本稿は、ソニーが実施した、1983年の事業本部制の導入、1994年のカンパニー制の導入、2005年の事業本部制の再編についての組織変遷をまとめたものである。
1975年、ソニーは家庭用VTRの「ベータマックス」を発売した。翌年の1976年は、ソニーの創立30周年であった。当時、VTRの国内需要がまだ10万台未満で、自信のたっぷりのソニーは、「ビデオ元年」宣言をしたのである。ソニーの家庭用VTRベータマックスは、勢いよく走り出したかに見えたが、このビデオ元年にびっくりすることが起こったのだ。それは、9月に日本ビクターがソニーの「ベータ規格」に対抗する独自の「VHS規格」のVTRを発表し、追撃を始めたことだ。VHSの記録時間はベータマックスの倍の2時間であったのだ。
VHS方式を調べてみると、ソニーがU−マチック、ベータマックスの開発時から規格統一のために惜しみなく公開してきたVTR技術やノウハウを採りこんで作られていたのだ。ソニーの考案したベータ規格と日本ビクターの推進したVHS規格は、技術内容は似ているが、カセットの大きさが異なり、互換性がまったくないのである。複数の規格が出ることで家庭用VTR市場では、主導権争奪やシェア獲得競争が繰り広げられることになったのである。こうして、「VTR戦争」へと突入したのである。
その後、ソニーと日本ビクター両社の各ファミリー作りは、1976年を通して進んでいったのだ。そして、ソニーのベータ規格側には東芝、三洋電機、日本電気、アイワ、パイオニアが、日本ビクターのVHS規格側には松下電器、日立製作所、三菱電機、シャープ、赤井電機と、家電業界を二分する構図ができあがったのである。
特に、VHS陣営のファミリー作りは、巧みに行われていったのである。それは、欧米家電メーカー大手への積極的なOEM供給(相手先ブランドによる製品供給)作戦やソフトウェアビジネスの展開などである。
ベータ規格の開発も発売も先行していたソニーだったが、ベータ規格陣営の囲い込みの失敗と販売力が弱さから、ベータ陣営が劣勢に追い込まれていったのである。
VHSの巧みな作戦により、ベータ規格は、劣勢となっていったのである。そのうちベータ陣営の東芝、三洋電機、日本電気もついに、輸出用に限ってVHSの併売に乗り出したのである。
これを機にベータ離れは加速され、1988年には、ソニー自信もVHSの発売に踏み切り、2方式併売で臨む方針を打ち出したのである。できることなら、ソニーはVHSの発売を避けたかったが、ソニーのVHS製品が欲しいという声や今後のビジネスの発展のためにVHSを発売したのである。
そして、ソニーは、高画質録画に最適なベータマックス、コンパクトでパーソナルユースに最適な8ミリ、そしてレンタルソフトビジネスに対応したVHSで、家庭用VTRのどのフォーマットにも対応できるようになり、「VTRの総合メーカー」としてナンバーワンを目指すことになったのだ。
大賀は、社長就任後まもない1983年の年頭所感で、(1)家庭用ビデオ「ベータマックス」などの既存商品の徹底強化、(2)半導体分野の強化、(3)テープメーカーとしての超一流化、(4)MC(マイクロコンピュータ)、OA、CD、ニューメディアなどの新ビジネスなどの積極的展開など、「ビジネスを厚く広くして、この荒波を乗り切っていこう」1)という新しい事業戦略を明らかにしたのである。つまり、ベータマックスなどのVTRだけに頼るのではなく、柱となるビジネスをいくつかに増やそうとしたのである。
そして、1984年1月の株主総会で、1983年10月期決算の単独・連結決算初の減益減収、主力製品ベータマックスの劣勢などを槍玉にあげられた13時間半にわたる超ロングランの株主総会を経験すると、「いくつかのビジネスの柱をつくっていこう」2)という動きは、ますます加速されていったのである。
また、ベータが敗北した原因に一つには、生産と販売の一体化が出来ていなかったことがあげられるのである。
このような状況を解決するため、技術や商品企画を優先させて発展してきた「開発型企業」から、生産と販売のバランスもとれた「一流企業」を目指す組織体制が求められたのである。そして、1983年5月に事業本部制を導入することになったのである。
事業本部制とは、商品領域別に小さな会社である事業本部をつくり、事業本部長に製造から販売までの事業経営に必要な責任と権限を委譲し、自己完結的経営を行うことである。これまでは、組織的に分離した営業本部に任せがちだった販売領域が、事業本部の責任に入ったのだ。そのため、各事業本部の状況に応じて的確で迅速な意思決定ができるようになったのである。
また、事業本部は自己完結的経営を行うため、責任範囲内で利益を最大化することが任務として位置づけられたのだ。つまり、P/L(損益計算書)責任に加えて、原則としてB/S(貸借対照表)責任を持ち、より厳しい採算責任を負うことになったのである。
今までの事業本部制は、決められた量を納期に合わせて作り、出荷が終わればそれで責任を果たしたことになっていたのだ。しかし、これではソニーに利益があっても、販売会社の在庫が増え赤字になってしまうのである。そのため、世界中の販売先にまで神経をゆきわたらせたのである。それは、国内の他に海外の販売まで、事業本部の責任と権限の範囲に含めるというもので、ソニーの事業本部制のユニークな点である。これにより、グローバル的視点を持った経営発想が育ったのである。
また、事業本部制には、1980年代のソニーの成長を支える良い面もあった。しかし、 90年代に入り景気後退が始まるとソニーはマイナス成長になり、事業本部制では経営が厳しい状況になったのである。
カンパニー制とは、「社内分社化」として始まったものである。つまり、「一つの会社の中にあたかも独立した会社があって、それぞれが独自に活動するという組織構造をもつ組織形態」3)のことである。
1994年4月、これまでの事業本部制を進化させ、19の事業本部を8つの「カンパニー」という事業単位に括り直したのである。カンパニー制の目的は、「市場別の事業単位ごとにカンパニーを括り直し、一つの製品について開発、製造、販売を一貫した体制で行えるような組織づくりを目指すことである。」4)
つまり、コンスーマーAVカンパニー(消費者向けAV機器)とパーソナルインフォメーション・コミュニケーションカンパニー(電話機など)は個人向け市場で、コンポーネンツカンパニー(部品)とブロードキャストカンパニー(放送局向けAV機器)、システムビジネスカンパニー(ワークステーションなど)、モービルエレクトロニクスカンパニー(車載用AV機器)、セミコンダクタカンパニー(半導体)は法人向け市場、レコーディングメディア・バッテリーカンパニー(テープ・電池など)は個人と法人の両方の市場向けで、それぞれのカンパニーが市場別に分かれているのである。
それぞれのカンパニーには、製造から販売までの責任者として「プレジデント」を置いて、事業本部長よりもさらに大きな責任と権限を委譲したのである。例えば、一定規模内の投資決裁権(10億円以下)やカンパニー内の人事権などが委譲されたのである。
これらの大幅な権限の委譲が事業本部制とカンパニー制の違いである。権限の委譲に伴い、ソニーの社長の役割は、多額の新規投資などの会社全体の意思決定に絞られ、経営の効率化が行われスピーディーな組織になったのだ。
また、プレジデントには、事業本部制の時よりも、さらに厳密なP/L責任とB/S責任に加えてC/F(キャッシュフロー)の責任が課されたのだ。そのため、各カンパニーは独自の経理、人事、企画部門を持ち、独立採算制を徹底させ、経営責任が明確になったのである。
事業本部制の時代は「会社の最高意思決定機関である経営会議の下に、セクター長以下最大6層の管理職がいたが」5)、カンパニー制の導入によって、「経営会議に直結したプレジデント以下最大4層の階層となった」6)のだ。また、「580以上あった部以上の組織も、約450に減った」7)のである。
カンパニー制の目的は、製造から販売まで一貫した体制で行えるような組織を作ることであった。しかし、1996年にカンパニーが再編されることになったのである。
内容は、1.従来の8カンパニーから10カンパニーへ。2.カンパニーから開発、営業部門の分離。3.エグゼクティブボードの新設である。
商品開発部門と営業部門は、新設する国内営業本部と商品開発ラボラトリーなど計6部門に集約されたのだ。また、全社横断的な経営戦略やカンパニーの縦割り組織をカバーするため、社長、副社長、専務クラスで構成されるエグゼクティブボードが新設されたのである。これらによって、各カンパニーの業務を絞り込み小回りのきく組織にする一方、本社の権限を強化したのである。
1998年以降、時代の変化に伴い、カンパニーの新設や統合、再編がされるようになったのである。
1998年1月1日に、ネットワーク関連ビジネスを担当する「デジタルネットワークソリューション(DNS)カンパニー」を設立したのである。また、ブロードキャストカンパニーとイメージ&サウンドコミュニケーションを統合しブロードキャスト&プロフェッショナルシステムカンパニーを設立したのだ。
1999年、AV(音響・映像)機器とネットワークとの融合などの市場変化に備えるため、カンパニーを再編したのだ。今回のカンパニーの再編は、1996年に続き、2度目の見直しである。
カンパニーは、(1)デジタルネットワークソリューションカンパニー、(2)ホームネットワークカンパニー、(3)パーソナルITネットワークカンパニー、(4)コアテクノロジー&ネットワークカンパニー、(5)ブロードキャストプロフェッショナルシステムカンパニーの5つである。
2000年、カンパニーが(1)ホームネットワークカンパニー(家庭用AV機器)、(2)パーソナルITネットワークカンパニー(パソコン・携帯電話)、(3)コアテクノロジー&ネットワークカンパニー(電子部品)、(4)コミュニケーションシステムソリューションネットワークカンパニー(放送・通信)の4つに再編されたのである。
2000年8月1日付でソニーグループの半導体事業を統括するネットワークカンパニーであるセミコンダクタネットワークカンパニー(SNC)が新設された。これにより商品設計部門との密な連携を行い商品設計に求められるニーズを的確に捉え、最先端の半導体製造技術を用いることでシステムLSIなどの半導体を提供できるようになったのだ。
2001年、ネットワークカンパニー(NC)傘下にある、各事業部を再配置し、ブロードバンド時代を見据えた7つのNCに括り直したのだ。ネットワーク時代の到来によりデジタルテレビ、ゲーム機、携帯電話、パソコンの主力機器を強化するため、組織を再編し、これらの商品の競争力を高めたのである。
2002年4月1日付で、CRT(ブラウン管)/ LCD(液晶ディスプレイ)からPDP(プラズマディスプレイ)に至るまでの商品を一元化し、ディスプレイビジネスの更なる強化を目指すため、「ホームネットワークカンパニー」と「ディスプレイネットワークカンパニー」を統合したのである。
2003年4月1日、次世代のテレビを核とした、ネットワーク化した新しいホーム機器環境の実現やエレクトロニクス機器とゲーム機器との連携、パソコンやモバイル機器による「繋がる」世界の構築などの視点にもとづき、ネットワークカンパニーを4つに再編したのである。
2003年11月1日、「マイクロシステムズネットワークカンパニー」にあったイメージングデバイスカンパニー、LSIシステムカンパニー、セミコンダクタテクノロジー開発本部などを移管して、「セミコンダクタソリューションズネットワークカンパニー」を新設したのである。
2004年4月1日、エレクトロニクス部門には事業分野ごとに「ネットワークカンパニー(NC)」が5つあるが、ハードディスクなどの「ブロードバンドNC」とテレビなどの「ホームNC」を統合し、NCを4つに減らし、簡素化したのである。これにより、家電部門の組織統合を進め、デジタル家電の技術開発体制を強化したのだ。
2005年2月1日、「IT&モバイルソリューションズネットワークカンパニー」を再編し、「インフォメーションテクノロジー&コミュニケーションズネットワークカンパニー(ITCNC)」および「パーソナルオーディオビジュアルネットワークカンパニー(PAVNC)」を新設したのである。
カンパニー制は、プレジデントの権限と責任が拡大し経営責任が明確になり、意思決定のスピードを早めることができるようになったのだ。また、事業本部制よりも、さらに組織の自己完結性を高め自律的経営になったのである。
『予算管理などで高い独立性を持つ組織形態として1994年に産業界でいち早く導入したのである。しかし、縦割り組織の弊害が目立ち、「デジタル家電の時代に対応できなくなってきた」(ストリンガー会長)』8)ため、これを廃止したのである。
エレクトロニクス部門は、テレビなどの家電やオーディオなどの「ネットワークカンパニー」に分かれていたが、2005年10月1日付でテレビ事業本部やパソコンのVAIO事業部門など五事業本部二事業グループに再編したのだ。
また、大型投資案件の決裁などの権限を握っていた各カンパニーのプレジデント(社長)に相当するポストもなくなり、エレクトロニクスCEOに権限を集中させたのである。社長と現場の中間に位置する各カンパニーのプレジデントが無くなることで、意思決定の仕組みを簡素化する狙いがあるのだ。
2003年4月施行の改正商法で、資本金5億円以上または負債総額200億円以上の大会社などが選択できるようになる新しい企業統治(コーポレート・ガバナンス)形態である。移行には株主総会での定款変更が必要になる。(2006年5月1日、会社法施行後は、「委員会設置会社」となった。また、委員会等設置会社を設置できるのは、資本金5億円以上などの条件を満たす大会社に限定されていたが、会社法では、そのような限定はしていない。)
委員会等設置会社ができる前の企業統治(コーポレート・ガバナンス)形態は、「監査役制度」と呼ばれていた。監査役制度は、取締役会が業務の執行と監督を行い、監査役(会)が取締役会が行う経営が適法かどうか監督しているのである。そのため、取締役は自分自身で業務の監督を行い、監査役にも経営を監督されるという二重の監督を受けていたのである。
日々の業務執行は取締役会が選ぶ「執行役」が担うのだ。また、執行役の任期は1年で、会社を代表する「代表執行役」を定める必要がある。また、業務上の意思決定権限を取締役会から大幅に委譲される執行役は機動的なスピード経営の担い手としての役割を求められるのである。
一方、取締役は経営の監督が中心となる。現行の監査役制度を廃止する一方で、取締役会に各3人以上で構成する「指名委員会」「報酬委員会」「監査委員会」の三委員会を設置し、各委員会の過半数は社外取締役としなければならないのだ。取締役の任期も従来の最長2年から1年に短縮され、代表取締役も定める必要がなくなるのである。
「指名委員会」は、取締役の選任・解任案を株主総会に提出する。
「報酬委員会」は、取締役と執行役の報酬を決める。 これらの権限は従来、実質的に会長や社長が握っていたが、社外取締役という外部の目の影響が大きくなる。
「監査委員会」は、取締役と執行役の職務執行の監査などを担当する。
ソニーは、1997年、従来の商法の枠組み内で経営の監督と執行の分離を目指す「執行役員制度」を導入したのだ。執行役員制度は、「取締役会は戦略立案」、「執行役員は業務執行」という機能分離を主な狙いとしていたのである。
執行役員制度に対して、「委員会等設置会社」は機動性を高めるため、取締役会の戦略立案のかなりの部分を執行役に委譲するのだ。中長期的な事業計画なども執行役が立案し、社外取締役を含めた取締役会が、執行役を「外部の目」で監督するという形になるのである。
1997年にソニーが導入した「執行役員制度」は、社内の独自制度で商法上の根拠はないのだ。また、執行役員は商法上、「社員」となるが、ソニーでは取締役から執行役員になった人は、取締役と同じ待遇にしたのである。
独立性の高い社外取締役が多く、経営の透明性が高いといえる。
2005年3月期決算では、エレクトロニクスの営業赤字343億円のうち、テレビの赤字が最大で257億円を占めるのである。薄型化による総市場の拡大で、テレビ事業の売り上げそのものは4%の増加を記録しているのだから、アナログからデジタル、ブラウン管から液晶やプラズマへの切り替えに、ソニー自身が順応できていないのは否めないのである。
もう1つ、出井伸之と安藤国威に加え、副社長兼COO(最高執行責任者)としてテレビを含むホームエレクトロニクス全般を率いてきた久多良木健まで社内取締役7人が退任したソニーは、「テレビの顔」とも言うべき経営者を一度に失ったのである。
一方、自社ブラウン管を持てなかったシャープに目を向けてみることにする。1998年6月、シャープの社長に就任した町田勝彦は、周囲の度肝を抜く宣言を繰り出したのである。それは、「国内で売るすべてのテレビを2005年までに液晶に切り替える」9)というものである。その宣言を実現するために、世界初の液晶テレビ専用拠点である亀山工場(三重県)に3000億円の巨費を投じる決断を下したのだ。これらの宣言の背景には、自社ブラウン管を持っていなかったシャープの悔しさがあるのだ。
シャープ製の液晶テレビの強みとなっているのは、「新アクオスプラットフォーム」を採用したことである。このアクオスプラットフォームを、町田はシャープがすべて自社でてがけた「初のテレビ向け独自LSI(大規模集積回路)」と位置づけているのだ。液晶の駆動と制御、映像の制御、音声の制御など、液晶テレビに必要な5つの回路を共有することで、日米欧亜それぞれの地域に対応したモデルを短時間で開発する効果を期待するのである。また、社内に液晶パネルからテレビのセットまで持っている垂直統合という強みがあるのだ。
液晶切り替えの宣言していたシャープの町田社長は、2000年初頭に当時の三重県知事、北川正恭と会談し、三重県に液晶産業の一大拠点を作り上げる「クリスタルバレー構想」で合意したのである。これは、2000年の時点ではあくまでも三重県側の発表で、シャープが亀山に工場を建設する計画の詳細を公式に発表したのは、2002年の2月14日になってからである。ガラス基板の大きさが世界最大なら、素材から設備、パネルまで関連する産業を三重県の亀山市に集中する構想も世界初、さらに液晶パネルからテレビまで一貫して作り上げる工場も、シャープの亀山が世界初の試みだったのだ。
シャープの町田社長は、(テレビで生き残る企業の条件は何だろうか)と自問した。その町田の答えは、「一番大切なのはブランド力ですわ」10)。ソニーは独自のディスプレーがないから苦戦しているように思われているが、ソニーには強力なブランド力があるのである。シャープがソニーに追いついて、追い越すために何が必要なのか。そんな決断を迫られた時、「現場の連中の顔を見る」11)ために町田は大阪市阿倍野区の本社から車を走らせて、奈良県天理市や三重県亀山市の液晶拠点を頻繁に訪れるのである。
クリスマスイブが一週間後に迫った2004年12月17日、本社に戻った町田は最後まで新設する「亀山第二工場」の詳細を決めかねていたのである。珍しく思い悩んでいる姿を隠そうともしなかった町田はその週末、2006年に縦2160ミリメートル、横2400ミリメートルという世界最大を更新する「第八世代」を選択したのである。第八世代は、巨額の投資と立ち上がりリスクを背負う半面、液晶のシャープとしての先進のブランドは揺るぎないものになるのである。シャープの液晶の強みは、ブラウン管を自社で作れなかった後発効果であることが指摘できる。
1968年4月15日、東京・銀座のソニービルで開いたトリニトロンのお披露目会見が行われた。そして、ソニーが他社に先駆けて1996年に平面ブラウン管を実現し、「ベガ」によって一世を風靡できたのは、創業50周年に向けて総力を結集した現場の頑張りに加え、トリニトロンがもともと平面にしやすい構造を持っていたからである。
徹底してソニーらしさにこだわった井深をはじめとする技術者の思いは、世界初の平面ブラウン管ベガに結実し、2002年に最大の利益をもたらしたのである。同時に、平面ベガの衝撃は松下やシャープなどライバルの「脱ブラウン管」を加速させ、平面テレビに対する消費者の違和感を取り除く先兵役も果たすことになったのだ。
トリニトロンの完成からわずか8年後の1976年、新入社員だった久多良木健は100×80画素の液晶テレビを試作して、液晶プロジェクターへの応用にも成功を果たしているのだ。しかし、トリニトロンが離陸した直後だったソニーは、70年代にプラズマパネルの開発を手がけていた社員が退社した際に、同時にプラズマの技術を譲り渡し、開発から手を引いてしまうのである。さらに80年代前半には液晶の用途を小型に絞り込む決断を下してしまうのだ。トリニトロンが偉大だったため、液晶、プラズマテレビともに薄型テレビの開発が出遅れてしまったのである。
久多良木はライバルに先駆けて液晶テレビに目をつけていたが、その液晶テレビの種を育てられなかったのである。久多良木は、ソニーの中では珍しく、液晶やプラズマパネルを自前で育てられなかった過去の判断ミスを、はっきり指摘してきた数少ない幹部の一人でもあった。
2003年11月10日号の「日経ビジネス」誌で、自らテレビ事業を束ねる立場に立った当時の久多良木は、以下のように述べている。
「テレビではいくつかの判断ミスがあった。それが今でも尾を引いている。本来は世の中が薄型テレビに切り替わるのを待つのではなくて、ソニーが仕掛けて流れを作るべきだった。でも社内では、2005年、2006年になってもブラウン管が優勢だろう、との意見が大半を占めていた。液晶やプラズマは本格的なディスプレーが登場するまでの中継ぎ的な技術だろう、と過小評価していたからだ。
だから私が手を挙げて、韓国サムスン電子と液晶パネルで提携する交渉に乗り出した経緯がある。ただ薄くてフラットというだけではなくて、みんながあっと驚いて、久多良木はそんなことを考えていたんだ、というようなテレビを作りたい」12)
ソニー・コンピュータエンタテイメント(SCE)社長兼グループCEO(最高経営責任者)である異才の久多良木健は、ゲームやデジタル家電の心臓部となる新型プロセッサー「セル(CELL)」をSEC、米IBM、東芝の3社で2001年から共同開発を進めてきたのである。久多良木は、テレビに「セル」を搭載することで「きれいな絵を超えたコンピュータ並みのテレビ」13)を目指したのである。一方でプロ用機材の研究所長として開発を束ねてきた、もう一人の異才、近藤哲二郎が通常の地上波テレビ放送の規格であるNTSC信号をデジタル処理し、ハイビジョンに近い高画質画像に変換する新映像エンジン「DRC(デジタル・リアリティ・クリエーション)機能」を開発したのだ。そして、DRCを使用した「きれいな絵だけを生み出す」14)技術の最高峰をベガに搭載するのではなく、箱として切り出して52万5千円で外販してみせたのだ。
液晶やプラズマといったパネルの自社開発、投資に乗り遅れたことで、ソニーの先進性が薄らいだのではないか、とのささやきが聞かれるようになった。しかし、ソニーのテレビ事業が抱える課題は、先進性の欠如や喪失ではなくて、一言で言えばそのちぐはぐさにあるのだ。ベガエンジンHDの基礎となる「DRC」や世界初の「LED(発光ダイオード)バックライト」、新型プロセッサーの「セル」で映像の未来を切り開く潜在力を持っているにもかかわらず、新製品をタイミングよく、手頃な価格で投入する、という基本動作がこなせていないのである。
また、収益の落ち込みが誰の目にも明らかになった2005年春先でも、ソニーのテレビ事業はアメリカで金額シェアの30%を握り、ブランド力に極端な衰えは見られないのである。ブラウン管と液晶、プラズマ、背面投射型(リアプロジェクション)、投射型(プロジェクション)の全タイプで全米シェア上位に食い込んでいるのは、ソニーだけなのだ。裏を返せば、世界で最大のシェアを持ち、テレビメーカーで唯一、あらゆるディスプレーで上位に食い込んでいるソニーだからこそ、シャープの「アクオスプラットフォーム」のような半導体プラットフォームなどの共有化を進めない限り、開発投資の重複により、利益が残らないのである。
映像の未来を切り開く潜在力を持っているにもかかわらず、新製品をタイミングよく投入できない原因は何なのか。2005年6月下旬に始動するソニー新経営陣にとって最大の課題は低迷が続くエレクトロニクス事業である。その「モノづくり」の現場を支えているのが、「ソニーEMCS(エンジニアリング・マニュファクチャリング・カスタマーサービス)」である。ソニーEMCSは、ソニーの最高経営責任者(CEO)であった出井伸之の肝いりで、エレクトロニクス機器の最終組み立てを行う国内の13工場を分離統合して、2001年に設立したのである。ソニーEMCSは、ソニー流の「垂直的分業」グループ経営で、組み立てを中心とする生産部門を担い、製造技術などの底上げを進めてきたのだ。垂直的分業モデルは、工場間の連携が強化される一方、競争も起こり、製造の質も上がったのである。
しかし、垂直的分業モデルでは、商品企画や開発と製造部門との縦の連携が分断され、商品力が落ちたとされるのである。中鉢が社長に内定する前の副社長の頃から、「設計、製造から販売までの連携を見直さなければならない」15)と繰り返し言い続けてきたのである。つまり、エレクトロニクスの低迷の一因を垂直的分業化したグループ経営がうまく回転しきたなかったことにある、と見ているのだ。
ソニーのエレクトロニクス事業は、商品企画や基本設計を「本社のカンパニー」、量産設計や製造を「ソニーEMCS」、販売を「ソニーマーケティング」が担当しているのである。開発、製造、販売が一体になったカンパニー制は、ソニーの強みであったが、それが崩壊してしまったのである。
液晶で成功したシャープを筆頭に、電機各社は一斉に垂直統合モデルへの移行を進めたのである。それは、垂直的分業モデルでは商品の差別化ができず、利益が出せないという経営判断からである。
そのため、ソニーも2005年5月にエレクトロニクス製品の設計、生産、販売の連携を見直し、商品ごとに本社の事業部門と工場で情報の流れをスムーズにし、売れ筋商品を機動的に生産できる「垂直型」の運営に改めたのである。従来のように開発、生産、販売・マーケティングごとに専門組織を設置する「水平型」では、工場と営業など連携が不十分で機会損失が多いと判断したのである。
2001年にソニーEMCSを設立してから垂直的分業を導入していたソニーは、垂直統合への流れに乗り遅れたのだ。しかし、スピードを重視した垂直統合モデルで、巻き返しをしようとしたのである。
2005年7月28日、ソニーはテレビ事業の不振が原因で、3ヶ月前に発表したばかりの2005年度営業利益の見通しを1300億円下方修正する、という異例の事態に追い込まれたのである。エレクトロニクス存亡の危機に立たされているソニーだが、トリニトロンに代わる新型ディスプレーの準備をしていたのである。それは、アメリカのテクトロニクスと共同開発した「プラズマアドレス液晶(PALC)」、すなわち「プラズマトロン」である。
1970年代にプラズマパネルの開発から手を引いて、80年代には液晶の用途を小型に限定する決断を下したソニーにとって、90年代前半に着手して、90年代半ばに試作品の公開まで漕ぎ着けたPALCは、自社開発の薄型パネルで逆転を狙う唯一とも言える隠し玉だったのだ。
液晶は高精細だが大型化が難しく、プラズマは大画面化は容易だが高精細化が難しく、いずれにせよ価格が下がらないのである。その点、高精細な液晶の特徴と大画面化に長けたプラズマの長所を兼ね備えたPALCは、大画面化のテレビの先陣を切ることができるとソニーは判断し、PALCに望みを託したのである。
1996年9月になって、ソニーはTFT(薄膜トランジスタ)液晶で先行していたシャープと提携し、PALCにのめり込んでいくのである。1997年7月には、オランダのフィリップスも加わって、プラズマに対抗するPALC陣営の顔ぶれが出揃うことになったのだ。技術的にはプラズマと液晶の「いいとこ取り」だったはずのPALCは、全く異なった技術を継ぎはぎした難しさを克服できず、かえってコストが下がらない欠陥を露呈していったのである。1999年12月にはフィリップスが見切りをつけてPALC陣営を去り、ソニーとシャープの両社の共同開発の契約期間が切れた2001年3月末を機に、PALCは形の上では自然消滅という結末を迎えてしまうのである。
ソニーとシャープが共同で行っていたPALCの共同開発が終了し、シャープは液晶の大型化に突き進んでいったのである。PALCの共同開発を終了した時点で液晶に絞り込んだシャープが賭けに勝ち、代替案を用意していなかったソニーがつまずいたのである。
ソニーは、PALCが実を結ばなかった2001年の時点では、薄型テレビがブラウン管を席巻する時代がこんなに早く訪れようとは、想像すらしていなかったはずである。それは、平面ベガが発売された1996年当時には、「2050年までブラウン管の寿命は生き長らえる」16)と語っていたからである。
シャープと共同開発していたプラズマアドレス液晶(PALC)の実用化を断念したソニーは、「有機EL(エレクトロ・ルミネッセンス)」ディスプレーに望みを託したのである。有機ELディスプレーは、液晶よりも更に薄くて軽く、同じ電力であれば、液晶の5倍以上の明るさになるのである。しかし、有機ELディスプレーに使われる物体が、酸素や湿気に弱く何年も使われるようなテレビの場合には、携帯電話などのディスプレーに比べて、寿命が短いという問題点があったのだ。ソニーは、有機ELディスプレーがテレビの実用に堪える寿命の問題が解決しないまま、自社製の大型テレビ用パネルを持たない状態を強いられてきたのである。
自社パネルを持っていないことに対し、かつて出井は「汎用品と化していくパネルに巨額の投資を行わなくても、ソニーが持っている絵づくりの技術は製品に織り込める。自社パネルを持たない分、むしろ他社から安いパネルを調達できる利点もある」17)と語ったのである。
しかし、現実は単純ではなかったのだ。久多良木健の後を受け、テレビを含めたホームエレクトロニクス事業全般の責任者に就いた副社長の井原勝美(2005年10月1日から組織改編によりテレビ事業本部長を兼務)は、「自社パネルがなくてもソニーの技術が織り込める、と出井さんがおっしゃったのかどうか、それは私には分かりません。でも、自社パネルを持たない限り、ソニーが持っている技術の枠を本当に集めたテレビは作れない。ブラビア以降、ようやく念願の“ソニーパネル”を手に入れて、これから巻き返しに出るのです」18)と言ったのだ。
2005年の年末商戦に向けて市場に投入する新ブランドのブラビアは、ソニーが韓国サムスン電子と合弁で立ち上げた「S-LCD」製の液晶パネルを搭載する最初のモデルとなるのだ。総額約2000億円を投じ、世界最大の第七世代ガラス基板を採用したS-LCDに関しては、二つの批判がつきまとっていたのだ。1つめは、歩留まりが上がるのか。2つめは、サムスンブランドの液晶テレビに搭載されるサムスン製パネルを購入するのと何ら変わらないのではないか、というものである。
テレビ事業本部副本部長の木暮誠は、二つの疑問に対し次のように答えたのである。「実はS-LCDは2005年の2月に立ち上げようとしたのです。ところが、設備の一部にトラブルが発生し、ラインを全部止めて立ち上げに専念せざるを得なかった。正直言って、春にはどうなるかと気をもみました。
ところが、5月に入って予定していた歩留まりを超えてくると、世界最大のガラス基板を使っているメリットがぐっと表れて、加速度的にコストが下がってきたのです。思い切ってラインを止めたのが奏功したんですね。
このパネルは自信を持ってソニーパネルだと言い切れる。色域を広げるために、バックライトの蛍光管の塗料まで自社オリジナルで作り込んだのですが、外部から買ってくるパネルで同じことをやろうとしたら、この限られた時間では実現できなかったでしょう」19)
出井が残した最後の資産であるS-LCDをソニーが生かすのか、あるいは負の遺産に変えてしまうのか。それは、新ブランドのブラビアに託されることになるのだ。
1983年に、生産と販売のバランスもとれた「一流企業」を目指すために事業本部制を導入したのである。
1990年代に入ると、ソニーはマイナス成長となり、事業本部制体制を見直すことにしたのだ。そして、これまでの事業本部制を進化させ、1994年に市場別の事業単位ごとにカンパニーを括り直し、1つの製品について開発、製造、販売を一貫した体制で行えるようにしたのである。
また、2001年には、ソニーの「モノづくり」を支えるソニーEMCSを設立し、垂直的分業モデルにより、工場間の連携を強化したのだ。しかし、垂直的分業モデルでは、商品企画や開発と製造部門との縦の連携が分断され、商品力が落ちてしまったのである。
そして、カンパニー制も次第に縦割り組織の弊害が目立つようになり、2005年にカンパニー制は廃止となったのである。
カンパニー制は事業本部制の経営管理を徹底するため、事業本部制を進化させ、時代の変化に素早く対応することが出来る組織形態だと思う。市場別分業がうまくいかずカンパニー制は廃止となってしまったが、市場別分業を放棄してしまっていいのかという問題点が残るのである。
2005年10月には、再び製品別ごとに事業単位を括り直す事業本部制が導入されたが、ソニーは蘇ることができるのか、今後が楽しみである。
1)ソニー広報センター(1998)『ソニー自叙伝』ワック出版部、p443
2)ソニー広報センター(1998)『ソニー自叙伝』ワック出版部、p444
3)明治大学経営学研究会(2002)『経営学への扉』白桃書房、p114
4)明治大学経営学研究会(2002)『経営学への扉』白桃書房、p115
5)ソニー広報センター(1998)『ソニー自叙伝』ワック出版部、p450
6)ソニー広報センター(1998)『ソニー自叙伝』ワック出版部、p450
7)ソニー広報センター(1998)『ソニー自叙伝』ワック出版部、p450
8)『日本経済新聞』 2005年 9月30日 朝刊 p11
9)寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社、p22
10)寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社、p25
11)寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社、p25
12)寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社、p98-9
13)寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社、p96
14)寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社、p96
15)『日経産業新聞』 2004年9月7日 朝刊 22ページ
16)寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社、p182
17)寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社、p237
18)寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社、p238
19)寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社、p239
ソニー広報センター(1998)『ソニー自叙伝』ワック出版部
Sony Japan(2005)『 Sony History 第2部 第24章 第5話「事業本部制」から「カンパニー制」へ』 http://www.sony.co.jp/Fun/SH/2-24/h5.html
小島郁夫(2000)『図解ソニーのすべて』ぱる出版
明治大学経営学研究会(2002)『経営学への扉』白桃書房
Sony Japan(2005)『 ソニーグループ』 http://www.sony.co.jp/index.html
寺山正一(2005)『決戰 薄型テレビ最終戦争』日経BP社
『日経産業新聞』 1994年 2月 3日 朝刊 24ページ
『日本経済新聞』 1994年 3月29日 朝刊 11ページ
『日本経済新聞』 1994年 5月23日 朝刊 13ページ
『日本経済新聞』 1994年 8月 5日 朝刊 3ページ
『日経産業新聞』 1996年 1月17日 朝刊 27ページ
『日本経済新聞』 1996年 1月17日 朝刊 1ページ
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『日本経済新聞』 2003年 1月29日 朝刊 1ページ
『日本経済新聞』 2003年 1月29日 朝刊 3ページ
『日経産業新聞』 2003年 1月29日 朝刊 3ページ
『日本経済新聞』 2003年 2月 1日 朝刊 13ページ
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『日本経済新聞』 2003年 7月15日 夕刊 7ページ
『日経産業新聞』 2004年 4月 1日 朝刊 27ページ
『日経産業新聞』 2004年 9月 7日 朝刊 22ページ
『日経産業新聞』 2005年 9月26日 朝刊 24ページ
『日本経済新聞』 2005年 9月30日 朝刊 11ページ
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