奈良・法隆寺金堂壁画は、昭和24年に火災に遭ってその姿を大きく損ねたが、焼失前の写真があって、美術史研究に活用されている。滋賀・石山寺観音菩薩像は、戦前の盗難の際に頭部を失って現在は体部のみ残すが、明治20年代に小川一真が撮影した頭部のある写真が残っている。もしその写真がなければ、この像が奈良時代の製作であるということを容易には頷けない。また、奈良・新薬師寺の銅造如来立像(香薬師)は3回の盗難に遭っている。1回目には手首が切断されたが、さいわいに本体とともに寺にもどった。2回目には足が失われ、昭和18年の3回目の盗難後は所在が不明で、いまは写真や複製でしかその姿をしのぶことはできない。
この稿では、文化財を撮影した写真のうち、彫刻を被写体としたものを中心にいくつかの問題について述べていきたい。
彫刻史研究において、古い時代に撮影された写真が貴重であるのは、前述のような破損、盗難前の姿を伝える場合だけではない。彫刻作品は、破損を修復するため、あるいは現状を維持するために、しばしば修理が施される。修理が解体に及べば、像の構造が明らかになり、像内から銘記や納入品が発見されることもある。修理後、別に保存される納入品を除いて、それらは見ることができなくなるのが普通であるので、修理中の写真は貴重な資料となる。
仏像修理時の写真撮影は、明治時代から行われており、主なものに奈良国立博物館仏教美術研究センターが保管している、日本美術院第二部(奈良美術院)の写真原板3827枚がある。それらは修理記録とともに、『日本美術院彫刻等修理記録』T−Z(註1)として刊行されているが、奈良と京都の一部の寺院所蔵の仏像にとどまるのは惜しまれる。
東京国立博物館では、日本美術院第二部で彫刻の修理に携わった明珍恒男氏が撮影したガラス乾板1502枚を昭和23年に購入、保管している。その全容は、『明珍恒男撮影写真の美術史的研究』(註2)で公になっている。この研究によって、それまで一部の研究者にしか知られていなかった、法隆寺食堂塑像などの修理写真がひろく知られるようになった。
近年では、昭和40−45年と平成6年度以降に行われた重要文化財の修理写真が、『指定文化財修理報告書 美術工芸品篇』)(註3)に掲載されている。ただし、多くの像は修理前と修理後の全身正面写真しか掲載されていない。この他、各地の自治体で行った修理の詳細な報告書もみられるようになってきたが、それらにも修理写真が掲載されている。
なお、焼失した文化財については、『戦災等による焼失文化財 美術工芸篇』(註4)に文化財の概要などとともに写真が掲載されており、貴重な資料となっている。また、『重要文化財』全33巻(註5)にも「焼失により解除した文化財」の項目があり、焼失して現存しない文化財の写真をみることができる。文化庁には、この他にも指定や修理時の膨大な量の写真が蓄積されているはずであり、その公開が望まれる。
名品主義
いま挙げた写真は、指定や修理に関わるものであるが、仏像はその他にもさまざまな機会に撮影されている。指定なども含めて、戦前のものをいくつか挙げれば、次のようなものがある。
臨時全国宝物調査
国華
真美大観
美術聚英
東洋美術大観
帝国美術略史
特別保護建造物及国宝帖
六大寺大鏡
日本国宝全集
このように量的にはかなり充実しているが、それらをみていくと、同じ被写体が繰り返し撮影されていることに気づく。いま挙げたものは、当時としては貴重な資料であったはずだが、いまとなってはいささか食傷気味である。また、それらの大部分は正面写真であるということも、研究資料の蓄積という点からは満足できるものではない。戦前刊行の図書では、側面写真を掲載するものはあったが、近年の美術全集では『奈良六大寺大観』(註6)やその型を継承したもの以外では、正面あるいは斜側面などから撮影した鑑賞用写真ばかりである。同じ仏像が繰り返し撮影され、しかも正面写真が多いのは、いうまでもなく、一般の愛好家を対象に出版されいるからではあるが、美術史研究者は、そろそろ和辻哲郎の『大和古寺巡礼』などで語られるものとはちがった像の魅力やみかたを伝える方法を、真剣に考える必要があるのではないだろうか。ただし、各地で開かれる展覧会の図録などでは、側面や背面の写真を掲載するものも見られるようになってきたことも記しておきたい。
さて、多くの美術書とは対照的に、正面写真のみではあるが国指定の重要文化財を網羅する『重要文化財』(註7)は研究上貴重な資料である。この本は、それまで一部の研究者しか見ることができなかった、文化財保護委員会(現文化庁)の写真を一般に公開したもので、その意義は大きい。この本について、西川杏太郎氏は、「一つの作品を形式の上から、あるいは様式的に、他の類作と比較検討する際、あきらかに本書を辞書のように駆使していると思われる論文が目立ち始めている」(註8)と述べている。彫刻史の論文には、「管見にふれる限りそのような作例はない」といった記述がしばしばみられるが、その「管見」はこの本を通覧しての知見であることが多いと思われる。例えば私は、東京国立博物館保管の天王立像に関する考察(註9)のなかで、その像の着衣形式が天王像としては特異であるということを指摘したが、特異であるとした根拠は、おもにこの本に同形式の像が見当たらないことである。この本は、一部の大家にしか用いることができなかった「管見」という語の使用を、多くの研究者に可能にした。
文化財のうちで彫刻史が対象とする仏像については、近年、近世以前製作の全像を対象とする悉皆調査が市町村単位ですすんでいる。彫刻の調査が主であるのは、各寺院には必ずといっていいほど江戸時代以前の仏像が伝わっていること、多くの市町村に、平安あるいは鎌倉時代に遡る像が存することが理由であると思う。おそらく一般の人には信じられないほど多くの古い仏像が各地に残っているのは、絹や紙という脆弱な素材である絵画や、常々移動し信仰の対象ではない工芸品とは異なり、比較的堅牢な木という材質でできていること、また、信仰の対象であるために通常移動することがなく、仮に火災などがあった場合には第一に運び出されるという性格による。
さて、その悉皆調査の結果は報告書にまとめられる。以前は、一部の重要作品のみ写真を掲載する報告書が多かったが、近年はたとえ小さくても全ての作品の写真を掲載するものがほどんどである。これまでに市町村史の編纂にあわせて行われた調査では、彫刻史研究者が携わることは少なかったが、近年の悉皆調査は彫刻史研究者がおこなうため、簡単ではあるが像の形状、構造が記述され、銘文も全文が掲載されるなど、資料としての信頼度は高い。それでも製作年代の判定にはしばしば疑問のある場合があるが、全作品の写真掲載することによって、調査者以外の研究者も自らの判断できるようになった。
検索方法
いま述べたように、現在は多くの悉皆調査報告書が刊行されているが、それらの報告書は発行部数が少なかったり、市販されないこともあり、研究者であっても刊行されたもの全てを見ることは困難である。このことは、各地の博物館で文化財を展示する展覧会のカタログについても同様である。
文化庁では、「国民が自宅等の端末から、知りたい文化財や美術作品がどこにあるかを知り、インターネットを通じて所蔵館から情報を引き出せることを目指し」、共通索引システムの構築を進めている(註10)。現在のところ、公開する情報は美術館・博物館の収蔵品に限られるが、将来は悉皆調査報告書の内容を公開することもできるようになると思われる。報告書作成時にデジタル化したデータは、文字・画像とも保存しておけば、その時に、時間的、金銭的負担がすくなくてすむはずである。
さて、今後は多くの写真がデジタル化のうえ公開されることが予想されるが、その中から必要な情報を取り出すための検索方法について考える必要がある。というのは、これまでの検索では、必要な情報を、その情報がありそうなデータベースで検索するというものであったが、今後は検索したい対象が特になく、つらつらみるという用いられ方も考えられる。一方、データベースは、本のように固定化されたものではないため、一見、関係ないと思われるところに情報が追加こともあり得、検索しなければならない対象は増える。
分類された写真カードであれば、検索の条件が漠然としたものであっても、自分の必要そうな情報が含まれるところ、あるいは含まれないところが目算ができるが、デジタルデータの場合はそれができない。デジタルデータでは、入力された文字を用いて検索しなければならないので、有用なデータに行きつくための負担を軽減するためには、さまざまな情報を入力する必要がある。これまでのデータベースは、必要な情報が決まっているという想定の上で構築されることが多かったので、作品を正確に表わす情報のみを入力してきたが、今後は、一つの項目に反する情報が2つ以上入力されることになっても、関連すると思われる情報は入力する必要があるのではないだろうか。単純な例を挙げれば、作者不明の作品に、作者である可能性のあると思われる人物がいれば入力し、可能性のある人物が二人以上いれば、すべて入力してもかまわない。ただし、確実なデータを入力する項目とは別にする必要があろう。
また、悉皆調査のような新出の資料が含まれている場合、存在する全ての写真に目をとおす必要がある。印刷物であれば、時間的にも心理的にもそれほどの負担がなくページをめくることができるが、デジタルデータで全ての画像に目をとおすのは、並大抵の意志では試みることすらできない。調査報告書は、調査した作品全ての写真を小さな図版で掲載し、重要作品のみ巻頭カラーで紹介するものが多いが、コンピュータの検索でも、この作品は重要である、といった調査者の主観的なデータをも入力しておかないと、重要であるはずのデータが使われないままになってしまう可能性がある。
東京国立博物館資料館
近年は情報公開手段として、自宅でも利用することができるインターネットが注目されているが、が勤務する情報公開施設である私東京国立博物館資料館についてもふれておきたいと思う。まず、少し長くなるが、設立の趣旨を東京国立博物館内の資料から引用する。
「東京国立博物館は、創立以来既に百余年を経過し、その間に86,000余件にのぼる所蔵品の収集・保管に努めるとともに、国立の中央博物館として内外から注目される数々の展観を行ってきた。しかし各種の調査研究資料を集積し、内外の研究者に対して利用の便を図るという博物館のもう一面の重要な機能に関しては、従来、組織運営上必ずしも十分な対応がなされていなかった。一方、近年各種学術情報の公開を望む声は急速に高まりつつある。このような状況の下で、美術に関しても、関係学会等から写真・記録・図書等各種調査研究資料を集積して、研究者の共同利用に供する美術史資料センターの設置が要望され」(註11)、資料館は1984年に設立された。
同様の国立機関としては、1977年に東京国立文化財研究所情報資料部、1980年に奈良国立博物館仏教美術研究センター、1981年に京都国立博物館京都文化資料研究センターが設立されている。この中で、京都文化資料研究センターは一般に公開していないが、東京国立文化財研究所は週に3日、仏教美術研究センターは週に2日、資料館は土・日曜日と祝日などを除き公開している。東京国立文化財研究所は利用者に資格制限があるが、仏教美術研究センターと資料館にはない。
資料館で公開している資料は、写真資料が白黒写真約20万枚、カラー写真約6万枚、マイクロフィルム約3千巻、図書が一般図書約9万冊、国内埋蔵文化財発掘調査報告書約2万冊、国内展覧会カタログ約1万5千冊、この他に古文献資料として和書約1万4千件7万冊、拓本や地図など約3千件がある。資料は毎年おおよそ、白黒4500枚、カラー3000枚、マイクロフィルム100巻、一般図書3000冊、発掘調査報告書2000冊、カタログ1500冊ふえている。写真資料は開架で自由に閲覧ができ、パソコン検索も可能である。図書資料は大部分が閉架であるが、図書カードとパソコンで検索ができる。古文献資料は拓本、地図などは予約を要するなどの制限があるが、他は目録などで検索して閲覧ができる。なお、資料館の設立には美術史資料センターという目的があったが、歴史学・考古関係の写真、図書も充実している。
さて、私は過去に何度か、東京国立博物館は写真の作成を依頼するのすら難かしいという話を聞いたことがある。この風評には、それなりの経緯があるものと思われるが、少なくとも現在は、資料館で手続きをとれば、研究目的の場合、実費で写真入手できる。それにもかかわらず、資料館の利用者の多くは出版関係者であって、美術史研究者の利用は少ないのが現状である。それには、周知度の低さもあると思うが、私の学生時代の経験からすれば、国立博物館所蔵品以外の写真の入手には、前もって所蔵者の許可を要するということにもあると思う。資料館の写真資料はかなり充実したものであるので、その煩わしささえなければ、もっと活用されるはずである。
掲載権
国立博物館所蔵品以外の写真を入手する場合、所蔵者の許可を要するというのは、所蔵者の権利を守ることが目的である。千野香織氏(註12)は、この権利(便宜的に掲載権とよんでいる)の問題を取り上げ、それは法的に認められていない、日本での慣行であることを指摘して、この問題についての議論を促している。
その後、特に議論があった様子はないが、デジタルアーカイブ推進協議会は、文化財の所有者に写真の二次使用の許諾権利がないことを確認した上で、文化財の所有者との信頼関係を築きながらデジタルアーカイブを構築・運営していくために、公開には文化財の所有者に確認を求めるなどの配慮が必要であろう、という見解を示している(註13)。
この見解は美術史研究者にとって最良とは思えないが、所蔵者とアーカイブ運営者が事前に利用についての取り決めをしておき、利用者が所蔵者に直接許可を得る必要がなくなれば、利用者の時間的、心理的な負担は軽減されると思う。ただし、取り決めの中には利用料金についても含まれるはずであり、必要以上に画像利用の有料化をすすめる結果になるかもしれない。
おもうこと
文化財行政に携わる者にとってはいささか刺激的であるが、業務でおこなう写真撮影には税金が使われているのであり、もっと公開されるべきである、という言葉を聞くことがある。もっとも、博物館などでは、展覧会を開いても写真撮影をする時間はないし、する場合にも勤務時間外に自費でおこなう、ということもあるようである。また、撮影した写真を整理する時間、それを公開して利用の要望に応える時間が、文化財行政に携わる者に確保されていないのも現実である。
現在、東京国立博物館は、独立行政法人への移行にともなって改組を進めているが、展覧会事業の充実、一般の観覧者へのサービスの向上から、資料部を縮小改組することが決定している。一般論としていえば、少数の研究者よりも、多数の一般観覧者が優先されるということになるのであろうが、研究者にとってはサービスの低下は必然である。関係者としては無責任ないい方ではあるが、資料を多く持っている人にツテのない研究者や学生が、いま以上に資料の入手が困難にならないことを祈っている。
先に、国立博物館などの資料公開施設の設立について触れたが、それらはみな1970年後半から80年前後のことである。それらの少し前には『重要文化財』、そして、文化財保護委員会の『戦災等による焼失文化財 美術工芸品篇』などが刊行されている。文化財に関する資料の公開のエポックであったのだろうか。少なくとも資料館の役割が、「博物館のもう一面の重要な機能」と認識されていた。いまは、個々の研究者自らが資料の公開を考え、そのための努力が必要なときなのであろうか。
写真の利用について述べてきたが、次に写真あるいはデジタル画像の作成についてふれたい。
彫刻史研究の基礎作業は、作品の調査にあることはいうまでもない。彫刻史研者は、学生時代に先輩に連れられて調査にいき、仏像の写真撮影に立ち会う。仏像の写真撮影について詳しく書かれた本はなく、そのような機会に、フレーミング、アングル、ピントあわせ、光のあて方を学んでいく。その際、どの程度教えてもらい、任されるかは、本人あるいは先輩の性格による。撮影に向いていないようであれば任されないし、先輩の中に手慣れた人がいて、他人には任せられないと考えれば、本人は興味があっても撮影をすることはできない。したがって、調査の際に、1カットの撮影もしたことがない人もいるかもしれない。しかし、調査時といわないまでも、ストロボを用いての撮影程度なら、全ての彫刻史研究者が経験しているはずである。
東京国立博物館には彫刻史の研究者が数人いるが、写真撮影に特に興味のある人はいないので、最も若輩の私が撮影をすることが多い。とはいえ、十分な時間がないこともあって、私の担当はカメラに関わる仕事で、ライティングは他の人に任せている。素人の集まりであるので、ときに相談をしながらすすめるが、次の撮影についての記述は、そのような経験によっている。
まず、彫刻の撮影の基本的なアングルであるが、それには次の14カットが挙げられる。
全像(台座・光背を含む)
全身正面
左斜側面
左側面
右斜側面
右側面
背面
頭部正面
左斜側面
左側面
右斜側面
右側面
像底
脚部見込み(坐像のみ)
このうち、全体正面は、台座と光背が後補である場合は不要かもしれないが、印刷物に用いるときには必要となることがある。脚部見込みは、これまであまり撮影されることはなかったが、像全体の表面積に占める割合の大きさからいって必要と思うし、ときに独特な表現がみられることがある(註14)。
これらのアングル全てを撮影するのは、時間的に困難なことが多いので省略することがあるが、後で比較に用いるときのことを考えると、省略するアングルは決めておいた方がいいようである。私はカットを減らす場合には、全身は正面、左斜側面、右側面、背面、そして頭部は正面、左側面、右斜側面を撮影するようにしている。ただし像によっては、どうしても逆の方がいいこともある。
美術史研究において写真は、論文執筆の際の資料となり、また、論文の挿図として論者の意図を、文字以上に説得力をもって読者に伝えることができる。比較のため二枚以上の写真を並べることがあるが、写した角度が、少し違うだけで論者の意図が伝わりにくいことがある。いま、おおまかに正面、斜側面、側面、背面と挙げたが、それぞれいますこし厳密に考えておく必要がある。
まず気をつけなければならないのは、カメラの高さである。私は、全身正面では胸の下端の高さと思っているが、撮影中しばしば、いま少し低くすべきであるという意見がでる。しかし、あまり低すぎると頭部が奥に反った写真になるので注意が必要である。全身写真では、台座上面の見え方を目安にしている人がいる。カメラの高さが同じであっても、レンズの焦点距離によってその見え方が違ってはくるが、統一のための一つの目安にはなると思う。
次に斜側面のときの、斜めの度合いの問題がある。二枚の写真を比較したときに、最も不統一が気になるのが斜側面である。顔が平らな像と奥行きのある像では、正面に対する角度が異なるが、私は、目尻が切れずにぎりぎり入るぐらいと考えている。
側面の場合、全身写真では正面の輪郭を表わそうとするか、像の立ち方を表わそうとするかで異なろうが、通常は真横よりも後ろにレンズがあることはないはずである。頭部写真では、正面の輪郭の特徴を表現するために、真横よりも若干正面寄りから撮った方がいいのではないかと思う。
ガラス乾板の整理・公開
文化財の旧状を伝える写真は、原板が現在のフィルムではなくガラス乾板であることがある。乾板は、ガラスに乳剤を塗ったものであるので、取り扱いが困難である。そのため、多くは活用されずにいるはずであり、その活用の問題は、本シンポジウム『画像資料の考古学』のテーマの一つである。
東京国立博物館は、先述のフィルムとは別に約10万枚と見積もられるガラス乾板を保管している。それらは資料館建設後、専用の収蔵庫に保管されているが、整理状況は決してよいものではなかった。平成8年度より文部省の科学研究補助金(研究成果公開促進費)(註15)を受けて整理・公開をすすめている。私も、その作業に携わっているので、それについて述べたい。
作業は、乾板を撮影された機会(掲載出版物や撮影年度)ごとにまとめることからはじめる。乾板にはすでに撮影機会ごとの分類記号を含む番号が付与されている。データベース化に際しては、一旦古い分類番号で整理した上で、新たな通し番号を付与することにした。したがって整理を完全に終了させておかないと、これに則さない番号をつけなければならない乾板がでてくる。デジタルの世界では、データに分類記号と番号が入力されてさえいれば、その順番に並べることも、まとめて取り出すこともできるが、乾板というモノのことを考えると、整然としていることが望ましい。乾板は撮影機会ごとにおおよそまとまっているが、なかにはまったく別のところにある場合もある。したがって、本来は全ての整理が終わってからでなければ、新番号の付与はできないはずであるが、さいわい、資料部設立の頃に国華社から寄贈された乾板約4500枚がまとまっていたので、それからデータベース化をはじめた。ついで、四ツ切乾板にしぼって整理をおこない、撮影機会が判明する分については整理が終わっている。整理した乾板のうち、撮影時に記された被写体のデータが残っているものは、データ表に書き写す。撮影時のデータがあるものも、現在の研究段階では不十分であるので、最新のデータを調査しデータ表に記入するが、判明する割合はあまり高くない。現在その作品の存在が知られていないため、乾板の画像をもとにデータを記入するものも多い。
一部の乾板については、それと同じ大きさのフィルムで密着複製フィルムを作成し、それを原稿にデジタル入力する。乾板を原稿にデジタル入力する方法もあるが、前記の方法では、乾板と同サイズのフィルムができ、デジタルにはない安心感がある。ちなみに、この段階のフィルムはポジ状であるが、さらに密着複製あるいは小さいサイズのフィルムで複写することで、ネガフィルムができ、それからプリント作成も可能である。
この方法では、複製フィルム作成に費用がかかるので、それとは別に35mmフィルムでガラス乾板を複写し、それを原稿にコダック社のPhoto CDでの入力も行っている。通常の白黒の35mmフィルムは、ベースに青みがあるため、デジタル入力すると、白い部分が白く表現されず、入力後の処理が必要になるのでデジタル化の原稿には適さない。そこで、ベースが透明であるフジフィルム製のミニコピーを用いている。ミニコピーは文書の複写用でグラデーションが表現されないフィルムであるが、デジタル画像の原稿としては問題はない。
次に、フォトCDの画像をJPEGに変換する。それにはJASC社のPAINT SHOP PROの、同じフォルダ内にある画像形式を一括して別形式に変換する機能を用いている。ただし、フォトCDの画像はカラーモードであるので、カラー情報を破棄するために、一旦、ポータブル・グレイマップ(PGM)に変換する。
この方法では乾板の複写に手間はかかるが、初めて一眼レフカメラを使った人でも、6時間に四ツ切乾板約100枚できる。人件費を除く費用は、値引きがなくとも一枚あたり約290円であるので、限られた予算で大量の乾板のデータベース化を行うのに適した方法である。なお、以上の二つの方法で作成したデータベースは東京国立博物館のホームページ(http://www.tnm.go.jp/)中の「情報検索サービス」(http://www.tnm.go.jp/doc/Srch/s00.html(このURLは変更する可能性がある)で公開している。
9世紀始め、空海によって開かれた高野山には、多くの文化財が伝わる。同じ頃、最澄によって開かれた延暦寺に、それほど多くの文化財が伝わらないのとは対照的である。おそらく、後者が信長の焼き討ちといった戦火に晒されたのに対し、前者はそれがなかったためであろう。
しかし、文化財が失われるのは、戦火という大きな災い、あるいは歴史的な出来事だけではないことはすでに述べた。高野山では、昭和初年に金堂が焼失し、そこに安置されていた諸仏も灰となった。さいわい諸仏の写真が残されており、それを用いた研究がいくつかあるが、その中で語られる言葉を読むと、貴重な写真もいささか頼りなく思えてくる。
例えば、金森遵氏(註16)は、実見していない金堂諸仏について論じることを、「『机上の空論』を玩ばんとするものとの謗りを或いは受くべきものであらうが」と、西川杏太郎氏(註17)は「写真を観察するだけで云々することは危険であるが」と、また、水野敬三郎氏は(註18)、「これらは現存せず、残された写真を頼りにする他なく、隔靴掻痒の感をまぬがれぬのはいたしかたない」と述べている。研究者のこれらの言葉を、そのまま鵜呑みにする必要はないと思うが、美術史において写真はどこまで用いることが許されるのだろうか。
いま述べた例は、既に失われた像であるが、普通、研究で用いるのは、近年撮影された写真である。私は、京都・教王護国寺(東寺)の講堂に安置される諸像についての小論(註19)を発表したことがある。それは、講堂諸像間の作風の違いを指摘し、一部の像が図像を意識して造られていると主張するものである。
さいわい、講堂諸像は日本彫刻史上の重要作品であるので、詳細な調書と多くの写真を収録した『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代重要作品篇1』(註20)が刊行されている。日本彫刻史研究の資料としては最も充実したものである。そこで私は、そこに掲載される写真を用いて考察を行い、論文には比較のために複写写真を多く掲載した。これについて藤岡穣氏は「各像の実査が困難な状況とはいえ、その観察を写真に頼ったきらいがあ」る(註21)、と批評されている。
東寺は真言宗の総本山で、講堂には絶えず多くの見学者が訪れており、私は諸像の調査は現実的とは考えなかった。しかし、論文執筆では写真が重要な役割を果たしたという認識があったので、問題を形式に関わる範囲にとどめ、写真からでは十分に汲み取ることができない印象からくる問題、例えば図像と講堂諸像との雰囲気の共通性についてはあえて触れなかった。また、ふれる場合も、通常の見学で確認できる範囲にとどめた。
研究者によって、写真に対する考えはさまざまであろうから、私の取った方法が認められるかといった、個別の問題を論じても結論をうるのは難しいと思う。しかし、美術史ではいや応無しに写真を使わなければならないのであるから、その利用の方法や可能性について、さらに深く考える機会があってもいいのではないだろうか。
註1 奈良国立文化財研究所編 1975−80年。
註2 平成7・8年度科学研究補助金報告書(研究代表者 山本勉) 1997年。なお、報告書刊行後、新たに数枚のガラス乾板がみつかっている。
註3 文化庁編 1972−82年、および1996年以降毎年刊行。
註4 文化財保護委員会編 1964年。
註5 文化庁監修 1972年−1982年 毎日新聞社。
註6 1968−73年 岩波書店。
註7 前掲註 5。改訂版である『国宝・重要文化財大全』全12巻(文化庁監修 1997年−2000年 毎日新聞社)。)も刊行された。
註8 西川杏太郎「調書作成要綱」(『重要文化財』5付録 1974年)。
註9 丸山士郎「東京国立博物館保管天王立像と兜跋毘沙門天」(『MUSEUM』561 1999年)。
註10 文化財情報システムフォーラムのホームページ(http://www.tnm.go.jp/bnca/)中の「『文化財情報システムフォーラム』の設立について」。
註11 「資料部設立の趣旨」(『東京国立博物館資料部整備計画(説明資料)』1982年 東京国立博物館)。
註12 千野香織「東京国立博物館の日々」(『美を思う女性群像―わたしの美術館―』1990年 大日本絵画)。
註13 デジタルアーカイブ推進協議会のホームページ(http://www.jdaa.gr.jp/)中の「デジタルアーカイブ権利問題ガイドライン(案)」(http://www.jdaa.gr.jp/public/pb1-01_main.htm)。
註14 丸山士郎「東寺講堂諸像と承和前期の作風」(『MUSEUM』532 1995年)。
註15 データベースの名称「貴重原板の文化財画像情報システム」(研究代表者 佐々木利和)。
註16 金森遵「高野山金堂の仏像に就て」(『考古学雑誌』29−6 1939年)。
註17 西川杏太郎「高野山旧金堂諸仏関係資料」(『仏教芸術』57 1965年)。
註18 水野敬三郎「禅定寺の彫刻とその周辺」(『MUSEUM』171 1965年)。
註19 前掲註14。
註20 丸尾彰三郎ほか編 1973年 中央公論美術出版。
註21 「1995年の歴史学界―回顧と展望―」(『史学雑誌』105−5 1996年)。
『学術フロンティアシンポジウム 画像資料の考古学』 2000 國學院大學画像資料研究会発行
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