熊本城と城下町の変遷を古写真に探る


富田 紘一
(熊本市教育委員会)

1.熊本城と古写真について

 加藤清正により築城された熊本城は日本三名城の一つとしてよく知られている。その規模は面積98ヘクタールにおよび、往時は櫓49・櫓門18・城門29を備えていた。その名城も西南戦争開戦直前の明治10年2月19日、原因を明らかにしない出火により焼失した。主郭一帯を失ったものの、谷干城率いる熊本鎮台はこの城に籠もり、50余日にわたる薩軍の攻撃に耐え、難攻不藩の城であることを実証した。現在は多層櫓である宇土櫓ほか11棟の櫓が残っているに過ぎないが、軍用地となった城域は良好に保存されており、国の特別史跡に指定されている。
 この名城は明治10年の焼失前に撮影された写真が多数残されていて、加藤清正以来の雄姿を偲ぶことができる。その写真の中でも、熊本で明治3年に写真所をはじめた冨重利平撮影のものは良く知られている。彼が熊本に居着いたのには次のような事情があった。冨重が晩年に新聞記者に語った記事を引用する。
 突然井田讓と云ふ少將が長屋少佐外數名を連れ盛装で乗込んで来たが何しろ鵞帽錦衣も珍らしいので宿屋の前には人集りがする騒ぎ「是非共一度寫して呉れ」との懇望であった。そこで土蔵の横で一枚映して上げると「實は熊本に鎭臺が出来る、そこで城地其他を寫眞に寫して東京に送りたいからお前が寫して呉れ」との懇望、処が既に荷物を仕舞つたからと断るとぜひ共居れ○と堅く言葉を添へて歸つた間もなく當時の縣令、白川縣大属の内藤貞八と云ふ人から呼出され翁が行って見ると井田少將からの内命無理でも此地に止まるやう若立去るといふ事なら當縣から月給を出しても引止めて呉れとの事であった月給はドノ出して好からうかと寝耳に水の懇望には富重翁も驚いた。何分鎭臺といった処ドンナ物が出来る事やら果して仕事が有望なやらソンナ事は一寸も解らぬが「月給を戴いては自分で自由になりませんから戴かずして當分此地に居ると致しませう」と約束して了った。是れでトウトウ東京行の望みを絶って了はうとは夢にも思わぬ処であった。
 この写真所は西南戦争の戦禍にあったが、種板の一部は疎開して難をのがれ、今も4代にわたって写真業をつづける同所で大事に保管されている。四ツ切大のガラス原板に写しこまれた熊本城や城下町の鮮明さは驚くほどで、それを一見すると江戸時代にタイムスリップしたかの感がある。西南戦争後、新たに建築された撮影所も現存しており、日本で最も古いスタジオとして注目されている。また、撮影の機器やスタジオの小道具、それに感光液など薬品を調合した機材も揃っていて貴重な文化財となっている。冨重のほかにも明治10年以前から中島寛道が営業を始めており、それ以外の写真師が存在していた節毛ある。また、明治5年の天皇行幸にカメラマンが従っていた可能性毛あり、撮影者が特定できない資料毛多い。中島は西南戦争時に薩軍側から、攻防戦中の熊本城と城下町を撮影している。この依頼は強制的であったらしく、撤収する薩軍にカメラ機材を持ち去られた記録がある。また、西南戦争直後には軍の依頼をうけ、上野彦馬が撮影隊を率いて戦跡を撮影している。日本初の組織的な戦場の写真による記録である。この中には戦禍により全く姿を変えた城下町の惨状が写し出され、その激しさを知ることができる。

2.古写真の伝承と考察 「古写真考古学」の提唱

 撮影から130年余、撮影した場所や被写体の風景も様変わりしている。当然のことながらその時代を知る人もこの世には存在していない。また、文字で記した記録の特性として、通常の景色を微細に書きとどめることは少なく、文書からたどることも難しい。古写真にはごく稀に台紙をともなったオリジナルプリントもあるが、複写を重ねて画像のみが伝えられることが通例である。そこで欠藩したものを影像から読み取ることになる。まず最低必要な情報は、写されている景色から被写体が何であるのかを判定することが必要である。これが判らないと、単なる古写真としての意味しかなく、比較考証の対象とはなりがたい。撮影対象が判明すると、地理上の方向を勘案して撮影の場所も推測することができる。景色の地形や背景が観察できれば、撮影現場をほぼ正確に把握することも可能である。対象と撮影地が判明すると、次に何時・何のために撮影したのかという問題がある。この付帯情報はよほどの記録でもないかぎりなかなか伝わらない。そこで、影像からその間の事情を読み取らなければならない。何時かを解明するには、影像のなかの被写体の変遷を詳しく観察して複数を比較する必要がある。被写体のなかに期日を限定できるものが存在すれば、その絶対年代を導き出すことができる。しかし、具体的には風景や環境が写るような写真ではそれほど好都合なものはほとんど存在しない。しかし、幾つかには被写体の始まりや終わり、それに存在の時間幅が記録にたどれるものもある。もしそれがなければ、被写体の比較から前後関係を考証し、相互の新旧という相対年代として知る必要がある。これも同一被写体が複数の写真に登場しなければならず、資料は限られる。被写体自体の比較ができない資料でも、一連の撮影と考えられるものは同時撮影の一群として把握することができるが、その可能性が妥当かという問題もあり資料価値としては若干下がるといえる。この方法論は、文字による付随情報が皆無であったりごく少なかったりする考古資料の研究と同じやり方である。つまり、ある程度の年代ないしその幅がおさえられる事象は考古学の研究では放射性炭素による年代測定や歴史考古の関連文書による年代の手掛かりを得るのに似る。その大枠で括られたものを、さらに相互比較を行うことによってより詳細な把握ができる。このことは土器様式と、型式の細分化と同じような作業である。
 当然、写真の画面全体の比較考証も行うが、複数の古写真に共通する特定被写体をトリミングして行うことが通例である。これも、土器の細分に当たって文様要素をピックアップして比較し、変遷をあとづけるカ法と同じである。この方法により、実年代が不明瞭な写真に対して、相互の新旧関係が判明し、相対年代の比較考証を行うことができるようになる。このように時間幅を狭くすることにより変遷をより詳しくたどれ、撮影理由にも迫ることができる。この変遷の詳細にわたる把握は、土器編年の細分とと同じく、相対年代の物差しの刻み目を細かくすることになり、より正確な変化を知ることになる。   この研究方法を筆者は「古写真考古学」と称している。これは「古写真」に影像をとどめる対象を「考古学」的方法論で研究するものである。そこで、発掘調査や遺物などの考古学に関する古い写真を検証して、その対象の研究を目的とするものではない。

3.古写真の編年、具体的研究例の紹介

 「古写真考古学」の手法をもちいて、現在筆者は熊本城と城下町の考証を試みている。以下、その具体的研究例の一部を紹介したい。
 写真@ABCの4枚は、熊本城天守閣の西南部に位置する数寄屋丸から撮影したものである。天守やその周囲の様子を見ると、全く同じものはないので、それぞれに異なった時に写されたものといえる。この4枚には附帯情報として撮影の時期を明示したものはない。ただ、@には天守下の平左衛門丸に加藤神社が鎮座しているので、その上限と下限を押さえることができる。
 最初の加藤神社は加藤清正の菩提寺である本妙寺に置かれていたが、神仏分離の政策により、明治4年7月に城内の平左衛門丸に遷座している。しかし、同じ頃に城内に鎮西鎮台の本営がおかれ、その整備に伴い参詣人で賑わう神社が不都合になり、7年9月に城外の京町に移転している。その間、7年6月には城内の民間人を退去させ、神社も月に2回を限って参拝を許したこともあった。そこで加藤神社の鎮座する写真@は、4年7月から7年9月までに位置づけられる。その中でも参詣人相手の料亭と見られる非城郭の建物が右側に存在するので、6月以前といえる。
 写真ABCの3枚は加藤神社が存在しないもので、4年7月以前または7年9月以降に属する資料である。ABについては、これまで加藤神社鎮座以前として4年前半頃の撮影として紹介したものが多かった。それでは影像から変遷を探って@と比較してみたい。
 4枚のなかで最も新しいのがCである。その理由は4枚の写真ともに見られる、大小天守の間に位置する樹木に謎解きの鍵がある。C以外の3枚に見られる樹木は目通りあたりで二股に分岐している。これに対してCはその内、右側にのびた幹だけである。植物のことであるから「1本の幹に脇芽が出て大きくなり、二股になりました」といえないこともないが、写真の歴史を考えるとそれは否定される。そこで、二股の片方が枯れたか伐られたと確定される。天守の窓に取り付けられた突き上げ戸の戸板の大部分も取り外されているのも特徴である。つまり、Cから他の3枚に推移することはないといえる。次に時間幅が判明している@とその位置付けに確証がないABの前後関係を探りたい。AとBは右下に鎮台の柵と門があり、大天守の屋上には屋根に旗竿を立てるなど、共通するところが多い。このような情報からAとBの間に@が入ることはないと思われる。このように大きな違いが観察されるが、その間に前後差を示すポイントをなかなか見出すことができなかったがこの謎解きの鍵を、戸板の破損に見つけることができた。3枚の写真を観察すると戸板の状態は開閉さまざまで、前後差を意味する毛のは少ないが、唯一3階の右端(大天守3階西面南端)の突上げ戸の状況に推移を読み取れた。この戸板は、@では完全に開いている。Aでは閉じた状態である。この開閉だけでは前後差を認めるわけにはいかない。ところがBでは突き上げ戸の右上の蝶番が破損していて、斜めに垂れ下がっている。この状態からは@のように開くことはできない。しかし、これには破損した戸板が修理されることがなかったという条件が必要である。それは修理されれば、開閉自由になりそこに前後差を認めることはできないからである。そこで、最も新しいCを見ると、幾つかのものを閉めた状態にしているが、損傷のある戸板をまとめて撤去した状況がみられる。そこには維持の措置が施されることもない、明治維新を経た城郭の置かれた立場が読み取れる。ここに、@→AB→Cへの変遷が把握できる。AとBでは、平左衛門丸の広場における石塊や材木散乱の有無、門の脇の哨舎の違いなど、幾つかの相違点が観察される。しかし、それはいずれも前後差を表す指標とはならない。ところが微細な相違であるが、小天守の一層目の大屋根の棟の右端にある鬼瓦の鳥衾の突起がAでは存在するが、Bをみるとそれは認められない。両者の撮影の間に欠損したと思われる。ここでも戸板で考察したように修理は考えづらく、Aが古くBが新しいといえる。ここに@→A→B→Cの撮影順が確定できた。この天守閣とその一帯を撮影した4枚の写真以外にも、類似したアングルでその中に変化が観察される二の丸からの撮影なども考察に含めてより詳細な編年を組み立てることができる。そこで熊本城の古写真全体の編年を次のように考えている。その大きな基準は加藤神社の有無にあり、鎮座以前のI期、鎮座中のII期、城外に移転したIII期の3期に大区分する。さらにII期は民間人の茶店や料亭が存在する7年6月以前のaと、城外に退去させられたbに細分される。ここでは具体例については触れなかったが、III期もa・b・cに細分される。
 I期は4年7月以前で、上限は3年後半の冨重利平開業頃であろう。現在知られている写真にその開始期を探ると、加藤神社鎮座直前の4年5・6月のものが最毛古い時期と考えている。IIa期が4年7月から7年6月まで、IIb期は7年6月から7年9月までにあたる。しかし、加藤神社の移転後の時期について毛、社殿や鳥居の解体を考えるとそれらが写るものでも時間的に下るものも含まれると考えられ、7年中まではその可能性があろう。III期は7年末頃から10年2月19日の焼失までの間である。写真の内容からIIIa期を8年中、IIIb期9年前半・IIIC期を9年後半に位置づけている。その後は、西南戦争で熊本城籠城戦中の10年2月から4月14目までをIV期、戦闘が終了した直後で防塁などが残るV期、1O年末以降の復興した後の戦跡写真をVI期としている。
 I期では、まだ旧藩時代の面影をそのままに残す熊本城と城下町があるが、I期の特徴とした鎮台と加藤神社建設のための動きもあり、その変化のようすが見て取れる。
 II期には江戸時代の城郭から新たな軍の中心である鎮台へと変化し、また一方では民間の施設といえる加藤神社の鎮座と門前町の形成へと移り変わる。城域の土地利用の大きな変化である。
 III期には、整備される鎮台の軍施設と城外に移転させられた加藤神社と門前町が窺がえ、次第に軍用地一色になってゆく熊本城を写している。大天守の最上階から二の丸を撮影した資料にはフランス式の近代的な兵舎が立ち並んだ景色をみることができる。
 その後は、はるか彼方からではあるが眼下に銃砲弾が飛ぶのを目にしてシャッターを切ったIV期の戦闘継続中の戦場写真が少数見られる。この時期の写真は10年2月下旬から4月中旬(熊本城解放が4月14目)にかけてに限定される。
 上野彦馬は軍の依頼を受けて撮影隊を率いて戦場を撮影している。そのほか一部には冨重利平が写したものも存在する。これがV期に属するもので、熊本城下では4月下旬の撮影、熊本県北部の戦場では3月末から4月中旬までの時間幅に位置付けられるものである。軍隊による組織的な戦場写真の撮影といえる。
 そして戦後の復興と近代熊本の誕生。その影像の中には、文字では表すことのできない実にドラマチックな歴史を読み取ることができる。

熊本城と城下町写真編年

 熊本城と城下町の古写真にみられる実年代を示した事項と新旧を把握できる特徴により編年する。城郭の歴史的位置づけの上で大きく区分される事項で期別に分類、更に微細な特徴で細分する。

I期 加藤神社鎮座以前 (4年7月以前)
 江戸時代の曲輪から、維新をへて城郭以外の利用が企画される段階。外見的にはまだ江戸時代の城郭の景観を残している部分が多い。

II期 加藤神社が平左衛門丸に鎮座した時期 (4年7月〜7年9月)
 城内が軍用地となり、一部に民間の土地利用もなされた段階。江戸時代の権力の象徴から、新たな城域利用が芽生えた時代。
 IIa期 加藤神社の門前町がある写真 (4年7月〜7年5月)
 IIb期 門前町を城外に退去させた時期(7年6月〜7年9月)

III期 加藤神社が城外に移転した後、西南戦争まで (7年10月〜10年2月)
 本丸の民有地が完全に排除され、二の丸にも兵舎等の施設が整備される段階。これ以降、熊本城内には民間の施設は一切造られず、全域が軍用地となる。
 IIIaa期 天守に突き上げ戸があり、屋上に旗が立つ(約8年中)
 IIIb期 痛んだ戸板が撤去され、旗がある時期(約9年前半)
 IIIc期 戸板も屋上の旗も存在しない写真(約9年後半 西南戦争迄)

IV期 西南戦争籠城戦中のもの (10年2月20日〜4月14日)
 最大の不平士族の反乱において、近代軍制の鎮台が士族集団を撃退した。(具体的な撮影は3月下旬〜4月中句半ば)

V期 戦後まもなくの戦場、防塁が残る写真 (10年4月中旬末〜下旬)
 政府軍と薩軍との防塁の違い、戦闘状況などが読み取れるものがある。(城下町熊本以外では3月下旬〜4月中旬)

VI期 民家が復輿した後の戦跡、防塁はごく稀 (10年末〜11年)


『学術フロンティアシンポジウム 画像資料の考古学』 2000 國學院大學画像資料研究会発行

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