上州富岡町における小川一真の写真資料について


塚田良道
(行田市郷土博物館)


1.資料発見の経緯

 幕末の忍藩(現埼玉県行田市)に生まれた小川一真(1860〜1929)は、写真家を志し明治初期に単身渡米留学、帰国後様々な写真撮影に携わった。彼は写真印刷をわが国で初めて普及させ、写真乾板の国産化も試みるなど、写真文化の推進者として多方面に大きな業績を遺している。これまで行田市郷土博物館では小川一真に関する問い合わせを各方面から受けてきたが、当館に小川に関する資料は全くといっていいほどなかったため十分な回答ができないでいた。このため平成11年度に資料調査を実施し、その成果を生かし展示をおこなうことを計画した。

 まず調査を始めるにあたり、以前当館に小川の調査に見えられた小澤清氏にご指導を仰いだ。小澤氏はご自身の調査により『写真界の先覚小川一眞の生涯』(近代文藝社1994年)を著しておられたからである。小澤氏からは多数の小川一真関係資料をご教示賜ったが、その中でとりわけ注目されたのが上州富岡町(現群馬県富岡市)における小川の写真資料である。

 小川一真ははじめ忍藩培根堂で学び、明治6年東京の報国学舎へ進学した。同8年卒業して帰郷し、熊谷の写真師吉原秀雄の下で働き写真湿板撮影法を習得、同10〜14年のあいだ官営製糸工場が建設され活気に賑わう上州富岡町で自らの写真館を開業した。これまで彼の活躍した明治20年代以降の資料は知られていたものの、無名であった富岡時代の資料はほとんど知られていなかったのである。

 資料は富岡町の初代郵便局長古沢福吉(1860〜1908)旧蔵のものであった。古沢福吉の父小三郎は初代富岡町長として官営富岡製糸工場の開設に奔走し、当時異端視されていた外国人技師の町民への融和に努力した人物である。福吉も新しく導入された郵便制度の普及に務めたことから、西欧文明に対して興味をもっていたと思われ、小川と同年齢だったことから、彼と親交を結び多くの援助をおこなっている。

 古沢福吉のご子孫の一人の談話によれば、小川は第2回内国勧業博覧会に出品した写真が予想以下の成績であったことにショックを受け、渡米留学の志をもち、その資金を集めるため写真関係機材を懇意にしていた古沢福吉に売り払った、と伝えられているという。古沢福吉旧蔵の写真関係資料はほとんどがその時のものといわれ、ここではこれらの資料の概要を紹介したい。

 ところで、小川一真の資料調査をするといっても、もとより当館には写真に造詣のある学芸員はいない。したがって、写真史研究や画像研究というよりも、郷土の人物史研究という観点から調査をおこない、写真とともに小川の手紙など関係資料もあれば、それらも一つのまとまりとして収集し、資料の一括性を重視して検討をおこなうよう心がけた。

 なお、この資料をはじめとして収集した関係資料は、平成12年度秋に当館で開催した企画展「百年前にみた日本−小川一真と幕末・明治の写真−」において一部を展示紹介することができた。これについては図録を作成したのでご参照いただければ幸いである。

2.資料の概要

 湿板写真撮影用暗箱

 2点あり、一つは「Baking□□□ London」の文字の刻まれたレンズがセットされる暗箱(写真1)で、レンズに挿入する絞り金具がともなっている。暗箱は正面高さ24.5cm×幅22cmの大きさがあり、画面サイズは15.5cm×15.5cmである。もう一つは「OUTCHIDA TOKEI 28187 Jase&Charcounuet Paris」のレンズがセットされる縦長の暗箱(写真2)で、正面高さ23.3cm×幅17cmの大きさがあり、画面サイズは縦16cm×横15.5cmである。いずれにともなうのか不明だが、表面黒、裏面赤の手縫いのビロード製冠布と木製焼き枠が一緒に遺っていた。

 このうち、前者の暗箱が小川一真愛用と考えられるものであり、後者の縦長の暗箱については、一緒に遺る明治17年の手紙の文面から、他人の借金返済の肩代わりの返礼として古沢福吉が入手したものである。

 ガラス湿板写真

 ガラス湿板写真は53枚遺っていた。いずれも明治時代の和紙の反故に数枚ずつくるまった状態にあった。そのほとんどがガラスの大きさ縦10cm、横7cm程度の手札サイズで、紙焼きをおこなうためにガラス面に墨や朱で写真修整のための補筆を施しているものも認められる。その撮影年代は、写っている古沢福吉の姿が若いことと、福吉の婦人であるふさが明治12年生まれの愛児ちよと見られる赤ん坊を抱いて写っていることから、明治10年代の撮影と思われる。おそらくその多くが小川一真撮影の可能性が高いと推察される。

 とくに、これら53枚のガラス湿板写真の中に、後に小川の妻となる飯塚市子のガラス湿板写真(写真3)が含まれていたことも、その大きな理由としてあげることができる。市子は群馬県鬼石町の飯塚與一郎の娘で、一真がアメリカから帰国した明治17年に結婚。翌年に長男一雄をはじめとして3人の子を生むが、一雄のほかは早世。市子も結婚6年後、明治23年に若くして亡くなった。古沢家と飯塚家の間に縁戚関係はないことから、このガラス湿板写真が古沢家に残されているのは、小川が写真関係資料を古沢福吉に売り払ったという言い伝えがほぼ事実であることをうかがわせる。

 ところで、これと同じ写真を修整して紙焼したものを小川一真の子孫もお持ちであった(写真4)。現在面識もなく関係もない遠隔地に離れた古沢家と小川家の両家から発見された同じ写真の存在は、若き時代の小川と市子が富岡時代に知り合ったことを偲ばせてくれ、たいへん興味深く感じられた。

 鶏卵紙写真

 鶏卵紙写真はそのほとんどが手札サイズであるものの、その中には清水東谷の印のある写真やみやげ物の鎌倉大仏の写真なども含まれていて、富岡時代の小川の写真がいずれであるかを特定するのは極めて困難である。

 しかし、その中に1点だけ写真の台紙裏面に小川一真の写真館の印があるものが存在した(写真5)。印はたなびく旗の中に「富岡写真師小川製」の文字が刻まれている。旗のデザインは、当時横浜や浅草で活躍していた写真師下岡蓮杖の日の丸の印の影響を受けたものであろう。

 このほか、ガラス湿板を紙焼きした写真や、それと同じ背景をもつ写真なども、小川の撮影の可能性があるものと考えられ、今後の整理過程で検討していきたい。

 紙焼に用いる写真修整紙型

 これらの紙焼き写真にともなって、紙焼きの際に写真周辺部を覆う紙型も発見された(写真6)。濃紺の和紙の中心を楕円形や扇形にくり貫いたもので、これを用いてガラス湿板を紙焼きした鶏卵紙写真も認められる。

 小川一真がアメリカから出した手紙

 今回の調査できわめて重要な資料としてあげられるのが、小川一真が渡米留学期間にアメリカから富岡の古沢福吉へ送った手紙である(写真7)。

 渡米留学を志した小川は富岡での写真館を廃業し、明治14年横浜へ移り、横浜警察署で通訳の職につく。その後同15年7月横浜でアメリカ東洋艦隊スワタラ号の水兵となり、大西洋を回り、12月東海岸ノーフォークに上陸した。翌16年にボストンのハスティング写真館に勤務し、この留学期間に乾板、コロタイプと出会い、その技術を習得して17年に帰国した。

 手紙は全部で13通あり、明治15年(1882)12月27日付けの手紙をはじめとして、明治16年(1883)3月17日、3月30日、5月5日、5月29日、6月15日、7月9日、7月20日、8月9日、9月12日、9月18日、10月14日、12月29日と、ほぼ留学期間の毎月出していることがわかる。

 その中の6月15日の手紙の文面には、「エレキトルライト」ら「ツ(ド?)ライプレート」、また「プラチナプリンチング」を研究している旨が記されてあり、後に彼が帰国してから実際に生産使用していく新技術をボストンで修得している状況を知ることができる。文面の紹介は他の機会にゆずるが、小川が西洋文明に圧倒されながらも、その中で日夜わき目もふらずに写真術の研究に打ち込んでいることがうかがわれ、日本の写真史研究にとっても極めて貴重な資料と考えられる。

 年賀状・はがき類

 帰国後の資料として、古沢福吉に宛てた年賀状がいくつか遺されていた。その中で明治24年正月の年賀状はコロタイプ印刷によるものである(写真8)。

 明治22年10月、小川一真は岡倉天心らによる美術雑誌『國華』の創刊に際し、アメリカで習ってきた写真製版技術「コロタイプ印刷」で印刷をおこない、『國華』は祈念すべき日本最初の写真印刷雑誌となった。コロタイプ印刷は、すでに明治16年に大蔵省印刷局でもおこなわれていたが、実用化されることなく過ぎていた。それを初めて実用化させ、一般に普及させたのが小川だった。年賀状左下に「写真版」と白く書いてある文字に、写真印刷に成功した自信の程がうかがわれる。おそらくこの年賀状が、現存する日本最古の写真印刷年賀状ではないだろうか。

 なお、このほか明治38年に小川が出版した日露戦争の写真絵はがきなどもある。

3.資料の意義

 以上、概要を述べてきた富岡町における小川一真写真資料は、目下整理を進めているところであるが、その意義を簡潔に列記すれば、第一に日本の近代史を彩る人物資料として、まずその重要性が強調できる。第二に、暗箱やガラス湿板資料は写真史研究にとって貴重な実物資料であり、第三にそれらの画像は明治初期の風俗及び地域研究に意義をもつであろう。

 これまでガラス湿板などの幕末・明治の写真資料は、各家にあって先祖の肖像として遺されてきた。しかし、時代の経過によって次第に書画刀剣といった他の文化財と同じように、地域の博物館で保存されることが多くなってきている。今回小川一真の調査によって多くの写真資料に触れる機会をもったが、写真資料を収集し、展示に活用する機会は、今後地域の博物館におおいてますます増えてくると考えられ、その取り扱い技術の修得も学芸員の研修すべき事項と思われた。

 末筆ながら、これらの貴重な資料や情報の提供を賜った金井よし子氏、設楽光弘氏、大手万平氏に深く感謝いたしたい。


『学術フロンティアシンポジウム 画像資料の考古学』 2000 國學院大學画像資料研究会発行

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