大場磐雄と平出遺跡

−写真資料を中心として−

関根信夫
(國學院大學学術フロンティア事業実行委員会)


1.はじめに

國學院大學学術フロンティア事業実行委員会において現在画像データベース化を行なっている写真資料には、考古学者大場磐雄博士が大正14(1926)年から昭和33(1957)年までの31年間にわたって撮影した4,277点に及ぶ写真資料があり、ここには考古学史に残る遺跡や遺跡調査の記録、社寺・神宝・習俗、さらには大場をとりまく多くの人々までもが撮影されている。

 大場磐雄は明治32(1899)年9月3日に東京で生まれ、昭和50(1975)年6月7日に77歳で死亡したが、実際に写真撮影を行ったのは大場が28歳から60歳、すなわち、横浜第二中学校教諭を辞し、内務省嘱託として神社局考証課に勤務した翌年から、日本考古学における一大領域として『神道考古学』を確立し、國學院大学文学部教授として還暦を迎えるまでの間であった事がこれまでの調査から確認された。また、これらの写真資料の多くは、大場の同時代における写真技術を反映して、暗箱カメラによって撮影されたガラス乾板であった。

 さて、大場はみずからの研究のあり方を「文献史学・民俗学・考古学三位一体の古代研究の学」と自負していたという(佐野1975)、現存する写真資料はその言を裏付けるにふさわしい内容をもっている。すなわちそこに撮影された内容は、考古学史に残る著名な遺跡や遺跡調査の記録、全国各地の社寺・伊勢神宮などの神宝・習俗、さらには大場をとりまく多くの人々までもが記録されており、大場磐雄の研究の足跡をたどるうえで格好の資料となるのみならず、すでに失われてしまった対象を検証する上でも貴重な記録である。

 大場自身の調査記録は、日記である『楽石雑筆』や没後にまとめられた『略年譜』によってうかがえるが、それぞれの調査において大場が撮影したガラス乾板は平均して10〜30点である。この中で、とりわけ遺跡調査に関する資料のうち、376点という最もまとまった枚数があるのが、戦後日本考古学における古代集落の本格的調査の一つとなった平出遺跡(ひらいでいせき)関連の資料である。これは資料総数の1割弱もの量であり、平出遺跡に継いで遺跡調査関連で資料数が多い登呂遺跡関連資料でも50点に過ぎない事を考えても突出している。

 本論では大場磐雄撮影による平出遺跡関連の写真資料(以下大場資料)を中心として、平出遺跡調査にあらわれた大場の研究視点を分析していく。

2.平出遺跡と大場磐雄のかかわり

 長野県のほぼ中央に位置する松本平の南端、塩尻市宗賀(そうが)地域には、旧中仙道が塩尻宿を出て西に向かい、洗馬宿に入る少し手前で江戸から数えて55番目の一里塚<写真1>がある。この付近一帯に平出遺跡が存在する。

 平出遺跡の発見そのものは戦前に遡るが、戦後まもなくの昭和22(1947)年に、畑中から緑釉水瓶が発見された事が契機となって広く知られるところとなった。当時、信濃地域の調査を実施していた大場磐雄はこの緑釉水瓶を実見し、従来は近畿地方以外の地域において出土事例が確認されていなかったこの遺物が出土した平出遺跡に関心を寄せ、地域の期待も高まった事から昭和25(1950)年の4月から長野県文化財専門委員の一志茂樹(いし しげき)、宗賀小学校教諭の原嘉藤(はら かとう)らとともに5次にわたる発掘調査を実施し、古墳時代後期から平安時代初期にかけての住居跡49軒、縄文時代中期の住居跡17軒を検出した。なお、平出遺跡は昭和27(1952)年に史跡指定を受けている。

 平出遺跡調査で特筆されるのは、考古学以外の専門家(地学・古生物学・建築学・社会学・民俗学・歴史学)が参加した戦後初の古代農耕集落の本格的調査でという点あり、古代社会における多角的な畑作経営の存在を実証するなどの成果を挙げた。また考古学そのものの研究においても、大量の灰釉陶器が各時期にわたって出土した事から、当地域における編年研究の端緒を開くきっかけとなった事も平出遺跡の意義として注目される。

 平出遺跡の調査が古代農村社会の研究として多方面から評価されたのは、多分野にわたる詳細な分析や、個々の遺構・遺物の重要性もさることながら、遺跡を取り巻く周辺環境と一体となった景観の復原を試みた点である。

 平出の集落は西方を流れる奈良井川の扇状地上に営まれ、北方には桔梗ヶ原と呼ばれる平坦地が開け、南側の背後には木曾山地の北端に当たる山々が遺跡全域を包むようにして巡り、遺跡のすぐ背後には、小丘ではあるが山容の美しい「比叡の山」が横たわっている。この「比叡の山」の東麓には「平出の泉」が集落内に流れ、泉の下流では水田の潅漑用水として現在でも重要な役割を果たしている。「比叡の山」の南北には山地が迫っているが、麓には大きな洞(凹地)地形が形成されており、ここには3基の古墳(平出第1〜3号墳)が築かれている。遺跡からは、後の調査を含めて現在までに179軒の住居跡が発見されており、このうち132軒が古墳時代〜奈良・平安時代に帰属する。

 大場は発掘調査の前年に、原嘉藤より緑釉水瓶<写真2>の存在を聞かされており、「従来、この地方に類を見ない逸品なのでこれを出土した遺跡への深い執着となり、私をして遂に本遺跡の本格的調査を思い立しめるに至った」とその衝撃的な出会いを語ったという(小林1986)。大場は平出遺跡調査委員会の委員長として請招され、第1〜5次調査、4年間でのべ44日間の発掘調査の実務と関連した各分野の調査を統率し、その前後10余年間にわたって平出遺跡に訪れて指導をした。

 大場は発掘調査にあたって常に陣頭に立って指揮していた<写真3>が、調査の合間をぬって周辺地域の民俗学的考証のための分布調査を積極的に行なっており、大場資料にも何枚かその記録が残されている。

古代農村の復元の一環として、調査と並行して行なわれた事業に第3号住居跡の復元がある。第2次調査の最中から、東京大学の藤島亥治郎が監修して、古墳時代中期に比定された第3号住居跡の復元工事が実施され、日本初の古代住居の復元として昭和26(1951)年5月30日に完成した。

 平出遺跡の古代住居復元は、大場の古代史研究における思想の「具象化」とも言える事柄であり、大場資料においても、その復元工事の段階から完成に至るまでの詳細が細かに記録されている。<写真4・5>

こうして、大場の指導のもとで平出遺跡は5次にわたる第一期調査を終了し、昭和30(1955)年に朝日新聞社発行になる報告書『平出』の完成を迎えるわけである。

次に平出遺跡に関する大場資料の主な構成を示す。

3.大場資料について

 376枚の平出遺跡の大場資料は、大別して、遺構195点・遺物96点・景観10点・民俗7点・人物(その他)19点・復元家屋25点・不明24点という7つに分類される。平出遺跡調査会も報告書掲載用の調査写真をガラス乾板で撮影しているが、現在保管にあたっている塩尻市平出博物館に問い合わせたところ、実数は把握していないものの300〜400枚程度であるとの回答があった。調査報告写真とほぼ同数の資料数を有しているところにも大場資料の特異性がうかがえる。なお、ピンボケ、二重写し等の不明写真と先述の復元家屋写真については割愛し、のこる5分類について述べていきたい。

1)遺構・遺物
 大場資料の遺構写真は195枚であるが、第1〜4次までに発見された縄文・古代の全竪穴住居跡をはじめ、後に松本平初の敷石住居と判明した、縄文後期の配石址<写真6>や、穀物貯蔵用と考えられる3棟の掘立柱建物の柱穴跡<写真7>など、縄文〜古代の集落構造を考える上でも重要な遺構が記録されている。なお、報告書に掲載された大場資料と同カットのものはわずかに6枚のみである。他の遺構写真もすべて報告書掲載の写真とは異なった方角からのカットばかりで、遺構完掘状況は言うに及ばず、遺物出土状況や住居内の炉やカマドの接写に至るまで、あたかも報告書を意識したとしか考えられないフレーミングの正確さと質であっただけに、この掲載度の低さは意外であった。報告書に掲載された同カットの大場資料は以上の6枚のみであり、全体の割合から考えてもあまりにも少ない事から、大場資料を報告書に転載したと考えるよりは、調査会で撮影したものと同じカメラを用い、撮影位置もそのままにして、大場個人のガラス乾板と交換して撮影したと考えられる。

 遺物写真はそのほとんどが宗賀小学校教室内で撮影されたもので、出土遺物のすべてが時期や型式ごとにまとまって写されている。平出遺跡で特筆すべき遺物の一つに、レ号住居跡出土の頭頂部の平らな土偶が挙げられる<写真8>。「河童型土偶」と俗称されるこの土偶は、縄文中期前葉に中部山地から多摩丘陵にかけて分布し、地域的特性や変遷の掴みにくいこの地域の土偶研究において、比較的発生から消滅までの経緯を知ることのできる量的にまとまった資料である。

 また、平出遺跡の灰釉陶器<写真9>は、大場がこれを延喜式にある「瓷器」に該当し、製作年代も奈良〜平安時代に比定できるとした事から(大場1949)、以後の研究が始まる。発掘調査当時、『信濃資料 第一巻考古編』の資料収集が、藤沢宗平・永峯光一の両氏らを中心に進められている最中という好機も手伝って、隣県を含めた周辺地域の出土例を集成した大場は、東山道・木曽路などの古代の交通路に沿った地域にその分布の集中を認め、濃尾での特産品として生産された灰釉陶器が中部高地の平出までもたらされたものと考え、生産地と消費地という関係で両地域を捉えようとした。

2)景観・民俗・人物(その他)
 大場資料の遺構・遺物写真は、合わせて291枚と全構成枚数のほぼ8割を占めており、報告書に掲載されても支障のない質と量を兼ね備えているが、かえってやや型にはまったような撮影という感が否めない。一方で、景観・民俗風習・人物等に関する写真は枚数が限定されるものの、発掘調査区域に留まらない大場の関心をうかがえる。

 景観にかかわる写真では、大場はガラス乾板を複数枚使用した連続写真(パノラマ写真)を好んで撮影しており、信仰の山とされる比叡の山に登って撮影された平出地域の景観写真<写真10>などは、大場自らが提唱した神体山を逆説的に表現したものとも受け取れて興味深い。

 民俗風習にかかわる写真も、一里塚や、平出の泉、山岳信仰と深い関わりを示す名称を持つ伊夜彦神社や、山王祠など、遺跡の周辺地域をくまなく踏査している事が資料からも伝わってくる。

 人物等に関しては、平出の泉での調査メンバーの集合写真などは、小出義治・桐原健・桜井清彦・大川清・亀井明徳といった後の考古学界で広く活躍する研究者達が会した写真もある。また、2次調査の折に折口信夫を請招した際に撮影した写真も、今では貴重な一枚である。

4.平出遺跡と神体山

 大場磐雄は自然物に対する古代人の信仰、とくに山岳崇拝について「山岳においては富士山や赤城山の如く、高山や火山の類で遠方からこれを遥拝し、その心霊を畏怖崇敬するものと、三輪山のように平野に臨む小山で集落とも接近し、親愛の情を籠めてその恩恵に対して祭る者がある。前者を浅間型といい、後者を神奈備型と称」し、この2種類の形態の山を神体山と総称した(大場1964)。

 調査記録において平出遺跡は、西方に位置する比叡の山は神奈備型の神体山とみなされており、これは大場資料の景観写真においても、比叡の山頂からの連続写真や伊夜彦神社の立地などから、この点が認識されていた事が理解される。しかし、景観写真のなかで、比叡の山と同様な意義で撮影されたと考える資料が存在する。

 比叡の山の南側に隣り合うように佇立するその山は、報告書にもその名称の記載がないが、大場によって昭和23(1948)年、25(1950)年と2年の歳月にまたがって全く同じフレーミングで撮影されている<写真11>。しかも、後で撮影されたものは、比叡の山との連続写真<写真12>である。

 比叡の山とは山容が異なるが、山頂の円錐系に尖る形態について、神が天降り座すところであると、大場が考えていたようである。大場が先頭になって実施した第一期の発掘調査に参加した樋口昇一は、今年(平成12年)8月に塩尻市で開催された平出遺跡発掘50周年記念シンポジウムにおいて、大場は調査中、平出を取り巻く山々の景観について言及する事が幾度となくあったと述べていた。このエピソードは、大場が比叡の山という特定の単独の山のみではなく、景観を構成する周辺の山々を含めて神体山を認識していたと考えられないだろうか。

 『平出』に付記されている平出各戸図には、比叡の山とそれに連なる山地が等高線で記されており、その山々の麓には、秋葉社や御嶽社、山の神の祠など神体山とも関わりの深い神社の存在が示されており、平出遺跡を取り巻く山地全体を神域とする考えを裏付けているようである。。

5.おわりにかえて

 大場磐雄は平出遺跡調査に携わる以前、登呂遺跡調査の主要メンバーであった。その著書『古代農村の復元-登呂遺跡研究』の自序で「この遺跡は単なる聚落址のみでなく、聚落を中心として当時の耕田跡や倉庫跡などがあり、遺物中にも生活様式を物語る多数の珍しい資料が存在して、これらを一括して当時の一農村を還元することができると信ずるに至った」と述べており(大場1949)、平出遺跡へ研究対象を移行するにあたり、さらに発展形態として、大場の得意とするところの山岳・神社・文献などの方面からの究明により古代の物質文化のみならず精神文化をも視野にいれた研究を志していたことが大場資料からもいえると考えられる。

 たった数枚の景観写真ではあるが、その中には大場の視覚的イメージ、すなわち、大場自身が認識した遺跡と周辺地域との「景観」との関係性が記録されており、時にそれは、大場の研究と同様に遺跡そのもののイメージをも左右し、決定付ける可能性も秘めており、大場資料の価値もそこに見出すことができると考えるのである。

《引用参考文献》

平出遺跡調査会編 1955 『平出』 朝日新聞社
大場磐雄 1964 「しんたいざん(神体山)」『日本文化研究所紀要』15 國學院大學日本文化研究所  200〜214頁
大場磐雄 1983(初出1964)「神道考古学の体系」『神道考古学講座 第1巻前期神道』 1〜28頁
大場磐雄先生記念事業会 1975 『大場磐雄先生略年譜并著作論文目録』
小林康男 1986 『平出 −古代の村を掘る−』 信毎書籍出版センター
大場磐雄 1949 「灰釉陶器の諸問題」『地方研究論叢』
佐野大和 1975 「日本古代学会のころ −楽石 大場磐雄先生略年譜補遺−」『信濃』第27巻 第10号 信濃史学会
原 嘉藤 1975 「平出遺跡と大場博士」『信濃』第27巻 第10号 信濃史学会
山内利秋 2000 「景観」 安斎正人編 『用語解説 現代考古学の方法と理論U』 同成社  71〜77頁

『学術フロンティアシンポジウム 画像資料の考古学』 2000 國學院大學画像資料研究会発行

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