折口博士記念古代研究所に収蔵されている資料は、次の8分野に分類できる。
一、折口記念文庫
二、著述資料
三、書簡資料
四、写真資料
五、有形資料など
六、折口記念会及び研究所資料
七、折口研究書誌
八、研究所交換寄贈図書
このうち六から八までは、折口固有の資料ではないので、これを除くと資料点数としては2万8538点がある。
折口記念文庫は、前述のように折口博士記念会が遺族から寄贈を受けた折口旧蔵本をもとにし、これに記念会が収集した折口信夫に関する研究文献を加えたものである。折口博士記念古代研究所の設置に伴って、研究所の所管となっているが、折口の旧蔵本は没後に一部が焼却されたり、行方不明になったものがあるといわれており、旧蔵本のすべてが折口記念文庫になっているわけではない。
記念文庫の内容は、書冊の発行形式等によって分類すると、単行本が6229冊、内文庫本が574冊、雑誌が427種・6843冊、和書が466冊で、合計1万3538冊となる。
単行本のうち文庫本が多く含まれているのは、授業や論文執筆などに入手しやすかった文庫本や流布本を用いたためである。図書分類の分野別では文学に分類しうるものが2960冊を占め、もっとも多くなっている。雑誌は明治期から大正・昭和にかけての文学、民俗学、芸能、歌舞伎関係など、多種がある。文学では短歌誌がめだっているが、明治20年からの『東京人類学会雑誌』や明治38年(16巻4号)からの『史学雑誌』、創刊からの『アララギ』、大正12年(13巻5号)からの『考古学雑誌』など、多分野に亘っている。和書は江戸時代の版本が多く、その大半は天王寺中学校の同級生であり、しかも國學院大學の同僚でもあった岩橋小弥太から譲られたものである。
折口には、柳田國男のように本の最後に読了の期日を記したり、重要な箇所にマークをしたり、小さくちぎった色紙を貼ることはなかったようだが、所々に書込みをしているものがある。書込みのある本は、確認している分では420冊ほどがあり、緑や赤、ピンクなどの色鉛筆や万年筆、鉛筆など、さまざまな筆記具が使われている。書込み内容は、感想や意見、中の記述をもとにした折口自身の着想、授業に用いた本には授業展開の目安、いたずらがきなど、多様である。柳田國男の『郷土生活の研究法』には多くの書込みがあるし、早川孝太郎の『花祭』には、自分が寄せた「跋」の扉裏から数頁にわたり、「文政二歳己卯正月 伊豆神社御神事上手頭人心得 神主伊東長門正藤原信定識」の文面が万年筆で書き込まれている。
折口記念文庫は、前述のように必ずしも折口の読書歴全体を示すものではないが、所蔵雑誌の巻号・発刊年月からは、國學院大學の専任教員にもなって生活が安定する大正末・昭和初期以降の入手本が大半と考えられ、これ以後の読書傾向や折口の関心事は明確に示されているといえる。蔵書傾向に加え、書冊への書込みは、折口の思索のありようを考える資料となる可能性をもっている。
著述資料というのは、折口自筆の草稿や原稿、推敲原稿、採集手帖の類で、資料点数としては草稿・原稿類が228点、採集手帖が274点ある。採集手帖類は、ほぼ整理が終わっており、これにはフィールドワークの記録帳のほか、着想などを記した手帖類も含まれている。ノートや手帳、日記帳など、形式はさまざまで、手近にあったものを利用していたことがわかるが、中には僅か数頁だけの記載のものもある。
草稿・原稿類は、その大半が全集に収録されている。旧全集に未収録の原稿は、その後『折口博士記念会紀要』第1〜3輯、『折口博士記念古代研究所紀要』別冊資料集1、2などに公開され、新全集ではこれらも収録しているが、たとえば「国文学の発生第四稿」は四種の稿、「信太妻の話」は三種の稿、「花山寺縁起」は三種の稿といったように、複数の草稿があったりする。
また、「死者の書」は、『日本評論』に三連載したものを折口自らが切り取って綴装し、この稿の50箇所ほどに加除、語句訂正を行ったものがある。これが「折口自装本」と通称されている「死者の書」である。「死者の書」はその後、昭和18年9月に青磁社から単行本として出されるが、これは『日本評論』版を大幅に組み替えている。さらに青磁社版の加筆訂正版、昭和22年7月に青磁社版を底本として角川書店から刊行された『死者の書』がある。つまり「死者の書」は折口が生前に手を入れて改訂された版が、すくなくとも四種ある。
草稿・原稿類には、右にあげた「折口自装本」の類も含めている。折口の論文や作品には草稿→印刷原稿、原稿→印刷稿→加除訂正稿→印刷稿といったように、時間の経過のなかで転移しているものがいくつもあって、その転移の過程を窺うことができる資料も所蔵されているのである。なお、草稿・原稿類には、断簡として残され、未整理になっているものもある。
書簡資料は、全体ではハガキ7397通、封書2470通が確認されている。このうち現在までにハガキは7002通、封書は176通が整理済みになっている。これら書簡類は、もちろん折口に宛てられた書簡のすべてではなく、生前、折口と同居していた鈴木金太郎や藤井(折口)春洋などによって保管されて現存するものである。
書簡類は、総数としては9867通にも及ぶが、ハガキの大半は年賀状や暑中見舞いの類となっている。しかし、この中には島木赤彦、斎藤茂吉、土岐善麿、古泉千樫、柳田國男、早川孝太郎などからのものがあって、折口の交友関係を知る資料となり得る。時候の挨拶以外の書簡は、さまざまな内容をもっており、とくに封書は未整理のものが多く残っていて、整理作業が課題となっている。
書簡類のうち、たとえば柳田國男からの来信は62通がある。ハガキが42通、封書が20通で、大正9年10月30日付のものが最も古く、昭和28年4月24日付のものまである。
写真資料は、その内容から折口年譜写真、大学や鳥船社、万葉旅行など門下生との写真、民俗写真、演劇写真の四種に大別できる。年譜写真と門下生との写真は、区別が難しいものもあるので同じ分類にすると、これが1074点、民俗写真は2253点、演劇写真は2687点があって、合計すると6014点となる。全体を「折口写真コレクション」と呼んでいるが、これらはいずれもB四版の厚紙台紙に写真が一点ずつ貼付され、一部には撮影地、撮影者、撮影年月日などが記されている。このうち演劇写真は、ほとんどが戦前までの歌舞伎絵葉書で、折口自身が随時買い集めていたものと思われる。これ以外の写真は、折口のアルバムにあったものや折口博士記念会発足以降、全集編纂などのために収集されてきたものである。