対象物の空間的な関係づけの成立

─入れるという行為をめぐって─

柴田保之

目  次

はじめに

1.入れるという行為に先立つもの

(1)容器の受容につながる行為としてのぶつける、放す

(2)つかんだ物をぶつけること

@漠然とした広がりとしてのぶつける相手の物

《背景的な存在としてのぶつける相手の物》

《視覚や触覚による受容》

《ぶつける相手の物を探す─手探りによって》

《ぶつける相手の物を探す─視覚や触覚による受容の先行》

A物をぶつけることと周囲から際立った場所が生まれること

《触運動感覚的に際立った場所が生まれる》

《際立った場所を探すこと─物をつかんでいる手による探索》

《際立った場所を探すこと─視覚や触覚によって運動を導く》

(3)つかんだ物を放すということ

@自然と放れることから意図的に放すことへ

A放した物の行き先としての漠然とした広がり

B放した物の行き先としての際立った場所の受容

2.入れるという行為

(1)入れるという行為の始まり

(2)つかんだ物を移動することについて

@つかんだ物を移動するプロセスヘの着目

Aつかんだ物を移動する運動の調整について

《入れる場所の方向の受容》

《入れる場所の位置としての受容一視覚について》

《入れる場所の位置としての受容一触覚について》

3.意味の付与ということについて─行為による意味づけに関して

4.空間の構成について

(1)運触運動感覚を中心に構成される空間から運動に先立つ感覚を中心に構成される空間へ

(2)空間の構成の道筋

@触運動感覚を中心に構成される空間

A運動に先行する感覚による空間の構成の始まり

補論:視覚と運動を媒介するもの

はじめに

 障害が重いために外界との相互交渉の水準が初期的な状況にある人たちと、教材教具を介して関わり合いを持ち、その人たち自らが自己自身の身体や外界について理解を深め、外界との相互交渉の水準を広げたり高めたりしていくという過程に寄り添っていくことを、私は、私自身の実践研究のかたちとして大切にしてきた。そして、それは、そうした人々に対するわれわれの見方をより豊かなものとし、その変化をきめ細かく見つめていくことを可能とするとともに、そうした変化のきっかけを作り出すことにもつながってきた。

 本稿で検討を加える外界の二つ以上の対象を関係づけるという行為の始まりは、こうした実践研究の中で、一つの重要な節目をなす行動であることが明らかになってきており、これまでもこの周辺の問題について検討をくわえてきた(柴田、1993、1994)。しかし、残念ながら、これまでの考察を通して、その行動が生まれるのに十分な条件については、明らかにしえてはおらず、それを準備したりその出現に必要な条件のいくつかを明確にすることができたにとどまっている。

 そうした積み残した問題はありながらも、本稿では、さらに歩みを一歩進めて、対象物を関係づける行為としての、容器や穴に物を入れるという行為そのものについて考察をくわえていきたい。

 この行為は、教材としては、玉入れという名称で呼ばれてきた(図1)ものだが、空き缶や空き瓶などに物を入れる課題として、様々な教育や訓練の場で多様に取り組まれており、目と手の協応の課題というように言われることも多いが、その意味そのものは、必ずしも十分に議論されているとは言いがたい。

 これまでの考察でもそうしてきたように、本稿でも、具体的な関わり合いの事例を個々にあげることはせずに、仮説的な検討を重ねていくことにするが、多くの関わり合いの事実を背後に想定しつつ、論述を進めていくということを始めにことわっておきたい。

    

1.入れるという行為に先立つもの

(1)容器の受容につながる行為としてのぶつける、放す

 入れるという行為が初めて生まれる時、まず起こるのは、視覚であれ触覚であれ、ボールなどのような入れる物の存在の受容である。しかし、まだ、入れるという体験を持っていなければ、その物に対して何かに入れるものという意味を付与することはできない。(この意味を付与するという言い方は、ピアジェの言い方ならば、対象に行為のシェマを適用するという言い方や、もしくは行為のシェマに対象を同化するという言い方になる。)しかし、その物に対して、たたいたりなめたりするといった様々な意味づけは可能である。そして、もし、たたいたりなめたりするという意味づけに基づいて、その行為が起こってしまったならば、それは入れるという行為には、そのままでは発展することはない。そこで、入れるという行為が生まれるためには、起こした行為を通して、入れる相手の容器となりうる物が現前しているということが受容されるようにならなければならないことになる。(二者が同時に知覚されればそこで両者を関係づける行為が生まれるというふうに考えることもできる。しかし、二者を同時に意味づけるような行為としての入れるという行為がどうやって成立するかということを問題としているのであり、そのような二者の同時的な知覚から入れるという意味が付与されるのは、入れるという行為が成立した後のこととなると考えられる。)

 そして、この条件にあてはまるものとして考えられるのは、持った物を何かにぶつける、あるいは持った物を放すという行為である。つまり、ぶつける、あるいは放すという行為によって、初めて容器として意味づけられる可能性のある物の存在が受容されることになる。

(2)つかんだ物をぶつけること

@漠然とした広がりとしてのぶつける相手の物

《背景的な存在としてのぶつける相手の物》

 そこで、まず、つかんだものをぶつけるという行為から見ていこう。つかんだ物を何かにぶつけるという行為は、つかんだ物を振る、手で物をたたくといった行為から派生してくると考えられるが、この行為自体は、必ずしも明確に二つの物を対象化している必要はなく、ぶつける相手の物は、机や床などの一定の広がりをもった物であり、運動の軌道上に背景的に存在していればよい。すなわち、ぶつける相手の物は始めは、手の触運動感覚を通して抵抗感として与えられており、視覚的ないし触覚的に対象化されている必要はない(なお、ここで触運動感覚と区別した触覚とは、遂行中の運動とは別に、外界を探索する触覚を意味している、本稿で、触覚について論ずる時は、視覚障害のある場合が考慮されているが、こうした入れるという行為が成立する以前の段階では、仮に視覚に障害がなくても触覚の果たす役割は大きいということをことわっておかなければならない。)

《視覚や触覚による受容》

 だが、こうした行為が反復される際、視覚や触覚の受容の水準が一定程度に達していれば、触運動感覚によって抵抗感としてとらえられていたぶつける相手である机や床などの広がりを、視覚や触覚によって受容し、つかんでいる物とぶつける相手という二つの物の存在が受

容されることとなる。具体的には、視覚の場合は、手の運動と二つの物を見るということであり、触覚の場合は、あいているもう一方の手で触るということになる。ただし、これらの受容は、運動を方向づけたりするための受容でなくてよい。

 ところでここでは、視覚と触覚の果たす役割の機能的な同等性に着目して論を進めていくため、両者の違いにはあえて言及しない。この両者の違いについては、入れる行為のところで述べることとする。

《ぶつける相手の物を探す一手探りによって》

 そして、さらに、ぶつける相手が運動の軌道に存在しない時には、それを探すというようなことも起こってくる。そして、ここで探すことについて次のような二つの場合を考えることができる。

 すなわち、一つは、遂行中の運動をより遠くへ、あるいは別の方向へと変化させることによって、ぶつける相手を探すというもので、いわゆる手探りと呼ばれるものである。この時、最初に目的に到達する場合は、まだ相手の物がどこに存在するかの情報は得られていないわけだから、どのように探索のための運動を起こすかは偶然に委ねられている。しかし、二度目以降はそれまでの運動をどのような大きさや方向で行ったかという手の位置や運動に関する自己受容性感覚の情報(直接白?には子の運動感覚だが、そこには姿勢感覚なども含まれる)を利用することができれば、その運動をできるだけ正確に再現することで到達できるようになる。そして、この到達する運動が反復される中で、つかんだ物やぶつける相手を視覚や触覚でとらえるということも起こってくる。

《ぶつける相手の物を探す─視覚や触覚による受容の先行》

 また、今一つは、視覚や触覚によってぶつける相手の受容があらかじめ起こり、それが運動を導くというものである。これは、ただし、ここでは、ぶつける相手の物は、机や床といった漠然と広がる平面であり、ここで探すというのは、その方向を漠然ととらえ、手を導くといった程度でよい。まだぶつける相手の物は、明確に位置づけられた対象というわけではない。

A物をぶつけることと周囲から際立った場所が生まれること

《触運動感覚的に際立った場所が生まれる〉

 こうした漠然とした広がりの中から、明確に位置づけられたひとつの対象が生まれることへと発展するきっかけは、その平面の中に、触運動感覚的に周囲から際立つ性格を持った場所が生まれること、つまり、ぶつけることによって生ずる触運動感覚がそこだけ異なっているというような場合である。(なお、ここで言う明確な位置づけとは、詳しくは後述するが、目的の場所に到達するのに、運動に先行してなされた視覚的ないし触覚的な受容から、適切な方向と距離に運動を起こすことができることを想定している。それは、具体的には入れるという行為の成立そのものである。したがって、際立つ場所が生まれるということだけでは、明確な位置づけを伴っているというわけでない。)

 これは、例えば、ぶつけた平面に穴があいていてそとをたたいてもぶつかった時の抵抗感が得られず独特の触運動感覚が生ずるような場合であるが、この時、もう」度その独特の触運動感覚を求めてその場所を探すというようなことが起これば、漠然とした広がりの中に、際立つ場所が生まれたことになる。

 そしてここでも、探すということについては上述したような二つの場合を考えることができる。すなわち、一つは、物をつかんでいる手による探索であり、もう一つは視覚や触覚による探索である。

《際立った場所を探すこと一物をつかんでいる手による探索》

 前者については、漠然とした広がりをとらえることからある特定の場所を探すことになるわけであり、初めにその際立つ場所を発見した時の手の位置や運動に関する自己受容性感覚の情報に基づいて次の運動が起こすことができれば、それは、より組織的な探索ということになる。(そして、このプロセスによる運動の調整は、通常手探りとして不正確なものと考えられている以上に正確な調整が可能であるということは、銘記されておかなければならない。)そして、これが反復される中で視覚や触覚が、その場所をとらえるということも起こってくる。

《際立った場所を探すこと─視覚や触覚によって運動を導く》

 そして、後者については、際立った場所をその場所に到達する手の運動とは別に視覚や触覚によって受容し、それによって手の運動を導くというものであり、これには、いくつかの水準がある。ただし、際立った場所への運動を視覚や触覚によって導くという受容の仕方の発展は、入れるという行為において目的の場所へ運動を導く場合と同様のものである。したがって・この詳しい発展のプロセスについては、ここでは簡単に述べるにとどめ、入れる行為の発展として後で詳しく述べることにする。なお、こうした受容の仕方の発展は、ぶつける行為のみで生み出されるということも考えることができるが、入れるという行為にはその目的が果たされる時に視覚や触覚によって確認するということが含まれるのに対して、ぶつけるという行為は運動をしている手の触運動感覚による確認で十分であるということを考えれば、こうした受容の発展には、入れる行為の方が重要であると考えるのが自然であろう。

 際立った場所への運動を導くことの水準は、以下の通りである。

 すなわち、まず、際立った場所の受容が漠然とした方向を指し示す場合で、具体的には、視覚ではその場所を見ること、触覚ではその場所を空いている手で触ることが運動を起こすべき方向を指し示すことになるが、細かな調整は、上述した到達する手の運動自体の調整によっており、したがって、ある程度運動の方向が指し示されればもはやその場所を見続けたり空いている手をそこに置き続ける必要はなくなり、到達する手自体の探索にとってむしろじゃまになれば、目をそらしたり目的の場所をさわっている手を放したりするということが起こる。

 そうした視覚や触覚の受容の水準がさらに高まれば、単に方向のみを指し示すのではなく、目的を探す到達運動がその場所に達する経過を受容するようになる。これは、入れる行為のところで詳しく述べ毎が、具体的には、視覚の場合は、手の運動と目的の場所を見比べることになり、触覚の場合は、目的の場所に置いた手がもう」方の手を待ち続けるということになる。

 そして、この受容よりもさらに発展したものとして、目的の場所を周囲との関係の中で位置づけて手の運動を導くというものがあるが、これも同様に、入れる行為を通して獲得されるものと考えられる。

 いずれにしても、こうして漠然とした広がりの中に際立つ場所が生まれることによって、ここに二つの物の存在の受容が成立することとなる。そして、こうしてつかんだ物を際立ったある場所が容器の入り口や面にあいた穴であり、そこで放すということが起これば、それはもはや入れるという行為そのものになるのである。

(3)つかんだ物を放すということ

@自然と放れることから意図的に放すことへ

 つかんだ物を落とすという行為は、始めは、つかんだ物が自然と放れるというものであるが、物を放した時にそれが床や机などにあたって音を立てることに興味を持ったり持った物を放すこと自体の触運動感覚的な興味を持ったりすることが起これば、そこから意図的に放すということが生まれてくると考えられる。この後者の放すこと自体の触運動感覚的な興味というのは、あまり気づかれにくいことだが、何でも散るというように言われるような子どもの場合、その行為の目的は結果の音だけではなく、放る手ごたえという触運動感覚的な興味の占める割合も大きいと考えられる。そして、そのような場合、放る運動は非常に洗練されて同じ力で同じ方向(例えば後ろ)に散るというようなことが起こるわけだが、そこに働いているのは、まさに運動感覚による調整である。だが、いずれにしても、まだ、それだけでは、放した後の物の行き先というものを視覚や触覚で確かめるということが起こるわけではない。

A放した物の行き先としての漠然とした広がり

 そこへ、さらに、視覚や触覚の受容の水準が一定程度高まっていれば、この放した物の行き先を視覚的ないし触覚的に受容するということへと発展していく。ただし、ここでは、まだ、行き先は特定の場所というよりも机や床といった漠然とした広がりであり、二つの物の存在の受容というわけではない。しかし、例えば、机を前にした状況で机ではなく床の上に落とす、あるいは視野から消したりするために後方に散るというようなことが起こるようになり、物を放したり放ったりする行き先の漠然とした方向を、視覚や触覚が導いたりするようなことが起こってくる。

B放した物の行き先としての際立った場所の受容

 そして、上述したぶつける場合と同様、この行き先に特定の際立つ場所が生まれ、そこに視覚や触覚が向けられるならば、二つの物の受容ということが起こることになる。すなわち、ある場所に缶があるという状況で、偶然そこへ物が落ちるということが起こり、それを反復する中でその場所に物が落ちた時に音がするというようなことが視覚や触覚によって確かめられる、すなわち具体的には落ちた場所を見る、落ちた場所を触るというようなことが起これば、そこに二つの物の受容ということが生まれてくるのである。

 ただし、こうした確かめが必ずしも放す手の運動を導くわけではない。ここでもぶつける運動の場合と同様に、手の運動自体の自己受容性の感覚による調整を考えることができるわけだが、空中で放すというような場合には、放す場所に対する運動感覚の手がかりは非常に弱く、上述したような」定の力と決まったやり方で放るというような場合や手を伸ばしきったところで放すとそこに缶があるというような状況でなければ自己受容性の感覚によって手を再度同じ場所に導くということはむずかしい。しかし、物をつかんでいる手が缶の縁に触れるというようなことが放すべき場所に関する接触を通した情報がもたらされれば、それが放すきっかけになることがあり、この場合にはその接触を再現するのに運動感覚をはじめとする自己受容性の感覚による調整が運動を導くということは可能である。そして、これは、ぶつけるという行為と非常に似通ったものになっているのである。

 そして、さらに特定の場所を見ることや、特定の場所を空いている手で触ることが、物をつかんでいる手の運動をその場所の上に導くようなことが起これば、それはもう入れるという行為と等価なものとなっていると言えるだろう。しかし、これはまさにこれから述べる入れるという行為に習熟するような過程で獲得されるものであると言えるだろう。

2.入れるという行為

(1)入れるという行為の始まり

 以上のことをふまえて、ここで改めて、入れるという行為が成立するところを整理すると次のようになるだろう。

 すなわち、すでに述べたように、入れるという行為が生まれるためには、まず、入れる物に対して起こした行為が、入れる相手の容器や穴の受容につながるものでなければならないということであったが、それは、つかんだ物をぶつけたり放したりするという行為を通して、容器や穴の受容につながる際立った場所の受容というものが生まれてくる中でもたらされることとなった。そして、際立った場所がたまたま容器や平面に空いた穴であったりした時、ぶつける行為の場合にはその感触が物を放すというきっかけをもたらせばそこで入れるという行為が成立したことになり、放す行為の場合には、それはもう入れるという行為そのものとなるのである。

 そして、最初は、偶然的であったその行為が、一定程度反復されることを通して、入れるという意味が納得され、入れる物や相手の容器に対してその意味が付与されることになると言えるだろう。すなわち、ボールや缶が手もとに存在するということが受け止められた時、ボールを入れる物、缶を入れる相手の物とみなし、それを実際に入れるという行為によって関係づけようとする意図が生まれてくるのである。

(2)つかんだ物を移動することについて

@つかんだ物を移動するプロセスヘの着目

 こうして生まれた入れるという行為は、入れる物をつかむ、つかんだ物を容器や穴まで移動する、容器の入り口や穴の上で放すに分けることができるが、ここで対象物を空間的に関係づける行為としてもっとも重要なのは、つかんだ物を移動するというプロセスである。

 入れる物をつかむプロセスについては、すでに目的の物への到達という経過の中で確立ずみであり、本稿に先立つこれまでの考察ですでに検討してきたものであり、つかんだ物を放すという行為は、1.(3)で検討をくわえてきた。そこで、ここでは、つかんだ物を移動するというプロセスを中心に検討をくわえていくことにする。

 なお、入れるという行為がこの後どのように発展していくかということについては、次回の考察のテーマであるが、それは、放すという部分の発展として見ていくことになる。

Aつかんだ物を移動する運動の調整について

《入れる場所の方向の受容》

 つかんだ物に対しても、入れる容器や穴に対しても入れるという意味づけがなされているという時、視覚や触覚がとらえているのは、まずは、そういう意味を持った物が自分の手もとの世界に存在するということである。しかし、それだけでは、運動を開始するきっかけは与えられても、運動を導くことはできない。視覚や触覚が手の運動を導くためには、視覚や触覚が空間的な関係を受容することが必要となるのである。

 この空間的な関係の受容において、最初にもたらされるのは、入れる場所の方向に関するものである。入れる場所を見る、触るということが起こった時、それは、必ずしも、その周囲との空間的な関係の中でとらえられているわけではない。だが、入れる場所を見る、触るということは、その場所に向かって方向づけられた姿勢を作ることを可能にする。そしてこの姿勢の内にはらまれた方向性が、入れる場所の方向として意味を持ち、入れる物をつかんだ手の運動を導くと考えられるのである。

 なお、触覚の場合、入れる場所を触るということは、ここでは、偶然そこに手が触れたり、関わり手によって導かれた場合のことを想定している。もし、自発的かつ的確に目的の場所を触ることができるとしたなら、その運動自体がここで問題にしている方向づけられた運動そのものであるか、もしくは、それよりも高次な位置づけられた手の運動になっているからである。

 ところで、姿勢にはらまれた方向性というのは、視覚や触覚よりも、聴覚を例にした方がわかりやすいかもしれない。聴覚による音源の定位と呼ばれるものについては、バウアーの研究において乳幼児期においても可能であることが明らかとなっているが、こうした音源の定位は、両耳における聴覚刺激の左右差が消える方向をもって音源の方向とされており、この方向はまさに姿勢の内にはらまれた方向に他ならないのである。

 しかし、このように入れる場所を姿勢の内にはらまれた方向によって方向づけるだけでは、その場所の付近まで運動を導くことはできても、最終的に運動を導くことはできない。すなわち、目的の場所への接近のプロセスと目的の場所への最終的な到達のプロセスとは区別して考えられなければならないのである(柴田、1994)。そして、接近のプロセスにおいて、視覚や触覚が運動の方向を導いた後、最終的な到達のプロセスにおいては、入れる物をつか

んだ手の運動自体が入れる容器や穴を前後や左右の反復的な動きを通して、その容器や穴を触運動感覚的に探り当てるということになる。そして一度この場所を探り当てると、二度目からは、その場所を探り当てた際の手の触運動感覚を再現することでより正確に穴や容器の場所を探り当てることができるようになる場合があると考えられる。

《入れる場所の位置としての受容─視覚について》

 つかんだ物を移動する運動を視覚や触覚が導く上で、目的の場所の方向ということだけでは、最終的な目的地への到達はできないことを述べたが、この最終的な到達のプロセスにおいて、視覚や触覚が手の運動を導くためには、目的の場所を位置として受容することが必要となる。

 このことをまず視覚について見るならば、目的の場所と手の運動をどのようにとらえるかということが問題となる。ここで、入れるものをつかんだ手は、まだ目的の場所に到達していないので、それらは一定の距離を置いて存在するわけだから、視線を移動させることによって、両者の存在を同時的にとらえるということになる。

 まず、接近のプロセスにおいて、視覚による目的の場所の方向の受容によって手の運動は導かれるが、目的地への到達においては、視覚は、目的の場所に注がれている必要はなくなる。なぜなら、視覚は、仮に注がれていてもここで必要な往復的な方向を導く役割は果たせず、むしろ妨げになることもありうるため、それてしまうことも多いからだ。そして、もっぱら手探り的な手の往復運動によって目的地を触運動感覚的に探り当て、到達を果たすこととなる。したがって、ここでは、まだ手と目的の場所との両者が同時的にとらえられてはいない。

 しかし、このことが繰り返されるうちに、方向をとらえて接近するために容器や穴に注がれていた視線が、目的地へ到達しようとする手の動きへと注がれるようになり、手と目的地との間の視線の移し替えが生まれてくる。ただし、この時点では、最終的な到達の運動の調整はもっぱら運動する手自体の触運動感覚によってなされており、この視線の移し替えは、手の運動に対して従属的な役割しか果たしていないと言える。そして、必ずしも視線の移し替えは往復的でなくてもよい。

 ところで、この視線の移し替えによってとらえられている最終的な到達の運動は、往復運動を伴ったものであり、手と目的の場所をつなぐ方向は、その時の手の場所に応じてきわめて多様になる。つまり、接近のプロセスにおいては、方向は手もとから遠くへ向かうというような一方向的なものだったのだが、到達距離が短ければ手前から向こうの方向になり、行き過ぎていれば向こう側から手前の方向になり、左右にずれていれば左から右あるいは右から左という方向であったりするのである。

 こうした視線の移し替えによってとらえられているのは、始めはあくまでそうした手と目的の場所の二点であるわけで、視線の移し替えが一方向的であってもよいわけだが、手の動きを追う中で、往復運動の折り返し点となる二つの端と、その間にある目的の場所という三つの要素がとらえられる可能性が生まれてくるのである。この往復運動は反復的なものなので、折り返し点の場所は、運動するたびに変動するわけだが、こに両端とその中心というかたちに集約される関係が生まれていることが重要である。

 そして、この三つの要素を含んだ視覚像が運動の調整に参加してくる時、目的の場所への運動は、両端から目的の場所へ運動を導くということを含んでいるので、相反する二つの方向の運動が起こることを前提としながら、運動の調整を行うことになると言えるだろう。すなわち、ここにおいて、目的の場所は、相反する二つの方向によって規定された場所として意味を持ってくるようになるのである。

 ところで、この往復運動は、大別すれば、前後、左右、上下の方向に起こる可能性があるわけだが、これらは、前後─左右、あるいは上下─左右という組み合わせになり(前後─上下は考えにくい)、目的の場所は、直交する2本の線分の交点とも言うべきものになっていく。そして、前後─左右の直交する場は水平面であり、上下─左右の直交する場は、垂直面ということになる。

 こうした直交する2本の線分に図式化されるような視覚像と触運動感覚の調整とが十分に対応づけられ、精激化されれば、目的の場所への最終的な到達における往復運動は省略されていき、目的の場所を視覚的にとらえることが、直接的に方向や距離を受容するということにつながるかのように見えるようになる。しかし、これは、上述したプロセスを前提としたものであるということは言うまでもない。

 ところで、目的の場所への最終的な到達の過程において、目的の場所が板の穴というように平面上にある場合と缶のように特別に平面が存在しない場合とがあるわけだが、今見てきたような最終的な到達のための往復運動や直交する線分の交点としての目的の場所を視覚的にとらえるにいたるには、平面がある場合の方が容易と考えることができる。したがって、こうした状況にある相手に対する働きかけとしては、平面を用意した方がよいということになるのだが、これは、必ずしもそうでなければならないという必要条件ではない。実物としての平面がそこに存在しなくても、そうした往復運動やそれに伴う視覚像は成立が可能であると考えられる。それは、直交する線分の交点というような視覚像が持つ二次元的な特質は、手を代表とする身体運動から生まれてきたものだからである。

 したがって、実際の平面の上で直交する線分の視覚像をとらえるという事態は次のように説明されることになる。すなわち、それまで漠然とした広がりとしてとらえられていた平面状の物に対して、身体運動を通してえられた直交する線分の交点というような二次元的な意味づけがここで付与されたということである。これは、視空間の構成という問題に深く関わる事柄であり、仮説の域を出ないことかもしれないが、これまでの考察から引き出される一つの結論である。

 ところで、こうした直交する線分の交点としての視覚像の成立は、姿勢ということについても興味深い変化をもたらす。目的の場所が、一方向的にとらえられる段階では、視覚も含めて全身がその目的の場所への方向性をはらむことになり、具体的には、上半身や首などが、そちらの方に傾いたりすることになる。ところが、こうした視覚像が成立することを通して、

前後─左右ならはそれぞれ相反する二つの方向をはらんだ前後と左右とがさらに直交するという方向性を身体がはらむことになる。したがって、身体は、運動によるバランスの変化には対応しつつもむしろまっすぐ保たれるようになるのである。

《入れる場所の位置としての受容─触覚について》

 次に、触覚について考察をくわえることとする。触覚(ここでは運動している手ではない方の手の触覚を意味する)においては、一方の手が他方の手を対象化しでとらえるという時、現に運動している手をもう一方の手が触って確かめるということはほとんどない。したがって、触運動感覚を通して受容されている手と、触覚的にとらえられた目的の場所との関係が問題になる。その意味で手の運動と目的の場所とを受容の対象とする視覚とは異なった部分があるということになる。

 ただし、このことについては、視覚においても手の運動を対象化することと目的の場所を対象化することとは同じものではない。こうした入れる行為の段階においては、同じ運動が繰り返される場合、手の運動は触運動感覚によって自己受容的にとらえられ、視覚的には目的の場所だけが対象化されるようになるし、さらに入れる行為よりも進んだ段階になって、空間の構成が発展した段階では、必要にかられない限りあえて運動している手を視覚によって対象化することはなくなる。

 すでに方向の受容のところで述べたように、触覚として目的の場所を自発的かつ的確に触れることは、そのこと自体が方向づけられた運動ないし位置づけられた運動ということになるので、まず、偶然触れたり、誘導されたりした場合から考察したい。

 触覚としての手が、偶然ないし誘導によって目的の場所に置かれることによって、物をつかんだ手の方向づけが姿勢を介して行われ、目的の場所に到達するということが繰り返されると、触覚としての手に関して自己受容的に受け止められた感覚内容と、運動している手に関して自己受容的に受け止められた感覚内容との問に対応関係が生まれ、触覚としての手が置かれている場所に手が的確に到達するということが起こるようになる。

(これは、見方によれば、身体部位の位置づけを行っているに過ぎないととらえられることもあろう。確かに、ここでは、外界の一点に手を伸ばしているのか、自分の身体の一部に向かって手を伸ばしているのか、明確には区別できないと言える。しかし、自分の体の前にある手にもう一方の手を伸ばすということと、外界の一部に触れている手にもう一方の手を伸ばすということは、区別されなければならない。そして、この区別は、外界の一部に触れることによって、何らかのかたちで重心の移動が起こって手の触れているところにわずかでも体重の移動が起こっているかどうかが一つの目安になると考えている。別の言い方をすれば、外界に向かっている時の身体の一部を触れることと外界に向かっていない身体の一部を触れることには、質的な違いがあるということである。手を前で組むことができても、外界の」点に置かれた手に向かってもう一方の手を伸ばすことはむずかしいという場合があるのである。)

 次に、こうした偶然触れたり誘導されたりする触覚としての手が、運動する手を導くために触覚として目的の場所を探り当てるということがどのようにして起こるのかということについて検討をくわえたい。

 ここで、触覚としての手と運動としての手を区別したのは、その目的に着目したからであるが、この段階においては、この両者は運動としてはほぼ同じ運動になる。すなわち、方向の手がかりは与えられることはあるが、最終的には、手探り的に目的の場所に到達するというものである。したがって、運動としての手で目的の場所を探り当てれば十分で、わざわざ触覚としての手で目的の場所を探り当てておいてから運動としての手を導く必要はないことになる。(視覚障害のある子どもでこうした段階にある子どもが、なかなか触覚としての手と運動としての手を協応的に使わないのはこうした理由があるからである。)

 そして、運動としての手の手探り的な動きは、視覚に障害があるなどして、この段階で視覚が参加してこない場合には、運動としての役割と触覚としての役割を二重に帯びながら、発展していくことになる。すなわち、手探り的な往復運動に伴って生ずる触運動感覚が外界の受容の役割を担うようになっていくのである。(なお、この手探り的な往復運動は、こうしたつかんだ物を移動するという手の運動を通してのみ高次化するのではなく、物への到達運動においても同様の高次化を遂げていくと考えることができ、そうした高次化は、互いに影響を及ぼし合っていると考えてよいだろう。)

 具体的には、始めは、手探り的な運動に伴う触運動感覚の中に読みとられるのは、穴や容器に到達して目的の場所がそこにあるという事態であるが、しだいに、往復運動の折り返し点が、運動の軌跡が描く線分の輪としてとらえられるようになり、目的の場所が、両端の間に挟まれた中心の一点というかたちでとらえられるようになっていくのである。これは、視覚において述べてきたものとほぼ同じものであるが、ただ、視覚の場合とちがって、こうした読みとりは、持った物を移動する運動と不可分であるため、運動を導くということにはならない。

 そして、この両端と中心という関係は、さらに前後─左右、上下─左右、上下─前後というかたちで直交する二本の線分の組み合わせになり、それぞれ、二次元の平面としてのとらえ方が成立してくると言えるだろう(視覚では考えにくかった上下─前後も原理的にはありうることになる)。

 ところで、こうした平面のとらえ方を前提とした手の運動は、触覚として用いられる時の手の運動にも広がっていくと考えることができる。すなわち、こうした手の運動の発展によって、触覚としての手の働きが高次化していき、直交する線分によって定められる位置としての場所を探る触覚というものが成立すると考えられる。

 そして、こうした触覚が、運動している手とは独立しつつ、運動する手を導くという協応的な両手の働きが、必然的なものとして成立するのは、一点の場所を位置づけるだけでなく、複数の場所の関係を処理するような場面になり、それは本稿の範囲を超えることとなる。

 また、手の運動は、指の機能分化も伴うものであり、両手の協応的な働き以前に触覚としての指と運動する手とが協応的に働くということも起こりうるということを付け加えておきたい。すなわち、つかんだ物を移動する際、あいている指が触覚的な探索を行いながらその手の運動を調整するというものである。この指は、運動する手の一部であるため、運動している手から離れた場所を触ることはできないので、広い空間に関する調整はできないが、目的の場所への最終的な到達における位置の調整に関与することが起こったりするのである。

 

3.意味の付与ということについて─行為による意味づけに関して

 本稿では、主体が外界の事物を受容する場面で、意味づけないし意味の付与というかたちで説明を行ってきた。これは、感覚によってとらえられた外界の事物は、その主体がどのように意味づけを行っているかによって違ってとらえられているということを明確にしたいために強調したものである。これは、もっと具体的に述べれば次のような場面で重要となってくる。

 例えば、関わり手がゴルフボールと空き缶を相手の前に出したとする。その時、出された相手は、ゴルフボールを空き缶に入れたら「わかっている」と評価され、異なることをしたら「わかっていない」とされることが「教育」や「訓練」と称される関わり合いの中では日常的になされている。しかし、関わり手の思惑がどうであれ、出された相手は何をやっても基本的には自由であるはずだ。

 これを、意味づけということで整理すれば次のようになる。すなわち、ゴルフボールを空き缶に入れるということが起こったならば、それは、その主体がそのゴルフボールと空き缶に対して、入れる物─人れる相手の物という意味づけをしたということだ。そして、もしゴルフボールを空き缶に入れなかった場合は、それは、そもそもそこにゴルフボールや空き缶という物体が存在しているということを受容しなかったか、それらに違う意味づけを行ったということになるのである。

 このことをつきつめていけば、相手が何らかの意味づけを外界の事物にしている限り常に何かをわかっているということであり、ましてそうした行為に対して正─誤というような言い方をしても無意味なのであり、相手が自ら意図したことと違う結果を誤って出した場合以外は、基本的に誤りというものはないのである。

 これは、もう少し進んだ段階で言えば、はっきりするだろう。これもきわめてオーソドックスな関わりとして、まるや三角、四角の形の板を同じ形状の穴に入れるというような「課題」で、まるの板を四角の穴に入れようとしたとしても、それは、その主体が付与した意味に基づいて起こされた行為である以上、誤っているとは言えないのである。

 ところで、意味という言葉は、通常、言語や記号などのように、象徴機能によって媒介された意味するものと意味されるものとが存在する局面や、あるいは、コミュニケーションの場面で、言語表現や身体表現によって何かが伝えられるような局面で問題とされることが多い。だが、ここでは、ボールを入れるものしてとらえるというように、現前している物に対してある行為をなしうるものとしてとらえることを意味を付与するというふうに述べた。すなわち、なしうる行為の内容が意味となっているわけである。

こうした行為による対象の意味づけという発想は、それほど特別なもめではない。ただし、こうした事態を称して意味づけと呼ぶことには、議論の余地があるかもしれない。

 例えば、J.J.ギブソンのアフォーダンスという考え方は、ここで検討していることに非常に近いものを持っている。しかし、アフォーダンスという言葉は、意味という言葉ほどには、主観的なニュアンスを伴っていない。意味という言い方では、意味はあくまで主体の側に属するのに対して、アフォーダンスと呼べば、それは、環境の中に存在するというニュアンスを帯びてくる。こうした問題についての考察には、本稿ではこれ以上立ち入らないことにする。ただ、私としては、一人一人の外界に対するとらえ方の違いを重視し、かつ、主体の自発性や創造性を強調するために、意味づけという言い方をとることとしたのである。

 

4.空間の構成について

 入れるという行為の成立は、主体が空間を構成していくプロセスにおいて、非常に重要な節目となっている。それは、すでに述べてきたことだが、ここで、もう一度整理を試みたいと思う。

 なお、空間ということをとらえる枠組みとして、かつて私は、姿勢形成に関する空間として、面と垂直軸を基本的な要素とする姿勢空間と、運動の操作性に関する空間として、方向や位置や順序を基本的な要素とする操作空間とを提示した(柴田、1985)。ここで取り上げる空間は、この操作空間に関してである。なお、操作空間には、外界を場とする操作空間と身体を場とする操作空間を区別する必要があるが、ここでは、外界を場とする操作空間について論じる。

(1)触運動感覚を中心に構成される空間から運動に先立つ感覚を中心に構成される空間へ

 まず、最初に、この入れるという行為の成立が空間の構成のプロセスにおいてどのような節目となっているかについて、非常に大まかな構図は以下のようになる。

 すなわち、入れる行為の成立以前に構成されていた空間というのは、運動することに伴って生ずる触運動感覚によって、外界の対象の空間的関係をとらえることが中心となっていた世界で、運動と区別される感覚(視覚や触覚)は、こうした触運動感覚を中心として構成された空間の中では運動のきっかけや漠然とした方向の予測という働きを持つのみである。ところが、入れるという行為の成立に伴って、運動とは区別された感覚が空間の構成に果たす役割が大きくなっていく。

 もちろん、視覚や触覚はすでにこうした段階までに、運動とは別にたくさんの外界の事物を受容して、その感覚的な印象に対して例えばそれに伴う感情などによって様々な意味を付与しており、それは非常に複雑な世界を作り上げていると考えられる。しかし、空間的な関係ということにだけ限って言えば、それらは、非常に未分化なままなのである。あくまで、そうした感覚的な印象を空間的に関係づけていくためには、行為の中で関係づけられていかなければならないのである。

(2)空間の構成の道筋

 次に、空間の構成の道筋について、整理したい。

@触運動感覚を中心に構成される空間まず、運動と不可分に生ずる触運動感覚によって構成される空間が、空間構成の中心になる段階について整理する。

1)たたく、ふるなどの瞬発的な運動を通していくつかの拠点が手もとの水平面に作られるがそれぞれの拠点は孤立しており、空間的な意味で相互に関係づけられることはない。(図2−1)

2)棒に沿ってぬきとったり溝にそって滑らせるような外界の対象が持っている抵抗に沿った持続的調節を伴った運動を通して、運動の起点と終点及びその間の方向という関係が生まれる。この時、起点と終点のいずれか一方が手もと近くにあり、起点と終点の間の方向は、起点が手もとにある場合は終点に向かって遠心的な方向になり、終点が手もとにある場合は終点に向かって求心的な方向になる。(図2−2)

 

3)2の運動が柔軟性を増すと起点と終点が運動によってつながれた遠心的な方向や求心的な方向は、それぞれ手元を中心とした180°の放射線で表せるような空間へと広がっていく。(図2−3)

4)3において、手もとに中心化していた起点ないし終点が、晩中心化されて外に出ることによって、左右に代表されるような任意の二つの起点と終点と、運動によってつながれるその間の方向というものが生まれる。ただし、起点と終点の役割が固定的であるため、この方向は一方通行である。(図2−4)

5)4において、一方通行であった運動が往復運動に発展することを通じて、起点と終点として固定化されていた両端の二点の役割が相対化されて、二点とその間の相互的な方向が生まれる。(図2−5)

 

 

6)つかんだ物を目的の場所に持っていくという運動で手探り的に目的の場所を探りあてるという時、運動の終点は、往復運動の折り返し点を両端とする線分の中問点という性格を帯びることとなる。この中問点は、両端からの相反する二つの方向によって規定されたものである。なお、この段階で視覚が運動を導くようになる場合も多く、その場合には、次項の9で述べる空間ということになる。(図2−6)

7)6において、線分の両端として一次元的であったものが、前後一左右(水平面)、上下一左右(対面する垂直面)、前後一上下(対面する垂直面に直交する垂直面)という二本の線分の交点に代表されるような二次元的なものへと発展する。(図2−7)

A運動に先行する感覚による空間の構成の始まり

8)5において、運動によってつながれていた二点の任意の点が、運動をとらえる視覚によってもつながれるようになる。ただし、触覚においては、こうした過程は明確には存在しにくい。これは、運動に先立つ感覚による空間の構成への過渡的な段階ということができる。(図2−8) 

  

9)つかんだ物を目的の場所に運ぶことの中で、運動に先行する視覚によって運動が導かれるようになることを通して次のような関係が生まれる。

すなわち二運動の終点は、往復運動の折り返し点を両端とする線分の中問点として、その両端からの相反する方向によって規定されるようになる。そして、この両端や中間点をつないでいるものは、運動に先立つ感覚であり、運動はこうした感覚によって予測された軌跡をなぞるようにして相反する方向による規制を受けながら、終点へと達することになる。なお、8においては、感覚は視覚を意味したが、ここでは、視覚と、運動とは区別された触覚とがともにこうした空間の構成に関わっている。なお、視覚と触覚とでは、こうした過程の出現の仕方に違いはあるということは、すでに述べた通りである。(図2−9)

   

10)9の関係は、一次元的なものであったが、運動の終点が、前後─左右(水平面)、前後一上下(対面する垂直面)、前後─上下(対面する垂直面に直交する垂直面)という2本の線分の交点として二次元的なものへと発展する。(図2−10)

      

    

 

補論:視覚と運動を媒介するもの視覚が手の運動を導くということを本論では繰り返し述べてきたが、視覚によってとらえられるものと手の運動とは、そのままでは結びつかない。視覚像はあくまで二次元の映像であり、手の運動は三次元におけるものであって、両者は非常に異なったものである。それに対して、私たちは、三次元空間の座標系のような媒介を置くことによって両者を関

係づけているように見える。すなわち、目で見たものを上下や左右、奥行き、さらには遠近などの距離という空間関係として意味づけ、手の動きについても同様の空間関係の意味づけを与えることによって、もともとは似て非なる視覚像と手の運動をつなぐというようにである。

 しかし、こうした媒介となりうる水準の空間は、まさに入れるという行為の成立によってようやく構成の緒につくものであると言うことができ、ここでは、それに先立つ媒介について明らかにしておく必要があるだろう。(また、私たちの視覚と運動も必ずしもそのような空間にのみ媒介されているわけではない。)

 ここでは、その媒介として視覚像と運動との対応関係の成立ということを提示したいと思う。これは、見方によればいわゆる連合と呼ばれるプロセスとほぼ重なり合うものとなるかもしれない。しかし、連合というプロセスが非常に主体にとって受動的なプロセスであるのに対して、ここでは、主体自身が活動を通してその対応関係を作り上げていることを大切にしたいと思う。

 手の運動と視覚は、こうしたつかんだ物を移動する以前に、物に到達する運動や物を操作する運動において、視覚が手の運動をとらえるというかたちで関係をもっている。このとき、手の運動の方向や移動距離などについて意図的に調節し区別することができる時、そのような手の運動の調節のちがいによって生まれる様々な手の運動の視覚像を視覚が区別してとらえ、その両者の問に対応関係が形成されるならば、そこに視覚が手の運動によって意味づけられるということが起こってくる。例えば、右前方に伸ばすという手の運動が起こる時、その運動を視覚によってとらえることで、その視覚像は右前方への運動という意味内容を持つようになると考えられるのである。

 手の運動の視覚像に対して手の運動内容が意味として付与されるというこのプロセスは、一挙に、かつ二対一対応のように生まれるというよりも、反復の中で、しかもいくつかの視覚像や運動内容が相互に関連を持ち合いながら、その関連した要素問を連続的に変化させることによって系列的に関係づけながら、生まれてくると考えられる。つまり、右前方、正面、定則方といった方向を連続的に変化させる中で、それに対応して起こってくる手の運動内容を視覚像の意味として付与していくのである。また、こうした連続的な変化を生み出すプロセスは、意図的な反復として現れるものであるが、これは、循環反応としてピアジェなどが強調してきたことに照応するものと言いうるだろう。

 こうして、視覚像の意味内容として、姿勢などの調整も含めた運動調節に関する内容が付与されると、視覚像が運動を導くのに必要な条件の一つが整ったことになる。ただしここではあくまでまだ運動の方が先行しているのであり、ここで成立しているのは視覚像と運動との結び付きである。そして、この次のプロセスとしてあげられるのが、先に述べた、目的の穴や容器と手ないし手につかんでいる物とを同時的に受容するということであり、具体的には両者の間で視線を移し替えるということである。

 そして、ここでも視線を移し替えることがいかにして運動の手掛かりを与えるかという媒介の問題が出てくることになる。

 視線の移し替えの始まりは、手の運動を視覚がとらえることが意図的に反復される中で、手の運動が目的の場所に接近した時に両者がほぼ同時に見えるところから、しだいに運動よりも先行して目的の場所へと視線が移り、さらに、もう一度、運動する手へと視線が戻ってくることになる。こうした視線の移し替えは、この時点では必ずしも手の運動の調整に資するところがあるわけではないので、この視線の移し替えが生まれてくるのは、純粋に視覚の側の興味ということになる。

 それでは、いかにして、こうした視線の移し替えが手の運動に影響をおよぼすことになるのだろうか。視線の移し替えは、もしそれが、一方向の単発的なものだったら、それは手と目的の場所の二者だけを孤立的に浮かび上がらせるだけで、そこには二者の空間的関係は生まれない。しかし、視線の移し替えが二つの点を双方向的に反復される時、そこには二つの点とその間として浮かび上がってくると言えよう。そして、おそらくこの二点の問をつなぐ手の運動が実際に起こることを視覚でとらえるところから、運動が起こる前にとらえられる二点とその間の視覚像と運動との問に対応関係が生まれ、二点とその間の視覚像が、.運動を方向に関して導くことになると考えられる。以上、物への対象への到達や対象の操作という運動において、運動を調節する視覚の働きがいかに成立するかについて、仮説的に検討してきた。こうしたプロセスを経て、本論で述べてきた、つかんだ物を移動する運動における視覚の調節へとつながっていくと考えることができるのである。

 

参考文献

柴田保之 1985「重度・重複障害児の教育に関する基礎的考察─人間行動の成り立ちの原点に立ち返って─」東京大学教育学部紀要第25巻

柴田保之 1993「対象物の空間的な関係づけへの道程」國學院大學教育学研究室紀要第28号

柴田保之 1994「対象物の空間的な関係づけへの道程その2─終点の状態の確認と先取りの萌芽」國學院大學教育学研究室紀要第29号─



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