大場磐雄のグラフィズム

−近代日本考古学と画像資料−

山内 利秋
(國學院大學日本文化研究所)


はじめに

 視覚的情報は、「遺物」や「遺構」として物象化された人工物や、人間の生活条件として存在してきた遺跡周辺の環境にかかわるコンテクストを研究対象とせざるを得ない考古学にとって、最も重要かつ宿命的な情報の形態である。すなわち考古学においては、研究対象を「見る」という行為が研究の質的要因を決定するのみならず、第3者に説明するという場面においても不可欠な行為である。ここで問題となってくるのが、考古学の専門家ないしは非専門家が視覚的情報を「操作」する事によって、それを見た第三者が与えられるインパクトである。この事は、最近、考古学的情報をいかに扱わなければならないのかというアカウンタビリティーの問題も含めて、社会的にも注目されている点であるに他ならない。

 特に写真や、写真によって構成されてきた画像(ないしは映像)は、近代化を効果的に推進し、さらにはさまざまな場面転換によって再構築されてきた「装置」の一つである事はもはや疑いない(柏木2000)(木下1999)(岡塚2000a)。この事は人工物によって日本の歴史を実証的に<再構成>してきた日本考古学においても言えるのである。


1:「写真以前」から「写真以後」へ−日本考古学における画像史料−

 日本考古学にかかわる画像情報として挙げられる事例に、鎌倉時代末期に描かれた『石山寺縁起絵巻』に描かれている「寶鐸」がある(斎藤1993)。

 「すなはち、天皇に奏して、比良の大明神に此の地をこひうけたてまつりて、仏閣をたてむがために、荊棘を切掃て、砂石をけづりたいらぐるに、五尺の寶鐸をほりいだす、まことに知ぬ、古佛の聖跡、伽藍の舊基なりといふことを.....」

 と、書かれているように、東大寺大仏造立に先だちこの地で仏閣を建立していた僧良辨は、山を切り開いていた所、土中より銅鐸が出土した。『絵巻』にはこの時の様子が描かれており、銅鐸の出土をめぐって良辨と会話をする工匠、束帯姿の官人も立ち合っている。この銅鐸は実在するが、興味深いのは山中から単独で出土したというその出土状態は、現在の発掘調査における銅鐸の出土事例とも一致している。

 本論では詳しく述べないが、近世においては社寺宝物の絵図や、古物収集家によるコレクションの記録が時に考古資料を描いている場合があり、こうした伝統の中で蓄積された情報を画像として記録化する手法は、近代になってからも重要なスタンスとして継承されていく。

 画像資料は近代以前における考古学にかかわる情報伝達の一手段として機能してきたが、それは近代知として組織−整備されつつあった明治期の日本考古学においては、より正確な情報を他者に伝達するコミュニケーションの手段として確立されていった。

 まず、近代考古学にかかわるコミュニケーションの成立には大きく2つの方向性が存在していた事を再確認しておく必要がある。すなわちそれは、エドワード=モースから坪井正五郎へと続いてゆく「未開」と「近代」を進化主義的に認識し、相対化していく事によって、非近代知から近代知への乗り換えをはかろうとしていった−主に先史社会を対象にした−「考古学」と、そして近世以来の「好古」ないしは「収古」といった言葉にあらわれている、美術工芸方面において「考古」という分類ともなった、日本という国家の基盤となるようなドメスティックな伝統を再確認していく事で、文化財として制度化をはかっていった解釈学の伝統を引き継ぐ「考古学」である(山内2000)。

 明治10(1877)年に大森貝塚を発見したエドワード=モースは、1879年にはその報告"Shell mounds of Omori"を東京大学から刊行しているが、その報告書中には大森貝塚から出土した縄文時代後期から晩期の資料を中心とした土器の実測図があり、また調査風景もスケッチとして記録されている(東京都大森貝塚保存会編1867)。

「遺物」を実測図として図化するという方法について、モース以降の考古学的調査の報告書は、現在までも基本的にこの製図法に従っている。ただし、"Shell mounds of Omori"が刊行された直後から、この実測図という「製図」が広く普及したかというと、そういう訳ではない。深澤芳樹によると、『考古学雑誌』上で実測図が写生図を上回り、また実測図を意識した土器の写真が出現するのは明治45-大正元(1912)年からであり、それ以前には写生図が圧倒的に多く、また土器に関しては本文写真も存在していないという(深澤1995)。

 さらに深澤によると、実測図あるいは実測図を意識した写真図版は、イギリスへ留学した後、京都帝国大学で日本最初の考古学講座を設立した浜田耕作が、大正期にはいってからその手法を推進したもので、これは実測図・写真の「書き手・写し手」を、画工・写真師から研究者へシフトさせる事で、研究者の資料に対する観察力を鍛錬させる目的があった。

 モースからはじまった「製図」としての実測図法・写真撮影のスタイルが、一方で近代化以降の考古学における視覚的な情報伝達の手段として重要に機能していったのに対して、古典解釈学的なスタンスを有した考古学における模写・写生図も考古学の近代化において極めて興味深い役割を果たす事になる。

 明治22年に現在ある上野公園の北側の土地に開校した東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)では、講義課目に「古物学」(数年後に「考古学」に改称)があり、講義は『江戸の美術』・『茶器の見方:茶道研究』等の著作があり、『骨董学雑誌』の特別会員でもあり、後に東京帝室博物館の美術部長・美術工芸部長ともなった今泉雄作が担当した。

 当時の講義を受講した学生のノートが現存しており、ここには講師が図示したと考えられるスケッチが写し描きされている。今泉の「古物学」には、当初は進化論をも含む内容をもった比較的人類学に近い講義が行われていたようだが、「考古学」と改称されてからは、むしろ美術工芸的内容になっていった事がうかがえる。ノートに描かれた「古物」には、モースの報告書に見られるような製図に近い描写よりも、近世以来の伝統を引く対象の模写法が反映されている。ちなみに「歴史学」は『工芸史料』をはじめとする広範な著作がある黒川真頼が講義を行っているが、内容は考古学よりも一層有職故実を中心とした解釈学的なものになっていった。これは黒川が同時期に教鞭をとっていた、皇典講究所(後の國學院大學)での講義と関係が強いと考えられる。

 この美術学校における考古学・歴史教育は、近代日本考古学のもう一つの「流れ」を形成したものとして着目すべき点であろう。

 東京美術学校や皇典講究所が開校したのとほぼ同じ時期の明治22年10月には、小川一真のコロタイプ印刷技術を使った雑誌『国華』が創刊する。美しい写真と、当時一流の執筆人によって解説された「古物」の数々は、現在の言葉で言う「文化財」を視覚的に構成していったのであった。

 考古学に関連する研究雑誌に写真が活用されるようになったのは、はたしていつなのだろうか?「考古学」という名称を書名に使った研究誌として最も古く、また、現在まで刊行されている雑誌として、日本考古学会が発行している『考古学雑誌』がある註1。すでに伊藤純が述べているが(伊藤1995)、『考古学雑誌』における写真の初現は、明治32(1899)年6月に刊行された『考古学会雑誌』第2巻10号の「扇面写経地紙画」(四天王寺蔵)、続く同年7月の2巻11号では「泉穴師神社女神木像」が掲載されている。さらに翌、明治33(1900)年4月には誌名を変えた『考古』第1巻1号の口絵として、「播磨国飾磨郡平野村発見石棺」・「筑後国上妻郡吉田村発見石盾」(原田印刷所印行)と、「古銭三種(空首布表裏・安邑布表裏・安陽布表裏)」(田中猪太郎製版)がある。伊藤によれば、考古資料そのものは『国華』89号の須恵器筒形器台が「筑前古墳発見斎瓮」として掲載されたものが最初であるという(註2)。

 ところで、考古学に隣接する研究分野で刊行されている研究雑誌に写真が掲載された時期を確認してみると、史学会の『史学雑誌』では明治32年2月に刊行された『史学雑誌』第10編2号において、口絵で「宴臺訪碑」が白鳥庫吉の解説とともに掲載されているのをはじめ、明治33年9月の第11編9号では「1575年グレゴアゝル第13よりクレヱ゛及ジュリエの公子シャル、フレデリックに授けたる剣及君侯冠帽」と題された写真が、小川一真によるコロタイプ製版によって掲載されている。

 また歴史地理学会によって刊行された『歴史地理』では、明治32年10月に発行された創刊号である『歴史地理』第1巻1号の口絵に、「鎌倉五山真景」と題された、五山各寺がコラージュされ、1枚の写真として掲載されているものがある。『歴史地理』にはこのように複数の写真が1枚に集約されて掲載されている写真が多いが、あるいはこれらは絵葉書を活用したものであったのかもしれない。

 やや遅れて東京人類学会(当時)による『東京人類学雑誌』では、明治37年3月発行の『東京人類学雑誌』第19巻216号口絵に、「露國及満州人種分布地図」として、ユーラシア大陸東側の各地における少数民族の顔写真を地図と一緒に掲載したもの、同じ号には八木奨三郎撮影の「韓人風俗」と題された写真がある。写真図版「露國」は、松村瞭の論文「露國版図及び満州に於ける人種」に付随するものとして掲載されたもので、本文中に「巻首に理科大学人類学教室及び東京人類学会所蔵の図書類より選択したる十数種族の写真図に添ふるに、人種分布地図を以てせり」と書かれている。ちなみに東京帝国大学理学部人類学教室では、翌明治38年3月に『人類学写真集』を刊行している。

 ここですぐに興味深い一致に気が付くのだが、『考古学雑誌』・『史学雑誌』・『歴史地理』の歴史系3誌が、いずれも誌上に写真を掲載するようになったのが明治32年からであるという点である。先述の伊藤純によれば、すでに明治25(1892)年8月に鳥居龍蔵が『東洋学芸雑誌』131号に掲載した論文「四天王紋錦に比較研究すべき物あり」の中で石版による写真を掲載し、さらに明治27(1894)年10月には同じ『東洋学芸雑誌』の157号において、坪井正五郎が「『重ね撮り写真』の術を利用したる観相法」を発表している。また明治29(1896)年8月の『東京人類学雑誌』123号に東京写真館製「軽便写真器」の広告が掲載されている点からみても、一部には早くから写真の重要性に注目し、時には自ら撮影を行った研究者が存在した事は確実であるが、写真の重要性が広く歴史系の専門家間に認識されるようになったのは、明治30年代に入ってからである可能性が高い。『歴史地理』に関しては写真が使用されたのは創刊年度であるが、この事から、刊行当初から写真の持つ視覚的効果が重視されていた点が理解できる。

 明治30年6月に古社寺保存法が制定され、10月には臨時全国宝物取調局が廃止された。また、明治33年には帝室博物館官制が施行され、帝国博物館・帝国京都博物館・帝国奈良博物館がそれぞれ東京帝室博物館・京都帝室博物館・奈良帝室博物館と改称された(東京国立博物館1973)。これらのプロセスは、整備途上にあった日本の近代文化財保護制度がある程度の到達点に達し、少なくとも専門家間には「文化財」が概念として形成されていた事を意味するのである。すなわちこれは、この頃から写真というツールを介してのコミュニケーションが、考古学を含めた専門家の間でも可能になった事をも示しているのだ。

2:考古学者大場磐雄と写真資料

 考古学者大場磐雄(1899〜1975)は、内務省神社局嘱託であった昭和2(1927)年から、國學院大學文学部教授となっていた昭和33(1958)年までの間に、考古学的調査や社寺宝物・民間習俗・建造物等にかかわる多くの写真を撮影している。これらの資料は多くはガラス乾板であり、枚数は合計で3704枚(うち手札版3152枚、キャビネ版551枚、四切版1枚)あった。また、これ以外に硝酸セルロースフィルムが573枚ある。

 多くの資料は、ほぼ全ての乾板で乳剤層の部分において、画像の周辺にあたる縁部で銀鏡(ミラーリング)を起こしていたり、中にはカビが生えた事によって白抜け・黄変色が起きたもの、ガラス面から乳剤層が剥離してしまっているものなど、経年変化から免れる事は出来なかった。

 國學院大學学術フロンティア事業実行委員会では、こうした劣化しつつある貴重な写真資料を、少なくとも現在の時点において保存し、専門家のみならず広く一般に向けて活用していく事を考え、株式会社アイ・シー・シー、日立エンジニアリング株式会社の協力を得て、デジタル化した画像データベースを構築している。近日、その一部を公開する事になるだろう。

 さて、現在確認されている写真資料は、大場磐雄が内務省神社局に嘱託勤務していた大正14(1925)年からのものであるが、これら初期の写真には昭和4(1929)年の伊勢神宮遷宮に際し実施された神宝宝物調査時に撮影され、「神宝宝物調査」とネーミングされた一連の資料がある。この時の写真資料は、昭和16(1941)年1月に神宮徴古館農業館からコロタイプ版の『神宮徴古館陳列品図録』として纏められている(神宮徴古館農業館1941)。この『図録』に掲載された写真には、大場資料の中に乾板が確認できるものと、確認できないものとがあり、一方、図録の中には全く紹介されていない撮影対象が乾板の中に残されていたりもする。『図録』の作成にあたって、写真資料がどのような理由から取捨選択されたのかについては不明であるが、少なくとも、大場以外の撮影者も存在していた可能性もある。

 ここでは宝物としての美術工芸品が撮影されており、この時期に先史考古学を研究対象としていた大場に、一方では近世以来の伝統的な「考古」に対する視点が存在していたとも解釈できるのである。

 大場磐雄が写真という手法を自らの研究に取り入れたと考えられる以前、すなわち内務省に勤務する前は、大学を卒業した後に一旦横浜第二中学の教員となっていたが、この当時の教え子に『古寺巡礼』等の文化財に関わる多くの作品集を残している写真家の土門拳がいる。土門は中学時代に大場磐雄と出会って以来、戦後まで大場と良好な関係が続いたようだ。土門は中学以来考古学にかなり深い関心を寄せており、大場からも強く影響を受けていたようである。実際、土門は戦後になって小瀬ケ沢洞穴・室谷洞穴等の学史的に著名な考古学調査でも、写真撮影を担当している。また、土門の最初の助手となった芹沢長介は、後に先史考古学研究者として活躍している。写真というメディアを介して、大場と土門との間で交わされたコミュニケーションがどのようなものであったかも両者の考古学や文化財へのかかわり方を考える上で一つの重要な観点であるのかもしれない。

 さて、大場磐雄の写真資料には「神宝宝物調査」における美術工芸品の撮影以上に、最も多い対象は考古学にかかわるものであるが、この伊勢神宮での調査と同じ頃かほぼ直後である昭和2(1927)年には、柴田常恵との共著で『石器時代の住居址』を出している(柴田・谷川1927)。この単行本に掲載された写真は、発掘調査によって検出された竪穴住居跡が写真に登場した最も早い時期のものだと考えられるが、ここに掲載されている住居跡や炉跡といった遺構にかかわる写真は、現在の多くの発掘調査報告書において撮影されている写真と比べると、遺構の全体像を俯瞰で撮影するカメラの位置等の点で極めて類似している。これは同時期に京都大学考古学研究室において刊行されたいくつかの報告書と比較すると興味深い点でもあるが、この事も今後の研究課題として残しておく。

 実は大場と柴田とは文化財と写真との関わり方において類似した動向が確認される。熊谷常正の発表にあるように、柴田常恵は内務省考察員として史跡指定に関わっており、大正7年には齋藤隆三とともに岩手県中尊寺の調査を実施している。この時の資料写真は大塚巧藝社によって『中尊寺大観』『中尊寺総鑑』として纏められており、真正面や側面を正確に捉えた写真が掲載されている。恐らく大塚巧藝社の専門の写真家によって撮影されたと考えられるこの写真は、大場の「神宝宝物調査」写真や、大場・柴田の『石器時代の住居址』のように研究者自らが撮影した写真と比べると、はるかに精巧なものである。だが、この本に掲載された写真について、柴田や齋藤がどのようなカットでカメラマンに撮影を実施する事を指示し、写真を選択し、書物に掲載していったり解説を加えていったりしたのかというプロセスの部分は明らかではない。少なくとも研究者が自ら調査し、調査対象を撮影した場合と、撮影そのものを専門家に任せる場合によって写真に技術的な差が生じてくる場合は確実に存在してくるのだが、技術的な問題とは別に、大場と柴田の、研究者個々人の視点の差異がどこで生じているかが、『中尊寺大観』と「神宝宝物調査」、そして『石器時代の住居址』にもあらわれている可能性がある。

 また、大場磐雄の写真資料の中で興味深いのは、風景ないしは景観を撮影対象とした写真が多く存在するという点である。神道考古学を確立した大場が、こうした人間の生存条件にかかわる問題を意識した時に景観の問題を認識したという点には、当時の和辻哲郎の『風土』に表現されたような人文主義的な景観論からの影響も考えられるのである。



1:『考古学雑誌』は、当初の『考古学会雑誌』という誌名から明治33年に『考古』に変え、その後は『考古界』を経て現在の『考古学雑誌』へという誌名変更の歴史を辿る。その間、『考古界』時代には写真があまり掲載されていないものの、『考古学雑誌』となってより、再び写真資料の使用が多くなっている。
2:考古学にかかわる情報が写真として記録されたものはさらに古い時期に遡る。例えば明治5(1875)年から明治21(1888)年の間「お雇い外国人」として日本に来日していたウィリアム・ガウランドは陵墓を含む近畿地方の古墳や出土資料を撮影しているし(後藤1997)、大蔵省造幣局では明治12(1879)年4月より実施した古美術調査の際に、陵墓の撮影を実施している(岡塚2000b)。また、富田紘一によると、明治10(1877)年の西南戦争直後の熊本を撮影した冨重利平の撮影写真の中には、意識したものではないが、古墳時代の横穴墓が写されているものが存在する(註3)。
3:富田紘一氏の御教示による。


引用・参考文献

伊藤純 1995 「文化財の調査・研究と写真−19世紀の文化財写真史−」『埋文写真研究』Vol.6 埋蔵文化財写真技術研究会
岡塚章子 2000a 「小川一真の「近畿宝物調査写真」について」『東京都写真美術館紀要』No.2 東京都写真美術館
岡塚章子 2000b 「写された国宝−日本における文化財写真の系譜」『写された国宝−日本における文化財写真の系譜−』展覧会図録 東京都写真美術館
柏木博 2000(初出1987) 『肖像のなかの権力』講談社学術文庫
角川書店編集部編 1966 『日本繪巻物全集 ]]U 石山寺縁起繪』角川書店
木下直之 1999 『写真画論』岩波書店
後藤和雄 1997 『写真考古学 写された歴史と写した目と』皓星社
斎藤忠(編著) 1993 『日本考古学史年表』学生社
齋藤隆三・柴田常恵 1927 『中尊寺総鑑』大塚巧藝社
柴田常恵・谷川(大場)磐雄 1927 『石器時代の住居址』雄山閣出版
神宮徴古館農業館 1941 『神宮徴古館陳列品図録』神宮徴古館
東京都大森貝塚保存会編 1967 『大森貝塚』中央公論美術出版
深澤芳樹 1995 「写真のタイポロジー」『埋文写真研究』Vol.6 埋蔵文化財写真技術研究会
山内利秋 2000 「近代化」・「博物館」安斎正人編『現代考古学の方法と理論U』同成社
東京国立博物館編 1973 『東京国立博物館百年史』東京国立博物館


『学術フロンティアシンポジウム 画像資料の考古学』 2000 國學院大學画像資料研究会発行

シンポジウム「画像資料の考古学」へ戻る


國學院大學 研究開発推進機構 日本文化研究所
     デジタル・ミュージアムの構築と展開
            学術資料データベース担当

       〒150-8440 東京都渋谷区東4-10-28
       國學院大學日本文化研究所
       E- mail:frontier@kokugakuin.ac.jp