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WWE(WWF)における

アメリカンプロレス業界独占への道筋

経済学科4年12組18番

長谷川 泰弘

 

要 旨

 


はじめに 図1

第一章 ビンス・マクマホン、その人物とは

第一節 「悪のオーナー」ビンス・マクマホン

   第二節 マクマホンファミリー

第二章 始まりから大成功への道

    第一節 WWWF創立後、父からの独立

   第二節 レッスル・マニア大成功から最大のライバル出現

第三章 Monday Night War勃発

   第一節 WCWについて

第二節 WWFvs.WCW(D−Xvs.nWo

   第三節 WCW崩壊! そして、独占へ

さいごに


はじめに

  今回のテーマにおいて、何故にアメリカプロレス団体WWE(World Wresting Entertainment)に関するものになったきっかけは、私自身の趣味によるものである。初めてWWEを知ったのは、たまたま日本の深夜のテレビ番組でWWE関連の番組を観たところから始まり、そこで数々の選手(ここではスーパースターとも表される)たちが、リング上で決して一般では真似のできないお互いの持ち味を競いながら試合を魅せる事で、観る人の誰もがその魅力に惹かれていく、そして壮絶で緊迫感を感じさせる試合も当然だが、一部にちょっとしたパロディーなところも交ぜたストーリー展開も揃えてWWEの持ち味でもあり業界一に成長させた要素の一つともいえるだろう。

 その後も私はダイジェスト版で放送する番組では満足ならず、本放送されているケーブル・テレビで毎週ビデオ録画も欠かさず見ている。そして、ストーリー展開の結末を観ることができる特番のPPV(Pay Per View)の場合はDVDを購入して鑑賞している。PPVは基本的に月に一度行われる特番大会である。現在はWWEの勢力拡大と活躍するスーパースターの増大のため、2006年6月以降は三つのブランド団体(RAW、Smack Down,ECW)に分かれ、それぞれの団体だけで開催や三大共同のPPVがあるので、一つの月に二度連続行われることがある。図1

 WWEは代表取締役会長であり、自らもリングに上がりストーリー上はオーナーの権力を振るいながらも、ハルク・ホーガンやストーン・コールド スティーブ・オースチンなどのスーパースターと数多くの名勝負を繰り広げた「悪のオーナー」とも呼ばれるビンセント・ケネディ・マクマホン(通称 ビンス・マクマホン)を始めとし、最高経営責任者で妻のリンダ、グローバルメディア部門の副社長で長男のシェイン、そしてシェインと共にWWEの経営に参画していて、現在はストーリー構成部門の副社長で長女のステファニーといった通称「マクマホンファミリー」を中心として現在もアメリカンプロレス業界を代表する団体、及び興行会社で営んでいる。

WWEは2002年までは、WWFと名乗っていたが、長年にわたるWWF(世界自然保護基金)との名称を巡る裁判に敗れ、55日団体名をWWEへと改称(公式発表では「よりエンターテイメントを追求するための改称」とされる)。ささやかな抵抗として「Get the "F" outFなんかいらない)」キャンペーンを展開し、同時に親会社タイタン・スポーツの名称もWWEに統一した。今回はWWEの設立から業界独占にまで渡った道筋とそこまでに至ったいくつものライバル企業との抗争や関連した出来事などを中心にこれから詳しく論じてみよう。



第一章 ビンス・マクマホン、その人物とは

 始めにWWE(WWF)代表取締役会長ビンス・マクマホンという人物とは、いかなるものなのか、彼についてから始めてみよう。前記に一部論じたとおり本名はビンセント・ケネディ・マクマホンだが、一般的にビンス・マクマホンとして現在に至るまで知られている。生年月日は1945年8月26日で、生まれはノースカロライナ州パインハース、父は当時ニューヨーク地区のプロモーターだったビンセント・ジェームズ・マクマホン(ビンス・マクマホン・シニア)であるが、両親が早くに離婚したため少年時代は母ヴィッキー・アスキューの下で過ごす。初めて父の名前と顔を知ったのは12歳の時だったという。1968年に東カロライナ大学経営学部を卒業後、プロレス団体WWWF(後のWWF、現WWE)の親会社の社長だった父ビンス・シニアの下でレスリング・ビジネスを学び、1990年代後半までリングアナやインタビュアー、あるいは実況解説としてテレビ画面に登場し始めた。1982年6月、父からWWFの親会社キャピタル・コーポレーション・レスリングの株式を分割契約で買い取って社長となり、新たに興行会社タイタン・スポーツを設立。譲渡ではなく買い取りという形を取ったのは前述のような経緯から父親との仲があまり良くなかったからだといわれる。1984年からは、日本でも絶対的な知名度の高い偉大なレスラーであるハルク・ホーガンとの二人三脚でWWFの全米進出を開始、WWFを世界最大のプロレス団体に育て上げる。

 

第一節「悪のオーナー」ビンス・マクマホン

事の発端は、1997年11月9日の特番「サバイバルシリーズ‘97」で起きた「モントリオール事件」(ビンスとブレット・ハートとの間に起こった意見の食い違いから始まった被雇用者と雇用者の問題)で、事件後のインタビューの発言を元に世間からは「悪のオーナー」という異名を付けられた。これまで実況を務めて社長としての顔を隠していたが、それから1998年以降のストーンコールド・スティーブ・オースチンとの抗争を機に「悪のオーナー」としてリングに立って、その異名に沿ったキャラクター性を生かしたマイクパフォーマンスを見せるようになり、遂には自らが選手としてリングに上がるようになる。このオースチンとの抗争がもっとも有名である。

事実上、WWEでは実況アナウンサー等レスラーではない人物がしばしばリングに上がり試合をする(させられる)が、彼らが素人であるのとは対照的に、ビンス自身はレスラー並の長身と年齢不相応にビルトアップされた肉体の持ち主で、ほぼ毎日のトレーニングは怠らず、その肉体はスポーツ誌の表紙に載るほどである。基本的にはリング上でレスラーを立てることを原則としており、真っ向勝負でビンスがレスラーに勝利するシチュエーションは現在のところないが、本人の方針なのかバカヒール全開で、リング上はで尻丸出しや、おもちゃのピストルを向けられて失禁するなどおバカキャラを演じたりもする。マイクパフォーマンスでは、「悪のオーナー」らしい独裁者顔負けの発言力でレスラーや観客を見下し、自らの権力を振ってレスラーを思い通りに従わせようとするが、従わないレスラーに屈辱的な姿勢を強要し、観客を煽ることもある。それでも従わない場合には、鬼面とした顔になって「You're Fired!(キサマはクビだ!)」の名台詞が飛んでくる。WWE史上12位を争うトップヒール(悪役)である。

驚くべきことに、1999年には当時王者のトリプルHから、個人ヘビー級王座のWWF王座まで獲得したこともあった。

 

第二節 マクマホンファミリー

ここからは、ビンスの家族関係についてプライベートな話になる。1968年に妻リンダ・エドワーズと結婚。その後、長男シェイン、長女ステファニー、次女ロキシーをもうける。シェインは元WWEタレントのマリッサ・マズゥーラと、ステファニーはWWE所属のレスラートリプルHと結婚した。ロキシーはWWEの事業には関わっていないが、人気ロックバンド、リンプ・ビズキットのベーシスト、サム・リヴァースと結婚。その縁でバンドは春のPPV「レッスル・マニア」にゲスト出演しライブを行っている。ビンス自身が複雑な家庭環境に育ったためか、TVショーでのパフォーマンスとは裏腹に、家族を非常に大切にする人柄が家族からも伝えられている。現在はシェイン、ステファニーにそれぞれ子供が生まれており、二人の孫のおじいちゃんでもある。

 以前はビンスの名前にはJr(ジュニア)と付いていたが、父の死とほぼ同時にビンス本人の意向でこれを削除された。これはビンス本人も理由を語らなかった。どうやら、原因は子供の頃からあった父との複雑な親子関係にあると思える。

 


第二章 始まりから大成功への道

WWWF設立以前は、1925年からニューヨークのMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)を拠点としてプロレス、ボクシングの興行を行っていたプロモーターだったビンスの祖父、ロドリック・ジェス・マクマホンが、第二次世界大戦前後の一時期ではMSGがプロレスの興行を行っていなかったためにワシントンDCを中心に活動。1954年の彼の死後は息子でビンスの父、ビンス・マクマホン・シニア(ビンセント・ジェームス・マクマホン)が興行会社を引継ぎ、1956年からMSGに再進出。激戦区ニューヨークで唯一MSGのプロレス興行権を獲得する。アントニオ・ロッカやバディ・ロジャースをメインイベンターとして興行を行い、格闘技・プロレスの殿堂と呼ばれるMSGの伝統を引き継いだ。1948年に発足したNWA(National Wrestling Alliance)にも加盟、大物プロモーターとして大きな発言権を得たのだ。

 

第一節 WWWF設立後、父からの独立

1963年、父ビンス・シニアは同年1月に起きた自派のバディ・ロジャースからサム・マソニック派のルー・テーズへのNWA王座の移動を認めず、3月に試験的に新団体WWWA(World Wide Wrestling Association)を、5月にはNWAを脱退してWWWF(World Wide Wrestling Federation)を設立する。同時にロジャースを初代WWWF王者に認定した。5月14日にロジャースを破って王者となったイタリア系のブルーノ・サンマルチノを新団体の絶対的な主人公としていた。1970年代前半にはプエルトリコ系のペドロ・モラレス、中頃には再びサンマルチノからスーパースター・ビリー・グラハムへ、70年代終盤から1980年代前半にかけてはニューヨークの帝王ボブ・バックランドへと王座ベルトと主人公の座が移っていった。当時のアメリカプロレス界は北部のAWA(American Wrestling Association)、東部のWWWF、南西部のNWA加盟団体を中心に、各地区のプロモーターが暗黙の不可侵条約を結んでいた時代であり、WWWF所属だったアンドレ・ザ・ジャイアントが各地にゲスト出場し、親善大使的な役割を勤めた時代だった。1979年にNWAに再び加盟したことを機会に、ここでWWF(World Wrestling Federation)に改称。1982年、大学を卒業後リングアナウンサーやプロモーターをしていたビンスと妻リンダが、不仲であった父からWWFの親会社キャピタル・レスリング・コーポレーションを譲渡ではなく株式の買収という形で手に入れ、新会社タイタン・スポーツを設立した。これによりビンスは父からの独立となり、WWFの全米プロレス業界独占への野望に燃えるのだった。

 

第二節       レッスル・マニア大成功から最大のライバル出現

 ビンス・マクマホンはWWFの全米進出によるプロレス界の統一を計画、当時AWAに在籍していたハルク・ホーガンを筆頭に、1983年からロディ・パイパー、ポール・オンドーフなど各地の有力選手を次々と引き抜いた。テレビ局からNWAの試合を放送していた枠の放送権を買い取ると、12月27日には、突然、NWAの本部が置かれていたセントルイスで興行を行った。それ以降も次々と他団体へのM&Aや同様のケーブルTV番組を利用した中継等により事業を大幅に拡大続けていった。そして、1985年には歌手のシンディ・ローパーやホーガンと共に、ロッキー3にも出演したアクションスターのミスターTMTVのプロレス特番に出演させ注目を集めると、3月19日にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでレッスル・マニア(Wrestle Mania)の記念すべき第1回大会を開催した。ローパーの他にも元ニューヨーク・ヤンキース監督のビリー・マーチンや元ボクシング世界王者のモハメド・アリ、ショー・ピアニストのリバラッチら豪華この上ないゲストらを招き、ホーガンやミスターTをメインで戦わせたこのイベントは約2万2000人の観客を集め、プロレスイベントとしては異例の400万ドルの興行収益をあげたのだ。こうしてレッスル・マニアは史上稀にない大成功を収めたのだ。その後、全米がホーガンを中心としたプロレス・ブームに沸き、この現象はマスコミから「レスリング・ルネッサンス」と称された。さらに2年後のレッスル・マニアV(Wrestle Mania V)ではメインにホーガンvs.アンドレ戦(この試合は、当時ホーガンが自分よりも巨大なアンドレを持ち上げてボディスラムでマットに叩きつけたシーンがとても印象的だ。)を組んでヒューストンのシルバードームに約9万3000人の観衆を集め、全米マット界での一人勝ち状態を誇示してみせた。

人気高騰によりプロレス以外で、バラエティー分野などで活動するようになったホーガンがプロレスの現場から離れがちになり、1988〜1992年頃はランディ・サベージやアルティメット・ウォーリアー、シッド・ジャスティスやジ・アンダーテイカーらが団体の主役の座を担った。また旧NWAから誕生したWCW(World Championship Wrestling)の絶対王者、リック・フレアー(現在まで世界ヘビー級タイトルを16回も獲得した人物であり、プロレス業界では、ホーガンに並ぶ人気の人物である。)の電撃移籍といった事件もあった。しかしもう一方で、企業全体でのステロイド流通への関与、それに伴うレスラーたちのステロイド使用疑惑が発覚によるドーピング問題が、FBIによる捜査が行われるまでの事件に発展した。裁判は数年続き、被告としてビンスが出廷する事態となったが最終的には証拠不十分により無罪判決によりことは落ち着いた。だがこの事件の影響は大きく、団体に溢れていたスーパーヘビー級の「筋肉マン」タイプの選手たちは一気にフェードアウトしていく。そして、代わって主役の座を手にしたのは技巧派で体型もナチュラルな"ヒットマン"ブレット・ハートだった。1993年には「MONDAY NIGHT RAW」(後に「RAW IS WAR」「RAW」と改称)の放送を開始。レックス・ルガー、ディーゼル(現、ケビン・ナッシュ)、レイザー・ラモン(現、スコット・ホール)、ショーン・マイケルズらが活躍し、ブレットなどと共に数々の名勝負を観客や視聴者にみせた。一方、ホーガン、サベージなどかつてWWFで名を上げてきたスーパースターたちが次々とWCWへと移籍し、WCWは徐々にWWFに対抗するほどの人気を獲得していった。そして、これがアメリカンプロレス史上最大の抗争劇のきっかけとなる。

 

第三章 Monday night war勃発

 WCWによるWWF所属のスーパースターの引き抜きは、徐々に大胆不敵にエスカレートをし始めてきた。そして、人気のスーパースター達を獲得と同時に、企業全体も急成長をし、WWFに匹敵するところまでになった。これはWWFにとってとても大きく強大なライバルである。そして、WCWはWWFに対して、敵対心を剥き出しにWWFの番組MONDAY NIGHT RAW」と同じ曜日と時間帯での裏番組としてマンデー・ナイトロ(Monday Nitro)の放送による視聴率争いなどから月曜夜の番組視聴率戦争へと発展した。

 

第一節 WCWについて

 WCWとは、もともとプロレス団体NWAがオーナーであるテッド・ターナーの米TBS社の局で放送していた、元々はNWA加盟団体の試合中継を主とした番組のタイトル名であった。1984年、同団体の興行株の51%を持っていたジャック・ブリスコ、ジェリー・ブリスコら四人が、ビンスにそれを売却してしまう。そのためWCWの放送権をWWFが獲得。番組名はそのまま内容がWWFの中継に変更された。その一年後、NWAミッド・アトランティック・レスリング(ジム・クロケット・プロモーション、通称クロケット・プロ)が、元筆頭株主のオレイ・アンダーソンらが持っていた残り半数の興行株を買収してNWAジョージア地区を吸収し、同時にWCWの権利を買い取って引き続き放送した。

 1993年9月にNWAから脱退し、独立した。その後、業績に伸び悩むWCWの転換期はエリック・ビショフ(現、RAWのGM)によって訪れた。AWAのリングアナウンサーからWCWのTVスタッフとして転職し、1993年には低迷中のWCWを救うべく、副社長として抜擢された。着任後の1994年に当時は俳優活動をしていたホーガンやセミリタイアしていたサベージといったWWFの大物スーパースターとの契約に成功、彼らの活躍によりPPVの大会で高い収益をものにした。1995年94日には、WCWWWFの看板番組だった「Monday Night Raw」の裏番組として「Monday Nitro」の放送をTNT局で開始。名称からして前者を意識した番組であることは明白である。ビショフは当番組の第一回放送でいきなり前日までWWFの大会に出場していたルガーを引き抜いて登場させた。こうしてWCWWWFの対立は世間の目からもわかるように、Monday Night Warへと続き、2001年WWFのWCW買収による団体消滅まで5年半に渡り続くことになる。

 

第二節       WWFvs.WCW(D−Xvs.nWo

まずWCWは1996年に絶頂期を迎えることから始まる。WWFよりスコット・ホールとケビン・ナッシュを引き抜き、5月27日に「WWFからの侵略者」という形としてホール、翌週にナッシュが番組に登場し、WCW正規軍に33のタッグマッチを提案する。そして、7月7日、WCW正規軍メンバーに選ばれたのはスティング&レックス・ルガー&ランディ・サベージvs.アウトサイダー(スコット・ホール&ケビン・ナッシュ)、第3のメンバーは謎のまま試合が始まった。試合がカオス化し混沌としている中にハルク・ホーガンが登場。WCW正規軍を助けるのかと思いきや、アウトサイダースに加勢しまさかのヒール転向。試合終了後、彼らの口からnWoの結成を宣言してWCW正規軍との抗争をはじめ、数々の斬新なコンセプトで大人気を博す。しかし、それとは対照的に突然のホーガンのヒール転進に当時の状況を見た視聴者から、ホーガンのヒール転進をやめさせろというクレームの声が、WCWに殺到する事態が起こったことも事実である。

その後、nWoとスティングの黒バージョンとの長期に渡る抗争、WCWで唯一成功をものにした新人ゴールドバーグ(元NFLの選手で、28歳でWCWに入団後、174連勝を繰り出すなど無敵のスーパースターとして名を上げた。)の大ブレイクなどもあり、WWFを完全に追い抜き1996年6月10日から1998年4月13日までなんと83週間連続して試聴率で上回り、一時期はWWFを廃業の一歩手前にまで追い込んだ。

 そんな絶好調のWCWに対してWWFは1997年以降、WCWnWo に対抗して、HBKThe Heart Break Kid)ことショーン・マイケルズとトリプルHを中心に組まれた団体のD-Xに代表される悪ふざけやお色気の要素を取り入れたアティテュード路線に切り替え、D-Xも好き放題の悪ふざけ(試合妨害、マット独占、放送ジャックや落書きなど数え切れない。)そして、団体オーナーのビンス・マクマホンとストーン・コールド・スティーブ・オースチンとの抗争で人気の逆転を決定付けた。(1998年4月13日に二人の初めての直接対決が組まれていた)。なぜかというとこれまで絶対的権力者に対して、下で働く者が恐れることもなく挑むストーリーを、アメリカの労働社会にストレスを感じた人々にもの凄いストレス解消として受けたのだ。またD-Xでは、なんと本当にWCWの試合会場に軍服姿で殴り込もうとしたが、しかし、入り口を封鎖され中には入れなかったところまで発生した。(これはWWFが手当たり次第にこちらの選手にちょっかいを出していたWCWに対しての圧力をかける為だと思える。)もはやここまで、両者の抗争は激しさを増すのだった。

 

第三節 WCW崩壊! そして、独占へ

 D-Xやオースチンとの抗争劇に加え、ジ・アンダーテイカーやショーン・マイケルズのライバルとしても活躍したマンカインド(現、ミック・フォーリー)がその「自虐的」とも評されるスタイルでカルト的な人気を集めた。マイケルズは1998年のレスル・マニア14(Wrestle Mania]W)でのオースチンとのWWF王座戦で引退する(しかし、2002年サマー・スラムで見事、奇跡の現役復活)ものの、ベテランだけに頼らず、若手レスラーの育成にも力を注いだ結果、若手のザ・ロックとトリプルHが次代の主役の座を掴み一気に駆け上った。二人はすぐにオースチンと肩を並べるまでになり、2001年頃まではWWFのストーリーはこの三人を中心として動いていった。そこに元オリンピック金メダリストから転身したカート・アングル、WCWから移籍したザ・ジャイアント(現、ビック・ショー)、クリス・ジェリコ、クリス・ベノワ、エディ・ゲレロらが絡むようになる。1999年夏からはWWF第二の団体Smack Dow!の放送も開始、WWFの優位が徐々に確立されていった。

 WCW側は、なんとか引き離そうとnWo内で対立構造をつくり出して抗争を行うも、nWoの焼き直しとしてそれほどの人気は得られなかった。フォー・ホースメンの再結成などを行うも完全にファンのニーズを見失っていた。もはや視聴者からは新鮮さがなく、同じことの繰り返しでもう見飽きたのだ。そしてもう一つの原因はホーガンを始めとした、ビショフと親しい多くのトップ選手は契約の際に高額な給料とともにクリエイティブ・コントロール(自分の係わるストーリーライン、マイクアピールなどについて決定できる権利)を与えられていた。そのため現場は完全な統制が行えず、無用な混乱に苛まれる様になり、WCWの衰退はますます酷くなった。さらには、一部のベテラン選手たちが権力を独占していたことにより、若手や才能ある中堅の選手たちの多くはチャンスを与えられず、不満な声が高まり、次々とWCWをからWWFに移籍することを選択していくなどにより、ビショフは業績不振から解雇され、もはや手の付けられないところまできてしまったのだ。

WCWは一時期失脚していたビショフが復権するも状況を好転させることはできなかった。2001年1月、WWFWCWに続く第三団体だったインディーズ団体ECWExtreme Championship Wrestlingが経営難から活動停止・破産し、WWFECWの全ての権利を買い上げて債権を回収。同年323日、莫大な赤字を計上して経営破綻したWCWをも買収した。

WWFWCWを買収したのは、

 ・WCWが持つ全てのパテント

 ・最後までWCWに所属した24名のレスラーの契約書

    WCWが持つNWA時代からの映像データなどの著作権

以上の三点である。

これによって「Monday night war」も終結する形となり、その結果、米マット界は事実上WWFだけの独占状態となった。


さいごに

その後、WWEに改名し、全米興行ツアーや世界各地(年に二回は日本にも来日している。)に遠征するなどその名は全米だけでなく世界に知らしめ、WWEの規模は大きく拡大した。現在は全盛期を支えていたオースチンやロックは稀にしか登場しないが、ジョン・シナ、ランディ・オートン、エッジ、バティスタ等の若手世代が主力となり、WWF全盛時から出場しているトリプルH、マイケルズ、アンダーテイカー等も変わらずトップを張り続けている。うまくコントロールの取れた若手育成による世代交代は着実に進行しているが、クリス・ジェリコ、クリスチャン、ダッドリー・ボーイズ、カート・アングル等トップレスラーの大量離脱やレスラーのドラッグ使用等の課題も多く存在している。特に、2005年のエディ・ゲレロの突然の死去はWWEや世界中のファンに大きなショックを与えた。現在米マット界で独占状態になっているWWEにわずかながら対抗しうる団体はTNA(Total Nonstop Action)ROH(Ring Of Honor)等。中でもTNAは元WWEのジェフ・ジャレットが立ち上げた団体で、元WWE選手や元WCWのスターが多く所属している。また2006年9月まで「WWE RAW」を放送していたSpike TV10月より「TNA iMPACT!」の放送を開始したこともあり、その成長が期待されていて、団体規模も拡大している。WWEを離脱したスーパースターの大半がTNAに移籍し、活躍している。そのため、WWEはこれ以上スーパースターの流出を防ぐために警戒して、対応策を取っている。また、その原因としては全国ツアーなどによる大移動のハードスケジュールの中、スーパースター自身の度重なる疲労の溜まりとプライベートな時間が大きく限られているため、肉体的や精神的に辛くそれに耐え切れず挫折してしまうのである。これもまたWWEに課せられた課題の一つである。

今後のWWEの成長はベテランばかり頼らず若手育成に力を注ぐことによる世代交代や各ブランド団体の発展などで期待する部分もあるが、まだわずかな規模だが対抗する他団体に対する警戒を怠らないことが重要なのだといえる。


§参 考 文 献§

(一)著者ショーン・アセール+マイク・ムーニハム

菱山 繁 訳(2004

WWEの独裁者 

ビンス・マクマホンとアメリカンプロレスの真実』

ベースボールマガジン社

(2)非営利団体ウィキメディア財団

フリー百科事典『ウィキーペディア(Wikipedia)』(2007

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

検索項目「WWEhttp://ja.wikipedia.org/wiki/WWE

    「WCWhttp://ja.wikipedia.org/wiki/WCW

    「ECWhttp://ja.wikipedia.org/wiki/ECW

                       以上を参照

copyright 2007, Hasegawa Yasuhiro

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