地域考古学史研究と写真資料

−岩手県博蔵小田島禄郎コレクションの事例を中心に−
熊谷常正
(盛岡大学文学部)


小田島コレクションについて

 2000年秋に開館二十周年を迎えた岩手県立博物館では、調査研究テーマの一つとして「岩手考古学史の研究」を掲げ、県内での発掘や研究者の業績調査を進めてきた。筆者は、開館当初、学芸員としてこのテーマに関わり、幾人かの県内出身考古学研究者に関して調査していた。なかでも大正から昭和10年代にかけ岩手県を主なフィールドとして史跡指定や郷土史研究に活動した小田島禄郎(1881〜1953)に注目した。

 小田島禄郎が、当時優れた業績をあげていたことは、故伊東信雄博士(東北大学)らによってもすでに指摘されていた。昭和57(1982)年2月筆者らは小田島に関する資料調査のため、出身地の浄法寺町を訪れ小田島の長男・勝朗氏(故人)に面会、多数の遺物が保管されていることを確認した。その後、幾度も小田島家へ足を運び調査にあたったが、膨大な資料であるため、県立博物館で整理を行うこととし、昭和58年(1983)5月一旦全資料を博物館に搬入した。

 これらの資料は小田島家の土蔵に収納されていた。だが、小田島の没後30年近い年月の間に遺物を貼り付けた台紙や箱には痛みの激しいものも少なくなかった。しかし、幸いなことに土器の小破片や剥片に至るまで、遺跡名や調査年月が記入されていたため、出土遺跡の特定は保存状態の割には可能だった。昭和61年7月、縄文土器や骨角器など58点を遺族から購入し、およそ13,800点あまりの資料を寄贈していただき、それらを小田島禄郎コレクションと名付け博物館資料として登録している。資料登録など整理が済み、最終的な資料目録を刊行したのは、平成12年(2000)春で搬入から17年が経過していた。

 このコレクションには、土器や石器などの遺物のほか、書籍類・拓本・書簡・原稿等も有り、岩手の考古学史を調査する上で重要な資料となっている。このなかに157点のガラス乾板が含まれていた。


小田島コレクションのガラス乾板

 この157点のガラス乾板のうち、ガラス板が割れるなど破損しているのは少ないが、上記のような劣悪な環境に置かれていたため、膜面が銀化するなど劣化の甚だしいものが多い。整理は、ホコリ等の汚れをブラシで除去した後、一枚ごとに薄葉紙で包み、ベタ焼きした写真のコピーを添え、チャック付きのポリ袋に収納するという方法をとった。このポリ袋に小田島コレクションの分類記号番号を附した。ガラス板自体には注記等は行っていない。これらを紙箱に収め、ファイルキャビネットに収納している。

 乾板は12.0×16.5cmと8.5×11.0cmの二つのサイズが大半を占めるが、それを前後するサイズもある。最大は15.0×17.5cm、最小は7.0×11.0cmだった。また、被写体を観察すると、ガラス面から見て実像を結ぶタイプと、左右が逆となるタイプの二者があることも判明した。前者は保存状態が比較的良好だが、後者には薬剤塗布面が剥げかかるなど劣化の度合いが進んだものが多い。後者はコロタイプ(湿版)製版に伴う可能性があるとの教示を盛岡在住の写真研究家村田明氏からいただいている。


『岩手考古図集』の刊行

 コロタイプ製版に関わるガラス乾板が含まれていることには理由がある。

 大正14年(1925)6月、小田島はそれまで勤務していた気仙郡広田村尋常小学校(現:陸前高田市)から江刺郡岩谷堂実科女学校(現:江刺市)へ異動する。8月、岩谷堂小学校を会場として岩手県教育会江刺郡部会主催の奥羽史講習会と江刺郡史料展覧会が開催された。講習会では東北帝国大学の喜田貞吉(1871〜1939)と東京帝室博物館の高橋健自(1871〜1929)が講演した。また史料展覧会には縄文時代から近世に至る史料3,577点が展示された。小田島が講師手配や展示資料選択など、中心的な役割を果たしたのは言うまでもない。

 翌大正15年(1926)6月、この展覧会の記念図録『岩手考古図集』が刊行された。小田島の解説文と共に精緻な写真図版70枚がこれに掲載されている。印刷は高橋健自の斡旋により東京の大塚巧藝社が行っている。おそらく吟味して撮影が行われたのだろう。写真は隣町・水沢の写真館が撮影したようだが、白布の上に遺物を並べた写真と骨角器や石製品には黒バックで撮影したものとがあり、一人の業者による撮影ではなさそうである。また、長谷部言人が発掘した陸前高田市門前貝塚の叉状角器のように当時東北帝国大学から借り受け展示した資料や埋葬人骨の出土状態を復元展示した写真などもあり、展覧会の計画段階で出版が構想され、会期中に撮影等を実施したと考えられる。

 図集に掲載された70枚の図版中、現存しないガラス乾板は花巻市熊堂古墳群出土品の勾玉と砥石を撮影した一点のみである。


中谷治宇二郎との交流

 小田島は大正15年(1926)の夏と晩秋に二戸郡金田一村舌崎の遺跡を発掘する。後年、明治大学の発掘で知られる雨滝遺跡(現;二戸市)である。この調査で膨大な縄文晩期の資料を得た。特に遮光器土偶や土器に優品が多い。小田島コレクションには、この雨滝遺跡出土品及びその可能性の高い資料を撮影したガラス乾板が十数点含まれている。他の縄文遺跡出土品の撮影数に比べると多い点数である。当時、小田島がカメラを所持していたか不詳だが、アングルや照明もしっかりしており、おそらく専門業者に撮影を依頼したと推定できる写真である。

 大正末年の雨滝遺跡調査にあたって、小田島は当時東京帝国大学人類学教室の選科生だった中谷治宇二郎(1902〜1936)の示唆も受けている。中谷はその頃注口土器に関する研究を進めており東北地方の晩期遺跡に関心をはらっていた可能性が高い。中谷は昭和4年(1929)考古学研究のため渡仏する。中谷の妻・節は岩手県東和町の出身、彼女は中谷の留学の間、幼いふたりの娘を抱え女学校時代を過ごした盛岡で学生相手の下宿屋を始め、自活する暮らしを送った。

 昭和5年(1930)7月、小田島のもとへパリの中谷から一通の手紙が届いた。フランスの出版社から日本先史美術に関する執筆依頼があったため、雨滝遺跡出土品などの写真を送って欲しいとの内容だった。小田島は、このころ教職を辞し盛岡に転居していた。早速、遮光器土偶や縄文土器など十数枚の写真を撮影する。この写真が中谷に届くのは、その年の暮れ頃らしい。翌年1月、中谷からの礼状が届いている。程なく、もう一通の手紙が小田島へもたらされた。それは、先に送った写真の資料をフランスの博物館が購入したいので、売却してくれないかとの依頼だった。小田島は悩んだらしい。中谷は妻のセツにも手紙を書き、小田島の説得を促した。昭和6年(1931)5月末、縄文土器7点、土偶2点に加え青森県の収集家が集めた石器類などを納めた三つの木箱が、盛岡駅からフランスに向けて送り出された。だがその木箱は中谷にも購入を希望した博物館にも到着しなかった。当然、小田島への代金支払いもなかった。

 おそらく、雨滝遺跡出土品を撮影したガラス乾板は、この一連の経過に関わるものであろう。特に縄文土器写真の大半は白布を敷いた机上に左右に二個体ならべ、低い角度から撮影していることなど共通した構図をとっている。中谷から構図や背景の指示があったのかもしれない。写真に撮影されていながら小田島コレクションの縄文土器類に現存していない土器がいくつかある。これらがパリへ送られた可能性が高い。


柴田常恵の史跡調査

 小田島は若い頃から歴史・郷土史に興味を抱いていたが、本格的に考古学活動を開始するのは岩手郡一方井小学校(現;岩手町)に校長として赴任した大正9年(1920)頃からである。大正12(1923)年7月には当時内務省考査員として史跡指定に関わっていた柴田常恵(1877〜1954)を案内、一方井地内の古代遺跡を調査している。8月に小田島は岩手県史跡名勝天然記念物調査会委員に任命されている。また9月には、京都大学・梅原末治の一方井浮島古墳調査に協力している。しかし、その後小学校で教員との間に生じた事件のため、翌年4月気仙郡広田村の小学校へ異動を命じられた。

 しかし、古くから縄文貝塚の集中地域として知られていた気仙郡は、小田島にとってむしろ興味あるフィールドだったに違いない。彼は岩手郡時代より積極的な活動を展開する。大正13年(1924)8月、柴田常恵の気仙郡と宮古地方の史跡踏査に際しては、対象遺跡の選考や管内関係資料見学の手配など、柴田の旅程は小田島が計画したらしい。この踏査のあらましは、小田島の「気仙の史跡踏査」や当時岩手師範学校教諭で小田島と同じ史跡調査会委員であった鳥羽源蔵(1872〜1946)の「史前の日本を偲ぶ貝塚の遺物」など、地元紙への寄稿記事によって窺える。

 この柴田の踏査によって、翌年、気仙郡内の中沢浜(現;陸前高田市)・蛸の浦・下船渡・関谷洞穴(現;大船渡市)の三貝塚一洞穴が仮指定され、昭和9年(1934)にはこの三貝塚が国史跡の指定を受けている。

 さて、柴田はこの出張の折り、購入したばかりの写真機を持参した。また、花巻から遠野まで軽便鉄道を、遠野から峠を越えて気仙郡へは自動車を利用している。最初の調査地気仙郡上有住(現;住田町)では、松本彦七郎らが発掘した蛇王(蔵王)洞穴やその付近にあるという磨崖仏を巡り、小学校で遺物類を見学した。その中に特異な形をした石器があった。小田島執筆の寄稿記事には、(小学校に到着した柴田は)「緑泥片岩製の鋒形石器に目を止めた。一尺七寸の大石器を手にして、どうも接触が疑われる、と首をひねる。何しろ研究物だと繰り返して見て居られた」とある。鋒形石器には「ほうけいせっき」とルビがが振られているが、柴田は鋒の字に「ほこ」のイメージを与えていたのだろう。

 ところで國學院大學では、大場磐雄博士等の尽力により柴田の没後、彼のフィールドノートや写真類を購入し、考古学研究室に保存している。その柴田のノートの中に、おそらくこの時、この石器と思われるスケッチがあり、また資料写真も残っていた。

スケッチに添えられたメモには「陸前気仙郡上有住村字二度成木沢ヨリ出土」「寄贈者上有住村紺野重兵衛・熊谷重内」と記され、寸法を表す数字も書き込まれている。小田島の記事では長さ一尺七寸とするが柴田のメモには「10.6」という数字があり、そのほかの数値記載の状況からして、小田島の単位が誤りで一尺七分が正しい数値と思われる。柴田メモの数値を信じて10.6寸とすると、全長32.1cmになる。

 写真やスケッチから見る限り、全体の形態は杓文字で先端部に磨製石斧に似た半楕円状の刃部作り出され、その下にその二倍ほどの長さで扁平な柄部が付いている。柄部側縁には剥離痕跡があるが、刃部は両刃に磨き出されているらしい。

 柴田が注目したように、このような形態の石器は類例がほとんど知られていなかった。昭和62年(1987)、秋田県大館市上ノ山T遺跡で縄文時代前期円筒下層式の住居が密集した地点から、基部が重なり埋納されたような状況で発見された。柴田・小田島らの注目から60年あまり後の発掘調査による出土だった。類例が同県鹿角市八幡平字永田瀬根から出土していたことも判明した。

 上ノ山T遺跡や八幡平例は縄文前期に属すると考えられており、とりわけ上ノ山T遺跡は、多くの住居跡や貯蔵穴が検出されている拠点的な大規模集落と見なされている。一方、住田町上有住二度成木沢周辺は、気仙川上流の狭い沢に面した崖錐起源の小規模な台地があるだけで、遺跡も後晩期はあるものの確実な前期集落と把握できるようなところは確認されていない。鋒形石器の石材は緑泥片岩というより緑色凝灰岩と思われる。この石材は、奥羽山脈西側で縄文前期の石器・石製品に用いられることが多く、秋田県北部で二点の出土を評価するなら、搬入品の可能性が高い資料といえよう。


地域考古学史研究と写真資料

 小田島コレクションには遺跡や調査風景の写真は少ない。発掘風景を撮影したのは、昭和6年(1931)文部省の服部勝吉が発掘した平泉毛越寺境内の円隆寺基壇周辺調査状況など僅かである。従って、これらの写真、特に遺物写真は、全てとは言えないものの出版などの目的があって撮影された可能性が高い。しかし、小田島コレクションでは写真撮影の理由が推定できるのは上記のような「出来事」が判明している場合に限られるようだ。現在とは異なり、写真が特別であった時代の写真資料は、その点で文章による調査記録や記憶と同様に、またそれ以上に雄弁な情報を秘めているにに違いない。

 従来、写真は博物館学的にも「二次資料」として扱われ、美術的・技術的な分析以外では被写体の特定に関心が集中してきた。小田島コレクションの写真資料の撮影理由検証を通じて、写真原版そのものが地域考古学史研究の上では重要な資料となる可能性を持っていると考えさせられた。

【参考文献】

小田島禄郎 1926 『岩手考古図集』 岩手県教育会江刺郡部会
大場 磐雄 1971 『日本考古学選集12 柴田常恵集』 築地書館
大野 憲司 1991 「大館市上ノ山T遺跡出土の鋒形石器について」『秋田県埋文センター研究紀要』6
岩手県立博物館 2000 『岩手県立博物館収蔵資料目録16 考古X(小田島コレクションその4)』岩手県立博物館

『学術フロンティアシンポジウム 画像資料の考古学』 2000 國學院大學画像資料研究会発行

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