障害者青年学級での自己変革と自立生活

.はじめに

町田市障がい者青年学級は、一九七四年一一月、親の会の要求から生まれた。教育も福祉も非常に貧しい時代、中学の障害児学級の卒業生たちの多くは、在宅というかたちか一般就労をして差別のきつい社会に立ち向かうかのいずれかを選ばざるをえない状況にあり、子どもたちが社会におしつぶされたり非行や犯罪にまきこまれたりしないための場としての青年学級の開設は、親たちの切実な願いだった。

この事業にたずさわった公民館職員大石洋子らは、その親たちの願いを引き受けつつも、それを単なる保護の場に終わらせず、積極的な学習と発達の場として位置づけることにし、目標として「生きる力や働く力の獲得をめざす」という言葉を掲げた。この背景には、当時、公民館で開催されていた一般の勤労青年の青年学級における経験と高まりつつあった発達保障の思想とがあった。

以来三〇年青年学級は、学級生が自らを主体的な存在として生き直し、主人公として社会に向かうための学びと成長の場となり、数々のドラマを生み出してきた。ここでは、この青年学級に担当者と呼ばれるスタッフの一人として関ってきたものの立場から、ある学級参加者の足跡をたどることによって、青年学級における知的障害者の自己変革と自立生活とは何かを考えてみたい。

二.高坂茂さんの歩み

(1)青年学級との出会いと主体性の自覚

ここで紹介したいのは、一九九〇年にパリで開かれたILSMH(国際育成会連盟)の世界会議に日本で初めて当事者として参加し、その後日本の知的障害者の本人活動の始まりをリードしつつ、二〇〇〇年三月職場のクリーニング工場の事故で亡くなった高坂茂さんのことである。

高坂さんは、一九七九年に職場の同僚に誘われて青年学級に参加した。二二歳のことだ。中学の障害児学級を卒業後、鉄工所に勤務し、クリーニング工場に移ったのをきっかけに青年学級と出会うことになった。

この頃、青年学級では、集団活動の柱として、自治的な集団づくり、表現活動への取り組み、生活を見つめなおすことなどの重要性を実践の試行錯誤の中から見出しつつあり、また、一人一人に目を向ける上で、その学習要求をいかに引き出し、応えていくかということにも力を注いでいた。

当時の実践報告集(一九八一年の報告)に彼の言葉が載っている。「(学級に入ってえたものは)人の意見を尊重するようになったことだと思う。それまではがむしゃらにやっていたが青年学級でそれではダメだと思った。それとやっぱりともだちがたくさんできたことかな」「学級生に対しては、あまり担当者に頼らず自分たちの力でできる範囲でやっていってほしいと思う。難しいことだが、じぶんたちの青年学級だということを自覚して、担当者を動かしていくようにがんばってもらいたいなあ。担当者に対して思うことは、あまり手出しをしないで青年たちをよい方向にむけていってほしい。」と述べている。仲間との出会いによって開かれた新しい世界で、主体的であることの大切さを発見した彼の姿がここにある。

(2)学習を通した自己変革

また、高坂さんたちは、その学習要求の高まりを、学習サークルづくりへと向けていく。社会で生きていくには不十分な文字や計算の力を高め、できうるならば資格を取得したいとの思いから始めたものだが、援助者を求めるために高坂さんは、募集のビラを堂々と公民館に掲示した。数や文字が苦手であるという自分たちの障害の事実を隠すことなく述べた上で、対等の立場での援助者を探す姿は、後の本人活動に向かう高坂さんの姿の先取りといってもよかろう。

また、一九八四年には、青年学級で自分たちの考えをいろいろな人たちに伝えようとの目的で作られていた文集「とびたとう」の編集長にも就任する「とびたとう」には四号まで、編集長はいなかったが、五号より学級生の中から編集長を選ぶことになり、高坂さんが選出されたのである。青年学級には、班長というリーダーの組織はあるが、全体を束ねる役割は存在していない。その意味では、編集長という役割は、学級全体を見渡すリーダーの位置に彼が立つとともに、学級の外の社会へ向けて自分たちの意見をアピールするという課題に向かい始めたことを意味している。

一九八五年には、生活づくりということを新たに実践の柱として掲げて始められたコース制が始まったが、高坂さんは生活コースに所属し、仲間と生活を語り合うとともに、担当者からの提案で性の問題に取り組んだ。テキストには、この頃、翻訳出版されたスウェーデンの当事者向けの性について学ぶ本「わたしとあなた」が用いられ、活発な議論が交わされた。高坂さんも、自らの恋愛のことなどについて語っている。性の問題は、けっして狭い意味での性ではなく、一人の大人として自立することや人を愛するという問題に取り組んだものであった。

「ぼくはある人をひとめみてからすきになりました。もしこの人と結婚できたなら幸せです。()二年前に妹が結婚をしたからぼくはむしょうに結婚がしたくなりました。はやく幸せな家庭をつくりたいと思います。」

しかし、こうした青年学級の活動の発展とはうらはらに、高坂さんの生活の状況はけっして楽なものではなかった。「ぼくはふだんは仕事にいって夜おそいから日曜日青年学級にくるのがやになってしまった。なにもかもすてて一人でたびにでたくなりました。ぼくは仕事も家もやになることがあります。中学をでてすぐはたらきだしたから一人のたびにでたくなってしまいました。一人であるきたくなってしまった。」というような文章に表れているのは、学ぶことによって高まっていく意識にもかかわらず変わらない生活に対するはがゆさである。

(3)パリ会議への参加と本人活動の創設

高坂さんに、パリの世界大会への参加の話がもちこまれたのはそういう時期だった。しかし、渡航の費用はない。そこで、カンパを募ることとなり、彼はお願いの文章を書く。

「みなさまにおねがいします。わたしを第一〇回ILSMHパリ大会にさんかさせてください。()貸しおむつの会社につとめて一三年になります。(略)きゅうりょうは一八〇〇〇〇円もらっていますが家にせいかつひとしていれているので、じぶんでじゅうにつかえるお金は一〇〇〇〇円から一五〇〇〇円位です。()わたしが、こんどのパリ大会にさんかしたいりゆうは、日本だけじゃなくて、世界のしょうがい者と、きょうつうてんをさがして、いろいろ話しあっていきたいということです。()大会でまなんできたことを、町田の青年学級のなかでみんなにつたえていかしていきたいし、ぶんしゅうにしたり、およびがあれば、どこにでもでかけていっておはなししたいとおもいます。大会にさんかすることで、じぶんのちからをたしかめかわっていきたいとおもいます。()

実際、渡航に充分な費用が集まり、高坂さんは五人の当事者の一人としてパリへと旅立った。後に日本の本人活動の原点となるこのできごとの意味の大きさは、この時点ではまだだれも知るよしもなかった。

そして、帰国後高坂さんは、当事者の声を集めた文集「私たちにもいわせて ぼくたち私たちのしょうらいについて 元気のでるほん」の編集長となり、その冒頭をこのお願い文が飾っている。このとき、大会への参加を文集づくりということに発展させていったことは興味深い。それは、実は、すでにお願い文の中にも記されていたことであり、ここには、明らかに、青年学級の文集で編集長を務めてきた高坂さんの経験が生かされていた。そして、こうした帰国後の一連の動きの中で、日本最初の本人の会「さくら会」は誕生したのである。

また、一九九四年一〇月にはNHK厚生文化事業団主催の研修旅行でスウェーデンに向かう。知的障害者の当事者活動の先進地を訪れた高坂さんは、スウェーデンの具体的な現実をまのあたりにし再び大きな刺激を受けて帰国した。

 この頃、高坂さんの活動の中心は、町田の青年学級よりもさくら会の方へと移っていた。

「ずいぶん前は青年学級が仕事のリフレッシュになっていたが、長く続けているうちにリフレッシュできなくなり、(略)そんなときパリ大会の話があり、ぜったい行きたいと思った。()青年学級だけのころは、人生は平坦だと思っていたが、パリ大会のあとさまざまなことがあり、人生は山あり谷あり、イヤなこともあればいいこともある。地獄ばかりではないと思えるようになった。これをきっかけに仕事もリフレッシュできるようになった。」(一九九七年第一回就労支援セミナー報告「私の人生」より)

 高坂さんの日常生活自体にはほとんど変化はなく、相変わらず厳しい労働が続いていた。しかし、もはや、高坂さんはいらだっていない。自分の活動を通して社会の現実が動いていく手ごたえをひしひしと感じていたときの言葉だったろう。

(4)新たな青年学級の模索と死

その高坂さんが、青年学級にもう一度目を向けるようになったのは、一九九八年のことだった。高坂さんは、さくら会の学習会に招いた弁護士を町田にも呼んで権利の問題について考えたいという計画を立てた。

こうして取り組まれた一九九八年度の活動は、大きな成果をもたらした。一つは、弁護士を公民館に招いて学習会を開くことができたことであるが、学級生の様々な生活に関する要求が掘り起こされたことである。中でも、一人暮らしをするために不動産屋に一人で行って断られた話を突然始めた今田さんの存在には、高坂さんも非常に驚いていた。寡黙な今田さんの中に秘められていた自立への強い思いは、活動に強い推進力を与えた。

高坂さんが町田に新しい風を吹かせようとしていた矢先の二〇〇〇年三月、高坂さんは職場の事故で帰らぬ人となった。追悼集会、高坂さんの業績をしのぶ劇の上演などを通して、仲間たちは、高坂さんの遺志をどう引き継いでいくかを考え合った。

高坂さんの事故から四年後の二〇〇四年五月二三日、公民館の一室で、「とびたつ会」の結成式が行われた。これは、青年学級の発展学級として独立した自主サークルであり、町田にようやく生まれた本人活動の会である。会長は、今田さん。まだ、小さな会ではあるが、今田さんの手には、高坂さんから受け取ったバトンがしっかりと握られている。

三.おわりに

以上、亡き高坂茂さんの歩みを通して、青年学級における自己変革と自立の姿を述べてきた。一人一人の置かれた状況によって、その姿は個性的なものだ。しかし、ここから見えてくるものは、まず、自己変革については、主体性の確立と表現方法の追求ということの重要性であり、それは主体的かつ共同的な学びのプロセスを抜きにしてはありえないということである。

また、自立ということについて言えば、ただ環境や社会に上手に適応していくことではなく、それをより自分にとって生きやすいものに変えていく姿勢をもち、それを仲間とともに行動に移していくことである。

人間の可能性ははかりしれない。それは、当事者も支援者も変わるところはない。三〇年前に、誰も予想だにしなかったドラマを青年学級は生み出してきた。そして、その歩みはこれからも続けていかなければならない。

(月刊「社会教育」2004年9月号)