北火車站に戻った。休憩をとった後に、6時にホテルのロビーに集合した。汪さんの案内で、町を歩き、南山北路一段のレストラン「若葉」に行った。そこでは、陳さんと、刑事警察局検粛科の江玉女さんが、私たちを待っていた。陳さんとは、3年ぶりの再会であった。風邪をひいていたために、日本に来ていたときのような陽気さが見られなかった。それでも、私との再会を楽しんでくれた。江さんは、東北大学大学院で、刑事法を研究したことがあり、親日家であった。皆が日本語を話せたので、会話が盛り上がった。台湾料理をご馳走になったが、ゼミ生には、台湾料理が好評であった。しかし、鳥肉と思って食べたものが、蛙と聞かされて、ゼミ生は、目を白黒させていた。その後で、タクシーに乗って、 汪さんの案内で華西街の夜市を見た。私は、ガラス細工の屋台で、1対の龍を見つけて、それを千元で買った。ガラス細工は、私が子供の頃、日本でも、屋台でよく見かけたものである。久しぶりに、屋台で職人がガラス細工を作っているのを見て、とても嬉しかった。それから、町を歩いて、ホテルに戻った。ちょうど10時を過ぎたばかりで、中華飯店の近くの予備校の授業が終わったところだった。受講生の若者が、バスやオートバイで帰宅するので、町は混雑していた。台湾でも、大学受験のための勉強は大変なようである。ゼミ生は、酒を飲む元気もなかったので、12時に就寝する。

1998年3月25日

 8時50分に、汪さんが迎えに来てくれた。タクシーに分乗して、警政署刑事局を訪れる。玄関では、劉志偉さんと江玉女さんが、私たちを出迎えてくれた。会議室で、私たちは、警察活動を紹介する英語の映画を、見せてもらった。私たちの案内のために、有給休暇を取って案内してくれていた汪さんは、この間、背広に着替えをしていた。コンピュータで犯罪者のデータを入力する作業室を訪れる。説明は英語でなされたので、私がゼミ生のために通訳する。次いで、汪さんが勤める国際刑事科を訪れる。日本の警察との日本語でのやりとりは、すべて、汪さんが行っているとのことであった。鑑識の部屋では、女性の鑑識官が、日本語で、実例を示しながら、筆跡鑑定などの話をしてくれた。次いで、嘘発見器の説明を受けた。鑑識官は、斉藤君を被験者に仕立てて、どのように検査をするのか、示してくれた。時間がなくて、説明の途中で退室しなければならなかったのは残念であった。11時に、刑事警察局長の楊子敬氏を表敬訪問する。楊氏は、記念の品を、私たち一人一人に手渡して下さった。私は、返礼として、土産の品を楊氏に贈呈した。楊氏は、日本語を流暢に話された。ゼミ生に台湾旅行の感想を求めたが、皆は緊張して、返事ができなかった。そこで、私が指名して、本橋さんに感想を述べてもらった。永野君は、緊張のあまり、気持ちが悪くなったようだ。楊氏は、台湾の犯罪の様子や、警察活動などについて、40分ほど話して下さった。楊氏は、来年の3月で退職されると言う。親日家の楊氏が、退職されたら、台湾の警察は、日本よりも、アメリカの警察との結びつきを、さらに強めるのではないかと、案じられる。

 劉さん、江さん、汪さんの案内で、私たちは、近くの食堂に行く。客でいっぱいだったので、一つのテーブルを囲んで、詰めながら座って、昼食をとる。ちょうど、隣のテーブルでは、国際刑事科長の顧海山さんが、アメリカ人と思われる客を接待しておられた。そこで、顧さんが、私たちに昼食をご馳走して下さった。昼食の後、歩いて、国父記念館を訪れる。1987年の3月に、一人でここを訪れたことを思い出した。孫文の記念室などをゆっくりと見る。ちょうど2時となり、孫文像の前の衛兵の交代式が、行われた。その式を見てから、タクシーに乗って、故宮博物院に行く。ゼミ生は、汪さんの案内で中に入っていった。島崎君は、古い書を見るのを楽しみにしていたが、書の展示室の一つが閉ざされていて、十分に見ることができず、がっかりしていた。立原君、高橋君、尾崎君たちは、故宮博物院よりも町を自由に歩きたいと言っていたが、博物院に展示されている中国の文化遺産の偉大さに、圧倒されたようだ。皆、2時間半では、見る時間が短すぎたと、述べていた。

衛兵の交代式 (Sun Yat-Sen Memorial Hall)

 私は、1987年に故宮博物院を見ていたので、今回は、中に入らなかった。郵便局で、高雄市の黄進順さんに土産を送った。その後で、葉先生の自動車に乗せてもらった。葉先生は、まず、山の中腹の廃墟に案内してくれた。ここに、蒋介石の次男が、市の土地を占拠して、豪邸を建てていたという。民主化の後、選挙で選ばれた市長は、次男が退去命令に従わないので、ブルドーザーでその豪邸を打ち壊してしまったという。廃墟は、強い日差しの中で、無惨な姿をさらしていた。その後、陽明山や新北発をドライブしてもらう。火山の噴火口の展望場所では、写真を何枚か撮る。中山北路の北のはずれの蒋介石の邸宅跡を訪れる。そこの庭は、現在では、市が管理して、市民が散歩を楽しめるようになっていた。閉じる10分前に、その庭を訪れる。蒋介石が権力を持っていた頃には、その邸宅は、秘密警察によって守られていて、市民は近づくことができなかったという。庭は、特権階級の人々や外国からの賓客を招待するためにだけ、使われていた。それが、市民に開放されたのを知り、ここでも、民主化の流れを感じた。市の中心に戻り、仁愛路の葉先生の家を訪れる。1987年の3月にここに数日泊めていただいたことが、思い出された。私が泊めていただいた部屋は、いまでは、奥さんが絵を描くために使っているという。奥さんは、最近、絵の個展を開いたという。お土産に、絵を一枚頂いた。ちょうど、奥さんのご両親が、病院で診察を受けるために、来ておられた。90歳の父上は、戦前に早稲田大学に留学したとのことであった。日本語で挨拶を頂いたが、日本語の多くを忘れておられるようだった。葉先生と別れを告げて、タクシーに乗って、6時半にホテルに戻った。

 最後の夜なので、皆で、世話になった汪さんを招いて、台湾料理を食べることにした。一人5千元でコースの料理を注文したが、おいしい料理が、次から次へと出てきて、食べきれないほどであった。その席で、汪さんも加わって、新しいゼミ長の選出を行った。その結果、仲井君が選出された。夕食の後は、自由行動。私は、汪さんの案内で、土産物屋などを廻る。島崎君達は、高層ビルの展望台に登り、台北の夜景を楽しんだ。10時半に、狭いホテルの一部屋に集合する。春合宿の慣例の3分間スピーチを、全員にしてもらう。その後で、私が、ゼミの活動について、年間予定表に沿って、話をする。仲井、本橋、宇田川君達と、その部屋で話をして、12時頃就寝する。

中華料理店の前で (In Front of Restaurant)

 3日連続して、お粥の朝食をとる。斉藤、永野、宇田川、岩崎、本橋さんと話しながら、朝食をとる。葉先生から、授業があって、空港に見送りに行けない旨のお電話を頂く。再会を約束して、別れを告げる。台北新公園に行き、写真を撮る。朝で靄がかかっていなかったので、きれいな色の写真を撮ることができた。10時20分に、 汪さんが来てくれた。バスの中で、汪さんと話をする。彼は、将来台湾と中国は一緒になるべきかと、私に尋ねた。私は、香港の試みが、台湾にとって、示唆を与えるかもしれないと、答えた。そして、香港の友人の簡さんが、中国に併合される前に、イギリスの国籍を取得したことを、思い起こしていた。中正国際空港でお茶を飲んで、汪さんに再会を約束して、別れを告げた。私たちは、免税店で買い物をしたりして、1時35分発の日本アジア航空204便に乗る。私たちは、5時25分に成田国際空港に無事帰国した。

 今回の台湾旅行では、普通の海外旅行では、体験できないような貴重な経験をすることができた。これも、汪さんをはじめとして、多くの台湾の方々のおかげである。改めて、彼らの厚意に対して、感謝の意を表させていただく。

前に戻るトップに戻る次に進む