【目次】

裸の王さまの例(in わかりやすいオートポイエーシス(自己生産))

1-1 Andersonの童話

1-1-1 大臣と役人がついたウソ
 Andersonの童話『裸の王さま』1)では、ふたりの悪者(以下、「悪者たち」と称す)が、布を織らず服をつくらないのに、魔法の布で新しい服をつくる、と王さまにウソをついて騙そうとした。悪者たちのウソの核心は、その魔法の布が、役目にふさわしくない者やひどく愚かな者には見えず、かしこくて役目にふさわしい者だけが見えるということであった(Anderson(訳2004:11)参照)。王さまは、その魔法の布で服を作らせれば、家来のうちで誰がその役目にふさわしいか、誰がりこうで誰がおろかなのかたちまちわかると考えて、悪者たちにその魔法の布で服を作るように命じ、悪者たちは布を織っているふりをした(Anderson(訳2004:12-3)参照)。
 しばらくたって、王さまは年をとった忠実な大臣に、その魔法の布を視察に行かせた。機織り機には何もないので何も見えるはずがなく、大臣には何も見えなかった。大臣は「自分はおろかなのか、大臣にふさわしくないにちがいない」(Anderson(訳2004:18))と思い、「わたしには布が見えない、などとぜったい口には出せないぞ」(Anderson(訳2004:18))と判断した。そして、大臣は「このもよう!この色あい!そうだ、王さまにもうしあげよう。とてもうつくしい、みごとな布でございますと」(Anderson(訳2004:19))王さまにウソの報告をした。大臣は自分が役目にふさわしくなかったり愚かであると認めたくないために、大臣は王さまに対して、「とてもうつくしい、みごとな布でございます」(Anderson(訳2004:19))とウソをついてしまった。
 つぎにその魔法の布を視察に行った役人は、大臣と同様に、糸一本かかっていない空の機しか見えなかった。役人は「わたしはおろかものではない。それはたしかだ。とすると、わたしは、いまたいそうぐあいよくつとめているこのやくめに、ふさわしくないのだな。これはおかしなことになったぞ。だれにもしられてはならない。」(Anderson(訳2004:24)と判断し、王さまに「あのはたおりたちのおっております布は、このうえなく、すばらしゅうございます」(Anderson(訳2004:25)とウソの報告をした。

1-1-2 ウエにへつらうウソがエントロピーを高める
 Anderson(訳2004)で悪者たちが最初についたウソは、王さまの新しい服をつくるために織る魔法の布は、役目にふさわしくない者やひどく愚かな者には見えず、かしこくて役目にふさわしい者だけが見えるということであった。詳しくは「3−2 エントロピー」で定義するが、ここでは暫定的に、でたらめな情報のことをエントロピーが高い情報と呼ぶことにする。悪者たちが最初についたウソは、魔法の布が存在しないのに存在すると騙す、すなわち、意味するもの=「役目にふさわしくない者やひどく愚かな者には見えず、かしこくて役目にふさわしい者だけが見える布」という悪者たちの発言と、意味されるもの=「存在しない」物との結びつきがでたらめなためエントロピーが高い。そして、悪者たちは、布を織っているふりをするというボディ・ランゲージによって、無い物が有るというウソを「裏付けた」。自分が見たことを信じるならば騙されるはずがないウソであるが、自分が役目にふさわしくなかったり愚かであると認めたくない者は、このウソに騙されがちであった。
 まず、最初に視察に行った大臣が、自分が役目にふさわしくなかったり愚かであると認めたくないために騙された。大臣はウソをつけと強要されていないのに、大臣は王さまに対して、「とてもうつくしい、みごとな布でございます」(Anderson(訳2004:19))と、でたらめでエントロピーが高い報告をした。つまり、意味するもの=「とてもうつくしい、みごとな布」という大臣の報告と、意味されるもの=存在しない物との結びつきがでたらめだった。大臣がウソをついた結果、王さまは悪者たちがどんな布を織っているのかを知りたかったのに、それがわからなくなってしまった。詳しくは「3−2 エントロピー」で定義するが、ここでは暫定的に、わからないことをエントロピーが高いと呼ぶことにする。
 つぎに、役人も同様の動機で王さまに対して同様のコミュニケーションをとった。王さまがお供のものたちを同行して視察に行った際の大臣と役人の意味するもの=「なんと、うつくしいもようでございましょう!なんと、あざやかな色合いで!」(Anderson(訳2004:30))、および、お供のものたちの「ああ、なんとうつくしい布でございましょう」(Anderson(訳2004:32))という発言と、意味されるもの=存在しない物との結びつきがでたらめだった。大臣と役人が王さまに対して自分が役目にふさわしくなかったり愚かであると認めたくないためにウソをついた理由は、大臣や役人の人事権を持っているのが王さまであり、王さまに権限が集中しているという集権化である。もし、王さまが人事権を持っていなければ、大臣や役人は王さまにウソをつかなかったかもしれない。この「ウソつき王国」は王さまに権限が集中し、王さまの一存で大臣や役人の人事を決定できると推測されるため、大臣と役人は、自分が役目にふさわしくなかったり愚かであると王さまが判断して処罰されたり解雇されたくなかったために、ウソをついてしまった。つまり、集権化されたヒエラルキー型組織においては、組織成員がウエの者に対してへつらいご機嫌取りをするためにウソをつきがちとなりやすい。なお、権限階層、元請−下請関係、年齢、学年などを包括して地位の上下差の上位をウエと呼ぶことにする。このように、ウエの者に対してへつらってウソをつくと、コミュニケーションのエントロピーが高くなる。大臣と役人は、ウソをつきたかった訳ではないのに、自分の目で見たことを正直に王さまに報告せずに、悪者たちのウソに騙されてウソをついてしまったのは、悪者たちのウソが大臣と役人のウソを生んだエントロピーが高いコミュニケーションの自己生産に他ならない。

1-1-3 パレードの見物人がついたウソ
 大臣と役人が王さまにウソの報告をしたころ、みやこの人たちの間では、魔法の布は絹や金を惜しげもなく使ったぜいたくな布だという噂が広まっていた。  王さまは、先に視察に行った大臣と役人を含むお供のものたちを同行して、自分でも魔法の布を視察に行った。ふたりとも自分には見えないが他人にはすばらしい布が見えていると勘違いしていた大臣と役人は「王さま、どうぞごらんくださいませ!なんと、うつくしいもようでございましょう!なんと、あざやかな色合いで!」(Anderson(訳2004:30))と発言した。すると、王さまは「わたしには、なにも見えない!たいへんだ!わたしはおろかものなのだろうか。それとも王にふさわしくないのかな?」(Anderson(訳2004:31))と考えたが、「おお、まことにうつくしい!気に入ったぞ」(Anderson(訳2004:31))と発言した。そして、お供のものたちは、誰にも何も見えなかったが、「ああ、なんとうつくしい布でございましょう」(Anderson(訳2004:32))と発言し、王さまにこの布で新しい服を作らせてパレードの際に着用することを勧めた。  悪者たちは、存在しない魔法の布で新しい服を完成させたふりをして、「さあ、できました!王さまのあたらしいおめしものでございます」(Anderson(訳2004:35))とウソをついた。さらに悪者たちは、魔法の布はクモの糸のように軽いため、「すべておめしになっても、まるでなにもおめしになっていないように、おおもいになるでしょう」(Anderson(訳2004:37))とウソをついた。そして、悪者たちは、「さあ、王さま、いまのおめしものをおぬぎになって、鏡のまえにお立ちください。あたらしいおめしものを、お体におあわせいたします」(Anderson(訳2004:38))と言って、王さまが着ていた服を脱ぐと、存在しない服を着せるふりをした。すると、お供のものたちは、王さまの存在しない服について「おお、なんとおにあいだろう!」「お体にぴったりだ!かたちも色も、じつにすばらしい!これこそ王さまのおめしものだ!」(Anderson(訳2004:39))と口をそろえて叫んだ。そして、王さまは裸でパレードの行進をした。パレードの見物人は、みんながほめている服が自分には見えないことを知られたくなかったため、「やあ、王さまのあたらしい服は、なんてきれいなんだろう」(Anderson(訳2004:43))と声を合わせて叫んだ。

1-1-4 ウチの規範がエントロピーを高める
 悪者たちがついた仕上げのウソは、意味されるもの=裸の王さまとそれを意味するものとの結びつきの偽装であり、存在しない「あたらしいおめしものを、お体におあわせいたします」(Anderson(訳2004:38))というウソと、存在しない新しい服を着せるふりをするというボディ・ランゲージを用いた。その結果、意味されるもの=裸の王さま=王さまの存在しない服を、お供のものたちは、意味するもの=「おお、なんとおにあいだろう!」「お体にぴったりだ!かたちも色も、じつにすばらしい!これこそ王さまのおめしものだ!」(Anderson(訳2004:39))と、パレードの見物人は「やあ、王さまのあたらしい服は、なんてきれいなんだろう」(Anderson(訳2004:43))と表現した。
 つまり、王さまのお供のものたち、および、パレードの見物人は、意味するもの=「すばらしいきれいな服を着た王さま」と、意味されるもの=裸の王さまとの結びつきがでたらめなウソを共有した。そして、「すばらしいきれいな服を着た王さま」というウソを共有することが、この王国という運命共同体の規範であると考えたウチの規範のためである。ここでは、特定の価値や規範を共有する人びとをウチと呼ぶことにする。つまり、日常語では、「ウチの会社」、「ウチの職場」、「ウチのしきたり」などのように、国家や会社全体などの相対的に広範囲な「ソト」と対比して「ウチ」と呼ぶ範囲の人びとのことである。また、規範(norm)とは、法律や就業規則などの公式規則だけでなく非公式規則を含めて、実際に遵守されている規則のことを指し、ウチの規範とは、法律や就業規則などの公式規則への違反を含めて、ウチで遵守されている規則のことである。そして、明文化されていない規範を掟と呼び、ウチの掟とは、法律や就業規則などの公式規則への違反を含めて、ウチで遵守されている明文化されていない規則のことである。ウチの意味、すなわち、その他の人びとにとってはウソに過ぎないが、特定の人びとだけがウソを偽りの「事実」として共有する意味作用はエントロピーが高い。このように、ウチだけで通用するウソをつくと、コミュニケーションのエントロピーが高くなる。そして、このウチの意味は、最初はウソをついていると自覚してウソをついていても、ウソをついているうちにウソが「事実」だと信じ込ませてしまうウソの共犯を生み出す。
 ウソをウソで塗り固めるように、エントロピーの増加のうち、あるでたらめな意味作用を担うエントロピーが高いコミュニケーションに、そのでたらめな意味作用を肯定するエントロピーが高いコミュニケーションを継起的に連鎖させてさらにエントロピーを増加させることを指してエントロピーの増殖(multiply of entropy)2)と呼ぶ。このエントロピーの増殖は、あるコミュニケーションに他のコミュニケーションが連鎖するという点では継起関係に、意味するものと意味されるものとの関係がでたらめであるという点では共時関係に関わる。さらに、エントロピーの増殖は、ウソがウソを生む、つまり、エントロピーが高いコミュニケーションを生むという、エントロピーが高いコミュニケーションの自己生産過程である。なお、エントロピーの増殖は、この過程を構成するコミュニケーションのすべてが故意にエントロピーが高いコミュニケーションを発信することを要件とはしない。
 このようにAnderson(訳2004)の国民たちが「すばらしいきれいな服を着た王さま」というウソを共有してしまったのは、ウソを共有しないと仲間はずれにされるという不安と、ウソを共有すればその場の雰囲気で盛り上がることができるという熱狂とが混在した、いわば集団の狂気とも言える集合行動のためである。王さまのお供のものたちとパレードの見物人は、ウソをつきたかった訳ではないのに、自分の目で見た裸のさまは見えなかったことにして、「すばらしいきれいな服を着た王さま」というウソを共有してしまったのは、不安と熱狂とが混在した集合行動が生んだエントロピーが高いコミュニケーションの自己生産に他ならない。

1-1-5 ひとりのちいさい子どもの発言
 Anderson(訳2004)では、王さまが裸でパレードをしている時に、ひとりのちいさい子どもが「でも、王さまはなんにもきていないよ!!!」(Anderson(訳2004:45))と発言し、この子どもの発言はパレードの見物人に伝わっていき、「でも、王さまはなんにもきていないよ!!!」(Anderson(訳2004:47))とみやこじゅうの人が声をそろえて叫んだ。王さまは人びとが言っていることは事実だと思ったが、そのままパレードを続行した。

1-1-6 エントロピーを減らすためには
 Anderson(訳2004)の国民であっても、ちいさい子どもは王さまの人事権により役目をとかれる心配が無く、かつ、おとなたちから仲間はずれにされることを心配する必要が無かった。そこで、ひとりのちいさい子どもが意味されるもの=裸の王さまを正確に意味する「でも、王さまはなんにもきていないよ!!!」(Anderson(訳2004:45))と発言できた。そして、この発言を契機として、パレードの見物人たちが王さまが裸であるという事実を認めるようになり、Anderson(訳2004)のパレードの見物人たちのコミュニケーションのエントロピーは低下した。
 では、Anderson(訳2004)において、どうすれば裸の王さまのパレードを回避できただろうか。
 最初に視察に行った大臣は、視察に行く前に、役目にふさわしくない者やひどく愚かな者には見えず、かしこくて役目にふさわしい者だけが見える魔法の布という噂を聞いていた。大臣は視察に行った際に、「はたにかかっているはずの糸が、一本も見えないぞ。おりあがった布も、ぜんぜん見えないぞ!!」(Anderson(訳2004:16))と視覚した。大臣はこの時に、自分の目で見た結果を信じて、意味するもの=「役目にふさわしくない者やひどく愚かな者には見えず、かしこくて役目にふさわしい者だけが見える布」という悪者たちの発言と、意味されるもの=「糸も布も無い」という自分の視覚との結びつきを問い直す、すなわち「行為の意図せざる結果がもたらされたとき、もとの行為に立ち返ってなぜそうなのかを問いなおす」(今田(1986:264))自省すれば良かった。そして、事前に聞いていた噂を、「糸も布も無い」と修正して、王さまに報告すれば、裸の王さまのパレードを回避できただろう。つまり、「行動の結果を調べて、その結果の善悪で未来の行動を修正する」(Winner(訳1954:71))フィードバックにより、エントロピーを減らすことができる。したがって、意味するものと意味されるものとの結びつきを問い直す自省と、結果に基づいて当初の予想を修正するフィードバックによって、コミュニケーションのエントロピーをを減らすことができる。
 仮に、大臣と役人が童話通りに王さまにウソの報告をしたとしても、王さまが先に視察に行った大臣と役人を含むお供のものたちを同行して魔法の布を視察に行った際に、「わたしには、なにも見えない!」(Anderson(訳2004:31))という自分で見た結果に基づいて、「役目にふさわしくない者やひどく愚かな者には見えず、かしこくて役目にふさわしい者だけが見える布」という悪者たちの発言と、「なにも見えない!」という自分の視覚との結びつきを問い直し、大臣と役人の報告を修正すれば、裸でパレードして恥をかかなくて済んだはずである。

§注§
1)Anderson(訳2004)での「わるもの」は「悪者」、「まほう」は「魔法」、「あたらしい」は「新しい」、「やくめ」は「役目」、「もの」は「者」、「おろかな」は「愚かな」、「けらい」は「家来」、「だれ」は「誰」、「ちゅうじつ」は「忠実」、「じぶん」は「自分」、「かがみ」は「鏡」と表記した。
2)小木曽(2013)での「情報エントロピーの濃縮」を、ここでは「エントロピーの増殖」に改めた。

【参考文献】

※ この草稿は小木曽道夫( ? ) 『自己生産する組織第2 版』の1 章に掲載する予定である。

Copyright by 2013-8, Ogiso Michio (小木曽道夫), 2013年5月20日初出→2018年4月24日更新
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