総合的学問「国学」を継承してきた皇典講究所・國學院
校史・学術資産研究センター助教 藤田 大誠
近代には、近世以来の神道講究を中核とする総合的学問「国学」という基盤から、近代人文学としての「国文学」や「国語学」、「国史学」、「法制史」などが専門分科して行くが、皇典講究所・國學院では依然として「国学」の火は絶やされなかった。
東京帝国大学教授の芳賀矢一は、明治36年の國學院同窓会における講演「国学とは何ぞや」(『國學院雑誌』11-1、2)で、「今日、大学では文学・史学それぞれ専門に分れてやつて居るが、國學院では、ベイツクの言つた通り、国学の名の示すが如く、一国の学といふことを中心として、すべての学問をやつていかなければなりませぬ。国語・国文を基礎に置いて、国学のすべてを研究するといふことが、昔の諸大人のやつた事業でありますから、そのやつた仕事を基礎として、その上に新研究をそへて、合理的に歴史的に研究して行くのが、今日の明治の国学者の事業であらうとおもひます。」と語っている。
東京帝国大学では、すでに帝国大学文科大学時の明治22年に国文学と国史が分科していたが、その翌年の創立以来「国史・国文・国法」を兼学してきた國學院では、文字通り「国学」としか形容出来ない学問が継続されていたのである。芳賀は、大正7年に國學院大學学長となって9年の大学令による大学昇格を迎えることからも、自身の主専攻である「国文学」の先に総合的な「国学」―西洋の科学である「文献学」と伍すものとしての―の姿を國學院の中に見据えていたといえるのである。
また、明治31年の皇典講究所規定で「本所ハ、左ノ方法ニ依リ、国学ノ進歩拡張ヲ図ルヲ以テ目的トス」とある中に「一、国学者ヲ集メテ本邦ノ典故文献ヲ講究スル事、二、國學院ヲ置キ、学生ヲ養成スル事、三、国学者ノ志願ニ依リ、其学力ヲ検定シテ本所々定ノ学階ヲ授クルコト、四、国学ニ関スル著作印行ヲ為ス事、」と記されたことは、本学が明確な「国学的研究・教育機関」である証左である。特に皇典講究所・國學院の編纂・出版活動は、まさに近世国学の考証的営為を継承した近代国学の数多の研究成果を刊行したものであり、これらによって近代人文学の基盤整備がなされたのである。
例えば、明治41年より國學院大學出版部(当初は帝国書院発行)から出版された『國文註釋全書』20冊は、室松岩雄編、本居豊穎・木村正辞・井上頼囶の校訂によるが、その1冊目(平家物語抄他)の木村の序文には、「吾国文中の必要なるものを集め、其内より選択したるものなれば、国語国文研究者の座右欠べからざるものなり、且つその原本は、内閣秘庫の本、帝国図書館本、其他諸大家の蔵本にて、其校讎に従事したるは室松岩雄ぬしをはじめ、国学専修の人々なれば、校定の確実にして善本なる事、疑を容れず」とあった。この出版活動も、正しく「国学」の志を実行したものに他ならない。
重要と思われる諸本を見出して緻密に校訂し、その研究成果を社会に発信して行く、という根気のいる仕事を中心に行なっていた皇典講究所・國學院に関係する多くの国学者たちの地道な出版活動や、大事業である総合的類書『古事類苑』編纂などという地道な営為なくしては、決して現在の人文系諸学問が成り立たないことは、厳然たる事実である。
今後、校史・学術資産研究センターに求められるのは、このような近代における本学の国学的営為の「顕彰」とともに、その出版物の当時の価値或いは現在的意義も含めた再「検証」の作業ではないだろうか。
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