深く秘められた思いとの出会い

─表現手段を手に入れるまでの純平君の歩み─

柴田 保之

1.はじめに

本稿は、重い脳性マヒのために、認識の水準を容易に探ることができず、言語はもちろんのこと、明確な身体的コミュニケーションも確立していなかった太田純平君という少年が、学習の進展とともにかな文字の区別が可能となり、さらにパソコンを利用して、様々な文章を綴り始めるにいたったことをめぐる報告である。

純平君がたどった学習の道筋や使用した教材、機器等は、ある意味ではきわめてオーソドックスなものであり、いったん文章を綴る姿を前にしてしまうと、こうした学習の進展は当たり前のことのようにも見えてしまう。しかし、この純平君と同じような状況にいながら、その力がきちんと尊重されず、きちんとしたコミュニケーションも成立しないまますぎてしまっている子どもは、案外少なくないのではないだろうか。私がそうした思いを強く抱くようになったのは、偶然時期を同じくして、文章を綴る力を有していながらそのことが十分に尊重されていない二人の子どもと一人の青年に出会ったからだ。本稿は、こうした現状に対する一つの問題提起でもある。そして、このことは決して文字を操る段階の子どもに限ったことではない。どんな段階にあっても、子どもの力が正当に尊重されえているかということは、常に私たちにとって大きな問題としてあるのであり、本質的には障害の程度にかかわるものではない。

また、純平君が綴った言葉の中には、仲間の死や自己の障害をめぐる深い思いを表現したものがあり、それは、狭い意味での言葉の学習の範囲を大きく越えたもので、ともすれば、目の前の課題にのみ心を奪われてしまいがちな私たちの関わりのあり方を、もう一度根本から問い直すものであった。それは、私たちが、向かい合っている子どもとは、いったいどういう存在なのかということを、改めて考え直さざるをえないものだったと言ってよいだろう。

 

2.関わり合いの概要

(1)   純平君について

純平君は、1990年の生まれで、生後9カ月で罹患した突発性発疹によって脳炎となり、その後遺症としてアテトーゼ型の脳性マヒという障害をもつこととなった。そして、不随意運動のために、姿勢の保持や運動のコントロールが困難で、通常の状況設定では、純平君の意図的な運動を引き出すことは非常にむずかしく、また、言語だけでなく、動作や視線等によ

るはっきりとした表出が困難なため、彼の認識の水準がどのようなものであるのかということを明確にとらえることがむずかしかったと思われる。

 一方で、その表情などに見かけ以上に言語的な理解をしているという印象を抱く関係者も少なくなく、母親や幾人かの関わり手は伝わっていることを信じて言葉をかけながら関わってきた・ただ、はい─いいえという意志の表出の手段も明確ではなかったため、これだけは確実に理解できていると客観的に言えるようなものがなく、このことを疑う者を納得させるだけの根拠を示すことはむずかしかったと言える。

(2)   関わり合いのかたち

ここで報告する時期に中心的に関わり合いをもってきたのは、私と2名の女性(KさんとNさん〉である。この関わり合いが始まる直接のきっかけは、Kさんが、就学前の障害児が通う通園施設の非常勤職員として、純平君たちと出会ったことに始まる。その後、Kさんが、その職を辞した際、その関わり合いの内容に共鳴した10名ほどの親たちの希望で自主グループが作られ、会館を借りるなどしてひと月に2回の関わり合いが継続されることとなった。1997年4月のことで、純平君の小学校入学と時期を同じくしている。発足と同時に、まず、Nさんが新たにスタッフとして加わった。そして、私は7月に初めて参加し、常時関わるようになったのは、12月からである。

私たちの関わり合いは、基本的には個別学習の形態で、一人一人の子どもにあった教材教具を提示することにより、その子どもが持っている外界のとらえ方や外界への働きかけ方が顕在化するとともに、そこで子ども自身が工夫したり発見したりすることを通してそれらが発展していくことを目ざしている。

その際、子どもの外界のとらえ方や外界への働きかけ方をどのような立場からとらえていくかということが問題となる,私たちは、基本的には、「人間行動の成りたち」(中島、1977)という言葉によって把握されてきた理論的枠組みに依拠してきた。これは、感覚と運動の問題や空間の構成の問題等を、その意味と高次化のプロセスに関して明らかにしたものであり、私たちが子どもの行動の意味をとらえていく上で、大きなよりどころとなっている。しかし、これは、決して、障害児教育の世界に頻繁に登場するあらかじめ決められた教育プログラムやマニュアル化されたOO法と名づけられたようなものを意味するものではない。関わり合いに際しては、関わり手自身が適切な教材教具の準備と働きかけ方を工夫する中で、一歩ずつ子どもの本当の姿に迫りながら、私たち自身が新しい発見を積み重ねていくものに他ならない。

 

3.関わり合いの経過

(1)通園施設における教材を通した関わり合い

就学前の通園施設におけるKさんの関わり合いの中で、教材教具を介した関わり合いの概略は以下のようなものであった。

すなわち、図1に示したような操作すると音の出る教材に対しては、その因果関係をよく理解し、積極的に意図的な運動を起こしてきた。こうした教材は、運動方向や力の調節など、運動の分化を促すことを目的とした教材として用いられることの多いものだが、残念ながら、不随意運動が激しいために、姿勢や腕の保持に援助を常に必要とし、個々の教材に応じて運動を調節しわけるということは困難を要した。しかし、運動の意図性はきわめて明確であった。また、切り替えスイッチのついた音の装置にも大変興味を示し、手首を支えられた状態で音の種類を変える小さなスイッチを指先で切り替えることができた。

しかし、こうした教材に対して示される純平君の行動からは、その認識の水準を推測することはやはり困難であると言わざるをえないだろう。ただし、Kさんは、こうした関わり合いにおいて、純平君は言葉を理解しているとの直感に基づいて、たえず言葉を媒介にしながら働きかけることを大切にしてきた。しかも、その直感は長い関わり合いの中で、確かめられ強められてきたものであった。

こうした就学前の関わり合いの持つ意味はきわめて大きかったと思われるが、それは、以下のようにまとめられる。

まず第一に、日常生活の中では、ほぼ全面的に受け身であり自分の運動が外界の変化を作り出すという状況を設定することは困難であるが、こうした教材を通して、確実に自分が外界の変化の主体になりうるという感覚、すなわち自己効力感とも言うべき自己認識が培われたということである。

第二に、教材をめぐって明確なコミュニケーションが成立しているということである。教材を提示し、姿勢や手を援助する側の意図に対して、純平君は行動によって教材に対する明確な意図を表現しており、そこではたくさんのやりとりが成立していることになる。これは、ともすればあいまいな言語のみを通じたやりとりとは違い、関わり手と純平君の問のやりとりのずれも少なく、また、誰も疑うことのできないものであった。こうした確実なコミュニ

ケーションを通して他者に対する信頼や他者に正当に受け入れられているという感覚を育てることができたと考えることができるだろう。

第三に、そのような行動を通した明確なコミュニケーションの上に、関わり手の側から言葉がかけられているということは、言語面だけを見れば一方通行的であるが、全体としては言語的コミュニケーションが成立しているということができる。なぜならば、純平君の側から見れば、教材を介したやりとりにおける自分の行動は、教材のやりとりに関して語りかけられる言葉に対する応答にもなっており、「ぼくできるよ」というような意味を担った言語としての性格を持っていたはずだから、そこには、言語的なコミュニケーションの必要条件がほぼそろっていることになる。もちろん、その時の相手が純平君の行動に言語としての意味を見いだすことは、言語だけのやりとりだったら容易ではないが、この場合、教材を介したやりとりとしてのコミュニケーションが成立しているため、相手が純平君の行動を言語的な意味を帯びたものとして見る気持ちがありさえすれば、そこに意味を読み取ることは不可能ではない。そして、まさにKさんはそういうことを大切にしていたのである。

(2)絵や形を通した働きかけ

1997年4月に純平君は小学校に入学し、通園施設時代の教材を介した関わり合いは自主的なグループの活動として始められることとなった。

4月の関わり合いにおいては、図2のような、2枚の断片を合わせて絵を完成する教材を導入した。すべらせることはむずかしかったが、触れるとすべっていくように教材をおくようにすると、手を介助されながら、腕全体に力を入れて教材をすべらせて絵を完成させることができた。

さらに、図3のように教材を置き、触れると一方の断片が倒れて絵が完成するようにすると、触れて絵を倒してほぼ絵が完成するのだが、絵がきちんとそろわないことに満足しない様子が見られた。そこで、さらに手を介助してそろうように動かしてあげると、満足したような様子が見られた。これは、純平君がこうした絵の認識に関して非常にきちんとしたものを持っているということを具体的に示すものであった。このことは、まだ、純平君の絵の認識の水準を正確に示すものではなかったが、これをきっかけに、学習は純平君の形の認識に

関する学習へと発展することになった。

5月、6月の関わり合いにおいては、まる、三角、四角のきわめてオーソドックスな形のはめ板を導入した。この時、1枚の板を二つの穴のうち、同じ形の方に入れるという形で学習を進めた。この学習では全面的な援助を必要とする上に、どちらか一方の選択肢を自由に選択することは難しいため、私たちは、同じ形の穴に入る運動が起こりやすい位置で腕を支え、純平君自身の自発的な動きを待ち、それと息を合わせるようにして、入れようとする純平君の運動を援助するというもので、私たちの方で運動の方向性を微妙に調整したり、不随意運動のように思われる運動が起こって手が板から外れたらまた戻してあげるというようなことを行っているので、純平君自身が本当に同じ形同士を選んでいるかどうかということを「客観的に」判断することはむずかしかった。しかも、私たちは、あえて必ず板が同じ形の穴に入るような位置に板を置くというように状況を設定したのである。

もし、これが「検査」だったとするならば、この項目を通過したとはされないだろう。しかし、私たちは、学習をしているのであって、検査をしているわけではない.純平君が行為として選択をしうる状況にないということは、決して認識として選択をしていないということを意味しているわけではないのである。私たちは、こうした同じ形の板と穴を関係づけるという行為を通して、彼が視覚だけでは得られない行為を通した形の意味づけということを、何らかのかたちで行っているのではないかと考えた。角と角を合わせること、辺と辺を合わせること、回転させることなど、形が同じであるということの背後には、多くの行為的な意味づけが存在しているのであり、彼はたとえ多くをガイドされていたとしても、自分自身の行為を通してそうした意味を納得していたと考えたのである。

その後の学習の進展から推測すると、この時点で形の区別はすでにきちんとでき上がっていたと考えられ、この学習はすでに不要なものであったかもしれない。しかし、この学習をこうしたかたちで越えることによって初めて私たちはさらにその先を構想しえたのであり、この学習を不用意に検査と混同して足踏みしていたならば、それは不可能であったと言える、、その意味では・この客観的な手がかりの乏しい中で、純平君の表情や運動の印象といったきわめて「主観的」とも言えることをよりどころとして学習を進めることができたことの意味は大きかったと言える。

(3)文字への導入

7月28日、純平君との初めての出会いの日、私はかな文字を提示することを試みた。私としては、これまでの学習の内容について得た情報からの印象では、上述したような形の学習が純平君の認識の水準のぎりぎりのところでのやりとりではなく、もっといろいろなことができるのではないかと思われたため、むしろ、徐々に学習の水準をあげるというよりも、一気にかな文字を提示してみて、純平君の反応を見たらどうかと考えたからである。

純平君に初めて出会ったばかりの私にとっては、彼の不随意運動の状況やそれによって限定されている意志表示の方法など、十分にわかっていたわけではなかったが、まず、あ行の5文字のひらがなのカードを見せてみることにした。ビデオを見ると、初対面の男性がいきなり問いかけてくることに対して、非常に緊張していることが表情からうかがえる。

そのような中であ行の5文字の中から「お」のカードを指さしたりしながら、「これは『お』という字だと思う人」というような働きかけを行ってみた。ビデオには、手を上げて返事をしたともとれる動きが写っていたが、その場面では特に純平君からの返夢はなかったと考え、あ行の文字の字形の区別について問いかけてみることとした。具体的には、「う」と「お」のカードを選択項として二つ並べておいて、もう1枚の「お」のカードを見本項として眼前で見せ、「このカードと同じのはどっちですか。」と言いながら、二つの選択項を順番に指さした。始めは直接何らかの身体表現表示をえようとしたが、確実にとらえることができなかったので、かすかな力で触れるだけでスイッチがはいる装置でチャイムをならすことによって意志表示をえようと試みた。私自身には、スイッチを入れるためには、母親が後ろから腕を介助しなければならないので、どこまでが純平君の意志なのかつかめなかった。

それでも、就学前から関わってきたKさんと母親にとって、純平君が少なくとも文字に対する興味があること、そして、字形の異同の区別については理解可能であるとの感触をえたようだった。

私自身は、この後の5カ月問、彼とは関わりを持たなかったのだが、次の回の学習からKさんとNさんによって文字の学習が導入されることになったのである。

ここで、文字の導入を決めるに際して、よりどころとしたのは客観的な根拠というよりもむしろ主観的とも言える「感触」のようなものである.純平君とまったく面識のなかった私には、そのような「感触」を感じとることはできず、文字を提示したこと自体がほんとうによかったかどうかについても迷うような状況だった。しかし、私はここで長期にわたって関わっているKさんの感性には信頼をおいていたので、この関わり手が目の前の純平君の姿から手ごたえを感じ取りながら純平君に声をかけている姿を私の判断のよりどころとしたのである,,こうした感触というようなあいまいなものに基づいて関わり合いの内容を決定するということには異論も多いことと思われる。しかし、私たちは、こうした感触を信頼せずに客観的な根拠にこだわっていれば新しい展開は生まれないことが往々にしてあるということ、そして、的外れな内容の提示は継続的な関わり合いの中でその不適切さが必ず明らかになるということを、私たちの関わり合いの.基本的な構えとしているので、ここで、文字学習へ移行することにふみきったのである。

(4)文字学習の展開

1)50音の学習

これまでの様々な実践から明らかにされているかな文字の学習のプロセスとして、例えば、一つのかな文字が構成される場(ここでは、1文字分のます目のような枠)において、その中に描かれる線や点の様々な空間的関係が分節化し、相互に区別されていくような学習が必要であることが明らかにされている,(具体的には、枠の中の点に対して、左右や上下というような位置に関する区別が可能となることなどから始まって、線分の方向や順序、重なり合いなど様々な空間的な関係が区別されるようになるようなこと(中島、1977)をここでは言っている。)

しかし、純平君に対する文字の学習は、いきなり、あ行の文字から初めて、毎回、か行、さ行と進んでいくというきわめてシンブルなものだった。そのことで十分学習が進んだということは.逆の言い方をすれば、かな文字の区別に必要になる分節化された空間をすでに純平君自身が構成しえていたということになるだろう。

具体的な学習のプロセスに目を向けると次のようになる。

まず、使用したのは、図4のような1辺5cmの立方体の積み木の上側の面に1辺5cmの正方形のアクリルの文字カードを貼りつけたものと、それを操作する枠である。両端に二つの文字を置き、真ん中にどちらかと同じ文字を置くというようにすると両端の文字のどちらかを真ん中目に寄せるということで意志表示をした。さらに、図5のように五つの文宇と一つの文字を置くと、同じ場所に持っていくということで意志表示を行なうようにもなった、,これらの場面でも、純平君の起こした運動を私たちが微妙に調整したりするようなことが必要なため、純平君の意志表示が誰の目にも明らかというわけではなかった。しかし、学習の進展とともに、表情には非常にめりはりがついてきて、うまく同じ文字同士をくっつけると喜ぶということが目立ってきた。

   

また、11月10日には、な行の学習をしたが、上記の学習のかたちにくわえて、2文字の単語の構成も行った。

私は、12月24日に再び純平君と会ったが、この日の学習はま行であり、五つの文字を合わせていく学習の後、「あめ」という単語の構成や、「め」と「ぬ」のような類似文字の違いの確認も行った。「あめ」の単語の構成では、「あ」「め」の文字の他に二つの不要な文字をくわえ、選択肢を四つにしたところ、まず不要なものを払いのけてから、「あ」と「め」を並べるというやり方をした。これは、「あ」や「め」を選択肢の中から選んできちんと並べようとすると、二つの文字が手に触れたりしてじゃまになるので、先に捨ててからやったものと思われ、しっかりとした理解が成立していることがうかがわれた。

また、この日、お子さんの出産のために入院しているKさんに「おめでとう」という手紙を一緒に書くということも行った。ほとんど、こちらが介助したものであったが、その後の展開から振り返ってみると、この手紙の意味は確実に理解できたと考えることができる。本人が納得していない単なる見せかけにすぎないのかどうかということは、この時点では一種の賭けではあったが、この日でなければ好機を逸してしまうことになると考え、行ったものだ。はずれていたら純平君には大変申し訳ないことになったところだった。私は、こうした一種の賭けは、関わりにおいては、非常に大切であると思っている。

年があけて、や行、ら行、わ行を行いつつ、「はいといいえ」の表現の問題にも取り組むこととした(1月6日)「はい」と「いいえ」の確実な表現手段の確立していない純平君が、かな文字の学習をするのは、順序が違うのではないかとの指摘があったということがきっかけだった。もちろん「はい─いいえ」の表現ができるのならば、それに越したことはない。しかし、身近で接している母親との間にも、絶対に確実と言えるコミュニケーション手段が存在していないということもあって、私は、そのことに性急に取り組むことはないと考えていた。

それでも、確かにかな文字をこれだけ理解している純平君が「はい─いいえ」を理解していないということはありえないわけで、一度きちんと取り組んだ方が、純平君の文字学習のことをより理解してもらえるだろうと考え、図6のような教材を提示した。この時「今日は学校はありましたか」とか「ここは、○○ですか」というように、非常にありきたりな、しかも、私自身がすでに答えを知っているようなことについて質問したところ、表情からも手の動きからも積極的に答えるような気配を感じ取れなかった。そこで、質問の方向をかえ、「純平君は、お年玉をもらいましたか」と聞いてみた。すると、とたんに笑いを浮かべ、懸命にスイッチを押そうとする動きに変わったのである。

   

私にとって、このことの意味は小さくなかった。それは、「はい─いいえ」というコミュニケーションに潜む陥穽に気づかされることとなったからである。

それは、まず私たちが、本当に聞きたいことを聞いているのかということである「私たちにとってすでに自明のことを聞くというのは、ただ相手を試しているにすぎないのであり、本当に答えようとする気持ちが起こらないということがあってもそれはしごく当然のことだと言えるのである。

そしてさらに、相手に「はい」という答えを要求するごとが、結局、相手を都合よく管理するにすぎないことがあるということである。純平君の場合にはっきりとそうだと言えるわけではないが、いったん「はい」と答えさせてしまえば、あなたが「はい」と言ったのだからということで大人が彼に要求をすることが正当化されるのだ。

もちろん、「はいといいえ」で高度なコミュニケーションをとっている子どもがいることはわかっているが、それは、こうした問題が何らかのかたちで解消されているからだと考えるべきだろう。(この後、私は、ある養護学校で、私の目の前で初めてパソコンで字を綴った重度の肢体不自由の高等部の生徒に会ったが、この場合も、「はい─いいえ」が成立していないとされており、ひらがなを知っているということは、誰一人として予想したものがいなかったのである。)いずれにしても、「はい─いいえ」の学習はひとまず、見送ることとした。

また、図7のようなアクリル板を使用した文字の構成にあたる学習も行った。1枚ずつの透明のアクリル板に、文字の1画ずつが書かれており、順審に重ねていくと、一つの文字が

完成するというものだが、純平君自身の運動で行うことが困難だったため、こちらが重ねていくのを見せるというかたちでの学習となった、この時、だんだんと文字が完成していく過程を食い入るように見ていたのが印象的だった。

2)文字の選択の学習

こうした段階で、5肢選択を行うための教材を提示した(2月9日)。これは、図8のように、スイッチを押すたびに、ライトが五つの枠の中を順次点灯していくようになっているものである。この場合、一つを選択したということが表現されるためには、スイッチを入れる運動とは別に、ある枠を点灯させたことが、次の枠にいくためのプロセスなのか、それを選ぶのかということを示す何らかの運動が必要となる。二つのスイッチを押し分けられるだけの運動の方向分化があれば、このことを表現するのに十分なわけだが、さしあたって純平君は明確に分化した二つの運動を表出することが容易ではないため、一つのスイッチで始めることとした。

  

学習の手続きは、最初は、あ行の5文字を1文字ずつ枠に提示した上で、あ行の中の1文字を見本として見せて、「これと同じ文字を選んでください」というかたちで進めることにした。純平君の意図的なスイッチを入れる運動を引き出すために、姿勢や手の運動の介助で様々な試行錯誤を要したが、ほどなく、意図的にスイッチを押すことができ、選んだところで、さっと大きな動きで手を引っ込めるというかたちで、選んだことを表現するようになった。この、選択の決定を強く表現する手を引く運動は、これまでのどの運動よりも強い意志を伝えてくるもので、非常に感動的なものであった。しかも、この意図的な選択は、誰の目にもわかりやすいものであり、もはや、彼がひらがなの形をきちんと弁別しているということは、疑いを入れる余地などないものであることがはっきりした。

さらに、視覚的な見本を見せるのではなく、こちらが発声した1文字を選択するという手続きに変えたが、同じように選択することができ、すでに音声と文字との関係づけもできていることが示された。

そこでさらに、図9のような5×5の選択を試みることとした(4月6日)。すなわち、あ行からな行あるいはは行からわ行までそれぞれ5文字のかなを縦書きにした紙を枠に張り付け、見本の文字がどの行の中にあるかを選んでもらい、さらに、選んだ行の5つの文字を枠に入れ、今度は5つの文字から1文字を選ぶという方法である。(このように、まず目的の行を選んでからさらに1文字を確定していくという方法はすでに、障害者用のワープロソフトとして開発されているものと原理的には同じことになる。)

    

また、同じ教材で単語の構成も行った。最初は、「かさ」「くつ」などの絵を見せ、必要な文字と不要な文宇と計5文字を選んで、その中から単語の構成を行うようにした。(4月27日)この時、必要な文字を選ぶことはできたが、左から順に文字を選んでいくので、例えば「かさ」の場合、必要な文字が左から順に「さ」「か」となっていれば、「さか」のように選んだ。これは、一巡で選択するための工夫であって、順序をまちがえたわけではないと考えられる。

さらに、5月25日からは、文字の選択の学習と平行して1個から5個のタイルを見せて、該当する個数の数字を選択する学習も行ったことも付け加えておく。

3)パソコンの導入

こうした学習の進展は、パソコンの導入の必要性を意味していたため、入力スイッチのためのマウスの改良や必要なソフト(「IBM漢字Pワード」)(注1)の購入などの準備をし、6月29日に導入した。なお、使用したスイッチは、五肢選択の教材で使用したレバースイッチである。

最初は、1スイッチのスキャン方式と呼ばれる方法で提示した。すなわち、一定の時間を置いて1行ずつ移動していくカーソルを、一つのスイッチを入れることによって止め、まず、行を選択し、続いて、その行の中を同様に移動していくカーソルをスイッチを入れることによって止め、一文字を選択するというものであった。この日は、なかなか自在に操ることができなかった.この原因は、自動的に移動していくカーソルを見続けることのむずかしさと、カーソルの移動のタイミングに合わせて運動を起こすことのむずかしさとの両方がかかわっているように思われた。

そこで、7月13日には、上述したレバ−スイッチで押すと引くの2種類の入力によって行うこととした、この場合、一方の入力でカ−ソルを1行ずつ、あるいは4文字ずつ移動させていき、もう一方の入力で決定するということになる。彼にとって、運動の種類からだけ言えば、明確に分節化された2種類の運動を起こすよりも、1種類の運動だけを起こす方がやさしいことになる。だが、上述したように1スイッチには別の困難が伴っている。どちらがよいかは、そうした長所短所を勘案した.上での選択ということになる。(注2)

実際に試みてみると、自分でタイミングをとることができるということが純平君にとっては非常に都合がよかったようで、みるみるうちに操作がうまくなり、文字の選択が可能になった。この日書いたのは、「いうきさせちさかたなあえかまし^たたおかあさたうあかあしえこあおいすくつくもいまりけあき」という文字であった。このうち、18文字分は、操作の練習としてうったものであるが、「おかあさ」は、「おかあさん」、2文字とんで「あか」「あし」「えこ」(Kさんの子どもの愛称)「あお」「いす」「くつ」という言葉が続いている。これらは、こちらが指示して書いた単語であり、本人が選んだものではなかった。だが、次の「くもい」からは、こちらが問いかけた質問に対する答えとして純平君が書いたものである。

この「くもい」という単語は、「今日の天気は」という質問に対する答えであるが、「い」という文字は、本人が、耳で聞き取ってきた音が「くもい」と聞こえていたためである,にの段階では、「り」と「い」という文字がよく似ているという理由も考えられたが、その後の展開の中で前者の理由であったことが確かめられた。)そして、この「まちがい」は非常に意味の大きいものであった。

まず、この時まで、おかあさんの介助が単に運動の介助だけでなく、無意識のうちに選択にも影響しているかもしれないという可能性を排除しきれておらず、そのことをおかあさん自身がいちばん気にしていたのであるが、「い」という言葉が選ばれたことにより、初めて、純平君自身が選んだということがはっきりしてきたのである。

さらに、こうした「くもい」という言葉は、私たち自身の基準に照らしてみれば、「まちがい」ということになるのだが、聞いた音声を文字に置き換えるという際に彼自身がよりどころとしている基準では、「くもい」となったというわけである。これは、彼自身の基準に照らせば「くもい」は正しいということになるわけである。一般に、子どもが示した行動が私たちの基準に照らした時に「まちがい」となる場合であっても、子ども自身の基準にのっとれば「正しい」ということになるのであて)て、その意味では、子どもの行動や判断には、「まちがい」はないということになる。そこで、もし、教えるということが成立するとすれば、相手のまちがいを正すことではなく、互いに正しい両者の行動や判断の背後にある異なった基準をどうやりとりしあうかということになるはずである。実際に、この次の関わり合いの時、彼は、「くもり」という書き方に修正することになる。そのことは、後述することとしたい。

ところで、この「くもい」という言葉の次に「まり」という言葉が続く。これは、「純平君の好きな友だちの名前を教えて」という問いかけに対する答えであった。「まり」という名前をうった時、おかあさんは最初は、「そんな子いないじゃない」と純平君に語りかけた,,そして、ややあって、「いる、いる、6年生に。純平のお世話をよくしてくれる子だ」とおっしゃった。そして、このことが、それまで、自分の介助が文字の選択に無意識のうちに影響を与えているのではないかというおかあさんの心配を払拭することとなった。ただ、厳密に言うと、これはおかあさん自身のご心配なのではない。おかあさんこそは、純平君をもっとも信頼してきた方なのであって、ここでの心配とは、これまでの学習でかなを理解しているということ自体をなかなか信じてもらえず、おかあさんが結局はやっているのではないかという疑いを持たれていたことから、生まれたものであった。その意味で、おかあさんにとって、「まり」という言葉を純平君が書いたということは、純平君が文字をはっきりと理解しているということの動かしがたい証拠となるものとして、大変大きな意味を持ったのである。

さらに「好きな食べものは」という質問の答えが「けあき」、すなわち「ケーキ」である。上述した理由で私たちはこれをまちがいとは考えない。ここに表現されているのは、/ケーキ/という音声をどう表現するかということについての彼自身の工夫である。こうした子ども自身の工夫に出会う時、私たちは、真に子ども自身と出会ったということが言えるのではないだろうか。

こうして、純平君とのパソコンの文字学習の道が開かれることとなったのである。8月4日は、「8月4目くもりかくれよんしんちゃん」というのが最終的に保存された文章である。まず、「くもり」の部分については、「今日の天気は」という質問に対する答えであるが、彼は、最初前回と同様、「くもい」と書いた。上述したように、「り」という文字と「い」という文字は、非常によく似ているし、実際、音に忠実に耳を澄ませると、「り」の/r/の音は必ずしも正確に発音されているわけではなく、/イ/に近い音である。そこで、彼の「くもり」にはそこで、「り」と「い」の.文字カードを彼に見せ、「『り』と『い』は似ているし、『くもり』というのは、/クモイ/って聞こえるように言っているけれど、僕たちは、−応/クモリ/と言っているつもりで、こっちの『り』の方を使っているんだよ。どっちでもいいけれどもね。」というようなことを説明した。この時の彼のはっと驚いたような表情は忘れられないものだった.そして、あわてるように速い動きでスイッチを操作して、「い」の文字を消し、「り」と改めて書き直したのである。そして、「り」という文字を選び出す正確さなどから、彼が「くもい」と書いた理由は、音声に関わる方の問題であると考えられた。

まちがいに気づいて直したという説明もありうるだろう。だが、彼は、この時、耳に聞こえてくる音が必ずしも正確に文字に対応しているのではなく、実際に発せられている音は結構あいまいであるということを学んだのであると考えてもよいのではないだろうか。ここで起こったできごとは、彼に正しい答えを教えたという一方通行のできごとなのではなく、彼がよりどころとしていた基準と私たちのよりどころとしている基準とがそこで交わされ.合い、彼自身が私たちの基準を受け入れたということになるのだと思う。それは、決して一方通行のできごとではなぐ、相互方向の対話的な事態であり、彼は、そのようなやりとりの中で、自ら学んだということになるだろう。

また、この次の「かくれよんしんちゃん」というのは、「好きなテレビ番組は」という質問の答えである。この時、彼は、「ち」まで書いたところで動きが止まってしまった。そばにいたKさんが、「小さい『や』をどう出すかがわからないんじゃないか」と言ったので、「や」を選択してから「小」というのを選択すると小さくなるということを説明してあげ、書いたものである。確かに操作のしかたについては、「教えた」ものかもしれない。だが、「けあき」という前出の言葉にしても、ちょうど長音や拗音といった例外的な音韻の表記をめぐるものであり、こうしたプロセスの中で、彼は、こうした音韻表記の新しい基準を身につけつつあったと言ってよいのではないだろうか。

(4)文章への発展

ところで、こうした文字の学習の進展をどの方向に向けて発展させていくかということが二の頃のわれわれの課題であった。こうした学習を単なる文字の学習に終わらせずに、純平君の認識の世界の広がりや深まりにつなげていくにはどうしたらよいかということである。そしてその一つの方向として、時間や空間の世界をきちんと整理していくということを考えていた。現実に、この時点で時間や空間に関する純平君の理解の仕方というものがまだほとんどつかめていなかったので、具体的な内容については、あいまいなままであったが、日付を聞いているのは、そうしたことの一環である。

実際に、彼は、この時点では、その日の日付を正確には知っていなかったため、時間の学習の手初めとして、日付を確かめることから始めたのである。ただし、純平君にとって、日付を理解する枠組みが確立していなかったというよりも、その日が何日であるかを知る必要がない生活を送っていたといった方が正確であろう。なぜなら、こうした働きかけの結果、彼は、ほどなくその日の日付について正確な理解を示すようになったからである。

こうした時間や空間といったことを通して純平君の認識の世界の発展を目指すということとは別に、もう一つ、大切にしなければいけないこととして考えていたのは、純平君の自己認識の問題であった。これについても、実際に彼がどう自分自身をとらえているかについてほとんどわかっていない時点では、目具体的な方向性が見えていたわけではない。

だが、そのことがどうしても気になっていた私は、9月15日に、一つの質問を彼にすることにした。それは、「大きくなったら何になりたいか」というものである。非常に重い障害のある小学校2年生の少年にこうした質問を投げかけるということは、いささか無謀なことではあった。実際、お母さんも含めてその場にいたものは、いったい何と無神経な質問をするのだろうと感じたはずである。しかし、私は、仮にこの質問の答えがうまく得られなくても、,純平君との間に入間として大切なことを語り合う関係を作るための一つの布石となっていくだろうという思いがあったのである。

答えは、「せんしゅをかんとく」という、あまりにも、予想を越えた驚くべきものであった。1文字ずつゆっくり書いていくのを横で見守りながら、「せんしゅ」と綴られた時点では、やはりこの質問はすべきではなかったかというような一抹の後悔の念が脳裏をよぎったりもした。しかし、彼は、そこで書き終えることなくさらに文字を書いていったのである。「かんとく」という言葉が綴られた時、本当に驚いた。ようやくかな文字が綴れるようになったばかりの小学校2年生で、しかも、ついこの問まで、はいといいえもわからないのではないかと言われていた少年が、すでに自分というものを深く理解していたことが、この一つの言葉で突然明らかになったのである。私たちは何という思い違いをしていたのだろう,そして、この質問をしなかったら、まだまだずっと思い違いをし続けていたにちがいない。この日から、純平君はまったく違った存在として私には映るようになったのであり、私たちの関わり合いを根本から見直す必要に迫られたのである。

この秋、11月28日の誕生日に犬を買ってほしいということを彼はおりにふれて主張した。それだけで関わり合いの時間が終わってしまうこともしばしばであった。そして、それは、彼が自分の主張を生まれて初めてきちんとした文章で行った場面であって、非常に貴重なやりとりであると思われた。犬を飼うということができないという家庭の事情があるため、この希望はかなえられなかったが、その後の関わり合いで彼はこう書いた。「いぬかうダックスフンドかういつかかう」と。買ってもらえなかった悔しさから始まった文章だったが、最後には、「いつかかう」という自分自身に納得するような言葉で終わっている。文章を綴るということが、自分自身との対話であり、自分自身の思いを整理することにつながっていることがわかる。もし、彼が言葉を表現する手段を持たなければ、犬を飼いたいという主張もすることはなかったであろうが、また、その思いを整理することもなかったと言えるだろう。

なお、この頃も、平行して、時間や空間ということに着目した働きかけは試みなかったわけではない。10月19日の「ながやま」という言葉は自分が通っている病院のあるところである。また、11月・2日の「まちだ」というのは彼が住んでいる町である。しかし、彼にとって、こうした問いは、退屈だったようで、文字を綴る手も進まなかったし、「まちだ」からさらに、住んでいる町名や最寄駅を問う.質問には答えようとしなかった。

そこで「純平君の中で、気にかかっている場所の名前があったら書いて」と尋ねてみた。その問いに対する答えが「すあ」というものである。これは、何のことか最初はわからなかった。しかし、「くもり」を「くもい」と書いた時と同様、彼自身が聞きとった音声をそのまま表したもので、「すわ」を表現したものだった。同じ場所の名前であっても、彼が本当に表現したいものを書くことと、月並みな、しかもこちらもすでに知っている住所などを聞くこととの違いはあまりにも明白であった。そして、この「すあ」=「すわ」とは、就学前からずっと関わってきたKさんが結婚して住んでいる場所であり、彼がこの場所の名前を綴ったということは、彼がKさんと就学前に過ごした時間をとても大切に思っているということを推察させるものだった。

このようにして、ベールをはがすようにして彼の心の世界が少しずつ明らかになっていく中で、一一つの悲しいできごとが起こった。それは、グループの中の女の子が年明けに亡くなってしまったのである。そして、そのすぐあとの関わり合いの時、私たちは、彼に、このことについてどう考えているかを尋ねることにした。これが残酷な問いであるということはわかっていた、、しかし、こうした場面で語られるのは、常に大人の意見であり、子供自身の声が聞こえてくることはほとんどない。しかし、同じ立場の者にしかわからないものがあるにちがいないと考え、純平君に尋ねてみることにしたのである。

その答えとして書かれた文章が、「し」と題した「しにたくないと○○○わおもったとじゅんぺいわおもう。しわいやだ。いきたいとおもう。」という文章である。さらに、その次の2月2日には、「いきる」と題して、「いきたいとじゅんペいがおもうのは○○○がしんだからです。からだがうごかなくてもいきていくとかんがえた。」という文章を自発的に書いた。この二つの文章も、私たちに激しい衝撃をもたらした。彼の言葉は、亡くなった友だちの心をしっかりと的確に代弁したものであり、さらに、同じ障害のある立場に立つものとして、その死を受け止めた上で、生きていこうという彼の決意の表明は、われわれに深い感銘をもたらすものだった。

なお、資料として、この2月2日までの文章を全文添えておくことにする。その後の展開については、また、改めて、いつか純平君自身の解説をまじえて、より正確な記録としてまとめ直すことができたらと思う。いや、それは、純平君自身の手によって行われることになるのかもしれない。

 

おわりに

最後に、彼が小学校3年の秋に書いた二つの文章を紹介しておきたい。一つは、「けんり」と題した文章である。宿泊学習に風邪をひいていけなくなったことをめぐる文章である。彼の主張は、自分の意見を聞いてもらいたかったというところにあることに注意していただきたい。これは、決して学校の対応が、差別的だったということを言おうとしているのではないことも念のため付け加えさせておいていただく。「なやんでたべられなくなった。学校なぜさべつするのか。みんなとおなじにしたい。ちがうのはいやだから。せきがでてもいきたかったのにしゃべらせてくれなかった。ぼくのけんりはみとめてくれなかった。」(1999年10月12日)

次は、中学校の進路について母親たちが話しあっているのを耳にした時に書いた「じぶんできめたい」と題する文章である。「やだ、かあさんきめさしてくれないからいやだ。にんげんとしていきたいよ。学校えらびたいよ。ちゅうがっこうはかないちゅうにしたい。」(1999年11月16日)

これらの文章には、「けんり」「さべつ」「じぶんできめたい」「にんげんとして」というような、障害を考える時、大変重要な言葉が並んでいる。

もし、私たちの関わり方が一つまちがっていたならば、私たちは、まだ彼の言葉を聞き取るすべを持っていなかったかもしれない。そのことを考えただけでも、背筋が寒くなる。そして、そうやって文字を綴れるようになった彼と、目先の知識だけを題材にしてやりとりばかりを続けていたならば、生きることへの深い思いや、自分自身の障害の凝視、権利の侵害への異議申し立てといったものを全く見過ごしたまま、純平君をかわいい子どもとばかり扱い続けていたかもしれない。

私たちが目の前にしている子どもの姿というものが、どれほど未知の可能性を秘めたものであるか、安易な思い込みで決めつけてはいないかということを、彼は深く重くわれわれに問いかけているといっていいだろう。それは、決して言葉のあるなしではない。

そして、その問いは、かつて出会った子どもたちや今出会っている子どもたちに対して白分がきちんと接してこれてきたかという問いかけとして、もう─度私自身につきささってくる。そして、その問いに対して、胸をはってそうだと答えることは私にはできない。

その意味で、純平君との出会いは、新たな自戒の原点を私に与えてくれたといってよい。

そして、その自戒をこめつつ、障害のある子どもたちと関わり合っている人たちに、少しでもこうした問いを共有していただくことができるよう、自分自身の仕事を進めていかなくてはならないと思う。それは純平君の言葉を借りるならば、まさしく「さべつ」と「けんり」の問題であり、「にんげんとして」もっとも大切なものを守っていくことに他ならないからである。

 

                   註

(注1)この漢字Pワードについては、一つの忘れられないエピソードがあるので付け加えておきたい。私たちが、このソフトの存在を知ったのは、10年以上も前のことである。当時、Nさんが、関わりをもっていたある脳性マヒの女性が、このソフトを購入した際、私たちがその入力装置を作成し、その女性は足でスイッチを操作して自由に文章を綴れるようになった.(当時、こうしたソフトを使うコンピュ─タ−は、MS─Xと呼ばれるものが主流であった。)私たちが純平君にパソコンを使おうと考えた時、この女性とのやりとりが一つの重要な手掛かりとなったのである。(そして、純平君と使用してきた50音の文字カードもこの女性のために作ったものだった。)ところが大変残念なことに、この女性は、1997年の7月に亡くなられた。私が純平君と初めて出会った日は、この女性のご葬儀の直後であ一)た,純平君との学習の背後にこうした一人の女性の存在があったことを私たちは忘れることはできない。私たちの関わり合いは常にこうした多くの人々との関わり合いの上に成り立っているということをここで改めて確認しておきたい。

(注2)ここで、1スイッチと2スイッチの問題について、若干ふれておきたい。一般に、重度の運動障害の方が使用し、マスコミなどで頻繁に紹介される場合は、圧倒的に1スイッチが多い。合わせて、最新のテクノロジ─の応用として、まばたきや槻線あるいは呼吸だけで操作が可能ということになっている.しかし、こうした場合には、不随意運動や注視の困難ということは考慮されていないのではないかと思われる。私は、この純平君との関わり合いの後、同様に重度の連動障害を持つお子さんや障害者と複数かかわり合いを持つようになった。そのうちの3名は、私と関わり合いを持って初めてパソコンのワープロソフトを使うようになったのだが、3名とも、2スイッチの方を選んでおり、そのうちの2名は、かつて1スイッチに挑戦したことがあったが、自動的にスキャンしていく動きやタイミングに対応できず、断念したということだった。1スイッチか2スイッチかという二とは、技術的にはまったく問題のないことであるが、上述したような問題は、まだまだ未解明のままなのではないだろうか.そして、そのために、文字表現の可能性を持ちながら、そのままその道を閉ざされてしまっている人がいるのではないかと思われる。

 

資料

太田純平君の文章(1998年7月13日〜1999年2月2日)

 

いうきさせちかたなあえかまし^たたおかあさたうあかあしえこあおいすくつくもいまりけあき(1998年7月13日)

くもり8月18日キャンデー(1998年8月18日)

くもり9月15日せんしゅをかんとく(1998年9月15日〉

9月21日あめ11月28日ねこ2年(1998年9月21日〉

10年10月13日くもりターメリックライスエビソースかけいぬちいさい(1998年10月13日)

いあ一ながやまはれケーキキャンディカタイつたほドライカレーチーズトースト(1998年10月19日)

11月2日まちだすあ(1998年11月2日)

11月16日はれいぬかうかいえゆきたいペットショップいく(1998年11月16日)

いぬペットショップいく。いぬかいたい。いあだいついく?きょういきたいよ。(1998年11月23日)

いあだすわいぬかうダックスフンドかういつかかう(1998年12月20日)

しにたくなかったと○○○わおもったとじゅんぺいわおもう。しわいやだ。いきたいとおもう。(1999年1月19日〉

いきたいとじゅんぺいがおもうのは○○○がしんだからです。からだがうごかなくてもいきていくとかんがえた。(1999年2月2日)

 

参考文献

中島昭美 1977 「人間行動の成りたち」研究紀要第1巻第2号(財)重複障害教育研究所

 

 

謝辞

この関わり合いを進めるにあたっては、太田純平君とそのご家族、及び、かりんの会の方々の様々なご協力をいただいてきました。心より感謝申し上げます。



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