古写真の中の日本


木下直之
(東京大学大学院人文社会系研究科)


古写真という名称はどこまで有効か

 うっかり「古写真」をタイトルに掲げてしまったが、ふつう写真史研究ではこの言葉を用いない。それは写真に関するどんな辞書にも事典にも載っていない。

 英語ならば、Early Photographyが「古写真」に近いだろう。しかし、これもよく使われる言葉ではない。むしろ、写真を新旧の観点から語る言葉には、Modern Photography、Contemporary Photographyなどという表現とModern Printという表現があり、これらはしばしば耳にする。

 前者は写真表現上の新しいスタイルを示す言葉であり、必ずしも対極にOld Photographyを措くわけではない。19世紀前半に始まった写真の歴史は未だ2世紀に満たず、oldを用いるには新しすぎる。「早い」とは見なしても、「古い」とは考えずに、写真史は語られてきたのだろう。

 つまりは初期の写真を19 th Century Photography、日本であれば「幕末明治の写真」と呼んで十分であった。それに、日本での写真の歴史はペリー来航によって開かれた一面があり(1854年の2度目の来日時に従軍写真家が寄港する先々で写真撮影を行った。それからおよそ20年後にまとめられた斎藤月岑の『武江年表』は、この年をいわば日本における写真の始まりとしている)、その点でも、「幕末写真」という言葉は有効性を持つ。

 また、後者は写真家の没後に、著作権継承者、同保護組織、研究者などの認定の下で、別人の手によって焼付けられた写真を意味する言葉であり、その対概念は、写真家自身の焼付けにより、かつ最終的表現として認知されたOriginal Printとなる。このような言葉を必要としたのは、写真が印刷物(たとえば写真集)ではなく、焼付け写真として、絵画のように額装され、展示され、ギャラリーや美術館で鑑賞され、さらに商品として売買され流通するようになった比較的近年の状況である。類似の言葉に、年代物ワインを想起させるVintage printがある。

 そこでは撮影者自身が写真を焼付けたことが重要視される。彼が自分の判断で焼付けた最上の1点をもっとも真正な写真であると想定するからだ。この立場に立てば、本人には不満足な焼付けの写真、他人の判断で焼付けられた写真、印刷物上の写真などは、真正性を失う、とまではいえないまでも、大きく減ずることになる。印刷物にも写真集から新聞雑誌まで、雑誌にも写真専門雑誌から一般雑誌まで、新聞にも日曜版のカラー写真から折り込みちらしの広告写真までの諸段階があり、写真の真正性は画像の品質と呼応してとらえられてきた。このうち、写真家が仕上がり具合をチェックし、作品と認め得るのは、せいぜい写真集までだろう。

 しかし、この写真観は、複数生産性とともに、複数メディア性を写真の本質だととらえる立場(それは写真の発明時からあったわけではない)と真っ向からぶつかる。さらに近年のデジタル化された写真の参入はいわば真正なコピーを無限に可能にし、写真とは何かという問題をいっそう複雑にしている。いずれにせよ、両者は写真を表現の歴史の観点からとらえており、表現者、すなわち撮影者あるいは写真家に焦点が絞られている。そこでは写真はあくまでも芸術作品である。こうして、写真史はしばしば写真家の歴史、いわゆる列伝として語られてきた。

さらにそれを踏まえて、写真家たちの集団による運動と表現スタイルの歴史が語られてきた。

すると矛盾が生じる。すなわち、芸術家意識を持たない写真家が撮影した写真までを芸術作品と見なせるだろうか。そうした写真は過去にも現在にも膨大にある。そもそも「写真家」という呼び名が近代的な芸術像を反映したものであり、特殊な技術者として、「画家」が「絵師」であったように「写真師」と呼んだ時代が長く続いた(今なおその痕跡が営業写真家業界には残っている)。

 また、写真家に隣接して「アマチュア写真家」が存在し、今も存在する。20世紀を迎えて顕著になった、カメラの開発に連動した彼らの登場は、写真史にとって大きな出来事であった。さらに撮影者がわからなくなってしまった写真も数多くあり、それらも写真家中心の写真史ではなかなか扱いにくい。

 昨年に完結した岩波書店発行『日本の写真家』シリーズも、編集の段階でこの矛盾とぶつからざるをえなかった。タイトルに「写真家」を掲げつつ、全40巻で日本写真史を明らかにしようとする企画だったからだ。芸術家であることを自覚した最初の写真家として福原信三、路草兄弟を位置付け、1920年代に始まる彼らの活動を第3巻で紹介した。

 したがって、私の担当したそれ以前のおよそ70年にわたる写真の歴史は、たった2巻で概観せざるをえず、にもかかわらずタイトルには個人名を掲げざるをえなかった。

 近代的な写真家像を過去へ過去へと求めたことになる。その結果が、第1巻『上野彦馬と幕末の写真家たち』と第2巻『田本研造と明治の写真家たち』という苦肉の作である。

 上野彦馬はともかく、北海道を活動の場とした田本研造が明治の写真家を代表するはずがないという批判は寄せられて然るべきだが、私なりに田本の巻を記録写真を中心にまとめることにした。北海道の開拓を記録した一連の写真には(開拓使によって発注された公的な記録写真が含まれる)、建設されつつある日本の姿が写し撮られており(図1)、それらは当時の写真の重要な一面を示していると判断したからだ。単に開拓使内部、あるいは政府内部の記録資料にとどまらず、国民の目にふれ、後述するように、さらにはウィーン万国博覧会にまで出品された。

 同じ理由で災害と戦争の写真も積極的にこの巻に収めた。近代においては、災害も戦争ももはや局地的な出来事ではすまない。災害に関しては、交通と通信とマスメディアの発達が、戦争に関しては、それに加えて、徴兵制と教育が、それら出来事を国家的事件、国民的関心事へと仕立て上げたからだ。社会を流通する写真は、印刷技術の発達に支えられて、国民意識をひとつにまとめ上げることに貢献した(図2)。

 一方の上野彦馬の巻は肖像写真を中心にまとめた。幕末に伝来した写真術は、何よりもまず、それが人の姿を瞬時に(とはいえ数十秒を要したが)写し出すことへの驚きとともに迎えら、怖れや抵抗を伴いつつも、日本社会に急速に広がった。今では当たり前になってしまった「撮影」という言葉には、当時の写真体験の記憶が宿っている。

 御影や御真影や遺影と呼ぶごとく、影は人の姿を意味する言葉だったからだ。そして、祭壇から遺影写真が位牌の地位を奪い取った今日にまで至る。肖像写真への注目は幕末期の写真の受容を知るうえで不可欠である。

 さて、写真が伝わる以上、必ず撮影者は存在する。しかし、その人物を写真家ととらえ、その個性に過剰な期待を寄せるべきではない。撮影者のほかにも、撮影の企画者や発注者、撮影を支える技術者(たとえば写真機材の製作者、提供者、印刷業者)、被写体となる人物、写真を目にする、書物ならば読者にあたる人物もまた存在する。

 そして撮影の動機や理由、撮影の環境(屋外か室内か、露光時間の長さ、)、撮影者による演出の度合い、被写体による演技の度合い、発表のメディアなどもさまざまに異なる。

 写真が彼らのそうした関係の中から生まれてきたものであることを、写真家中心の写真史研究は見えにくくする。ところが一方で、「古写真」というレッテルもまた、それらの関係を見えにくくする。歴史研究が画像資料の中の一領域として「古写真」を作り出してきたのは、すでに認知された「古文書」あってのことだろう。しかし、「古写真」を扱う歴史研究は、写真史研究とは対照的に被写体に関心を集中させがちだ。情報不足ゆえに「古写真」と呼ぶという事情を差し引いても、その被写体が誰によってどのような理由で選ばれ、なぜそのような姿で撮影されたか、さらには、どのような形態で流通したか、そして、どのような理由で現在われわれの目にあるのかなどにも十分な注意を払う必要がある。

 この点に注意を払いつつ、以下「古写真の中の日本」について語ろうと思う。

日本で撮られた写真のすべてが日本を表象するわけではない

2002年にアメリカのヒューストン美術館で日本の写真展が開催される予定である。そのタイトルがなかなか決まらない。Japanese Photographyを簡単に定義できないからだ。それは日本人の撮影した写真なのか、日本で撮影された写真なのか、日本を撮影した写真なのか。国別の写真史展としては第1の定義が一見妥当だが、それでは幕末維新期の日本を訪れた外国人写真家の活動が視野から外れてしまう。ペリー来航に始まるそれは紛れもなく日本の写真史上の出来事なのだから、無視できない。第2、第3の定義はこの問題を解決するが、逆に外国に出かけた日本人写真家の活動が外れてしまう。

 ところで、日本で撮影された写真と、日本を撮影した写真とは違う。前者は被写体がどこにあるかという物理的な問題にすぎないが、後者は何を撮影すれば日本を写したことになるのかという問題を避けて通れない。日本の姿は、まずはその外部にいると信じる他者の目に見えるはずだから、開港後の1860年代につぎつぎと来日し開業した外国人写真家によって、日本は写され始めることになる。彼らはそのために来日したともいえる。写真の商品価値を高めるために、日本を写すことが是非とも必要だった。

 肖像写真の購買者は像主とその周辺に限られるが、日本の風景や風俗写真ならば、日本の外部に大きなマーケットが広がっていた。

 横浜で開業したフェリックス・ベアトは新聞広告の中で、自らの商品をつぎのように説明している。

“a handsome collection of Albums of various sizes,containing views &c., of Japan,with description of the Scenes,Manners and Customsof the People”(Japan Weekly Mail、1870年2月12日)

 一方、そのころの日本人写真家はまだ技術習得に精一杯で、すでに述べたように彼らの活動は肖像写真を中心に展開していた。写真で日本をどう見せるかという課題が彼らのものとなるためには、日本を写す必要が、言い換えれば、他者に対して日本を表象する必要が生じなければならない。万国博覧会への参加が弾みとなった。

 1867年のパリ万国博覧会と1873年のウィーン万国博覧会とはわずか6年の隔たりしかないが、日本の関与の仕方は大きく異なる。何よりも両者の間には明治維新が挟まれており、参加主体は前者が徳川幕府であるのに対し(薩摩藩が独自に参加したことはよく知られる)、後者は明治政府である。前者への参加はフランスからの強い参加要請(当時の密接な日仏関係を反映)にもとづくものであったのに対し、後者への参加には日本側に欧米の産業技術の習得と日本物産の売り込みという積極的な動機があった。

 日本における写真事情も、この6年間に激変した。幕末の長崎で学んだ内田九一が1869年に東京に出て大成功を収めたように(翌70年にはその繁昌ぶりが芝居になり、72年と73年には明治天皇の公式肖像写真を撮影する写真家に選ばれた)、文明開化の風潮に乗って、写真家の活動の場が社会の中に確保された。内田は75年に31歳の若さで没するが、すでに風景写真を商品化していた。その多くは東京の文明開化を伝える風景であり、外国人の日本土産であると同時に、国内に向けての東京土産でもあった。

これは、それまでは浮世絵(木版画)による名所絵や名所図会が果たしていた役割を写真も担い始めたことを意味している。すぐに写真が浮世絵に取って代わったわけではなく、両者は少なくとも明治期半ばまでは共存する。やがて、木版画は石版画に代わり、土産用風景写真は写真絵葉書へと代わる。

 再び万国博覧会に戻れば、パリ万国博覧会には、日本の風景と風俗を伝えるものとして浮世絵が出品された。出品物に対してもフランス側からの強い指導があったから、幕府は当時の浮世絵業界に命じて、よく練った体系的な内容の出品で応じている。浮世絵以外にも、輸送可能なほとんどすべての物産が出品されたといっても過言ではない。輸送不可能なはずの建造物については、雛形、すなわち模型が用意された。そのリストは、当時の西洋が日本をどう見ていたかを示しており、40年ほど前に輸送可能なほとんどすべての物産を持ち帰ったシーボルトの博物学的関心に似通っている。

ウィーン万国博覧会には、物産に加わって写真が送られた。その全貌は解明されていないものの、1872年から73年にかけて、全国各府県からたくさんの写真が博覧会事務局に集められ出品されている。東京国立博物館所蔵『澳国博覧会出品目録』によれば、「東京府下買上ノ品」だけで1324枚に上る。内訳はつぎのとおり。「大判写真二百枚、小判写真六百七十六枚、日光写真百十四枚、御巡幸写真九十六枚(内田九一ヨリ買上)、日光写真四枚(同)、スチーフレット写真百九十四枚、写真十六枚(内田九一ヨリ買上)、写真四枚ツヽ六組」。

 これでは、それが何を写した写真であったかがわからないが、ほかに開拓使からは「亀田村新橋二枚」「峠下村本陣図」など「北海道渡島州ノ内各所写真四十八枚」、大阪府からは「大坂三大橋写真図」の「継合五枚一組」二組と「種ガラス五枚箱入」、「住吉神社ソリ橋写真図二枚」、山口県からは「錦帯橋写真五枚」と「原板三枚」、丹波修治氏から「和歌山城写真三枚」が事務局に差出された記録があり、さらに、同じ1872年に実施された関西古社寺宝物調査(いわゆる壬申検査)では、横山松三郎が古社寺の建造物や宝物を数多く撮影し、それらがやはり同万国博覧会に出品された。

 風景写真ばかりでなく、建造物の写真がかなり含まれていたことが想像できる。

 建造物をいわば主人公とする写真がどのように成立するかという問題は興味深い。それは、特別に評価された建造物が背景から前面へと迫り出してくることにほかならない。建造物さえあれば建築写真が成立するわけではない。

 風景写真と建築写真とを分ける特別な評価とは、かならずしも建築学的関心からのみなされない。それが名所であること、聖域であること、モニュメントであることなども、写真撮影の重要な動機となる。ベアトは江戸城や増上寺の建造物を丹念に撮り、内田九一は文明開化を象徴する洋風建築をつぎつぎと(いずれも売れると見越して)撮った。

 江戸の地図では江戸城の内部だけが空白とされてきたように、その姿の再現が政治的に、社会的に困難なものも当然ある。したがって、1860年代から70年代という日本社会の激動期に、被写体がどのように取捨選択されたというだけではなく、撮影可能となったものは何か、撮影不可能となったものは何かを考えることが重要だ。

 建造物を撮影するもうひとつの重要な動機は、施工と竣工の記録である。武林盛一が開拓使の命を受けて1873年に撮影した「開拓使札幌本庁舎上棟式」はその典型例だし、同じ開拓使からウィーン万国博覧会に出品された「新橋」や「新道」の一連の写真も、まさしくその動機で撮影され、開拓の成果を伝える結果をもたらすものであった。

 こうした建築写真は欧米では早くから成立した。最近公開された東京国立博物館所蔵の、内田正雄旧蔵『万国写真帖』全21冊には3867枚の写真を収めるというが、その中には世界各国の建築写真が数多く含まれる。内田は留学先のオランダから1867年に持ち帰り、帰国後に所属した開成所で大きな刺激を与えたことを、所員のひとりだった画家高橋由一が書き残している。また、1876年には、工部美術学校の教師として雇われたイタリア人たちが、たくさんの建築写真を携えて来日し、こちらは東京大学工学部建築学科に所蔵されている。

 さて、建築写真にこだわってみたのは、昨今「古写真」という言葉がもっとも好んで使われるのは、城郭を論じる場合のようだからだ。最近刊行された『古写真で見る失われた城』(世界文化社)もそのひとつで、破却前の多くの城郭の写真が紹介され、分析されている。

 その表紙にも使われている蜷川式胤の『旧江戸城写真帖』は、1871年に横山松三郎によって撮影され、高橋由一によって着色された64枚の写真を収めたアルバムである。

 本年、国の重要文化財に指定された。写真としては、昨年のダゲレオタイプ「島津斉彬像」に次いで2件目の重要文化財である。

 二の丸から本丸に入る中之門を撮った1枚は20人近い人物がいっしょに写っており、紹介されることが多い(図3)。中央の傘をさした人物こそ、撮影の企画者蜷川式胤その人だという説がある。たしかにこの写真は建築写真であるとともに、集合記念写真という性格を持つものだろう。同種のものがもう1枚あり、こちらには15人の人物が写っている。建築写真も集合記念写真も、まだスタイルの定型が確立されていなかった段階であった。逆に、これら2枚の写真以外にもさまざまに人物が配されており、このことの意味はまだ十分に明かされていない。おそらく、被写体たる城郭の分析ばかりでなく、この一連の写真からはもっとさまざまな情報が引き出せるだろう。蜷川式胤が太政官に対し、旧江戸城の写真撮影を願い出たのは明治4年(1871)2月である。それはなぜか。江戸城の荒廃という現状を蜷川が単に憂いただけではなかった。前年春からこの年にかけて、全国の藩知事から太政官宛てに、もはや城郭の修理に金をかけるのは無駄であり、破壊するにまかせてよいかという伺いが相次ぐ、というよりも殺到する。そこには熊本藩や名古屋藩という大藩も含まれていた。この危機感が蜷川をして写真撮影へと駆り立てた。半蔵門の渡櫓を写した写真にのみ、蜷川自ら「渡リ門ヲ取払ニカヽル処」と記したのは、3月7日から撤去工事が始まったからだった。この1枚に関していえば、風景写真でも建築写真でもなく、渡櫓の撤去という出来事を写した写真にほかならない。

 そのころ蜷川が所属した大学は、4月25日になって古器旧物保存方策を献言し、これを受けた太政官は、間髮を入れず、5月23日に古器旧物保存を布告した。「器」と「物」が示すように、そこに建造物は含まれない。しかし、名古屋藩が4月に天守から降ろし、6月に東京に運ばれた金鯱は、タイミングよく「古器旧物」として鋳潰される運命を免れ、翌年の文部省博覧会の目玉となり、さらに翌々年にはウィーンにまで運ばれることになる。

 さらに、蜷川の上司であった町田久成が「名古屋城等保存ノ儀」を建議したのも明治5年のことであった。古器旧物保存の精神に則り、同年に湯島聖堂で活動を始めた文部省の博物館は、最初の列品分類に「築造雛形之部(宮殿、楼閣、堂塔、寺院、門墻、城郭、橋梁、田家、倉庫等雛形又図面ヲ以テ示ス)」を設け、建築模型と図面の収集展示を心掛けている。建築写真にまで言及はないが、おそらく収集はされただろう。それよりも、この時点では、ほとんど地上にあるすべてといってもよい建造物が対等に博物館活動の対象であったことが興味深い。

 それにも関わらず、城郭は日本文化の表象の場から姿を消してゆく。いや、先にふれた関西古社寺宝物調査が博物館開設と同じ年であり、かつ同じ関係者によるものであったように、当時から早くも古社寺が前面に押し出されてくる。やがて、内務省による古社寺の保存、文部省と宮内省による古社寺の宝物調査が本格化し、大量の写真が撮影され、調査済みの宝物の保管公開の場として帝国博物館が機能を始める。その法的制度の結実が、1897年に制定された古社寺保存法にほかならない。

 同法はその名のとおり、古い社寺の建造物と宝物の保存を目的としたもので、城郭を対象としない。「古社寺」の概念は「古写真」よりもはるかに明快で、制定準備の段階で内務省が示した「古社寺調査事項標準」(内務省訓令第3号、1895年4月5日)は、調査対象の第1条件を「文明十八年(1486)以前創立ノ社寺」としている。1900年のパリ万国博覧会では、こうした保護行政に則り、社寺中心の日本文化が紹介された。

 城郭が法の保護下に入るには、1929年の国宝保存法制定を待たねばならない。翌30年に最初の国宝となった城郭が名古屋城である。それからさらに70年が過ぎて、今年、文化財保護法50周年を記念して文化庁が作製したポスターには、姫路城が大きく写し出されている。近代の日本で、城郭ほどその運命を弄ばれたものはないかもしれない。ここでは建築写真を中心に語ってきたが、いうまでもなく、風景写真や風俗写真、さらには肖像写真やブロマイドやポルノ写真に対しても、さまざまに分析が可能だ。

 小笠原諸島の写真は、松崎晋二によって1875年に撮影された(図4)。風景写真であるとともに、小笠原が日本領土であることを示した政治的な写真でもある。松崎の仕事は政府の依頼を受けた公務であった。北海道、千島列島、沖縄など、日本の外縁が撮影されてゆく一環ととらえることができる。

 過剰な演出による日本土産用の風俗写真は長く低俗視されてきたが、日本を表象するために、なぜそれほど過剰な演出が求められたのかを、現代のわれわれはそれをなぜ「過剰」と受け止めてしまうのかということも含めて、考え直さなければならない(図5)。1995年に岩波書店から出した『映画伝来』という本で、風俗写真における家族像を分析したので、併せて参照していただきたい。

 西南戦争で傷付いた兵士古川早太は、大阪の吉村喜三の写真館で、肖像写真に欠かせない小道具を用いて、まるで肖像写真のように撮影された(図6)。しかし、戦場で負った傷口をわざわざ鏡を使って示すそれは、肖像写真とはいえないだろう。軍医学の資料か、軍功の証明か、天皇への報告か、いずれにしても、戦傷を他人に伝えるための写真である。靖国神社に伝わるこの種の写真も、さらなる公開が望まれる。

 さまざまな分析を許すためには、まず情報が、少なくとも写真そのものが開示されていなければいけない。東京国立博物館や宮内庁書陵部の所蔵する「古写真」が相次いで公開されたことは喜ばしいが、すべての写真が対等に公開されるべきだし(そこに序列をつけるのは各分析者でなければならない)、出版にとどまらず、インターネット上での公開が望まれるのはいうまでもない。


『学術フロンティアシンポジウム 画像資料の考古学』 2000 國學院大學画像資料研究会発行

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